王朗 景興


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王朗 景興

 

 

生没年:?~太和2年(228)

 

所属:魏

 

生まれ:徐州東海郡郯県

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 D 元々は孫策と戦ってボコられた群雄の一人。間違っても武闘派ではない。
武力 D 武力は知らんが気骨はあった。非人道に対してすぐにかみつく人だったらしい。
知力 A- 司法と弁舌に関しては一級だったが、孫策と戦おうとするなど無茶も多かったようだ。あと、降伏勧告の手紙を諸葛亮に送ったら無視された上に駄目な方の比較文として勝手に使われた。
政治 A 司法徳行の鬼。刑法に詳しい人物ながら、厳罰には断固反対の人道主義者でもあった。困窮者を優先的に救うあたり、平等主義者でもあったようだ。
人望 A 鍾繇、華歆と並び魏の三大宰相として賞された。どうでもいいが、于禁を取り立てた王朗は同姓同名の別人。

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王朗(オウロウ)、字は景興(ケイコウ)。無双シリーズで爆発的な人気を博した王元姫(オウゲンキ)のおじいさんと言えば、なんとなくわかる人も多いのではないでしょうか。

 

三国志演義ではクソザコナメクジな簒奪者として相応の最期を迎えたように描かれている王朗ですが、彼もまた傑出した人物として魏の名臣の中に名を連ねています。

 

 

 

今回はそんな王朗の記述を追っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

人物評

 

 

 

どうにも簒奪者、あくどい人間、凡人という評価が定着してしまっている王朗ですが、正史では魏を代表する政治家として、その政治力と内面を大きく評価されます。

 

 

三国志を編纂した陳寿は、王朗を以下のように評しています。

 

 

 

文才学識が豊かで、鍾繇や華歆と並んで一代の英傑であった。

 

 

また儒家らしく人道や道徳に基づいた考えや方策を好み、法務の重役である大理を務めた時には、罪状に疑問があれば軽いほうの罰を選んだとされています。

 

 

『魏書』ではその辺をもう少し突っ込んだ評価がされており、以下のような人物評があてがわれていますね。

 

 

見事な才覚と学識を持っていたが、その態度は謹厳実直で品行方正。婚姻の際にも親戚からの祝いの贈り物を受け取らなかった。

 

また恵み深くも憤慨家としても知られており、世間の中で評価が高いのに貧者を憐れまない者を堂々と非難していた。そして自身の財産から施しを行う際も、特に困窮している者を優先的に補助した。

 

 

どうにも政治家としても一流ですが、それよりも道徳家や人道家といった面が強い人物のように見受けられます。なんだかんだ健全な政治の世界では、ある程度の善良さは欠かせない資質のひとつになってくるのでしょうね……。

 

 

 

さて、ここからは王朗のちょっと面白い話。

 

 

 

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適切な態度は難しい

 

 

 

まずは『魏略』からの出展。

 

曹操はある時王朗に対して、「会稽にいた時は米をかなり節約してたようだな。俺にはとても真似できん」とからかい半分にちょっかいを出しました。
しかし王朗は曹操に対し怒るでもなく、「ほどよい態度でいることは難しいな……」と意味深にぼやいて嘆息したのです。

 

 

真意を測りかねた曹操は、思わず「え、何?」と訊き返してきたので、王朗はその後に言葉をつづけました。

 

 

「いやなに。あの時の私めは、すべきでもないのにわざわざ贅沢を禁じて倹約に努めました。対して今日の殿の態度は、節約すべき時にしていないとでも申しましょうか」

 

 

その後の顛末は書かれていませんが、余計なちょっかいを出してカウンターを食らった形になった曹操は、いったいどんな顔をしたのか……。

 

 

 

また、後に孫権曹操と和睦、臣従して大量の贈り物を届けてきた時に、曹操は王朗に手紙について質問しました。この時に王朗は以下のように受け応えたのです。

 

孫権はこれまでの敵対行為をうまく言い逃れし、膝を屈して二心を抱かぬと申しておりますな。真情は文辞にあらわれ、効験は勲功に示されます。呉はこれから魏に支配されるでしょう。揚州の呉勢力都市を陥落させれば荊州、そして益州への道が開かれます。これで天下の趨勢は決まり、慶事は続くでしょう。聖旨を賜った時には、手を打ち拍子を取りました。心にたまっていたことを言葉に出来なかったものですからな」

