張郃


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張郃 儁乂

 

 

生没年:?~太和5年(231)

 

所属:魏

 

生まれ:冀州河間郡鄚

 

 

勝手に私的能力評

 

張郃 名将 美しい 街亭 劉備 袁紹 魏 北伐 馬謖 膝に矢を受けてしまってな

 

統率 S- 基本的に副将や部将に値する役割で戦場に立つことも多いが、劉備や諸葛亮がガチでビビるくらいには戦争に強い。
武力 どっちかというと配下の兵を率いての活躍が多いが、突破力を武力とするなら高くなるのは当然。臨機応変、攻防一体戦いを見せた……らしい。
知力 A- 街亭の戦いのアレは、馬謖が弱かったのもあるがそれ以上に張郃が桁外れだったと見るべきか。頭の悪いイメージがあるが、応変の戦いはバカには到底できない。
政治 政治家としての活躍はない。
人望 食邑4800戸とかいう軍人として意味不明な領地を与えられた。祁山の戦いで死んだとき、魏軍はさぞ混乱しただろう(妄想)

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張郃(チョウコウ)、字は儁乂(シュンガイ)。曹操軍でも屈指の、歴戦の勇士ですね。メディアではアホの子だったりオカマっぽいイロモノだったりしますが、敵というポジションになりやすい魏の中でも雑魚キャラとして描かれることは少ない人物ですね。

 

 

実際の功績も飛び抜けており、さらには長生きで生涯前線。まさに理想の軍人です。

 

……が、何故か記述があっさり過ぎている部分があり、イマイチ明白とは言い切れません。どうしてなのか……

 

 

 

なお、人気を博したとある三国志小説では三度も死ぬという盛大なコントをやってのけた模様。

 

 

 

ともあれ、今回は張郃伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

 

蜀キラー覚醒!からの……

 

 

 

さて、曹操が亡くなって曹丕(ソウヒ)が跡を継ぐと、張郃は左将軍(サショウグン)となり、爵位も都郷侯(トキョウコウ)に昇進。さらに曹丕が帝になると、今度は鄚(バク)侯となり、故郷の地を拝領することとなりました。

 

 

また、勅使によって曹真と共に西方の不服従民を討伐した後、今度は江陵(コウリョウ)攻略を目標とする南の戦線に移動。夏侯尚(カコウショウ)を大将とする南征軍の別軍として活動し、長江の中州にある砦を奪取しました。が、江陵の守りが固く、本隊が作戦を遂行できずこの戦いは失敗に終わりました。

 

 

さらに時が動いて、曹丕の息子、曹叡(ソウエイ)が帝位を継いだ時。この時、張郃は司馬懿(シバイ)と共に荊州に駐屯し呉との戦いで戦果を挙げていましたが……そんな折、ついに諸葛亮による北伐計画が始動。

 

 

張郃はここで再度対蜀の最前線を任され、功臣の証である特進の位を授かって諸将と共に進軍。諸葛亮が差し向けた足止め部隊の馬謖(バショク)軍と対峙します。

 

 

この時、馬謖は地形的に有利な山頂に布陣して張郃による正攻法を封殺する構えを見せていました。並の将ならばおそらく攻めあぐねっていたでしょうが……当の張郃は至って冷静。迅速に馬謖軍のふもとを抑えて水源を絶ち、干上がった馬謖軍を攻撃して大破してしまったのです。

 

足止めの馬謖が敗れたことにより、諸葛亮の計画はご破算、そのまま撤退していきました。そして蜀軍に占領された土地は完全に魏軍内で孤立し、後は消化試合とばかりに失地をすべて回復し、第一次北伐は魏軍の勝利で幕を下ろしたのです。

 

 

この勝利は、まさに張郃の見事な采配によるものと言ってもよいでしょう。

 

 

 

この時点で張郃の領地はさらに加増され、領邑は4300戸に。この戸数は武官としては異例で、曹丕の弟である曹植(ソウショク/ソウチ)ですら3500戸の領邑しか擁していなかったのを考えると、血族以上に重宝されたという事になります。

