曹仁 子孝
生没年:建寧元年(168)~ 黄初4年(223)
所属:魏
生まれ:豫州沛国譙県
勝手に私的能力評
統率 | S | 実は曹操軍において完全独立部隊を率いて戦った人物の一人。当代屈指の戦闘力と統制能力を変われた結果だろう。ただし朱桓には異様に弱い。 |
武力 | S | 間違いなく最強候補。目の当たりにした陳矯からは「この世のものではない」と天界人認定される始末。 |
知力 | B | 知勇兼備の勇将。だがこれといったエピソードもなく、演義で負けるイメージばかりのせいでイマイチ頭がよく見えないのがネック。 |
政治 | D | これほどの大身になると政界にも顔が利きそうだが、政治エピソードを訊かれると返答に困る。 |
人望 | A | 一流の将とは戦闘力だけでなく人望も持つ物。曹丕の代には魏の軍人代表にまでなった。演義にて禰衡に曹洪と間違えられるのは何とも言えない哀愁を誘う。 |
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曹仁(ソウジン)、字は子孝(シコウ)。ゲームなんかの印象で、鉄壁のディフェンス能力を誇るいぶし銀のような印象を受ける人が多い武将ですね。
が、実際は派手な武勇伝や実績も多い花形といったところ。私もはじめのころは地味な印象を持っていたので、史書を読んでみてビックリです。
今回はそんな曹操一族のエース(ガチ)、曹仁の伝を紐解いていきましょう。
やんちゃで豪胆な別動隊長
曹仁と言えば地味目で正統派な武将のイメージがありますが……見たところ、若い頃はかなりのヤンチャだったそうです。
弓術、馬術、狩猟が大好き。各地の豪族が一斉に決起独立した時に、曹仁もまた行動開始。若い衆を集めて地元近くの淮水(ワイスイ)や泗水(シスイ)といった、故郷からちょっと離れた地域を根城にブイブイ言わせていたそうな。
そんな感じでしばらく好き勝手に暴れ回っていた曹仁でしたが、従兄の曹操(ソウソウ)が挙兵したと聞くと、その配下に参入。すぐに別部司馬(ベツブシバ:非主力隊指揮官)と、高級武官である校尉(コウイ)の位を授かり、即戦力として働くこととなりました。
初平4年(193)。曹操が袁紹(エンショウ)連合下の一群雄として敵連合盟主の袁術(エンジュツ)とぶつかった際には、最前線で部隊を指揮し、多くの手柄を挙げます。
部隊指揮だけでなく個人武勇にも物を言わせており、曹仁自身が討ち取ったり生け捕りにした兵士の数はとんでもない数にのぼったとか。
さらには群雄の陶謙(トウケン)を攻めた時には騎兵を率い、常に先鋒として暴れまわりました。また別動隊として敵の部隊と当たったときには、敵別動隊大将の呂由(リョユウ)を撃破し、本隊に合流。さらにそこでも陶謙本隊撃破に貢献。もう大暴れです。
勝ちに乗った曹操が兵を分担して複数の県を攻めた際には、曹仁が率いる騎兵が陶謙から送られた救援部隊をことごとく撃破。遊撃隊として大いに活躍する様が史書には書かれています。もうこの時点でいろいろおかしい
その後呂布(リョフ)と戦うことになった際にも、またしても別動隊を率いていた曹仁は句陽(コウヨウ)という土地を攻撃。そのまま陥落させ、劉何(リュウカ)という武将を生け捕りにしています。
その後も史書では端折られていますが、曹操が漢帝を擁立するときや黄巾の反乱軍を討伐する際にも手柄を立てたので、曹操はその知勇を賞賛。あえて任地を与えず、手持ちの主力武将として彼を暴れ回らせる事にしたとか。
その後の 建安2年(197)、曹操が張繍(チョウシュウ)を攻めた際にも別動隊として騎兵を率い近隣を攻撃。住民らを含めた三千人の捕虜を獲得。
しかしその戦いの帰り道、曹操は突如張繍による反逆を受け、結局負け戦になってしまいました。この時兵士たちはやる気を失い消沈し、張繍に一方的に押されていましたが、曹仁は兵士たちを叱咤激励。周囲がまともに動けない中でほぼ唯一、獅子奮迅の働きを見せたとか。
いつの間にか知勇兼備に
そして時が変わり、建安5年(200)。この時、曹操は袁紹の配下という立場を脱し、彼と決着をつけるべく官渡(カント)の地で対峙していました。
が、曹操軍は劣勢。さらには曹操派の豪族たちは苦戦する曹操を見て袁紹への鞍替えすら考え、その上背後では劉備(リュウビ)が得意のゲリラ戦術を展開して背後を荒らしまわり、実際に大半の豪族は袁紹方に寝返るという最悪に近い状況だったのです。
