司馬懿 仲達


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司馬懿 仲達

 

 

 

 

生没年:光和2年(179)~嘉平3年(251)

 

所属:魏(史書的には晋)

 

生まれ:河内郡温県孝敬里

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 S 戦上手ながら政治家的な戦い方をした諸葛亮とは対照的に、司馬懿は機略にも富んだガチ軍人。戦争するために生まれてきた男。
武力 C 間違いなく勢いと武名で押すタイプではない。
知力 S 前準備では諸葛亮に後れを取ったが、持ち前の観察眼と機略で逆に押し返した。そもそも並の軍略家には太刀打ちできない人物で、孫権曰く「神の用兵」。
政治 A- それっぽい政治実績がないように見えるが、実は曹丕の留守番役として動いたり、食糧不足の解決案を出したりと内政能力は高かった。まあ政権争い的な意味での“政治”はお察しだが。
人望 A 曹爽が政権を握った時も、多くの人から彼を転覆させるよう依頼された。魏でも屈指の人望の持ち主だったが、孫が晋の創立者であるため後世の受けはイマイチ。

 

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司馬懿(シバイ)、字は仲達(チュウタツ)。あの諸葛亮(ショカツリョウ)のライバルとして、北伐で互角の争いを繰り広げた野心家として有名ですね。

 

しかし、三国志に散見される事績を見てみると……実は野心家と言い切れるのか微妙なところ。というか、むしろ名士出身の有力家臣という立場のまま一生を終えようとしていた節すらあります。

 

しかし、これほどの鬼才を天がスルーするわけもなく……

 

 

 

 

 

 

 

後世の司馬懿評と私感

 

 

 

一通り司馬懿の記述を見てみたところ、周囲に云われる通りの陰謀家というより、知力に優れた非凡な将軍というのが近いでしょうか。

 

今回はとびとびの記述を私なりにつなぎ合わせた上、信憑性グレーな学者出版の文庫本まで取りだして見てみましたが……周囲が言うような野心家、謀略家、陰険狡猾な狼野郎といった感じのイメージは、私が見る限りではかなり薄いように感じます。

 

 

飛び抜けた才能こそありましたが、司馬懿の動きは普通に名士上がりの将軍そのもの。常人ならざる器と野心で仕えていた国を壊すのを待っていた……というのは、いささか無理がある気もします。

 

まあそれでも、当人の気持など歴史書から知れるはずもなし。本心では野心渦巻いていたかもしれませんが……そうであったとしても「俺が新しい国を作る」というよりは、いかにもその辺の名士が狙っていそうな「君主を神輿にして俺らの家格を上げてやるわい」といった類の俗っぽいものだったのかもしれません。

 

 

実際に魏への忠誠心も最低限は持ち合わせていたようで、曹爽がいなくなった後に司馬懿は丞相に推されましたがこれを固辞。続けて王の位を与えようとしたもののこれも断ってしまったのです。(もっとも、野心を隠していたという説もありますが)

 

 

 

さて、陳寿によるそんな司馬懿の人物評ですが……残念ながら、三国志の中にそれらしいものは見つかりませんでした。まあ晋の皇帝の祖父という高貴な立場、しかも三国志に伝がないから当然といったところか。

 

 

 

そのためか、後世で伝えられるのは、曹爽排除の流れとその後の司馬一族による専横、簒奪。司馬懿の評価や語られる人物像割と早い段階からそれに準じたものとなっており、知略はともかく、その人物像に関してはダークなイメージが強く残っています。

 

しかも晋王朝は早くからその力を削ぎ落し、兄弟間の争いの末異民族に北半分を丸々取られてしまったのだから、それもまた司馬懿アンチの流れに拍車をかけている……と言ってもよいでしょう。

 

なんせ、晋が追いやられた先は、当時の中国の南半分。よりにもよって、呉と蜀が拠って魏と戦った土地なのですから。

 

最悪の偶然だ

 

 

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司馬懿の軍略

 

 

 

さて、主観での司馬懿評と一般論についてはほどほどに……続いては、司馬懿の軍事的才能をこれまた主観から見てみましょう。

 

 

彼のライバルである諸葛亮は、どちらかというと事前準備と大量の手札で、本番でも困らないようにしてから初めて戦うという慎重策。

 

 

 

対して司馬懿はというと……事前準備や必要日数の測量といった戦争前のあれこれはもちろん、戦場に着いてからも臨機応変。チャンスが来るのをひたすら待ってその時になったら電光石火の全力疾走……という、まさに中国兵法において理想と言われる勝ち方を得意としていたのです。

 

また敵に回すと厄介な点としては、なんでもできてしまうという彼自身の起用さ。元々司馬懿は「機会を見つけたら奇襲や速攻を決める」「縦横に動いて敵を振り回す」といった戦術が得意だったようにも見られ……その証拠に、孟達や公孫淵はことごとく見積もりが外れて成す術もなくボコボコにされています。

 

 

