夏侯惇 元譲
生没年:?~延康元年(220)
所属:魏
生まれ:豫州沛国譙県
勝手に私的能力評
統率 | A | 部下統制なんかは間違いなくトップクラス。だが戦争でのいろいろは……ちょっとなんとも言えないです。 |
武力 | B+ | 一応は軍人かつ武人なので、人並み以上なのは確定と見ていいだろう。逸話を素直に読み込むと、銅鏡を叩き割るとんでもない怪力だったりする。 |
知力 | B- | 頭は悪くないのだろうが、人質にされたり李典の忠告を無視して負けたりポカが目立つ。。 |
政治 | A | 土木建築に自ら出向く系隻眼男児。政界での行動に必要な人心掌握能力を政治力に組み込むと、なんか文官っぽい数値になるのも致し方ない。 |
人望 | S | 部下をいたわり、国には尽くし……こんな人間が慕われるはずもなく、主君の曹操をはじめ多くの人からの信望を得た。 |
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夏侯惇(カコウトン)、字は元譲(ゲンジョウ)。みんな大好き、三国志メディアでも引っ張りだこの、隻眼の猛将ですね。
三国志演義をはじめ、多くの三国志作品では武骨で武人肌の荒くれ将軍として書かれる夏侯惇。実はその実態は…………
曹操軍のメインヒロイン。
当然、実績は無類、曹操のマブダチとしてとことん魅力的な人物ですが……どうしてもヒロイン力が並の女性より遥かに高いのが気になってしまう。そんな夏侯惇の伝を追ってみましょう。
曹操の友として
夏侯一族は前漢黎明期の名臣の子孫とも言われており、その家格は相当に高いと言えます。
同時に、曹操の本筋の家系という学説もあり、曹操や同姓の夏侯淵らとは従兄弟同士の間柄。その縁もあってか、曹操が兵を挙げた際には、いの一番に参入。部隊長として各地を転戦しています。
初平元年(190)、董卓軍相手に果敢に挑むも手痛い敗北を喫しました。
この時失った戦力の揚州で主君・曹操らと共に募兵を敢行するも、兵士たちの大規模な反乱により集めた兵の大半を喪失という不運に見舞われています。
その後しばらくは弱小の放浪軍にも近い小規模群雄として動いていた曹操軍でしたが……大規模な黄巾の反乱軍が兗州に大挙して押し寄せると、その救援に出向しました。
曹操軍は大いに苦戦を強いられましたが、この反乱軍をなんとか撃退し、一団を支配下に加えることに成功。さらには曹操の救援前に死んだ兗州(エンシュウ)太守の任も授かり、曹操はついによって立つ地を得たのです。
曹操軍の黎明を見届けた夏侯惇は、その後曹操とは別行動をとり、兗州西部の白馬(ハクバ)の地に移動。一軍を駐屯させ、別動隊として行動することになったのです。
この時、夏侯惇は典韋(テンイ)や韓浩(カンコウ)ら、後に曹操軍に少なからぬ影響を与える人物らを推挙、曹操軍に加入させています。この頃から、夏侯惇のヒロイン力……もとい、支援能力の高さが伺えますね。
濮陽動乱
そんなこんなでしばらく曹操とは別行動をとっていた夏侯惇ですが、曹操が徐州の陶謙(トウケン)を討伐に出かけると、曹操軍本拠の濮陽に移動。一帯の留守を任されます。
しかしそんな折、信じられないことに曹操のマブダチ・張邈(チョウバク)が曹操軍軍師の陳宮(チンキュウ)らと結託し、呂布を迎え入れて曹操に反逆。兗州全土はまたたく間に混乱に陥りました。
城を守っていた諸侯は、呂布の来襲を聞くと堰を切ったかのように次々と降伏。夏侯惇、荀彧(ジュンイク)、程昱(テイイク)らわずかな重臣を除いた多くの将が領土を明け渡し、曹操軍は一気にピンチに陥ったのです。
この時、夏侯惇はとあることを思い出します。曹操の家族が、濮陽から少し離れた鄄(ケン)城に取り残されているではありませんか。
曹操軍が誇るヒロイン夏侯惇がこれを放っておけるはずもなく、すぐさま軽騎兵を編成し、曹操の家族を救出に向かいます。
が、その途上、悪の呂布軍による卑劣な策に嵌められ、輜重(食料)と共に、曹操軍の重臣ともあろう夏侯惇が捕縛されてしまったのです。惇兄ェ……。
こうして捕虜として縛り上げられ矢面に立たされた夏侯惇でしたが、少し前に雇い入れた韓浩の決死の行動により、結果的に夏侯惇は救出されましたが……うん、まあ、ある意味ヒロインとして申し分ない働きと言えるかもしれませんね。
その後、ようやく帰還した曹操軍本隊と合流し、夏侯惇は呂布軍相手に勇戦。しかし戦いの中で左目を負傷し、失明してしまったのです。
なおこの時、「親からもらった体を粗末にできるか!」と左目をそのまま食べたという逸話が残っていますが……正史には書かれていないので、まあさすがにやってはいないでしょう。
呂布軍は正面からの戦いにはめっぽう強く苦戦を強いられましたが、曹操軍はなんとか呂布を撃退。
夏侯惇は目を失いながらも戦った功績から建威将軍(ケンイショウグン)に上り詰め、さらには高安郷侯(コウアンキョウコウ)の爵位も授与。陳留や済陰の太守を務める等、曹操軍になくてはならない存在としてその名を馳せるようになっていったのです。