この状況を打破すべく、曹仁は曹操に提案します。
「後方の豪族の迷いは、我が軍が官渡から動けないので、万一の時に助けてくれないのではという考えからきています。そこに精鋭部隊を従える劉備が攻めてきているので、裏切りも多発するのは当然。
しかし、劉備も袁紹軍に入ってからそう長くはありません。連携もうまく取れない今ならば打ち破れるでしょう」
曹操はこの案を採用し、すぐに曹仁に自慢の騎兵を任せて劉備討伐を任命。
劉備軍に当たった曹仁はすぐさま攻撃を仕掛け、慣れない袁紹軍の指揮に戸惑う劉備を即座に撃破、敗走させ、その後劉備に降っていた各県もすべて奪還して帰還しました。
その後史渙(シカン)と共に袁紹軍の輸送部隊を襲撃、撃破していますが……この辺はイマイチ影が薄いのはなぜか。
最終的に曹操が袁紹を撃退し、さらに袁紹も病死した後、曹操は袁紹が支配していた河北の領土に攻勢を開始します。
そして旧袁紹軍の本拠地を陥落させた後、曹仁は曹操の指揮下として壺関(コカン)を攻めることになりました。
曹操はこの時、パフォーマンスも兼ねてか、「敵は全滅させるように」と布告。これを聞いた敵兵は死にたくない思いで必死に抵抗し、関所の包囲は数ヶ月という期間に上りました。
この時も曹仁は曹操に対し、現状を見た上で一つの案を進言します。
「死ぬとわかれば、敵は必死に抵抗するものです。元々堅固な城壁と豊富な食料を有する敵を攻める際は、敵を本気にさせるより、退路を作って敵を無駄に怖がらせないようにしましょう」
曹操はそんな曹仁の訴えを聞くと、すぐさま包囲軍にあえて抜け穴を作り、敵軍に安心感を与えて気力を削ぐことに。結果、曹操軍があれだけ苦戦したにもかかわらず、防衛部隊は精魂尽き果てて投降し、あっさりと決着がついたのでした。
曹操はいつのまにか知勇兼備になっていた曹仁の姿を喜び、領土を封じることにしたのです。
天界の住人・曹仁
建安13年(208)、曹操は中国の北半分を支配下に置いて天下人としての地位を盤石にしましたが、劉備と組んで曹操との敵対を選んだ江東の孫権(ソンケン)の軍勢に敗北。
後に赤壁の戦いと呼ばれるこの戦いにより、曹操の威信は大きく削がれることになったのです。
この時荊州(ケイシュウ)の要衝の一つ、江陵(コウリョウ)を守っていた曹仁の元にも、孫権から総大将を任されていた周瑜(シュウユ)率いる数万の軍勢が、勝ちに乗じて迫ってきました。
そしてとうとう、先鋒隊の千ほどの軍勢が江陵にとりついたとき、曹仁は敵の様子を見て、部隊長の牛金(ギュウキン)に三百の兵を与え、敵先鋒隊の迎撃を任せます。
この無謀な作戦に駆り出された牛金軍は大いに奮戦しますが、所詮は多勢に無勢。すぐに敵軍に包囲され、牛金の命数もあとわずかという事態に陥ってしまったのです。
あわや討ち取られようかという牛金の姿を見て、一緒に櫓の上で様子を見守っていた陳矯(チンキョウ)という文官は青ざめた顔で驚愕し、当の曹仁は……
可愛い部下を殺そうとする敵にブチ切れ寸前で、側近に馬を引くよう命じてすぐに飛び出そうという様子だったとか。
総大将でありながら、絶望的状況下で味方救援を実行しようとする曹仁を、陳矯らが命懸けで引き留めますが、曹仁はこれを無視して数十騎のわずかなお供と一緒に出撃します。
そして城の堀に差し掛かり、そこで牛金の誘導を行うのかと思いきや、大将でありながら、たった数十人と一緒に、自ら味方を救うために、敵軍に突撃。
曹仁は、己の武力を生かして敵陣内で暴れまわり、そのおかげで牛金は脱出に成功。しかしまだ取り残されている味方がいると知ると、再び敵陣に突撃を仕掛けてこれを救出したのです。
結局この戦いは数人という犠牲者のみに留められ、敵軍は逃げ出したため曹仁らは悠々と帰城。曹仁の武勇を間近で見た陳矯らは「天上界のお方だ」と度肝を抜かれた様子で曹仁を賞賛し、皆曹仁に心服したそうな。
なんという熱いマッチポンプ
その後は1年にわたり曹仁と周瑜は争い、周瑜に傷を負わせるなど善戦しましたが、曹仁らは最終的には敗北し、あきらめて江陵を退去。これによって曹操軍は、荊州南部での拠点を失ってしまう事になったのです。
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魏の重鎮として
