劉備 玄徳


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劉備 玄徳

 

 

生没年:延熹4年(161)~章武3年(223)

 

所属:蜀

 

生まれ:幽州涿郡涿県

 

 

勝手に私的能力評

 

劉備 玄徳 主人公 蜀 大徳 梟雄 ヤクザ 福耳 森の聖者 先主 アンチ曹操連合会

統率 A 演義では理想を語るしか能のない雑魚だが、正史劉備は当時一流の用兵家。曹操、陸遜、呂布あたりと比較して雑魚呼ばわりはどう考えても酷すぎる。
武力 B+ 前半生の基本は少数の兵で戦い、そして密かにトンズラ。そんな生活、並の武力しかない奴がやった暁には間違いなく数年で野垂れ死ぬ。
知力 A- 計略や軍略も確かに優れていたが、恐るべきは状況を見切る直観力。意地を張るとヤバいところでは確実にすぐ逃げて、機会を得るまでうまくやり過ごし続けた。
政治 A 建前を気にしすぎるところもあったが、腹芸、外交と黒い事も卒なくこなした。内政に関しても、慕う者もかなり多かった。
人望 何をすればこんなに人に慕われるのか本気でわからない。麋竺なんかは家業放り投げてついて行った。

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劉備(リュウビ)、字は玄徳(ゲントク)。徳の高い聖人君子なイメージがついて回る人物で、昨今でも劉備と言えば「徳の将軍」や「優しい最高の英雄」等という「仁徳」を評価した声が多く返ってくる人物です。あと、優柔不断とか弱いとか

 

 

さて、そんな劉備の正史での顔ですが……黒い

 

 

徳の将軍というか、いろんな人に好かれる人物で人にも優しいのだろうなとは思うのですが、やはりひとかどの大英雄はその程度で言い表せる人物ではありません。

 

 

この人ほど「仁徳」を最大限利用し、世間を味方につけ、腹黒い謀略や裏切りというマイナスイメージをうまく隠し通した人物はそう多くないのではないでしょうか。

 

 

劉備の伝記を取りまとめた「三国志先主伝」には、そんな腹黒くも魅力的な徳の英雄・劉備の生きてきた道がしっかりと記されています。

 

 

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

劉備の容姿は、身長は7尺5寸(173cm)。手は長く膝まで届き、耳も頑張れば自分の耳たぶを視界に収めることができるくらい大きかったとされています。

 

また、他の伝には「髭が薄い」とバカにされた記述もあり、意外と体毛などは濃くはなかったのかもしれません。

 

 

内面は無口で謙虚な口ぶり、顔に表情を余り出さないポーカーフェイスであったことも正史には書かれています。

 

しかし、その服装は派手でかなりおしゃれな感じ。周囲から一目置かれる着こなしの達人だったようです。

 

 

 

 

さて、三国志を編纂した陳寿の評では、劉備はこのように言われています。

 

 

度量が大きく寛大な心の持ち主。また親切でもあり、人物を見分けて人を待遇した。思うに漢の高祖・劉邦の面影がある、まさに英雄の器であった。

 

知略や才覚は曹操には及ばなかった結果、彼とは大きな国力差を生むこととなった。

 

 

しかし負けても膝を屈さず最後まで敵であり続けたのは、そもそも曹操の器とは相容れなかったからに他ならない。単に損得や利害を争うだけでなく、こういった器の違いから降りかかる災禍から逃れるためでもあったのだ。

 

 

 

さすがに曹操とはライバル関係というだけあって、かなり評価は高いですね。袁紹当たりとは大違いだ

 

 

もっとも、陳寿は元は蜀の文官。もしかしたら、劉備を「先主」と呼んで慕っている様子もうすうすと本伝からも見えてきますし、もしかしたら評価に少し箔をつけた可能性もあります。

 

 

 

……が、そんな陳寿の評の公平性を考慮して考えても、三国志で屈指の英雄であることは間違いありません。

 

 

 

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もはや滅茶苦茶な自己PR能力

 

 

 

劉備は群雄割拠の時代に売り込みの商品となった戦術指揮能力もかなりのものですが、彼の驚くべき一番の強みは、驚異の売り込み能力でした。

 

 

以下、劉備が主に頼った豪族ややらかした人材狩りの実績を羅列してみます。

 

 

・何も実績がないうちから地元富豪をスポンサーに着ける。しかも2人。

 

・黄巾討伐の折に流れの傭兵として戦功を挙げて役職に(複数回)