かと思えば、諸葛亮のような隙のない人物をどう処理するかというと……防衛戦という利点と敵軍の輸送枯渇を突いた持久戦。撹乱戦術どころか、一回戦ってボロ負けしたら後はそのまま引きこもって、敵の自滅を待ったのです。

 

 

司馬懿はこのように相手によって戦術を替えて、場合によっては得意先述すら丸々斬り捨てるという……用兵としては基礎なのにほとんど誰も成し得ない戦い方をソツなくこなせる人物だったのではないでしょうか。

 

 

 

 

狼顧の相

 

 

 

司馬懿の人物像として、こんな言葉があります。

 

内心では嫌悪している相手に対してでも表向きには寛大に振舞う人物であった。猜疑心が強く、応変の術に長けていた。

 

 

特に曹操司馬懿を警戒しており、彼が曹操から目をつけられたという逸話も、信憑性はともかくいくつかあります。その話のひとつが、以下の通りのエピソード。

 

曹操はある時、三頭の馬がひとつしかない飼い葉桶の中にある餌を貪り食う夢を見て、何とも嫌な予感に駆られました。

 

この夢を見た曹操は、すぐに司馬懿のことであると直感。曹丕を呼び寄せ、こう 注意したのです。

 

 

司馬懿は常人の器で収まる男ではない。お前もいつかとってかわられるかもしれんぞ」

 

 

しかし曹丕はそんな曹操の真意を知らず、司馬懿をそのまま優遇。結果、孫の代に司馬一族の専横がはじまった……という話です。

 

 

 

また、司馬懿は狼顧の相といって、首が180度回るという特異体質の持ち主でもあったと伝えられていますね。

 

この話を気になった曹操は、ちょっと試してみるかと司馬懿に前を歩かせ、真後ろから呼び止めてみました。すると、なんと司馬懿は首から下を一切動かさず、頭だけこちらを向けたではありませんか。

 

それに対して曹操がどうリアクションしたかはわかりませんが……一連の流れは晋書に載っている話で、一応は正史という扱いを受けています。

 

 

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真の敵は妻?

 

 

 

狼顧の相とならんで、これまたわざわざ私が書き記しても今更な話ですが……司馬懿の真の敵は、奥さんである張春華(チョウシュンカ)という人物だったのかもしれませんね。

 

なんと言っても、張春華はなかなか強烈な人物で、司馬懿ともあまり仲がよろしくなかった様子。おかげで、近年の司馬懿の人物像には、「恐妻家」という新たな属性が追加されることも……

 

 

この張春華を象徴するエピソードは二つ。

 

うち一つは、曹操からの士官要請を司馬懿が拒否した時の事。この時、司馬懿は病気で動けないと称していましたが……やはりどこかで油断するのが人。なんと侍女が密かに見ている時に立ち上がって本を読む姿を披露してしまったのです。

 

バレたら曹操の大目玉は確実で、殺される可能性だって高いでしょう。

 

そこまで考えた張春華は、なんとその侍女を即刻殺害。夫を守るためとはいえすぐに人を殺す妻に、司馬懿は内心「ヤバいんじゃねこいつ?」と思ったとか。

 

 

 

もう一つのエピソードは、子供の司馬師(シバシ)および司馬昭(シバショウ)がある程度大きくなってからのもの。

 

ある時司馬懿が病気で倒れたと聞き、すでに疎遠となっていた張春華は彼の見舞いに出かけました。が、司馬懿は見たくもない大嫌いな妻の顔を見ておかんむり。

 

 

「ババアが今更何の用だ!」

 

 

言っちゃいけないことを言ってしまった司馬懿に、張春華は猛烈に怒り心頭。なんと息子である司馬師や司馬昭を巻き込んで、断食して無理心中を図ったのです。

 

これを聞いた司馬懿は慌てて張春華の元へと向かい、マッハの速度で謝罪。さすがに息子の命を縦に取られると、冷徹な司馬懿も血相を変えてしまうわけですね。

 

 

もっとも、この後司馬懿は「別にあんなババアのために謝ったわけじゃないもんね!かわいい息子たちのためだもんね!」と負け惜しみを漏らしていますが……

 

 

なお、近年では張春華が架空人物という説も有力になりつつあるとかないとか……

続きを読む≫ 2018/08/02 20:52:02

 

 

 

 

遼東の燕王

 

 

はるか北、幽州遼東の地は、そこに根を下ろした公孫(コウソン)一族によって大きな半独立勢力が築かれていました。

 

その地を治める公孫淵(コウソンエン)という人物が、かなりの野心家にして食わせ物。兄に対して下剋上を働き、遼東一帯を手中に収めた男だったのです。

 

とはいえ魏は強大で、遼東ひとつでは太刀打ちするのも難しい状態。そのため公孫淵は孫権と結んで裏切る様子を見せてはまたすぐに魏に恭順するなど、明らかに叛意のある動きを見せていました。

 

 

景初元年(237)、魏から忠誠を疑われた公孫淵がいよいよ反逆。異民族の援軍を受けて差し向けられた討伐軍を追い返し、燕王を自称して独立勢力となってしまいました。

 