 

 

 

 

 

王朗ネットワークと諸葛亮

 

 

 

当時の儒学者は各々の間でネットワークを構築しており、勢力間を超えて広い交友を持っている者も中にはいました。

 

王朗もその中の一人で、呉の重臣で同じ徐州の出身者である張昭(チョウショウ)や人物評論家の従弟で各地を放浪した許靖(キョセイ)らとも手紙のやり取りをすることがありました。

 

 

特に許靖との手紙の逸話はなかなか涙を誘うもので……王朗は劉備の死を知り、近辺報告と共に蜀の降伏を勧める手紙を送った者の返事は返ってくる様子も無し。

 

何故かと思った王朗でしたが、実は許靖は手紙が着いた頃には亡くなっていたというもの。

 

 

あくまで職務上の降伏勧告がメインの手紙でしたが……旧友が死んで手紙が一方通行になっていたと知った王朗は、果たして何を思ったでしょうか。

 

 

 

 

さて、そして一方の諸葛亮との話題ですが、これは『諸葛亮集』にあります。

 

王朗はある時、他の魏の重臣と共に、諸葛亮に降伏勧告の手紙を送りました。

 

 

しかし、諸葛亮はこれを無視し、一切返事を書かず。それどころか劉禅(リュウゼン)に上奏して書いた『後出師表』にて、「王朗らは外敵に対して戦おうとしないクソ雑魚だから孫策に負け、今は孫呉が鎮座することになっているのです」とモロにディスってます。

 

 

何というか憐れ

 

 

ちなみにこのネタは三国志演義にてアレンジして拾われ、王朗は口からザラキ諸葛亮と戦場で舌戦を繰り広げ、国賊と罵られて怒りのあまり亡くなったことになっており、何とも哀愁を誘う展開に……。

 

 

 

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王朗、実は嫌われ者?

 

 

 

徳者と名高い王朗ですが、『世説新語』では同じ列伝に並べられた華歆の咬ませ役として、一人の男を助けた逸話に登場します。

 

 

華歆は王朗らと共に江東から逃げている時、たまたま出会った旅の男は「あなたたちと旅をさせてくれ」と懇願した。

 

華歆だけは「旅は道連れというが、見知らぬ男と運命共同体になれるとは思えん。後で何かあったら見捨てる羽目になるだろうし、いっそ断ったほうが……」と渋ったものの、王朗らは「まあまあ、良いじゃないか」と乗り気で男を旅の列に加え、ともに出立しました。

 

 

しかし少し後になって、その旅の男は井戸に落ちてしまったのだ。

 

王朗らはそれを見捨てて去ろうとしたものの、華歆は「運命共同体とはこういうものだ。一度一団に加えた以上、見捨てるなど道義が許すまい」と言い捨てると、男を救い出してやった。

 

この話によって、世の人は華歆と王朗の優劣を決定づけたのである。

 

 

ちなみにこの話は世説新語よりも前に出来た華歆の子孫による家伝に載っているのですが、そちらでの話は江東ではなく、董卓の暴政によって苦しんでいる都から逃げ出したとき。

 

さらに言えば、華歆と行動を共にしていた面々は名前すら明らかになっていないのです。

 

つまるところ、王朗は話の改竄により、ほぼ深い理由も無しに風評被害を受けたというわけですね。

 

 

華歆を賞賛する踏み台としてちょうどよかったから引っ張られたのか、それとも王朗が宋の時代ではすでに嫌われていた証左なのか……

 

 

 

 

 

 

王朗の徳行論

 

 

 

さて、最後に……王朗のスタンスというか、性格がよく表れている言い分が史書に丸々残ってたようなので、それを流用して王朗伝の解説を終わらせていただきます。

 

 

これは、曹丕曹操の後を継いだ際、王朗が曹丕に対して上奏した文章ですね。

 

嫌われようがボンクラ呼ばわりされようが、王朗が徳者と呼べる人物だったことの表れになるのではないでしょうか。

 

 