 

・兄弟子の公孫瓚の元に。別部司馬として一軍を任される。

 

・公孫瓚が嫌になったのか徐州の陶謙を救援した際そのまま陶謙軍に移籍。陶謙は死ぬ間際、自身の領土を劉備に丸々与える(謀略の疑いあり)

 

・徐州を去るときには大半の人材が劉備を慕ってついて行く。

 

曹操に取り入って呂布を潰してもらう。

 

曹操から逃げた時、自分に借りのある袁譚を頼り、袁紹軍に仮加入。

 

・劉表軍に移籍。曹操から守る盾として新野に間借り。

 

・南に逃げて、大した戦力も領土もないのに孫権と同盟。

 

・劉琮降伏時、曹操に着いて行かなかった荊州の人材を根こそぎかっさらって行く。(このせいで呉は「蜀に荊州を貸します」とかいう滅茶苦茶理論に頼らざるを得なくなる)

 

・劉璋の援軍として益州に入り、騙し討ちして美味しくいただく

 

・自分から漢中王なんぞを名乗ったのに、献帝からはえらく気に入られている

 

 

 

と、こんな感じに、要所要所で誰かに上手く取り入ってチャンスを作っていく姿が見られます。しかもこれで逃げたり裏切るタイミングまで完璧で、本当に油断のならない人物ときています。

 

 

要するに劉備は第一印象のよさ、そして時流や相手のニーズを読む慧眼とそれに合わせて口八丁を発揮できるほどの狡猾さ。人に取り入る上で必須の能力に非常に長けていたのですね。

 

 

まさに面接のプロ。どうやっても必ず気に入られるという天性の人たらし。いや本当、うらやましい限りです。

 

 

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家族に冷たい?

 

 

さて、人たらしとして多くの人を魅了し、そして人に取り入る能力を兼ね備えた劉備ですが……意外にも家族に対してはかなり冷淡というか、あまり大事にしている様子がないのです。

 

 

例えば家族を捨てた主な場面は、まず呂布に攻撃を受けて敗れた時(裏切り当初は留守を突かれての捕縛のためノーカン)。そして曹操から独立した後、曹操本隊に攻撃された時。さらにおまけに、荊州から南に逃亡している最中、曹操軍に追いつかれた時(「忍びない」とか言って連れてきた民たちも一緒にポイ)。

 

正史の本伝だけでも、合計3回妻子を捨てて逃走しています。

 

 

 

まあ、その3回はいずれも劉備自身の命の危機。やった事自体は非情に見えますが、生きるためゆえ致し方なし。

 

しかし、あの徳の将軍と名高い劉備がこれをやっているというのは、なんだかインパクトがありますね。

 

 

 

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本当に正義の英雄?

 

 

 

さて、では最後に肝心な部分を少し考えてみましょう。

 

 

劉備と言えば、おおよそ世間一般のイメージは「清廉潔白で心優しい仁徳の英雄」といったところ。「曹操は悪」という過去の固定概念との対比から始まり、曹操がまっとうに評価され始めた今でも、劉備のこの評価だけは変わる様子がありません。

 

 

 

しかし、正史三国志を見ると……やはり大事を成し遂げた英雄。黒い事にも結構手垢を残しています。

 

 

まずは兄弟子の公孫瓚からの離脱。実は公孫瓚は劉備に田楷(デンカイ)というお目付け役を用意していましたが、劉備は陶謙救援の軍を徐州に向けた際、田楷に黙って独自軍閥を形成。田楷には対処ができないくらい大きな勢力となって悠々と公孫瓚から陶謙に鞍替えしています。

 

しかもこの後の陶謙は群雄としての独り立ちともいえる動きを示しており、公孫瓚との同盟もいつまで続いたか怪しいところです。

 

 

 

そして続いて、呂布討伐の折に曹操配下に加わった時。これも実は劉備の一方的な裏切りによって、徐州で独立。しかもその前には、曹操暗殺計画にも署名しているという徹底した曹操アンチぶり。

 

その後曹操に追われて袁紹を頼っていますが、関係が悪くなると、今度は袁紹を騙して劉表の元に逃亡。

 

 

時代は飛んで赤壁の戦いの後にも、孫権を出し抜いて荊州、ひいては益州を手に入れたという有り様。当然、益州奪取に関しては言うまでも無し。

 

 

 

これらの行動を追っていると、やはり始めから人の下に付くような人物ではなく、善意とは程遠い野心を備えた人物であったようにしか見えません。

 

 

実は「同族の劉表から荊州を奪うのは嫌」とか「慕っている民を置いていくのは忍びない」とか……ちょくちょくこの人は善意の言葉を口にしていますが、これらはすべて建前にしか見えないのは私だけでしょうか?