 

司馬懿諸葛亮死後も蜀軍の侵攻を撃退するなど対蜀戦線で力を振るっていましたが、公孫淵が調子づいてしまうのを危惧した魏によって中央に召喚。北部戦線に転進し、公孫淵との決戦に臨むことになりました。

 

この時の公孫淵軍は異民族の支援を受け、すでに数万という大軍に膨れ上がっていましたが……司馬懿には戦う前から勝利の道は見えていました。

 

 

「公孫淵がこちらの動きを見て逃げたのならばそれがもっとも厄介。天嶮の地に拠って防戦し、我々遠征軍の疲労を待つのが次善の策。領土に固執して城を守るだけならば……もはや勝ちは見えたでしょう。

 

討伐にかける時間は行き帰りにそれぞれ百日、攻撃に百日、あと六十日を休息の時間にあてるとし、一年あれば十分可能です」

 

 

と。これは晋書にある記述ですが……敵の取り得る策とどれだけ時間がかかるかを曹叡に訊かれ、司馬懿はこう答えた問われています。

 

 

 

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神の軍略

 

 

 

景初2年(238)早春、司馬懿は公孫淵を打ち破るべく数万の兵を率いて出立。そして6月に遼東へと入り、砦に長大な塹壕を掘って防戦体制を整えていた公孫淵と対峙しました。

 

公孫淵は手始めに迎撃隊を司馬懿と対峙させますが、司馬懿は将軍の胡遵(コジュン)をこれに対峙させ撃退します。そして邪魔が入らなくなったところで、司馬懿は塹壕に穴をあけてからいきなり一時撤退。面喰う敵主力をよそ眼に準備万端の敵地をやりすごし、一気に敵の本拠地である襄平(ジョウヘイ)の城へと向かって行ったのです。

 

 

司馬懿のこの動きに慌てた公孫淵軍は襄平に撤退を開始。本拠地へ行かせるとまずいとばかりに必死で司馬懿を追撃し、そのためにせっかく万全に固めた防備を捨てる羽目になってしまったのです。

 

 

 

勝ち筋であった堅固な砦から引き剥がされて戦う公孫淵軍を打ち破ることは、司馬懿にとって造作もない話でした。司馬懿は勝ちパターンを崩された公孫淵軍と一戦を交えて大いに撃破。襄平まで撤退させ、そのまま城を包囲するのに成功します。

 

こうして包囲網を完成させた司馬懿でしたが、なんとここで、遠征軍の身でありながら持久戦という滅茶苦茶な作戦を執り行います。しかもこの時、事態を察知した孫権軍が、海路から公孫淵への援軍を派遣したとの知らせがある中での行動なのだから驚きです。

 

 

が、この司馬懿の一見愚策に見える作戦は的中。公孫淵軍は食糧難に陥り、人肉を食す者まで現れたと言われています。

 

というのも、公孫淵軍はその大半が異民族からの支援によって送られた増援部隊。元々の戦力は多くはなく、蓄えられていた食料も純粋戦力相応のものでしかなかったのです。

 

さらには折悪く長雨が降って難儀しながらも、それを逆用して輸送船を出し、櫓を作って心理攻撃まで行ったというのだから恐ろしい人です。

 

 

かくして公孫淵はこの状況に耐えかね、数百騎とともに底力を発揮して包囲を突破し逃亡。しかし司馬懿の元から逃げきれるはずもなく、あっさり捕捉されてそのまま斬り殺されてしまったのです。

 

こうして遼東を治めてきた公孫一族は潰え、魏の北部はひとまずの安泰を取り戻したのです。

 

 

『晋書』宣帝紀では、公孫淵は脱出の前に司馬懿に人質を贈る約束をして和睦を願い出ています。

 

が、司馬懿はそんなものを赦すはずもなく、あっさりと不受理。この時、このように言い放ったとされています。

 

「軍事には五つの原則がある。戦うことができれば戦う。戦うことができなければ守る。それも無理なら逃げる。あと二つは降伏するか死ぬかの二択だ。貴様は降伏しなかったのだから、今更人質など必要ない」

 

 

さらには襄平降伏後に入城し、元々の住民と新しく入ってきた住民を選別。元々の住民の中から15歳以上の男子を皆殺しにし、反逆の芽を根こそぎ摘み取ったという恐ろしいエピソードもあります。

 

 

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司馬懿と曹爽

 

 

 

景初3年(239)、曹叡が若くして崩御。この時司馬懿は、曹真の子である曹爽(ソウソウ)と共に、まだ幼い跡取りを支えるよう頼まれています。

 

 

かくして、幼帝・曹芳(ソウホウ)を掲げて魏は新体制に。曹爽は司馬懿を慕って軍事を一任、自身は内政を取り仕切るような形で一応の折り合いはしっかりと付いていました。

 

司馬懿も自身は名誉職に過ぎない大傅(タイフ:帝を導く指導役)に転任し、政治権限を放棄。魏の臣下層は内の曹爽、外の司馬懿といった二頭体制でうまく整っていたのです。

 

 

司馬懿も安心して外敵の撃退に専念。蜀だけでなく呉の朱然(シュゼン)や諸葛恪(ショカツカク)といった大物相手に国土を一切奪わせず、まだ若い曹爽を軍官としてバックアップしていました。

 

 

……が、司馬懿と曹爽の間には、絶望的なまでに名声、そして実績の差がありました。史書には何も書かれていませんが、やはりその辺りの差から周囲からの冷たい目線や、司馬懿を嫌う者からの讒言などもあったのではないでしょうか?