「戦乱の始まりより30年以上。未だに乱は収まらず国も民も疲れています。先代様は賊どもを一掃し身寄りのないものに慈愛を与え、ようやく規律が整いました。

 

しかし、まだ遠方には、我々に敵する者らが残っております。

 

そこで、もしも免除などの善政で民をなつかせ、良き行政官が恩恵を施し、東西の畔が整って全土が隆盛になれば、必ず平時より国は豊かになります。

 

 

易は『法をととのう』、尚書は『刑をよく用いる』『一人の善に民が頼る』等と言いますが、刑罰裁判を慎重に行うという意味です。

 

真実を掴めば冤罪で死ぬ者無く、大黒柱が土地の生産力を最大限扱えば飢饉は起こらず、貧窮者や老人が食料支給を受ければ餓死者は出ず、結婚が時機通りに行われれば世を恨む独身者はおらず、胎児の養育が約束されれば身ごもった者も安心でき、労役に育児休暇があれば子が育たぬ事は無く、労役を成人後に限定すれば未成年が家を離れることはなく、半白の者に戦をさせなければ行き倒れの老人はおりません。

 

温情と仁愛によって弱者を救い、福利政策で貧者を助けます。

 

そうすれば10年後に若者があふれる街になり、20年後に必勝の兵士が野に満ちるのです」

続きを読む≫ 2018/05/10 23:30:10

 

 

 

 

 

徐州の俊英

 

 

王朗は当時博識な学者として知られており、当時最重要視されていた経典の数々に通じていると評判でした。

 

そのため、漢王朝より郎中(ロウチュウ:宮殿の門番や皇帝の身辺警護)の職を得、その後甾丘(シユウ)の県長に昇進。

 

 

しかし折しも自身の恩師が亡くなったため、喪のために官位を捨てて里帰りし、その後も朝廷から招聘を受けたものの拒否。しばらく故郷で喪に服していました。

 

 

 

そんな折、徐州に割拠していた陶謙(トウケン)の推挙を受けて役職に復帰し、陶謙の補佐官としてしばらく動くことになったのです。

 

しかし、その後しばらくとしないうちに漢王朝の朝廷内では大きな混乱が発生。やがて大きな戦乱となって朝廷を中心に世は混沌としていました。

 

この事態を見た王朗は、同僚の趙昱(チョウイク)と共に陶謙に進言します。

 

「群雄らにこちらの意を誇示するには、朝廷に忠誠を示すのが最上の手。使者を送り、王命を賜るべきです」

 

 

陶謙はこの言葉にうなずき、すぐに趙昱を使者として派遣。陶謙は安東将軍(アントウショウグン)の位を得て、趙昱と王朗もそれぞれ太守の任を任されたのです。

 

 

さて、王朗が太守として向かった任地は、はるか南東で疎開した名士も多い土地である会稽(カイケイ)。陶謙の元を離れた王朗は以後会稽太守としてその地に勢力を張りますが……これが激動の始まりだったのです。

 

 

 

 

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激動する人生

 

 

 

さて、こうして会稽太守として辺境統治を行うことになった王朗でしたが、揚州をめぐる大きな戦乱に巻き込まれ、とんでもない大敵を相手取ることになってしまいました。

 

――孫策(ソンサク)。

 

 

破竹の勢いで領土を拡大していく孫策軍は、建安元年(196)、ついに王朗の任地である会稽に目を向けたのです。

 

 

功曹(コウソウ:人事部長?)の虞翻(グホン)は並外れた強さを持つ孫策には勝てないと判断し、王朗に逃亡を勧めましたが、王朗はこれを真っ向から拒否。

 

「漢王朝より土地を任された以上、街の保全に尽力するのは当然である」

 

 

かくして兵を集めて孫策軍と一戦を交えた王朗でしたが、勢いに乗る孫策軍の前に敗北。結局街を追われて海を渡る羽目になりましたが、その先の東冶(トウヤ)で孫策軍に再び捕捉され、大敗を喫してしまったのです。

 

かくして王朗は孫策への降伏を決意し、これまでの敵対を謝罪。孫策も人格的に優れ学識豊かな王朗を殺すことはできず、そのまま問責だけで釈放されました。

 

 