 

 

 

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当然、仁君ではないから英雄ではない……などという事ではありません。

 

 

こういった黒い逸話や、仁君の仮面にこだわる様子を見ると、やはり劉備は善悪で推し量れない、真正の英傑であると言っても過言ではないでしょう。

 

 

敵は騙す。味方は極力重んじる。家族は使い捨て

 

 

劉備の行動の基本方針はこんな感じになっており、敵や他勢力には徹底して利害だけを見るドライな姿勢を貫いています。しかし部下は無名だろうと何だろうとすごければ重要なポストに付けることが多く、劉備のおかげで列伝に名を残すような武将もいるくらいです。

 

 

良くも悪くもリーダー向きで、人の下にいる人ではない。だから自分を一方的に押さえつける者は利害で裏切る。

 

 

そんな反骨魂と英雄の器が一体となった人物こそが、劉備の本当の顔なのではないでしょうか。

続きを読む≫ 2018/02/14 21:13:14

 

 

 

 

崩れ行く同盟関係

 

 

 

益州を手に入れた劉備は、益州出身の人材を次々登用し、国力、人材共天下の群雄として成り立つほどの実力をつけ、ここで天下は、曹操孫権と実質的に三分される形となりました。

 

 

しかし、これで面白くないのは、劉備勇躍の決起として体よく利用される形となった同盟者の孫権です。孫権は、「うちが曹操を追っ払ったんだから荊州領有権はこっちにあるよね」と、関羽が守っている荊州領土の返還を要求。

 

 

しかし、決起こそ孫権が作ったとはいえ、元々荊州南部は劉備がほぼ自力で平定した土地。契約上は「貸し出し」となっているものの、むざむざ返す謂れはありません。

 

そこで劉備は、「北の涼州を奪取するまで返さない」と主張し、実質返すつもりがない姿勢をはっきりとさせました。

 

 

 

孫権はこれに怒り、ついに同盟を破棄して荊州に侵攻。対して劉備も自ら軍勢を引き連れて関羽を救援。ついに両軍は一触即発の状況となったのです。

 

 

 

しかもこの時、運悪く益州北の玄関口・漢中(カンチュウ)に割拠する張魯が曹操に敗北し滅亡。よりにもよって宿敵となった曹操と領土を隣接することになり、下手を打つと滅亡という危地に陥ってしまいました。

 

 

北を曹操、東を孫権に囲まれて絶体絶命の劉備は、ここで苦渋の決断を迫られます。孫権に荊州の一部を返還し、和睦してふたたび対曹操に注力。

 

孫権曹操軍の脅威にさらされていたため、ひとまずの領土返還を受諾。お互い、これ好機とばかりに自領を荒らしに来た曹操軍に対抗することにしたのです。

 

 

 

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定軍山の戦い

 

 

 

孫権との領土問題が一応決着したため、劉備は成都に帰還。曹操から派遣されてきた対劉備軍主将・夏侯淵(カコウエン)との対決に臨みます。

 

 

双方大勝大敗を繰り返す一進一退の状況が続いた後、建安23年(218)の事。ついに劉備は腰を上げて漢中に侵攻。翌年の24年(219)にはついに定軍山(テウグンザン)に前線基地を置き、漢中を防衛する夏侯淵と直接対決。

 

激戦の末に夏侯淵の本陣防備を徹底的に削ぎ落とし、ついに夏侯淵、そして曹操から派遣された益州刺史も討ち取って大勝。ついに益州の玄関口にして曹操打倒の前線基地・漢中を奪取。天下三分を完全に成し得ることができたのです。

 

 

 

その後曹操の来襲を受けますが、もはやなし崩し的に徐州を奪ったに過ぎないあの時の劉備とは違います。

 

 

「要は守って戦わなきゃ、俺よりも強くても十分勝てるぜ!」

 

 

いや、うんまさしくその通り←

 

 

ともあれ、華やかさはともかく十二分に勝機のあるこの戦い方は効果覿面。戦争で一枚上手の曹操といえども、劉備ほどの人物が亀のように首を引っ込めては手も足も出ません。

 