 

 

そんな劣等感や環境に押しつぶされてか元々しょーもない人間だったのか……正始5年(244年)、曹爽は司馬懿の反対も聞かず蜀への大遠征を執行。惨敗して成果も上がらず撤退という大失態を演じてしまったのです。

 

 

この時から、2人の信頼関係は崩壊。曹爽の元では司馬懿を疎む輩がどんどん出世して側近に取り立てられ、司馬懿は中央政権下からいよいよ孤立し始めます。曹爽一派への進言は無視され、仕事は握りつぶされてほとんど回されず……

 

そんな状況が続いたため、いよいよ司馬懿も自身の身の危険すら感じるようになり、病気と称して引退。耄碌しきった重病人を装って、なんとか一族没落の憂き目から逃れることで精一杯になりつつあったのです。

 

 

 

 

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簒奪者の道

 

 

 

曹爽の狙い通りか不本意に流されるままか……曹爽一派の専横によって、その政敵に定められた司馬一族の立場は、いよいよ危うくなりつつありました。

 

この当時の政治闘争は、まさに権力や謀略を武器として振るう殺し合い。負けた側の派閥は国を無駄に荒らした国賊として、子や孫、兄弟、親族に至るまで処刑される可能性すらありました。

 

 

すでに中央官僚から突き放されて孤立した司馬一族も、密かにそんな根絶の危機に立たされているといってもよかったのです。

 

そこで司馬懿は、もはや事態を止められないと見て、いよいよ最後の軍事行動に出たのです。

 

 

正始10年(249)1月、曹爽一派が帝と共に墓参りに出かけたのを見計らい、司馬懿はいよいよ挙兵。曹叡のもと妃である郭太后を始め多くの協力者もあって、司馬懿はあっさりと洛陽の宮殿や曹爽らの館を制圧することに成功します。

 

進退窮まった曹爽は自身を譴責する上奏文を握りつぶし、一応は抗戦の構えを見せます。が、曹爽はそれでも司馬懿を一時期慕っていた身。司馬懿の強さがよくわかっており、とても勝てる相手でないと痛感していたのです。

 

結果、参謀の桓範(カンハン)が強硬姿勢を見せるよう説くのを制し、司馬懿に云われるがまま降伏。こうして曹爽は全権力を失い、その後親族郎党処刑。

 

 

司馬懿は政敵・曹爽を排除して自己の家の安全を確立しますが……曹爽を斬ったという事は政治でも前線に立つというのも同義。自己防衛という理由があれど、司馬懿のしていることは簒奪ための第一歩に等しかったのです。。

 

 

 

嘉平3年(251)王凌(オウリョウ)は簒奪者となった司馬懿に対し謀略を張り巡らせて叛逆します。

 

司馬懿はその策略をことごとく見破って王凌を服毒自殺に追い込み、さらには王凌がクーデターの旗印に据えた曹彪(ソウヒョウ)も再発防止のために弑殺。皇族を殺すという大逆を働き、司馬懿は反逆者の路線に完全に乗ってしまいました。

 

 

司馬懿は最期に悪逆の臣として一族を進ませる羽目になり、一体何を思ったのかは定かではありませんが……王凌の反乱がおきたその年のうちに死去。

 

 

後は子の司馬師(シバシ)、司馬昭(シバショウ)と代が変わるたびに司馬一族の権力、そしてそれに反発する声が大きくなり、孫の司馬炎(シバエン)はとうとう魏から成り代わり、晋王朝を設立するというり理想形ともいえる簒奪を成し遂げたのです。

 

こうして国家のトップに上り詰めた司馬一族。それをみた司馬懿は、いったい何を思うのか……

続きを読む≫ 2018/07/31 21:10:31

 

 

 

 

魏の重鎮・司馬仲達

 

 

 

当人が何を思ったのかは定かではありませんが……曹操の死は、司馬懿にさらなる栄達への道を開かせました。

 

曹操の跡取りは、マブダチと言って差し支えない曹丕曹丕は信頼しきった人にはとことん好意的に接する人物であり、彼とのコネと傑出した才幹を持ち合わせた司馬懿が高位に上がるのは、至極当然でした。

 

曹丕即位と共に、司馬懿は宰相職である丞相お付きの上級役人に転向。さらに漢王朝が終わりを告げて曹丕が皇帝に即位すると、司馬懿もそれに合わせて尚書(ショウショ:恐らく公的文書管理を仕事にする部署の長官である尚書令)に昇進。

 