 

 

 

その後、再び荊州の対呉戦線に移動しますが、攻撃を計画したものの長江の水かさが少なく、アドバンテージを取れる大型船を使えないことで侵攻を断念。そこからはしばらく呉軍とのにらみ合いになりましたが……ふたたび諸葛亮が北伐の動きを見せ、張郃は再び、対蜀戦線に立つこととなったのです。

 

 

 

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司馬懿の覚醒トリガーに……

 

 

 

 

諸葛亮の次の狙いは、大都市・長安にもほど近い陳倉(チンソウ)。ここは対蜀軍総大将の曹真が予測していた侵攻ルートで、しっかりと守りを固めた土地でしたが、当時の守備兵の数は多いとは言えないのが現状でした。

 

 

そこで不安になった曹叡は張郃を呼び出し、「大丈夫だろうか」と訊きますが……張郃はむしろ勝利を予測。

 

 

「蜀軍は遠征軍という立場。長期戦ができないため、私が戦場に着く前には兵糧切れを起こして撤退しているはずです」

 

 

果たして、張郃は念のため昼夜兼行で陳倉救援に急行しましたが、その途上で諸葛亮は張郃の予想通り撤退。この北伐も撃退成功に終わり、難を逃れたのです。

 

その後、張郃は将軍として最高級の車騎将軍(シャキショウグン)の地位に昇進。西部防衛の重鎮としての地位を極めたのです。

 

 

 

 

 

 

さて、諸葛亮のライバルとされる人物に、司馬懿という人がいます。諸葛亮を破りその後も魏で随一の存在として君臨し続けた司馬懿(シバイ)ですが、実は張が生きている間は諸葛亮にも完全に後れを取るなど、光る部分はあるもののどうにも精彩を欠いていました。

 

 

個人的な意見ですが、そんな今一つパッとしない司馬懿を一気に諸葛亮以上かもと言える名将に引き上げた要因は、もしかしたらこの張郃の死なのかもしれません。

 

 

 

というのも、張郃最期の出陣となる第四次北伐の際。この時も諸葛亮の兵糧切れまで粘り撤退に追い込むことに成功したものの、蜀軍の隙を突こうとその後を追ったものの、張郃はその遭遇戦で逆襲を受けて戦死。

 

『魏略』には、この追撃は司馬懿の命令によるもので、仕方なく追撃したものの伏兵の一斉射撃に遭い、腿に矢を受けて亡くなったとも。

 

 

 

実は司馬懿はこれまで大した実戦経験を持たず、どちらかというと裏方作業が多かったと言えます。

 

それが突然前線の総大将になったのですから、ある意味司馬懿のこの失策も仕方ない部分はあるのかもしれません。

 

 

 

とはいえ、名将の張郃をむざむざ失うことになった司馬懿は、これ以降は人が変わったように慎重な対応をするようになり、「得意分野が活かされる絶好の機会以外は基本行動しない」という行動方針を徹底したかのような動きを見せています。

 

 

 

さて、ともあれ戦場で命を落とした張郃は後に諡を「壮侯」とし、息子の張雄(チョウユウ)が跡を継ぎました。

 

また、他の子どもたちもそれぞれ列侯に取り立てられ、張郃の領地を分割してそれぞれに与えられることとなったのです。

 

 

 

 

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蜀軍「あいつマジで怖いわ」

 

 

 

本伝における張郃の評価は、以下のようになっています。

 

 

戦場の変化の法則をよくわきまえ、よく陣営を処置した。戦争の地形や状況を熟慮して計画を立てて計略通りにいかないことはなく、諸葛亮以下蜀軍は彼の存在を恐れていた。

 

また、儒教にも造詣があって儒学者をかわいがり、同郷の才人を役人に推薦したこともあった。

 

 

まさしく敵からすれば恐怖の戦人であり、戦場での用兵は状況に応じて変幻自在。

 

それだけでなく、儒学者としての側面も兼ね備えた人物だったという感じですね。

 

 

 