徹底防備を固める劉備に攻めあぐねた曹操は、数か月に及ぶ包囲戦の末撤退を決意。漢中を放棄して撤退。これにより、劉備は漢中の支配権を完全な物にすることができたのです。

 

 

これを機会に、劉備は魏王として君臨する曹操に対抗し漢中王を自称。ちゃっかり漢王朝の帝に事後承諾までいただき、臣下の苦労に報いるべく、重臣らを相応の地位につけ、対曹操の意気込みを新たにました。

 

 

そしてこの漢中を足掛かりに、漢中と荊州北部を結ぶ玄関口である上庸(ジョウヨウ)を奪取。さらに関羽もこれに呼応する形で北上し、荊州北部に駐屯する曹操軍に攻撃を開始し、いよいよ天下取りに向け、絶頂期ともいえる好機を得るに至ったのです。

 

 

 

……が、長く続かないのが幸運。劉備の快進撃は、この後意外な形で幕を閉じてしまう事になったのでした。

 

 

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悲しみの蜀帝

 

 

関羽による北上は圧倒的強さを曹操軍に見せつけ、曹操に未曽有ともいえる危機感を与えますが、その快挙はまさかの転落を迎えることとなります。

 

 

先年曹操と和睦していた孫権が裏切り、関羽を攻撃。さらに関羽を恨んでいた諸将の裏切りもあって関羽は荊州を失陥し、孫権軍によって処刑されてしまったのです。

 

関羽劉備の兄弟分同然ともいえる人物ですし、荊州は劉備軍に味方する多くの名士の出身地。双方を失ったダメージは計り知れない事でしょう。

 

 

さらには建安25年(220)には曹操の後を継いだ曹丕が、なんと漢王朝から禅譲を受けて魏王朝を樹立。劉備が大義名分の拠り所とした漢王朝は終わりを迎えてしまいました。

 

 

 

これに対抗すべく、劉備は翌年には自らも帝位を自称。国を「蜀漢」とし、あくまで魏王朝の不当を訴え「自らが漢王朝の後継である」という姿勢をしっかりと世に示したのです。

 

 

 

こうして関羽の死にもめげずに天下を意識していた劉備ですが……同年の6月、さらに凶報が耳に届いてきました。

 

張飛が、部下の恨みによって暗殺され、張飛を殺した部下は孫権軍に逃亡。

 

 

事ここに至って、劉備孫権との完全対決を決意。

 

孫権からの和睦の要請を一蹴、反孫権派の武装民族らに援軍を要請し、両軍は決戦に臨んだのです。

 

 

 

 

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夢の果て

 

 

章武元年(221)、戦争準備を盤石に整えた劉備は、山沿いを進んで先遣隊を次々撃破。この時の攻撃速度は圧巻で、あっという間に荊南東部を制圧。山沿いを進み、孫権軍の最終防衛ラインともいえる夷陵(イリョウ)道にまで差し掛かり、そこで孫権軍本隊と対峙したのです。

 

この時の総大将は、まだ無名であった陸遜(リクソン:この当時は陸議という名前でしたが、わかりやすさのためこの名で記載)。すでに周辺の城を陥落、ないし完全包囲している劉備にとって、負けは万に一つも有り得ないという状態にまで孫権軍を押し込んだのです。

 

 

しかしこの付近は地形が悪く、険しい山に囲まれた地形。必然的に隘路に陣取る形となった劉備軍はわずかな足場に非常に多くの陣を置いて不足しがちの補給を補うという苦渋の策を用いており、そのせいで陣形は間延びし、隙の大きいものとなっていました。

 

しかもこの対峙は年をまたぎ、章武2年(222)の6月まで戦線が膠着。そのせいで劉備軍にも疲れや焦りが生じており、判断力や勢いに関しても精彩を欠いている状態だったのです。

 

 

陸遜劉備軍の疲れを感じ取ると、その陣の内のひとつを攻撃。劉備軍はこれをあっさりと撃退できますが……陸遜はこの時、既に劉備軍の弱点をすでに掴んでいたのです。

 

 

 

その夜、劉備軍の陣営に突如火の手が上がり、その後時を置かずしてあちこちに延焼。劉備軍はこの時急造の木造建築で陣を築いていたのですが、それに気づいた陸遜が火攻めを仕掛けてきたのです。

 

 

さらに呼応するように、孫権軍による猛反撃が執り行われ、ここまで築いてきた大量の陣のほとんどが陥落。さらに参加していた主要な将校もことごとく戦死、あるいは投降を余儀なくされるという有り様。

