【鄧艾伝1】変わり者の出世街道


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【鄧艾伝1】変わり者の出世街道

 

 

 

 

貧しい家の変な奴

 

 

鄧艾は父親を早くに亡くし、曹操(ソウソウ)が荊州(ケイシュウ)を攻略した時には曹操の本貫近くの汝南(ジョナン)に移住。そのまま幼くして牛飼いの小作人になりました。

 

そんな鄧艾、12歳の時には「文は世の範たり、行ないは士の則たり」という碑文を呼んで思うところがあったのか、名前を範、字を士則と名乗りました。が、その後、一族に鄧範という名の子が生まれたため、再び鄧艾と名乗ることに。以後、その名が定着するようになります。

 

 

官吏としては県の都尉学士(トイガクシ:県トップの属官候補生)となるも、先天的に抱えていたどもりのせいで気味悪がられて拒否され、結局は稲田守叢草吏(トウデンシュソウソウリ:税金を取り扱う部署の下っ端役人)として、後の中央勤務とは程遠い身分からのスタートを切ったのでした。

 

しかもその生活は貧しかったようで、金持ちな同僚の父親が手回しして手厚い保護をしてくれ、それでようやく生活ができるほどだったとか。

 

 

しかし鄧艾も鄧艾で、本来感謝すべきところを、この援助対する礼は無し。その恩義よりも、趣味は半分でひたすらに地図を書いては「どこにどの施設を置くか」を地図上に記載する日々。

 

こんな変わり者の鄧艾を見て、周囲には「あいつはどうせ無能だよ」と冷笑する者が多かったとか。

 

 

しかしその仕事ぶりはかなり優秀だったようで、順調に出世を続けてついに上計吏(ジョウケイリ:地方の会稽報告者)となり、中央部の大物たちとも顔をそろえる機会が多くなります。

 

そして最後には司馬懿とたまたま出会い、鄧艾はその才覚を高く評価されます。そしてそのまま属官となり、最終的には尚書郎(ショウショロウ)、つまり宰相レベルの人物が長官を務める部署の中央官僚として抜擢されることになったのでした。

 

 

 

 

 

能吏鄧艾

 

 

 

こうして完全に高級官僚としての道が開けた鄧艾ですが、ある時「富国強兵」の政策実施のため、魏の南東部を広く視察して問題点を見出します。

 

 

「あの一帯は良い土地はあるが、治水が悪ければそれも意味がない。運河を築いて感慨整備を整えると同時に、水運も発展させよう」

 

そう考えた結果、自ら『済河論』なる論文を著書。自らの脳内に描いたイメージを形にしようとします。

 

 

「首都より東の地帯は、土地が低湿ながらも水田の質はいいです。そこで、質の悪い許昌(キョショウ)から水路を引き、東に屯田を移しましょう。そうすればより多くの成果が上がり、軍を動かすための兵糧も大量に確保できるでしょう」

 

 

この言葉に司馬懿は大いに頷き、鄧艾の草案はとうとう実現に向けて始動。そしてそれから何年も経った正始2(241)、ついに運河が完成します。

 

この運河によって、水運の質は大幅に上昇。兵の移動だけでなく物資の輸送、さらに灌漑による地質の大幅向上と大きな恵みを与え、食料の備蓄や水害といった事故に困ることは無くなったのです。

 

 

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対北伐戦線・前編

 

 

 

後に鄧艾は、南安(ナンアン)太守と西方の軍事参謀として対北伐戦線に参加。しばしば攻めてくる蜀に対抗する戦力のひとつとなります。

 

 

嘉平2年(249)、郭淮(カクワイ)の武将としてついに北伐してきた姜維と相対し、これを撃退することに成功しました。

 

しかし、この時の姜維の撤退はどうにも潔すぎるため、鄧艾は違和感を覚えたのです。姜維に呼応した異民族を蹴散らそうとしていた郭淮は、そんな鄧艾の進言を聞くと「ならば」と鄧艾に兵を与えてその場に留めることにしました。

 

 

予想通り反転した隙を伺っていた姜維はすぐに部将の廖化(リョウカ)を鄧艾への牽制に派遣しますが、敵が対峙するばかりで直接戦おうとしないのを見て、「これは陽動だな」と姜維の策を看破。次の一手を先読みします。

 

鄧艾は夜闇に紛れて廖化軍の捕捉県内を離脱すると、姜維の本命であろう城に急行。予測通りに姜維が城に攻めかかると全力で応戦し、そのまま撃退に成功したのです。

 