しかし、勢力も財産も失った王朗は一族を連れて放浪。困窮の中で少ない分け前を一族で分け合い、貧困にあえぐ中でも道義を忘れない立派な態度を心掛けたとされています。

 

 

 

そんな苦しい生活を余儀なくされてしばらくの建安3年(198)、曹操から突如招聘がかけられ、苦しい中で王朗は北へと帰還することに決定。

 

旅費も満足に持ち合わせていない事もあって北への旅路は困難を極めましたが、長江や海を行ったり来たりすること数年、ようやく王朗は曹操の元に到着し、彼に仕えることが叶いました。

 

 

曹操は王朗をすぐに諫議大夫(カンギダイフ:帝の政治顧問)とし、さらに自身の軍事参謀に任命。その後魏が建国すると、軍事参謀の役職はそのままに魏郡の太守を兼任。

 

その後も小府(ショウフ:財務長官)、奉常(ホウジョウ:宗廟管理や儀礼の執り行いの責任者)、大理(ダイリ:最高裁判所長)等といった高官を歴任。魏においても有数の人物として数えられるまでに至ったのです。

 

 

 

 

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魏国の内務トップエース

 

 

 

曹丕(ソウヒ)が曹操の後を継ぐと、御史大夫(ギョシタイフ:副総理大臣)に昇進。さらに安陵亭侯(アンリョウテイコウ)として領地もあてがわれました。

 

そして曹丕の興味が大きく自身の得意分野でもある経典の内容を引用しつつ、民をいたわる統治を第一にするよう進言。徳者と名高い王朗の真骨頂ともいえる言葉づかいで曹丕に慈愛を説きました(人物評にて掲載)。

 

 

曹丕が帝位に上り魏王朝を打ち立てると、王朗は司空(シクウ:本来は法務大臣だが、ここでは副総理を差す)に転進。そして楽平郷侯(ラクヘイキョウコウ)に爵位も上がりました。

 

 

 

一応は魏の属国となっていた呉が蜀に攻められて夷陵の戦いが勃発すると、曹丕は蜀にとどめを刺すために呉への救援軍を送ることを検討ましたが、王朗は孫権がまだ動いていない=自分たちが劉備と戦うことになる事、そして雨季で戦える時期でないことを理由に消極的な姿勢を見せました。

 

 

その後黄初3年(222)には孫権と決裂。この時も曹丕孫権を攻め滅ぼそうと大規模な遠征を企画しましたが、王朗はこれに反対。

 

「現時点での出陣はまだ軽率で、民たちも大義名分を理解しないでしょう。孫権の不審が明らかになるのを待ち、然るのちにもっと計画を練ってから攻めるべきかと」

 

 

しかし曹丕は出陣し、そのまま結局敗北して戻ってくることになったのです。

 

 

 

また、曹丕の在任中に「優れたものを推挙するように」との勅令があり、王朗は楊彪(ヨウヒョウ)なる人物を曹丕に推薦。自分はこれをいい機会として隠居を決め込み、病気を理由に楊彪を自分の役職に代わりにつけたのです。

 

しかし、曹丕はこれに納得せず、「賢才推挙を命じたのに、賢才が去ってどうするのか」と王朗の復帰を要請。

 

 

結局楊彪は高官として取り立てられましたが、王朗はそのまま元の役職に復帰しました。

 

 

 

 

その後曹丕の息子の曹叡(ソウエイ)が帝位につくと、王朗は蘭陵侯(ランリョウコウ)として、合計1200戸の食邑を抱える大身の侯爵になりました。

 

また、曹叡が宮殿増設や修理などに力を入れているのを見て、労役の軽減と費用削減を提言。その後、ほとんど栄誉職となっていた司徒(シト:内政関連の大臣。かつては三公のひとつだった)に転任し、実質的に半隠居の身となったのです。

 

 

そこからはほとんど政治面の前線を退いたようですが、後継に恵まれなかった曹叡に対し憂慮心配する旨の上奏をして感謝される等、政治とはまた違った見せ場を得ていました。

 

 

しかし、すでに年老いた王朗がその後何かの活躍を救ることはなく、太和2年(228)に死去。成侯と諡され、その後は子の王粛(オウシュク)が継ぐことになりました。

続きを読む≫ 2018/05/10 22:24:10
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