その後もちょくちょくと仕事を変えてはその都度大身になっていき、曹丕が五への威嚇行為を働く際の留守番を頼まれるまでに。

 

 

ついには曹丕から撫軍大将軍(ブグンダイショウグン:武官トップである大将軍の次の次くらいに高位の将軍)と処罰権である仮節、そして5千の兵を授与され、宮中でも給事中(宮中における接待顧問役)と録尚書事(ロクショウショジ:尚書令よりもう一つ上の超権力者)の位が司馬懿に与えられます。

 

さすがに面喰った司馬懿は一度は拒否しますが、曹丕の「このクソ忙しい憂鬱な気持ちをお前と分かち合いたいんだよ!」という熱い気持ちに押され、ついには国内トップクラスの大物にまで上り詰めたのでした。

 

 

「俺が呉蜀どちらかに目を向けてる間、ガラ空きのもう片方の攻撃はお前がどうにかしてくれ」とは曹丕の勅使による言葉。彼からの司馬懿に対する信認は、それほどまでに大きかったのですね。

 

 

……が、司馬懿という人物の運は微妙の一言。黄初7年(226)に曹丕は突如として倒れ、司馬懿、陳羣、そして曹真(ソウシン)の3人に後のことを託して崩御してしまったのです。

 

 

まだうら若い曹叡(ソウエイ)が次の帝に立ち、急な世代交代による動揺が呉蜀の侵攻という国難を招いてしまうわけですが……なんの皮肉か、司馬懿の才能はわざわいの中で開花していくこととなるのです。

 

 

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神速の知将

 

 

 

曹丕の崩御でまず真っ先に困り果てたのは、新城(シンジョウ)を守る孟達(モウタツ)でした。

 

彼は蜀からの裏切り者という立場上から非常に肩身が狭く、曹丕からの厚遇と期待こそが魏におけるほぼ唯一の拠り所でした。曹丕、夏侯尚(カコウショウ)ら孟達の後ろ盾となった人物が偶然にも同時期に亡くなってしまったため、孟達はたちまち孤立。

 

 

しかも運悪く諸葛亮に目をつけられ、蜀に戻ってくるよう裏切りの催促を受けていたのです。しかも孟達が返答を決めかねていた所、怒った諸葛亮はあろうことか魏に孟達の裏切りを魏に喧伝。このせいでいよいよ魏に居られなくなった孟達は、ついに裏切りを決め込んで軍備を整え始めたのです。

 

 

さて、孟達が裏切るという報告は、当時荊州方面の軍事責任者として宛(エン)にいた司馬懿にも届けられます。

 

……が、司馬懿が今から動いたところで、まず朝廷に事態の報告を入れてから新城に到達するまで1ヶ月ほどの時間を要します。これでは、孟達は要害に囲まれた新城を中心に守りを固められてしまうでしょう。

 

そこで司馬懿は、まず孟達に対して書状を投函します。

 

「我ら魏一同、将軍が裏切るなどとは考えておりません。それに将軍は、敵の重鎮である関羽を実質的に殺したような身。それでは、蜀にこそ居場所がないのではありませんか?」

 

これが温情としての言葉ならば孟達大歓喜なのですが……司馬懿は損得勘定で動く輩を生かしておくほど甘い男ではありません。孟達がこの言葉を受けて安心している隙に、密かに軍事行動を開始したのです。

 

 

守りを固められては勝ち目の薄い新城を落とす策はただ一つ。敵の守りが薄いうちに奇襲を仕掛ける速戦のみ。

 

司馬懿は朝廷への報告を後回しにして、すぐに軍をまとめると昼夜兼行の強行作戦を実施し、半月はかかると言われる道のりをわずか8日で踏破してしまいました。

 

ろくに軍備を整え切れていない孟達は慌てて応戦しますが……時すでに遅し。呉蜀連合からの援軍も司馬懿によって遮断され、孟達は孤立無援の中で戦死。その首は洛陽で燃やされたのでした。

 

 

諸葛亮司馬懿。2人の熾烈な争いの緒戦は、まず司馬懿の圧勝で終わったのです。

 

 

ちなみにこの戦いの前、曹丕が亡くなって少ししたあたりで孫権が荊州に侵攻。司馬懿は防衛軍の1指揮官として参加し、孫権を見事に打ち破ってます。無敵かこの人。

 

 

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司馬懿、苦戦

 

 

 

圧倒的スピードで諸葛亮の謀略をご破算まで追い込んだ司馬懿でしたが……かの天才軍師が対策を考えないわけがありません。

 

魏、特に司馬懿の得意先述はというと、軽装の騎馬隊を率いた奇襲撹乱先鋒。敵陣の内外を小うるさく飛び回ってグダグダにしてしまうという戦法ですね。

 

 

南中討伐を終えて軍備を整えた諸葛亮は、すでにこの戦術への極大のカウンターを用意していたのです。

 

それは、最新鋭である鉄装備や自ら劇的に改良した連弩、そして兵の徹底統率による正面突破。隙をなくして撹乱の被害を最小限にとどめ、装備が貧弱な奇襲部隊を超火力で叩き潰そうというものですね。