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曹操軍のアイドル・夏侯将軍
さて、こうして曹操配下のトップとしてその名を馳せた夏侯惇でしたが……きっと演義などのイメージと違い、戦は苦手だったのでしょう。太守を務めた陳留や済陰は、いずれも後方都市。言ってしまえば、夏侯惇の仕事は後方の安全維持と支援行動だったのです。
しかし、その働き方は、他の偉い将軍たちとはまた違ったものでした。
元来ある程度偉い人たちは、役所で命令を下すだけ。当時の価値観では実務など誰でもできる安い仕事といった認識。間違っても、作業現場に来ることはほとんどないのが普通でした。
が、夏侯惇は自らインフラ整備の土木作業に参加。さらに将兵を率いて稲作の指導なども精力的に行い、民の心をがっしりとつかんだのです。
……が、やはり戦争では今一つ見せ場がなく、198年に呂布に攻められた劉備を救出に出向くも仲良く敗北。官渡で勝利した後の河北平定では後詰めに徹していたようです。
さらには裏切った劉備が荊州の劉表(リュウヒョウ)による差し金で攻めてきた時には、副将としてついていた李典(リテン)の忠告を無視し、突出したあまり火攻めに遭い敗北と、なかなかひどい目に合っています。
この辺りは、あるいは片目を失ったハンデなのかもしれませんね。元々気の抜けたような人物だったのかもだけど
あくまで曹操の臣下として
まあ戦争ではまるでいいところなしのようにも見受けられますが……それでも戦うたびに武勲を立てていたようで、本人の圧倒的ヒロイン力もあって、建安9年(204)には伏波将軍の称号と共に、法外の自由権が与えられます。
さらに後々には広大な領土と万単位の軍の動員権が与えられ、さらに曹操が唯一寝室に招き入れてまで話をしたりと、その信頼は他の将軍とは比べ物にならないものでした。
さらに曹操自ら、『不臣の礼』というものを取り、あくまで配下ではなく大事な友人として夏侯惇を任用しようと考えてもおり、あえて夏侯惇には魏王国の官位を与えていなかったのです。
しかし、この破格の扱いを逆に「過ぎたるもの」として嫌うのが夏侯惇という人物。彼は曹操に対して魏での官位を何度も強く要求し、最終的に折れた曹操によってようやく前将軍に任命されたとあります。やはりヒロインか
曹丕(ソウヒ)が曹操の跡を継いでからは大将軍の地位を授かりますが、そんな夏侯惇も曹操病死の数か月後に死去。もはや運命共同体と言っても差し支えないほどの、後を追うかのような死でした。
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献身と激情のはざま
さて、ここからは少し夏侯惇の人格面についての話をしていきましょう。
夏侯惇の性格はつつましやかで清廉潔白とあり、自身の金銀財宝が余ったときは常に部下を分け与えるという人物だったとあります。そして、あまりに人に財産を分け与え過ぎた結果、役所から生活保護の給付を受けることもあったとかなかったとか……
その墓も質素そのもので、副葬品は剣一振りという、下級の武官のそれと大差ない状態だったそうです。
さらには勉学に熱心なのも人物像として残っており、軍中にも学者を連れ込んで真摯に講義を聞いていたとも。
反面、激情家としての姿も世に伝わっており。14歳の時には自身の師匠を侮辱した人間を殺害。
さらに片目を失ってからは『盲夏侯』と呼ばれることを嫌い、鏡を見るたびに地面にたたきつけて割るなど、隻眼がコンプレックスになっている姿も見受けられます。
普段は温厚でおっとりしているものの、逆鱗となっている部分を刺激すると手が付けられなくなる……。夏侯惇は、そんな怒ると怖い系ヒロインの人物だったのかもしれませんね。
ちなみにどうでもいい話ですが……当時の鑑は銅鏡。つまり、金属製の鑑だったわけですね。ガラスより写りは悪いですが、遥かに頑丈です。傷がついたり凹んだりはするでしょうが、そんなものを叩き割る夏侯惇の膂力っていったい……
型破り惇兄
さて、高いヒロイン力とナイスミドルなダンディズムを併せ持った夏侯惇ですが……やはりそこは曹操のマブダチ。ちょっと破天荒で常識破りなところもあったようです。
当時、奥さんというのは決して顔を見てはいけない存在で、ましてや宴会の場などに連れ出すのはもってのほかで、それが高い身分の妻にもなると見た者の死刑判決は当たり前。
中には悪ふざけの被害者として偶然顔を見てしまい、そのまま石工(当時の技術職は奴隷と同義)に落とされた人物までいるという有り様でした。
そんな中で、夏侯惇は衛臻(エイシン)という人物の奥さんを酒宴に呼び、あいさつをさせようと目論んだのです。
しかも、案の定衛臻が死ぬ気で猛反発すると、マジギレして衛臻を逮捕。いや本当何やってんの
何かしら当時の常識に思うところがあったのか伝統を壊そうとしたのか、はたまた酔いが回っておかしなテンションになったのかは不明ですが……やはり変わり者の曹操と親友以上に仲良くなれるのには、相応の理由があったんでしょうね。
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