人物評
劉備の容姿は、身長は7尺5寸(173cm)。手は長く膝まで届き、耳も頑張れば自分の耳たぶを視界に収めることができるくらい大きかったとされています。
また、他の伝には「髭が薄い」とバカにされた記述もあり、意外と体毛などは濃くはなかったのかもしれません。
内面は無口で謙虚な口ぶり、顔に表情を余り出さないポーカーフェイスであったことも正史には書かれています。
しかし、その服装は派手でかなりおしゃれな感じ。周囲から一目置かれる着こなしの達人だったようです。
さて、三国志を編纂した陳寿の評では、劉備はこのように言われています。
度量が大きく寛大な心の持ち主。また親切でもあり、人物を見分けて人を待遇した。思うに漢の高祖・劉邦の面影がある、まさに英雄の器であった。
知略や才覚は曹操には及ばなかった結果、彼とは大きな国力差を生むこととなった。
しかし負けても膝を屈さず最後まで敵であり続けたのは、そもそも曹操の器とは相容れなかったからに他ならない。単に損得や利害を争うだけでなく、こういった器の違いから降りかかる災禍から逃れるためでもあったのだ。
さすがに曹操とはライバル関係というだけあって、かなり評価は高いですね。袁紹当たりとは大違いだ
もっとも、陳寿は元は蜀の文官。もしかしたら、劉備を「先主」と呼んで慕っている様子もうすうすと本伝からも見えてきますし、もしかしたら評価に少し箔をつけた可能性もあります。
……が、そんな陳寿の評の公平性を考慮して考えても、三国志で屈指の英雄であることは間違いありません。
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もはや滅茶苦茶な自己PR能力
劉備は群雄割拠の時代に売り込みの商品となった戦術指揮能力もかなりのものですが、彼の驚くべき一番の強みは、驚異の売り込み能力でした。
以下、劉備が主に頼った豪族ややらかした人材狩りの実績を羅列してみます。
・何も実績がないうちから地元富豪をスポンサーに着ける。しかも2人。
・黄巾討伐の折に流れの傭兵として戦功を挙げて役職に(複数回)
・兄弟子の公孫瓚の元に。別部司馬として一軍を任される。
・公孫瓚が嫌になったのか徐州の陶謙を救援した際そのまま陶謙軍に移籍。陶謙は死ぬ間際、自身の領土を劉備に丸々与える(謀略の疑いあり)
・徐州を去るときには大半の人材が劉備を慕ってついて行く。
・曹操から逃げた時、自分に借りのある袁譚を頼り、袁紹軍に仮加入。
・劉表軍に移籍。曹操から守る盾として新野に間借り。
・南に逃げて、大した戦力も領土もないのに孫権と同盟。
・劉琮降伏時、曹操に着いて行かなかった荊州の人材を根こそぎかっさらって行く。(このせいで呉は「蜀に荊州を貸します」とかいう滅茶苦茶理論に頼らざるを得なくなる)
・劉璋の援軍として益州に入り、騙し討ちして美味しくいただく
・自分から漢中王なんぞを名乗ったのに、献帝からはえらく気に入られている
と、こんな感じに、要所要所で誰かに上手く取り入ってチャンスを作っていく姿が見られます。しかもこれで逃げたり裏切るタイミングまで完璧で、本当に油断のならない人物ときています。
要するに劉備は第一印象のよさ、そして時流や相手のニーズを読む慧眼とそれに合わせて口八丁を発揮できるほどの狡猾さ。人に取り入る上で必須の能力に非常に長けていたのですね。
まさに面接のプロ。どうやっても必ず気に入られるという天性の人たらし。いや本当、うらやましい限りです。
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家族に冷たい?
さて、人たらしとして多くの人を魅了し、そして人に取り入る能力を兼ね備えた劉備ですが……意外にも家族に対してはかなり冷淡というか、あまり大事にしている様子がないのです。
例えば家族を捨てた主な場面は、まず呂布に攻撃を受けて敗れた時(裏切り当初は留守を突かれての捕縛のためノーカン)。そして曹操から独立した後、曹操本隊に攻撃された時。さらにおまけに、荊州から南に逃亡している最中、曹操軍に追いつかれた時(「忍びない」とか言って連れてきた民たちも一緒にポイ)。
正史の本伝だけでも、合計3回妻子を捨てて逃走しています。
まあ、その3回はいずれも劉備自身の命の危機。やった事自体は非情に見えますが、生きるためゆえ致し方なし。
しかし、あの徳の将軍と名高い劉備がこれをやっているというのは、なんだかインパクトがありますね。
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本当に正義の英雄?
さて、では最後に肝心な部分を少し考えてみましょう。
劉備と言えば、おおよそ世間一般のイメージは「清廉潔白で心優しい仁徳の英雄」といったところ。「曹操は悪」という過去の固定概念との対比から始まり、曹操がまっとうに評価され始めた今でも、劉備のこの評価だけは変わる様子がありません。
しかし、正史三国志を見ると……やはり大事を成し遂げた英雄。黒い事にも結構手垢を残しています。
まずは兄弟子の公孫瓚からの離脱。実は公孫瓚は劉備に田楷(デンカイ)というお目付け役を用意していましたが、劉備は陶謙救援の軍を徐州に向けた際、田楷に黙って独自軍閥を形成。田楷には対処ができないくらい大きな勢力となって悠々と公孫瓚から陶謙に鞍替えしています。
しかもこの後の陶謙は群雄としての独り立ちともいえる動きを示しており、公孫瓚との同盟もいつまで続いたか怪しいところです。
そして続いて、呂布討伐の折に曹操配下に加わった時。これも実は劉備の一方的な裏切りによって、徐州で独立。しかもその前には、曹操暗殺計画にも署名しているという徹底した曹操アンチぶり。
その後曹操に追われて袁紹を頼っていますが、関係が悪くなると、今度は袁紹を騙して劉表の元に逃亡。
時代は飛んで赤壁の戦いの後にも、孫権を出し抜いて荊州、ひいては益州を手に入れたという有り様。当然、益州奪取に関しては言うまでも無し。
これらの行動を追っていると、やはり始めから人の下に付くような人物ではなく、善意とは程遠い野心を備えた人物であったようにしか見えません。
実は「同族の劉表から荊州を奪うのは嫌」とか「慕っている民を置いていくのは忍びない」とか……ちょくちょくこの人は善意の言葉を口にしていますが、これらはすべて建前にしか見えないのは私だけでしょうか?
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当然、仁君ではないから英雄ではない……などという事ではありません。
こういった黒い逸話や、仁君の仮面にこだわる様子を見ると、やはり劉備は善悪で推し量れない、真正の英傑であると言っても過言ではないでしょう。
敵は騙す。味方は極力重んじる。家族は使い捨て
劉備の行動の基本方針はこんな感じになっており、敵や他勢力には徹底して利害だけを見るドライな姿勢を貫いています。しかし部下は無名だろうと何だろうとすごければ重要なポストに付けることが多く、劉備のおかげで列伝に名を残すような武将もいるくらいです。
良くも悪くもリーダー向きで、人の下にいる人ではない。だから自分を一方的に押さえつける者は利害で裏切る。
そんな反骨魂と英雄の器が一体となった人物こそが、劉備の本当の顔なのではないでしょうか。