 

 

太和5年(231)にそれまで蜀軍を封殺していた曹真が死亡。これにより司馬懿諸葛亮との直接対決に駆り出されますが……このアンチ魏特化装備と諸葛亮の鬼才と称される才覚が、司馬懿を大いに苦しめるのです。

 

 

 

同年、司馬懿諸葛亮の北伐軍に包囲された祁山(キザン)を救うため、軍を率いて出陣。しかし、諸葛亮はこの時西方の異民族までも動かしており司馬懿軍は全力で諸葛亮とぶつかることができずにいました。

 

とはいえ、蜀軍の懐事情は悲惨の一言。諸葛亮は木牛(モクギュウ)という輸送兵器を開発して輸送をスムーズにしたものの、それでももとが貧乏な上、悪路続きの長い補給路を完全にカバーできているとは言い切れませんでした。

 

そのため、蜀軍は司馬懿の到着前に近辺の畑を略奪。麦を刈り取って自軍の兵糧事情の足しにしていました。

 

 

司馬懿はこれまでの北伐の情報もあって、蜀軍の懐事情を看破。援軍に来たものの砦に引きこもるという、実に効率的なんだか情けないんだかよくわからない戦法で判定勝ちを狙いましたが……それを許さないのは血気に逸る誇り高き将軍たち。

 

「こっちの方が数は多いのに……司馬懿どのは諸葛亮を虎か何かと勘違いしている臆病者ですな!」

 

大ベテランである張郃(チョウコウ)を始め諸将からの激しい突き上げが、司馬懿に判定勝ちという防衛戦術を赦しませんでした。

 

 

結果、司馬懿は将軍らに無理やり背中を押される形で諸葛亮と交戦。しかしすでにアンチ魏特化装備を作っていた蜀軍に正面から挑んでも勝てるはずもなく、見るも無残な完敗を喫し、これ以上被害が大きくならないよう司馬懿は再び防衛戦術に徹することにしました。

 

結局、下手なことをするよりも守っていた方が正解だったのでしょう。やがて蜀軍は撤退しますが……周囲から飛んでくるヤジのせいで頭に血が上っていたのか、司馬懿は彼らしからぬ失態を演じてしまいます。

 

 

なんと、余裕を持って見事な撤退を繰り広げる蜀軍に対し、追撃隊として張郃らを派遣。待ってましたとばかりに蜀軍の伏兵にやられ、無理な追撃のせいで張郃を戦死させてしまったのです。

 

この失態は張郃を疎んだ司馬懿の謀略という説もありますが……まあ散々突き上げを食らったのならば可能性がないとは言えない……かも。

 

 

 

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五丈原の戦い

 

 

 

青龍2年(234)、諸葛亮は国家を根こそぎ動員、10万もの大軍を率いて重要拠点の長安になりふり構わず直進し、乾坤一擲の大勝負に出ました。

 

司馬懿もこの大胆な行軍に驚きつつも出撃しますが……先の戦いで諸葛亮の戦略を学んだ司馬懿の胸中には、ある仮説が立っていたのです。。

 

 

諸葛亮は慎重すぎるあまり、危険を冒して博打に出ることができないのではないか?」

 

 

そう考えた司馬懿は、なんと蜀軍の陣を目の前にして堂々と渡河を開始。長安付近を流れる渭水(イスイ)を挟んで南側は豊かな穀倉地帯になっており、そこを蜀軍に占領されると弱点の食糧問題もあっさり解決されてしまうという懸念もあり、どのみち取られたくないからこその強行渡河でもあったと言われています。

 

ともあれ、司馬懿の狙いは的中。司馬懿が河を渡るのを見ても、諸葛亮はリスクを嫌って攻撃に出ず、そのまま魏軍が川を背に陣を作るまでを黙って見届けたのです。

 

 

敵前渡河、防衛側が川を背に背水の陣を敷いて退路を無くす。この2つの禁忌を破ってなお攻めてこない諸葛亮を見て、司馬懿の仮説はいよいよ確信に変わります。

 

「奴らが全滅覚悟でがむしゃらに長安を目指すと、我々は成す術も無く敗北する。が、もし陣を構えるに好立地の五丈原(ゴジョウゲン)に本陣を置くようなら……もはや我らの勝ちは揺るがん」

 

 

指揮下の郭淮(カクワイ)を川の北側に戻らせて五丈原からの北進ルートを封鎖すると、諸葛亮にがむしゃら東進ルートと五丈原布陣ルートの2つの選択肢を用意します。

 

そして諸葛亮が選んだのは……五丈原への布陣。司馬懿の見立て通り、諸葛亮はリスクを犯せる性格ではなかったのです。

 

 

「我が掌中に落ちたな、諸葛亮!」

 

 

満を持して勝ちを確信した司馬懿は、勝利を確信して蜀軍の最も嫌う持久戦を再び展開。こうなってしまえば蜀軍は詰みの状態。兵に開墾させて兵糧を自給自足させたり女物の着物を送り込んで司馬懿の女々しさを詰ったりもしてみますが、司馬懿は動く気配も無し。戦局は、完全に司馬懿に傾いたと言えるでしょう。