 

劉備は急いで山を拠点に陣の立て直しを図りましたが、陸遜の猛攻撃によってあえなく撃破。水軍も完全に抑え込まれていたため陸路で逃亡する羽目になり、実質的に蜀は滅亡同然にまで追いやられてしまったのです。

 

 

 

劉備はその後益州の永安(エイアン)に逃げ切る事が出来ましたが、失意と疲れから重病を患ってしまったのです。

 

 

その後の劉備は完全に燃え尽きてしまい、魏に対抗するため怨敵・孫権と和睦。その後諸葛亮や李厳(リゲン)といった荊、益州の中心人物に息子・劉禅(リュウゼン)の補佐を託して死去。

 

章武3年(223)、齢63の時の事でした。

 

 

その後、蜀は諸葛亮を中心として再び勢いを取り戻し、魏に対抗するのですが……結果はご存知の通り。

続きを読む≫ 2018/02/12 16:56:12

 

 

 

 

 

呂布曹操も怖いです

 

 

 

呂布に徐州から叩き出された劉備は、曹操の力を借りて再び小沛に割拠するものの。呂布はすぐにこれに対応。劉備は救援軍に駆けつけた夏侯惇(カコウトン)ともどもあっさり粉砕され、またしても妻子を人質に取られて逃げ帰ってしまう羽目になりました。

 

 

その後、結局曹操呂布攻撃の軍を起こし、激戦の末に討伐することで呂布に辛くも勝利。妻子も無事に帰ってきて、自身も曹操の元で一応の安寧を受けることが出来ました。

 

 

しかし、劉備のほとばしる野心はそんな安泰の生活を良しとはしませんでした。

 

 

 

曹操から袁術討伐を命じられた途上で袁術病死の報告を聞くと、かつて領有していた徐州に向かいそのまま独立。

 

それ以前に劉備は複数人による曹操暗殺計画に加担していたのですが、その主犯格である董承(トウショウ)らが事態発覚の後処刑される中での、ただ一人難を逃れて悠々の独立でした。

 

 

しかもこの時、昌覇(ショウハ)なる人物が同じく曹操を裏切って劉備に味方するなど、風は完全に追い風。このまま曹操を打ち倒し、一大群雄として雄飛できる……かと思われましたが、世の中そう上手く行かないのが実情。

 

 

曹操はすぐに追っ手を派遣し、劉備を攻撃。この攻撃軍を劉備は一度は追い払う事が出来ましたが、2度目に曹操自身が出陣するとあっさり敗北。妻子を捨てて逃亡しました。

 

劉備の妻子は呂布の次は曹操の捕虜にされたうえ、弟同然の関羽(カンウ)も曹操軍に降らざるを得ない状況となってしまったのです。

 

 

 

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袁紹、劉表と渡り歩き

 

 

 

さて、こうして再び領土を失陥してしまった劉備は、かつて曹操と敵対する袁紹(エンショウ)の嫡子であり自分が朝廷に推薦した袁譚(エンタン)を頼って落ち延びることとなりました。

 

そして袁譚を経由して袁紹と直接対面しその軍に加入。

 

 

こうして袁紹の配下に一時的に加わった劉備は、曹操軍の背後を荒らすべく、曹操本拠地近辺へと潜入。自身に呼応してくれた黄巾賊の劉辟(リュウヘキ)と協力して、曹操傘下の各城を寝返らせて荒らしまわりました。

 

が、そんな中、まるで余裕がないはずの曹操軍本隊から曹仁(ソウジン)が一団を率いて劉備討伐に出向。予想外の出来事に加えて非主力隊ばかりで統率が取れなかったこともあり、劉備は敗走してしまいます。

 

 

この前後で曹操軍から関羽が返ってきた事や、その関羽袁紹軍の主力武将を討ち取っていたことから怪しまれていた事もあり、敗れた劉備袁紹を用済みと断じてその元に帰ることなく南に転進。

 

 

 

次に目を付けたのは、荊州(ケイシュウ)に割拠する劉表(リュウヒョウ)でした。

 

 

この頃、劉表も元々曹操に敵対していたことから戦力を欲しているころ合いでした。そのため、歴戦の勇将である劉備の登場はまさに渡りに船。

 

その辺りを劉備もわかっていたのでしょうか。劉表の元にたどり着くと、劉備はまもなく対曹操の前線都市である新野(シンヤ)を間借りし、曹操軍に再び対抗。

 