また蜀軍に恐れられたという逸話もインパクトが強く、『魏略』では定軍山で夏侯淵を討ち取った時、劉備は「で、張郃は?」と言い放つなど、まあ話半分の逸話で張りますが、張郃を恐れていたことが伺える話もあります。

 

 

諸葛亮の北伐に関しても、彼と曹真、郭淮あたりがそろっているときは大抵後で巻き返されている辺り、「蜀軍に恐れられていた」というのは間違いないでしょう。

 

 

 

ところで、彼の字の「儁乂」という文字、それぞれの意味をくっつけると「優れた統治者」とか「賢明な才人」みたいな意味合いを持つのですが……あながち無双シリーズのナルシスト然とした名将という姿も間違いではなかったのかも……?

続きを読む≫ 2018/06/16 11:36:16

 

 

 

河北の名将

 

 

 

 

張郃は始め黄巾の乱で功績を上げ、地元の群雄であった韓馥(カンフク)の軍司馬(グンシバ)に属します。

 

 

しかし、その韓馥の支配領域に、今度は袁紹(エンショウ)が入り込んできて冀州の支配権を強奪すると、張郃もそれに従うように袁紹配下に加わることとなりました。

 

 

 

張郃の才能を感じ取った袁紹は、すぐに彼を校尉に昇進させ、一軍を任せて公孫瓚(コウソンサン)との戦いに彼を投入。袁紹は最初こそ劣勢でしたが、次第に挽回。最終的に公孫瓚を撃ち滅ぼすことに成功しますが、これは張郃による働きも大きかったそうな。

 

袁紹はすぐに張郃をさらに上の地位に就かせ、今度は寧国中郎将(ネイコクチュウロウショウ:中郎将は禁軍指揮官のこと)に栄転させることとしたのです。

 

 

 

その後河北に敵がいなくなると、袁紹曹操との決戦に踏み切り、官渡で両軍が激突。

 

 

数ヶ月という名が包囲の末、戦いは優勢を極めましたが、ある時、参謀の許攸(キョユウ)が脱走。曹操軍に兵糧庫の場所をバラしてしまい、それが元で袁紹軍の急所が奇襲を受けることとなってしまったのです。

 

 

この報を聞いた袁紹は、すぐに緊急の軍議を開始。出席した張郃はすぐに兵糧庫の救援を訴えかけますが、袁紹の参謀・郭図(カクト)は、逆に曹操軍本拠である官渡への総攻撃を献策。

 

袁紹は双方の意見を取り入れる形で、救援隊には足の速い騎兵のみを派遣。残りの全軍で曹操軍の守備隊を総攻撃するという采配を取ったのです。

 

 

が、この結果は、救援部隊も曹操軍に打ち破られ、さらには城の攻略も失敗という有り様。急所を失って軍需品を焼き払われた袁紹軍は、あっという間に瓦解してしまいました。

 

 

 

事ここに至って、郭図は責任転嫁のため袁紹に讒言を行います。

 

「張郃は我が軍の敗北でいい気になって、不遜な言葉を吐いておりますぞ!」

 

 

そんな話を聞いて危険を感じた張郃は、袁紹軍にはいられまいと投降を決意。曹操にお目通りして、「お前が今回我がもとに来たのは、昔、韓信が漢に味方したようなものだ」と喜ばれ、そのまま偏将軍(ヘンショウグン)の地位と、都亭侯(トテイコウ)の爵位を与えられることとなったのです。

 

 

ちなみに曹操伝である「武帝記」、および「袁紹伝」では郭図の讒言はなく、むしろ張郃が降伏したことが決定打となって袁紹軍が総崩れになったとあります。

 

この辺り、史書には統一性が無く、判断が難しいと言われていますね。

 

 

 

 

 

曹操軍の勇将

 

 

 

こうして曹操の配下として動くことになった張郃は、旧主:袁紹死後の領土侵攻に従軍。鄴(ギョウ)、渤海(ボッカイ)での戦いで相次いで戦功を立て、さらには別軍を率いて雍奴(ヨウド)県を攻撃し散々に撃破。