その後、馬超(バチョウ)らの反乱の際には司令官として潼関(ドウカン)を守り、本隊到着を待って馬超を撃破。しばらくは西方での反乱に付きっきりでしたが、それらが片付くと再び曹仁は荊州に戻ってきて、樊城(ハンジョウ)の守備を任されます。
そして建安23年(218)、ついに荊州に布陣して様子を見ていた関羽(カンウ)の軍勢が動き始めます。
関羽はまず手始めに樊城の後方である宛(エン)の守将、侯音(コウオン)らに反乱を起こさせ、後方を撹乱します。これに対して曹仁は迅速に討伐隊を派遣。すぐさま侯音を攻め滅ぼし、樊城に帰還。初戦は、曹仁有利の状況だったと言えるでしょう。
が、関羽自身が北上し、樊城を攻めてくると形勢は逆転。元から数の上では不利だったのに加え、数ヶ月にもわたる敵の包囲に食料も欠乏。
さらに偶然か敵の策か、近くの川が氾濫。これで足場も狭まり、さらに頼みであった于禁(ウキン)らの援軍も、この氾濫に巻き込まれて全滅する始末。
こんな事もあろうかと関羽が船を持ち出していたのもあって、曹仁の軍勢は一気に劣勢に追い込まれます。
しかし曹仁は兵士らを激励し、一歩も退かず勇戦。ついには援軍の第二陣である徐晃(ジョコウ)も戦場に到着し、水も引き始めたため、包囲を突破する事に成功。隆盛を誇った関羽軍の強兵たちも徐晃との戦いで敗れ、そのまま退却し、曹仁はこの苦境を乗り切る事が出来たのです。
曹操が亡くなると、後を継いだ曹丕(ソウヒ)は曹仁を最高級軍人である車騎将軍に任命されました。さらに南方の勢力を相手取る軍事司令官も任せ、曹仁の領土も曹家本拠地に近い陳に移したのです。
黄初2年(221)、孫権が陳邵(チンショウ)という人を荊州・襄陽(ジョウヨウ)に派遣し立てこもらせると、曹丕の勅命を受けて徐晃と共に陳邵を討伐。その後、軍人としての最高位である大将軍に就任し、曹仁は事実上、魏の軍事トップになったのです。
その後、大司馬として対呉の東側での戦線に移動。
黄初3年(222)には呉を征伐するための大規模遠征が開始され、曹仁も歩兵と騎兵を合わせた数万の軍勢を率いてこれに参加。
翌年の3月には朱桓(シュカン)の軍と激突。この時曹仁は策を用いて朱桓の軍勢を分離させることに成功しましたが、朱桓の本隊が数的不利をものともせず奮戦したために攻めきれず、そうこうしている間に別動隊が敗走したため、ここまでと見て撤退。
その後、しばらくとせぬうちに曹仁は病を得て死去。56歳でした。
諡は忠侯とされ、息子の曹泰(ソウタイ)が立派に跡を継ぎましたが、その詳細は不明。出世したとありますから、やはりなかなかどうしてひとかどの武将だったのでしょう。
まさにエース・総大将
と、こんな感じに曹仁は立派な武人であり、若い頃は血気に逸る部分画見られるものの、後半生は法に準拠して信賞必罰を心掛けるなど、立派な軍の大将として今なお高い評価を得ています。
曹丕もそんな曹仁を尊敬しており、弟には「曹仁みたいな武将になれ」と述べていますし、とある傅子という書物に至っては「曹仁の武力は張遼(チョウリョウ)を超える」とまで記載されているほど。
また曹操の従弟でありながら、意外とブレの大きい彼と違って功績にも安定感があり、多少の無茶ぶりにも安定した能力で応えてくれる一流の将軍と言えるでしょう。
何より興味深いのは、曹仁は曹操配下でなく別動隊として動き、その時に限って大活躍するという点。曹操軍は基本的に曹操のワンマン的な軍勢指揮がもっとも戦果を挙げるのですが、曹仁に至っては曹操指揮下を離れてもこの活躍。
いや、むしろ指揮権を委任されるととんでもない活躍を見せる稀有な人物と言ってもよいでしょう。
これはつまり、曹仁が一軍の総大将としてこの上ない、恐ろしいほどの適性を持っていた事の証左。この特質は、曹操無しでは基本始まらない曹操軍においては非常に大きな意味を持っていた事でしょう。
……が、三国志演義やメディア作品では有能ゆえの転戦ぶりから出番も多く扱いやすいのもあってか、どうにも主に知将らの噛ませ犬にされている場面が目立ちます。
もっとも、彼を倒せる=すごいというアピールに使えるという意味では、曹仁が一流である点は三国志においてほぼ共通の認識であると見て間違いないでしょう。
メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 2巻
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