 

袁紹を官渡で下した曹操夏侯惇率いる一軍を派遣してくることもありましたが、劉備は伏兵を用いて見事撃退するなどして、その力を劉表にしっかりと見せつけるのでした。

 

 

 

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先を見据えた逃避行

 

 

 

劉表との同盟関係は一見円満のように見えますが、実は劉表は何度も鞍替えを繰り返した劉備を警戒していた様子。彼に対して密かに防衛線を敷いたり、曹操の目が北に向いた隙に本拠を奇襲するよう提言しても断られる……といった記述が、二人の同盟関係の裏側を物語っています。

 

 

 

そんな微妙な関係が続く中、一応とはいえ頼みの綱であった劉表が死去。

 

後を継いだ劉琮(リュウソウ)は劉備に一切を知らせず曹操に降伏し、あっという間に劉備軍は孤立。劉備が事の全容を知ったのは、曹操軍が間近に迫った後でした。

 

 

事ここに至って、劉備は新野の放棄と南への退去を決定。周囲の反対を押し切り、民を引き連れての大規模な逃避行を開始したのです。

 

 

しかし劉備軍は依然と違い、伏龍と称された諸葛亮(ショカツリョウ)が劉備軍に加入していることで、既に劉備の弱点である長期的視点の無さは解消済み。

 

窮地であることに変わりはありませんが、それを超えた先にはしっかりとした展望が描かれていたのです。

 

 

本伝には南への闘争に際し、諸葛亮が「劉琮を倒せば荊州を得られます」と献策したものの劉備がそれを拒否したとあります。

 

まあ本伝の話ならば信じたくはありますが、慎重で心配性の気がある諸葛亮が、果たしてこんな博打のような献策をするのかどうか……

 

 

さて、逃亡するなら早いほうがいいのが常識ですが、この時の劉備は民を引き連れての大所帯。しかも劉備軍が軍需物資が豊富な江陵(コウリョウ)を目指していたのと同じく、曹操も江陵を狙い騎馬隊による強行軍を繰り出していたところだったのです。

 

両軍の差はみるみる狭まり、ついに曹操軍の騎兵隊にその軍勢を捕捉されてしまいました。

 

 

こうなると、劉備はもはや建前も何も構っていられません。追い散らされる民衆や軍勢、そしてまたもや妻子を捨てて、主要な人物のみを引き連れてさっさと逃亡してしまったのです。最初から置いて行けばいいのに

 

 

しかし、これで荷が軽くなった劉備は、すぐに水軍を率いて先行していた関羽と合流。さらに劉表の息子でありながら親劉備派であった劉琦(リュウキ)の軍も合流し、数万の軍勢を得て、今度は江東の孫権(ソンケン)を頼って夏口(カコウ)の地に拠ったのです。

 

 

 

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風雲を得て……

 

 

 

劉備孫権との連合を成し遂げると、曹操軍を赤壁で撃退。その後、孫堅を出し抜く形でいよいよ馬脚を現していくのです。

 

 

まず手始めに荊州南部に割拠する、曹操から派遣された太守らを全て掃討し、その地を自身の活動基盤として接収します。

 

同時に孫権による益州平定作戦に真っ向から反対することで孫権軍の動きを封殺し、自身の定めた目標を奪われないことにも注力。

 

 

 

そしてそんな陰謀を重ねる日々が続いて建安16年(211)。劉備がひそかに標的として目をつけていた益州の劉璋(リュウショウ)から、益州北部の張魯(チョウロ)の援軍要請を受けたことで事態は大きく動きます。

 

 

劉璋からの使者は表向きこそ張魯討伐の援軍の以来という形でしたが、実は劉璋に辟易していた人物で、この機に劉備に益州を譲り渡そうと考えていたのです。

 

まさしく渡りに船とばかりに、劉備は劉璋救援の軍を発足。

 

 

その後しばらくした後、劉璋軍の将である楊懐(ヨウカイ)、高沛(コウハイ)が劉備を警戒したことを理由に、ついに劉備は牙を剥きました。

 

まず、楊懐、高沛の二人を騙して呼び出し、謀殺。そして彼らの軍勢を接収し、大軍勢を編成して一気に劉璋の領土を席捲していったのです。

 

 