この功績は魏からすると大いに喜ぶべきものであり、鄧艾はすぐに討寇将軍(トウコウショウグン)に昇進。さらに関内侯(カンダイコウ)の爵位をも与えられ、武官として強烈なデビューを果たしたのです。

 

 

 

また、付近の異民族への対応も献策していますが……どうやら鄧艾は異民族に対しては厳正に接するタイプだったようで、劉豹(リュウヒョウ)なる部族王が力を持つと、部族内の反乱に乗じて力を削ぐことを献策。

 

またこの時、「連中は力が強まれば敵対し、自分たちが弱くなれば服従しはじめる野獣のような奴らです」とも述べており、同時に「異民族の中で民衆と共に過ごす者を少しずつ街の外に追い出して教育を施しましょう」と差別政策ともとれる献策を述べていますね。

 

ただし、「昔の殊勲を掘り返してしっかり恩賞を与えましょう」とも述べており、どこかのイケメンイナゴ大将と違って根っからの敵対路線ではないことが見えてきます。

 

しかしやはり周辺の異民族は、古代中国から争い合っていた敵。司馬懿らは鄧艾の献策をそのまま採用し、異民族による危険を取り除く方向性に舵をとっています。

 

 

 

後、鄧艾は戦線を動いて、かつてお世話になった元同僚の父親がいた汝南の太守に転任。鄧艾は礼こそ一度も言わなかったもののこの時にいろいろ手厚く保護してくれたことを覚えており、汝南に赴任するとさっそくその人物を捜索。

 

が、鄧艾が汝南に赴任した時にはその人物はすでに亡くなっており、現在は元同僚とその母だけがいる状態でした。

 

そのため、鄧艾はすぐに役人に命じて亡くなっていた父親を祭り、母親に十分すぎるほどの贈り物を与え、元同僚を引き立てて出世させてやったのでした。

 

 

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司馬一族の重鎮

 

 

 

 

汝南で数十年来の借りを返す形になった鄧艾はその後も任地を転々としますが、その行く先々で業績を上げていきます。

 

 

後に鄧艾はそんな功績と呉の諸葛恪(ショカツカク)の自滅を言い当てたことからさらに位を上げ、兗州刺史(エンシュウシシ:刺史は監査官)、振威将軍(シンイショウグン)に昇進。

 

そんなある時、鄧艾はある献策を司馬師(シバシ)に行いました。

 

 

「国家の基本は農業と軍事です。治績評価は、人々の豊かさを中心に行うのがよいでしょう。そうすればグルになって不当評価を与え合う事もなくなり、治績の粉飾も減るはずです」

 

 

農業重視の政策を打ち出すとともに、この時魏の国内で急速に膨れ上がっていた貴族主義をどうにか押しとどめようとしたのですね。

 

鄧艾のこの思惑が果たしてどれほどの成果を生んだのかは鄧艾伝に書かれてはいませんが……後に曹髦(ソウボウ)が魏の皇帝となった時、鄧艾が方城亭侯(ホウジョウテイコウ)に格上げされたのが、ある意味答えといえるかもしれません。

 

 

 

正元2年(255)に毌丘倹(カンキュウケン)らが反乱を引き起こすと、鄧艾は毌丘倹からの使者を斬り、主力部隊のひとつとしてこの戦いに参戦。この時、通常の倍の速度で戦場に向けて急行し、先に到着して浮き橋を設置するなどの準備を行ったとされています。

 

後に到着した司馬師ら本隊は、この鄧艾が作った浮き橋を使って城に入り、そこを本拠に毌丘倹軍別動隊である文欽(ブンキン)の軍勢を迎撃、敗走させることに成功。結局文欽には逃げられましたが、鄧艾はこの時追撃を行って少なからず打撃を与えていたのです。

 

 

また、上司の諸葛誕(ショカツタン)に城の選挙を命じられたときは、「大した要害でもなければ敵と離れていて戦力にならない」と考え、独断で敵軍への攻撃を開始。そのまま毌丘倹軍の撃破に一役買ったのでした。

 

 

この功績によって、鄧艾はさらに爵位を上げて長水校尉(チョウスイコウイ:異民族部隊を率いる校尉のひとつで名誉職)となり、しばらく後に方城郷侯(ホウジョウキョウコウ)に格上げ、安西将軍(アンセイショウグン)の代行役を兼任する形になったのです。

 

 

建安13年(208)の段階ですでに生まれていたことを考えると、鄧艾の年齢はすでに50過ぎ。にもかかわらず、まだまだ衰えを知らない活躍具合でした。

 

 

 

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