 

さらに逃げた袁紹の子をかくまった烏丸族との戦いにも参戦し、先鋒部隊の一つとして大いに活躍、平狄将軍(ヘイテキショウグン)に昇進し、さらには元袁紹配下で未だに抵抗を続ける菅承(カンショウ)なる人物の討伐にも成功しました。

 

 

また、独立勢力の陳蘭(チンラン)、梅成(バイセイ)らが孫権と結んで反曹操の旗色を示すと、その討伐にも参加。張遼(チョウリョウ)の指揮下でこれらを打ち破りました。

 

 

その後建安16年(211)に馬超(バチョウ)ら西涼の独立勢力が反乱を起こすと、曹操自らが潼関(ドウカン)で反乱軍と決戦。この戦いにも張郃は参加し、以後はしばらく、対西方の副官として動くようになります。

 

 

まず安定(アンテイ)を包囲し、反乱した群雄の一人である楊秋(ヨウシュウ)を降伏に追い込み、さらには馬超らと関わりの深い異民族の氐(テイ)族及び群雄の梁興(リョウコウ)を、西方司令官となった夏侯淵(カコウエン)と共に撃破。

 

 

さらには捲土重来を狙う馬超と、長年独立勢力として割拠していた宋建(ソウケン)の撃破にも成功し、西方の平定に大きく貢献しました。

 

 

その後曹操自らが乗り出した漢中(カンチュウ)攻略にも参加し、先陣として朱霊(シュレイ)らと共に軍を率い、氐族の王である竇茂(トウボウ)を討伐。さらには曹操の漢中入りに際しても兵五千を連れて先行、道路を通じさせました。

 

 

 

 

 

 

その後漢中が手に入ると、その守将として夏侯淵を置き、曹操は帰還。張郃は別軍を率いて巴東(ハトウ)巴西(ハセイ)の二郡を攻略。そこの住民を漢中に移民させる計画を実行することになりました。

 

が、この時、益州を制圧した劉備の武将、張飛(チョウヒ)に張郃軍は捕捉され、移民をかばいながらのにらみ合いに発展。50日以上の膠着の後、張飛の策にかかって敗北を喫し、南鄭(ナンテイ)に引き返すことになってしまったのです。しかし、移民の護衛には成功したようで、前後の功績もあって盪寇将軍(トウコウショウグン)に昇進。

 

 

その後、劉備による漢中への侵攻が本格化し、劉備自ら軍を率いて攻め寄せてきます。この時張郃は広石(コウセキ)という場所に布陣しますが、ある夜劉備による夜襲が敢行され、精兵一万が十部隊に別れ、張郃軍に突撃してきました。

 

が、張郃も負けじと自らの親衛隊を率いて白兵戦にもつれ込ませ、これを撃退。

 

 

が、今度は劉備は手を変えて、張郃でなく夏侯淵本隊の南に位置する走馬谷(ソウバコク)で火計を実行。夏侯淵自らが消火に向かう隙を狙い、そのまま夏侯淵を討ち取ってしまったのです。

 

 

別の伝には、この火計のほか、張郃への総攻撃が行われてさらに夏侯淵の手勢が減っていたともあります。

 

 

 

夏侯淵戦死を聞いた張郃は、急いで背後の陽平関に帰還。大将不在で途方に暮れる中、夏侯淵配下であった郭淮(カクワイ)が名将であるとして張郃を大将代理に推薦。

 

総大将となった張郃は敗色濃厚となった軍を引き締め、なんとか態勢を立て直すことに成功します。

 

 

その後に曹操から節(賞罰の権限)を受け取って正式に大将となり、さらに曹操自らが軍を率いて参戦するようになりますが、劉備はすでに得た要害に引きこもって動こうとせず、攻めあぐねた曹操は漢中の放棄を決定。

 

実質的な敗北という形でこのこの戦いの幕は下りることとなり、張郃も後方基地のある陳倉(チンソウ)に撤退することとなってしまったのです。

 

 

 

 

 

続きを読む≫ 2018/01/06 16:05:06
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