同時に荊州南部で留守を守っていた軍勢も益州に呼び寄せ、周辺地域を平定。首都である成都(セイト)や雒(ラク)などの一部を除くすべての劉璋領をまたたく間に併呑してしまったのです。

 

 

そして最後の砦であった雒城も、1年という長い期間を経てようやく陥落。その後取り囲んだ本拠地・成都も数十日の間に降伏し、ついに劉璋勢力は完全に劉備のものとなったのです。

 

 

この時建安19年(214)。各地を流浪すること約30年。劉備は故郷から遠く離れた西の果てから、ついに天下取りの野望を実現する戦いに身を投じるスタートラインについたのです。

続きを読む≫ 2018/02/10 17:44:10

 

 

 

 

草履売り世間に飛び出す

 

 

 

劉備の家系は漢王朝の皇族……を自称する家系で、実際に祖父は地方長官、父も地方役人としてそれなりの地位にいるボンボンでした。

 

しかし、劉備がまだ幼少のころに父が早世。母子家庭となった劉備の家は一気に落ちぶれ、母と共に編んだむしろやわらじを売って生計を立てるようになっていました。

 

 

しかしそんな状態でもある程度の財や地位はあったらしく、15歳の時にそこそこの金持ちと一緒に学問を学ぶことになりました。

 

この時の劉備の師匠は、後に黄巾の乱で大活躍する盧植(ロショク)、そして兄弟子には幽州の覇者となる公孫瓚(コウソンサン)がおり、早くから未来の成功者に囲まれる環境にあったようです。

 

 

 

で、肝心な劉備は真面目に学び、清流派の学士として君臨した……と思いきや、当時の劉備は学問に興味を示さず自由奔放状態。

 

公孫瓚の弟分としてファッションに目覚めてきらびやかに自分を飾り、乗馬や闘犬、音楽が好きという、言ってしまえば優雅でありながらもいささかアレな不良少年だったそうな。

 

 

そしてこの頃から並外れたカリスマを見せ始めていたようで、遊侠気取りで近隣の若者グループをまとめ上げるリーダーとして君臨していたのでした。

 

 

 

そんな劉備に対して「こいつは只者ではない」という感想を抱いた人物もなかなか少なくなかったようで、当時近隣の富豪であった張世平(チョウセイヘイ)、蘇双(ソソウ)の2人に至っては、なんと若年の劉備に資金まで提供。

 

この2人がスポンサーとなったおかげで劉備は仲間集めの資金を作ることができ、世の乱れに乗じてそのまま挙兵。劉備は若者たちを連れて颯爽と名を挙げに用兵生活を開始しました。

 

 

ちなみに、今後劉備と兄弟分同然となる関羽(カンウ)や張飛(チョウヒ)も、実はこの時に劉備が雇った若者の中の一人だったとか。

 

 

 

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一歩進んでまた下がる

 

 

 

こうして黄巾の乱から端を発した戦乱に足を踏み入れた劉備は、素人軍団でありながらも趨靖(スウセイ)という校尉の雇われ軍人として大活躍。

 

 

その功績が認められたことによって、なんと安熹県尉(アンキケンイ:安熹県の警察署長みたいなもの)に任命されます。

 

その後すぐに督郵(トクユウ:郡の観察官)が訪問した際に、彼に会ってコネを作ろうとしましたが……督郵に面会を拒否され、これにブチギレて督郵を棒叩き。200回もひっぱたいて完全にぶちのめした後、その首に県尉の官職の印を縛り付けて逃走してしまったのです。

 

 

 

その後も大将軍の何進(カシン)に派遣された軍勢と合流し、ここでも活躍して下密(カミツ)県の丞(ジョウ:県長の補佐官)になるものの、やはり短期間で辞職しています。

 

 

 

そして今度は高唐(コウトウ)県の尉、そこから出世して県令(ケンレイ:大きな県の県長をこう呼ぶ)になりましたが、なんと賊の襲撃を受けて敗北。命の危険を感じた劉備はさっさと高唐から逃亡し、そのまま兄弟子であった公孫瓚を頼って再び北の幽州まで向かうことにしたのです。

 

 

さすが逃亡の達人。逃げの機会は見逃しません

 

 

 

 

 

獅子身中の獅子

 

 

 

さて、無事に公孫瓚の元に落ち延びた劉備は、公孫瓚が朝廷に上表いてくれたおかげで別部司馬(ベツブシバ:非主力部隊隊長)として、しばらく公孫瓚の軍勢に身を預けます。

 