 

 

ちなみに『晋書』で司馬懿について記述されている宣帝紀での話。女物の着物が届けられたとき、司馬懿は頭にきて決戦に臨もうとしたものの、朝廷から派遣された辛毗(シンピ)という強面のじーさんに強引に押しとどめられたとかなんとか。

 

また司馬懿は蜀から来た挑発の使者に対し、逆に同情。そして諸葛亮の食事も睡眠も最低限の生活を聞き出して「近々死ぬな」なんて予想も立てていますが……この辺は半信半疑といったところか。

 

 

ともあれ、魏軍に封殺されて何もできないまま時間だけが過ぎていき、頼みの呉軍もあっさり東の戦線から撤退。希望を完全に失った蜀軍は、100日余りの膠着様態の末に撤退を決定。諸葛亮が無茶な生活を送った末に過労死したためのことでした。

 

司馬懿は蜀軍追撃を全軍に命じますが、敵が抗戦の構えを見せると即時に追撃を取りやめて撤退。これは後に尾びれや背びれ、胸びれまで付いた話となり、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という言葉の語源になったのです。

 

 

何にせよ、諸葛亮相手にほぼ完璧に近い勝利を得た司馬懿。彼は蜀軍が撤廃した陣地を見て回り、思わずこう呟いたとか。

 

「天下の鬼才なり」

 

天才は天才を知るという事か。諸葛亮という人物の飛び抜けた才覚は、司馬懿に大きな衝撃を与えたようです。

続きを読む≫ 2018/07/28 14:41:28

 

 

 

 

超大物名士んとこの天才八兄弟

 

 

 

司馬懿の実家は昔の国家の帝王の血とも言われ、先祖はなんと神様にまで昇格された人物とまでされています。

 

つまり、司馬一族は名家中の名家。漢の代にもその名声は途絶えることなく、血統という意味では恐ろしく優れたところのおぼっちゃまだったのです。

 

 

しかも司馬懿の兄弟らは皆血筋に負けない超優秀な天才児。兄の司馬朗(シバロウ)から数えて「司馬の八達」などとあだ名され、飛び抜けた知力を早くから世間に評価されていたのです。

 

その中でも、司馬懿の評価は別格。同郷出身で南陽(ナンヨウ)太守を務めていた楊俊(ヨウシュン)は「常人の器ではない」と褒め称え、魏書に伝を持つ崔琰(サイエン)も彼の兄である司馬朗に「君の弟は聡明すぎる。君以上だ」と太鼓判を押したとか。

 

 

 

そんな血筋と知力を併せ持つ司馬懿を天下が放っておくはずもなく、建安6年(201)には上計掾(ジョウケイエン:郡の記録係)として地元採用されました。……が、小役人という蚊帳の外ロードの脇から「めんどくせ」と適当に生きる司馬懿を狙う影が一つ。

 

 

――曹操(ソウソウ)です。彼は自分が司空(シクウ:法務大臣)となったのを皮切りに、天才と名高い司馬懿を自分の配下に組み入れようと試みます。

 

そして使者を送って司馬懿を自分の元に招聘しますが……なんと司馬懿はこれを拒否。「中風で起き上がれないのです」と仮病を使って追い返してしまったのです。

 

 

というのも、司馬懿は古くから中国王朝の中枢部に影響する家の御曹司。当然、自分で頭を下げて仕える相手はせいぜい漢王朝くらいというのが筋だったのです。しかもその漢王朝も既に虫の息とあれば……名族としてのプライドが高い司馬懿にとって、命を懸けて仕えるような者はこの天下にいませんでした。

 

しかし、曹操は漢帝国の臣下という立ち位置ではあるものの、いまいちその行動が知れない人物。ましてや当時汚らしいとされていた宦官の出の不細工チビ男であったため、家柄的に遥か格上の司馬懿が彼に仕えるのは誇りが許さなかったのではと言われています。

 

 

……とはいえ、これに懲りないのが曹操という男。彼は司馬懿の仮病を見破ってやろうと刺客を送り込み、夜中にこっそり彼の様子を確認させたのです。

 

が、司馬懿はあくまで布団の上から動かないまま。才覚が飛び抜けた者が自分と敵対するのは危険なため、場合によっては司馬懿を暗殺することまで考えた曹操でしたが……相手が決定的証拠を見せないのならば諦めるしかなく、その場は一旦司馬懿をあきらめることにしたのでした。

 

 

 

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曹操「諦めぬぞ司馬懿!」

 

 

 

さて、こうして曹操への士官という屈辱を見事に回避した司馬懿でしたが、これしきで鬼才を諦めるような男が、伊達に乱世の奸雄などとあだ名されるわけがありません。
曹操は丞相(ジョウショウ:内閣総理大臣的な職)に就任すると、再び司馬懿の元へと使者を走らせました。しかも今度は、「断ったらひっ捕らえて連れてくぞコラ!」という職権濫用脅迫を行い、無理やり出仕させようという腹積もり。

