生没年:中平4年(187)?~建安24年(219)?
所属:呉
生まれ:揚州呉郡呉県
陸績(リクセキ)、字は公紀(コウキ)。無双シリーズをはじめ多くのメディアで陸遜(リクソン)が「江東陸氏」と自称していますが、陸績はそんな江東陸氏の宗家にあたる家系の人ですね。
主な逸話は、みかんと予言。今回はそんな陸績の伝を追ってみましょう。
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宿敵の元へ
陸績の父親は陸康(リクコウ)といって呉の四姓と言われる超名門の長でしたが、興平2年(195)、袁術(エンジュツ)配下として活動していた孫策(ソンサク)によって攻撃を受けて滅ぼされ、そのあおりで病没してしまいます。
陸績は父の死の直前、彼の手配によって故郷に逃げ帰っており九死に一生を得ましたが、孫策らの一門とは怨敵関係と言っても差し支えない状態になっていたのです。
後に孫策は、袁術の元より離反。陸一門の長となっていた陸績は、ついに怨敵の間柄を水に流して孫策に仕える一大決心をすることになりました。
賓客として迎えられた陸績は「まだ若いから」という理由で孫策陣営幕僚たちの末席に置かれましたが、この時、武力統治による強硬策を唱えた孫策に対し、陸績は真っ向から反論します。
「昔、宰相として諸侯をまとめた管仲は、その統治に軍を用いませんでした。また、孔子も『遠方の者が屈さぬ時には、自ら文徳を修めてこちらへ招き寄せるべきだ』とも言っております。あなたの意見はひたすら武力鎮圧を考えるばかりで、道徳を無視しています」
この意見の裏にあるのは、孫策の武力頼みな生活で壊滅した陸一門の恨みか、はたまた悲劇を味わったがゆえの厭戦論か……。
いずれにせよ、末席の若造にもかかわらずハッキリ意見を言う姿は孫策の幕僚陣の目には「非凡だ」と映ったらしく、彼らはみな陸績に心を打たれたという旨が史書に書かれていますね。
何にしても、陸績はあくまで孫一門に心から屈したわけではない証左でしょうか。しかし、彼の強固な姿勢はすっかりパワーバランスが変わってしまった東呉の雰囲気とは馴染まず、やがて陸績の身に大きな災厄が訪れることになるのです。
ほろびのよげん
やがて孫策が死亡して弟の孫権(ソンケン)が立つと、陸績も属官として彼に仕える事になりました。
陸績はその博学多才さから、非常に大きな信望を獲得。親子ほども年が違う虞翻(グホン)や年代も出身地も違う龐統(ホウトウ)など才人たちとも密接に関わり、その名声はまさに天を突く勢いでした。
しかし、江東陸氏は並外れた名門。非常に意識が高い人が多く、言論にも容赦や遠慮がないものばかりで、言ってしまえば意識が高すぎる人物が多いのが特徴。
陸績もそんな陸氏の悪癖を持ち合わせていたようで、また「少し前まで隆盛の極みにいた没落貴族」という立場も手伝ってか、次第に周囲から嫌厭されるようになっていったのです。
やがて陸績は中央からとうとう締め出され、はるか遠方である交州(コウシュウ)の鬱林(ウツリン)郡に太守として赴任。偏将軍(ヘンショウグン)の位と2千の兵が与えられはしたものの、事実上辺境に左遷されたと言って間違いない待遇でした。
学者としての出世ルートを志望していた陸績にとって、幅を利かせるのも自分の論文著書を発表するのも難しい辺境勤務は、事実上自身の夢が完全に潰えたも同然。ましてや足に障害を抱えていたために軍務には不向きであり、半分死んだも同然の扱いだったのです。
陸績はそんな環境下でもあくまで著作を続行、自分のやりたいことを貫き通しましたが、もはや本人の目から見ても奇跡が起こる可能性などどこにもありませんでした。
とうとう精魂尽き果てて絶望した陸績は、いつ自分が死んでもいいように自分の辞を生きているうちに著書。その内容は、以下のようなものだったとされています。
漢王朝の志士である陸績は、幼少から『詩経』『書経』に通じ、長じては『礼』と『易』を楽しんだ。
主命によって南方の軍事に参加したが、病を得てとうとう長生きできなかったのだ。
ああ、なんと悲しい事か! 生涯は己の願いと大きくかけ離れてしまった!
また同時に、「あと60年もすれば天下は統一される。それを見られないのは残念だ」とも述べたと言われています。
結局、陸績はこの予言通り33歳の若さで死去。晋による天下の統一も、その数十年後に見事果たされたのでした。
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孫一門に最後まで逆らった男?
陸績伝の記述によると、陸績は雄々しい風貌を持ち、博学多識で知らないことがなかったとか。当時では希少な計算術や暦法にも通じていたようで、とにかく学者としてはかなりレベルの高い人物だったようですね。
しかしまあ、自分で自分を祭るための言葉を書くとは……この時点で相当精神的に参っていたのがわかります。
さて、そんな陸績が遺した辞のひとつに、「漢王朝の志士」……原文では有漢志士という言葉があります。
まあ陸績が死んだときはまだ呉という国は存在せず、孫権も漢王朝の臣下でした。つまり、形式上は間違っていないし誰であっても辞にはこう刻まれるでしょう。
が、わざわざ自分自身でこんな言葉を残すあたり、もしかしたら孫策や孫権に対しては「漢王朝による江東平定のために使える駒」という意識を持っていた可能性がどうしても浮上してしまいます。
そもそも、陸氏は一度孫策によって滅ぼされており、しかも孫策の率いていた孫一門は陸氏からすると庶民に毛が生えた程度のもの。そんな一族に滅ぼされた怨恨は、もしかしたら最期まで陸績の心に残り続けたのかもしれません。
ちなみに陳寿は、陸績の評において以下のような言葉を残しています。
陸績のような人物を南方の守りなんかに配属した孫権の行いは、立派な人物を損なうやり方だったのではないか。
三国志が漢、魏と受け継がれたバトンを握っている晋の監修であり、それを考えると妄想じみた考察が止まりません。
陸績とみかんと蜂蜜
さて、最後に有名な逸話を載せて陸績伝をしめましょう。
これはまだ父親の陸康が健在で、しかも蜂蜜皇帝こと袁術とも完全に敵対しきっていなかったときのこと。
当時6歳だった陸績は、親睦(あるいは様子見)のため袁術にお目通りに向かいました。
この時に袁術は、陸績に対しておやつとしてみかんをいくつか差し出したのですが……陸績はそのみかんを3つほど懐にこっそり隠し、黙って持ち帰ろうとしたのです。
そしてとうとう退出するとき、お辞儀をした陸績の懐から、隠していたみかんが転がり落ちてしまいます。
袁術はそれを見て「陸家の若君は、みかんを懐に隠すような人物なのか」と咎めましたが、陸績はひざまずいて以下のように受け応えたのです。
「母のために、みかんを持ち帰りたかったのです」
孝行息子としての陸績の態度に袁術は感銘を受け、「彼はその辺の子供とは違うな」と感心。後にこの話は、親孝行の例のひとつとして後世に残ることになったのです。