そして公孫瓚と敵対する袁紹(エンショウ)との戦いでたびたび戦功を挙げ、ついに平原(ヘイゲン)の相(ショウ:長官)の代行を試しに任されるなど大きな期待を寄せられていました。

 

 

しかし、当然ながら劉備は人の下でいつまでも生きる人物ではありません。

 

公孫瓚の盟友である徐州(ジョシュウ)の陶謙(トウケン)が袁紹派に属す曹操(ソウソウ)の攻撃を受けると、劉備は目付け役の田楷(デンカイ)と共に闘犬救援に出向。

 

 

この時の劉備軍は自身の直属兵である千余りと、北方異民族である烏丸(ウガン)の騎兵のみ。劉備はこれに加えて上に苦しんでいた農民を数千名を強引に自軍に取り込み、独自勢力を形成。

 

 

さらに今度は陶謙に上手く取り入って彼からも4千ほどの兵を授かり、完全に田楷の手から独立。陶謙に鞍替えすることになったのです。

 

 

 

しかも何の裏工作を使ったかはたまた陶謙の謀略か、陶謙は死に際し、自身の後継者に劉備を指名。劉備はこの話を一度は断りますが、陶謙配下の幕僚らの説得を受けて承諾。劉備はついにひとつの州を治める群雄となったのです。

 

 

ちなみに劉備を擁護しておくと、この後継ぎの話を聞いた劉備は、一度話を断る際に「近隣で大勢力を誇る袁術(エンジュツ)が怖いからやだ」という旨の発言をしたそうです。

 

つまり、自身の都合を断る理由に述べているため、劉備の調略である可能性は高いとは言えないのですが……それでも怪しいのが劉備の怖さであり面白いところです。

 

 

 

さて、こうして徐州の州牧となった劉備は、領主交代の隙を突いて攻めてきた袁術を撃退し、朝廷から鎮東将軍の地位を送られました。

 

そして、周辺諸国に対抗するため、流浪の猛将・呂布(リョフ)の一団を徐州に迎え入れ、軍備を強化。

 

……が、これが、劉備を大きく苦しめる決断となってしまうのです。

 

 

 

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呂布のエクストリーム離反!

 

 

 

さて、呂布という頼もしい客将を得た劉備は、袁術がまた攻めてきたという報を受けてこれの迎撃に出陣。弟分の張飛と、陶謙配下であった曹豹(ソウヒョウ)、そして客将の呂布に留守を任せ、これと対峙します。

 

 

そしてそのまま一進一退のまま膠着すること1ヶ月……ここで、劉備にとんでもない報告が舞い込んできます。

 

 

呂布が裏切り、曹豹と内通して劉備領を奪取。この時劉備の妻子も呂布軍の捕虜となり、劉備は軍を転進せざるを得なくまったのです。

 

 

しかもこの時、袁術の息がかかった賊軍が暴れ回り、未だ徐州内は混沌としている時期。

 

 

劉備はまず賊軍を撃ち果たした後、呂布と和睦。これでようやく一息入れられるようになりましたが、劉備の帰る先は本拠地の下邳(カヒ)ではなく、その西にある小沛(ショウハイ)。

 

劉備はここで力を蓄えて呂布との戦いに備えますが、それを見越した呂布は今度は小沛に攻撃を開始。これはかなわぬと劉備曹操の元に逃走。とうとう、徐州に劉備の居場所は無くなってしまったのでした。

 

『英雄記』によると、曹豹の反乱の原因は張飛にもあると書かれています。

 

張飛と曹豹はどうにも折り合いが悪かったのですが、劉備袁術と戦う際に張飛を下邳の守りに置き、曹豹と合同で守備を任せてしまったのです。

 

 

元々その仲は険悪な上、張飛は自分が取るに足らないと感じた相手にはとことん酷薄な性格。兵士相手にも問題行動を頻繁に起こしたことが史書で語られています。

 

 

ひょんな事から張飛は曹豹を殺そうと画策したため、危険を感じた曹豹は裏切り者の呂布を城に招き寄せ離反。結果として呂布による徐州強奪の手助けをしてしまったのです。

 

 

慌てて劉備が戻ったころにはすでに張飛は敗走し軍は散り散り。劉備は慌てて軍を再編し、南の広陵(コウリョウ)の地を奪って袁術との再戦に臨みますが、動揺した軍では力を発揮できず破れてしまったそうな。

 

 

続きを読む≫ 2018/02/08 22:48:08
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