 

 

曹操が何らかのカラクリを使って言質を取ろうとするのならばのらりくらりとかわせたかもしれませんが……ド直球の正面突破を受けては、もはや司馬懿に抗うという選択肢はありません。

 

結局司馬懿は、脅しに屈する形で曹操軍に仕官。文学掾(ブンガクエン:文書管理。やっぱり小役人)となって、とうとう中央への出仕を不本意ながら果たしてしまったのでした。

 

しかし、曹操からすれば司馬懿は信用できない男。というのも、自分のスカウトを名族のプライドから断り続けて、最後には縄にかけて引きずられるかどうするかの二択で渋々仕官を選んだような人物です。

 

 

結局任用法として思いついたのは、実子である曹丕(ソウヒ)の教育係。これならば重く用いなくても司馬懿を手元で監視することができ、なおかつ権力を与えることも無い。

 

 

しかし、曹丕はそんな曹操の深慮遠謀を気にするような慎重で常識的な人物でもなく……結果としてこの人事が、司馬懿の運命や価値観を大きく変えることになりました。

 

 

 

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司馬懿の転機

 

 

8歳年上の司馬懿を教育係につけられた曹丕は、親の慎重な策謀などどこ吹く風。馬の合う司馬懿をいつしか良き兄貴分として慕い、胸襟を開いて接するようになったのです。

 

知ってか知らずか自分の策謀を妨害する息子に頭を痛めた曹操司馬懿を牽制する動きを見せるも、そのたびに曹丕司馬懿を庇い立てして、「人を見る目がない」と曹操が嘆く日々。

 

 

しかしまあ、内面はともかく能力はある。それを見知った曹操司馬懿曹丕の教育係から外し、今度は黄門侍郎(コウモンジロウ:皇帝の近侍職)に抜擢。そこから曹操の側近となる職を転々とし、ついには彼の主簿(シュボ:秘書官)まで上り詰め、一定の信頼を得るに至ったのでした。

 

恐らく司馬懿の方も曹操に対する評価を改め、自分の主君に値すると認めた結果でしょう。ここから司馬懿は、曹操の内外の対処に口出しする姿が見えるようになります。

 

 

 

まず司馬懿曹操の軍事行動に進言をしたのは、張魯(チョウロ)を征伐しに行った時の事。当時南の蜀の地を奪った劉備(リュウビ)は同盟者の孫権(ソンケン)と冷戦状態陥っていたのを見て、以下のように進言しています。

 

「今の劉備は、西の孫権軍との諍いに力を注いでいます。漢中を制覇した後、さらに攻め込むと劉備は一気に瓦解するでしょう」

 

しかしこの進言は、「足るを知らぬ男よな。既に領地の拡大は成功したのに、まだ先を望むのか」と微妙に刺々しく却下されてしまいました。

 

 

その後、孫権曹操に一時的な降伏を申し込んだ時にも、その調子の良さに憤慨する曹操をなだめて落ち着かせています。

 

 

 

建安24年(219)に、関羽(カンウ)が北上し首都周辺にもその動揺が広がった時のこと。曹操関羽が万一防衛線を破れば首都近郊にも攻撃の手を伸ばせるのを懸念し、北の鄴(ギョウ)へ遷都しようと思ったときも、参謀の蒋済(ショウサイ)と共に反対。

 

「まだ戦って敗北したというわけでもないのに遷都しては、実質的に敗北を認めたようなもの。これでは民衆も動揺して逆に災いを招きますぞ。それよりも、劉備との冷戦状態が続く孫権を動かすのです。劉備が大きくなるのは彼としても不愉快でしょうから、きっと背後から関羽を攻撃するように動きます」

 

 

曹操はこの意見に従う形で遷都を取りやめ、結局関羽は防衛線を突破できずに撤退。さらには孫権から不意打ちを受けて軍は壊滅し、そのまま殺されてしまい当面の危機は去ったのでした。

 

 

 

 

曹丕の側近

 

 

 

話は前後しますが……魏が王国として成立した時、司馬懿はその皇太子である司馬懿の側近に復帰。太子中庶子(タイシチュウショシ)という近侍職として曹丕に仕え、陳羣(チングン)、呉質(ゴシツ)、朱鑠(シュシャク)といった側近衆と共に竹馬の四友と称され、特に曹丕の信任厚い人物の一人として彼のために働いています

 

この時司馬懿は、陳羣と共に曹丕の策謀を担当。魏王国のためにずば抜けた妙策をしばしば進言したとか。

 

 

 

曹操が亡くなった際も司馬懿は周囲の動揺を感じ取り、いち早く葬式を執り行って魏王国の首都である鄴に棺を持ち帰って場を引き締め……いよいよ時代は、自身と仲の良い曹丕の代へ。

 

そしていよいよ、司馬懿も本格的に頭角を現し、その鬼才を遺憾無く発揮するようになるのです。

続きを読む≫ 2018/07/27 23:42:27
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