関羽 雲長


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関羽 雲長

 

 

生没年:?~建安24年(219)

 

所属:蜀

 

生まれ:司州河東郡解県

 

 

勝手に私的能力評

 

関羽 髭 劉備 蜀 武神 関帝 美髯公 樊城の戦い 荊州 最強候補 戦犯

統率 S- 兵を率いての戦いは、間違いなく最強候補。それは間違いないが、部下の統制能力(というか名士の扱い)に疑問が残る。
武力 S 万人敵とか嘘っぽい称号だが、正史でも言及されている。ちなみに矢を額に浴びて一時後退するも、すぐに前線に復帰するとんでもない生命力の持ち主だったらしい。
知力 B- 春秋左氏伝愛読者。敵領後方で反乱を誘発する等知略はあったが、如何せんエアブレイカー振りが凄まじい。知恵はあっても大局は見えなかったのだろう。。
政治 C 部下の兵には慕われたらしいが、内政能力は不明。まあ卒はなかったのだろう。ただし外交面では無能の一言。
人望 S- 当時から有名な猛将で、そろばんを使えたから商売の神にもなった。歴史家もおおむね彼を褒め称えるばかりだが、近年では自信家ゆえの傲慢さが周囲に知られはじめ、完璧神話が壊れつつある。

 

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関羽(カンウ)、字を雲長(ウンチョウ)。美髭公の誉れ高く義理に厚い、最高級の人格者として昨今ではもてはやされている人物ですね。

 

当時から多くの実力者にその武勇を絶賛され、死後には関帝という神様にまでなった、三国志でもトップクラスの超重要人物です。

 

 

で、誇り高くも優しく、正義に燃えて誰よりも気高い人物像が定着し、ほとんどの人が手放しに絶賛する関羽なのですが……正史では意外な欠点にも目が向けられています。

 

 

 

 

 

 

 

人物・評価

 

 

三国志を編纂した陳寿は、関羽張飛を並べてこう評しています。

 

 

関羽張飛は並外れた武勇を持ち、1万の軍勢に匹敵する人物と評判だった。また、二人とも義侠の逸話も残っており、国士の気風があった。

 

しかし関羽は強情で自信過剰、張飛は横暴で弱者に情を持たなかった。

 

 

さらに、「二人とも非業の死を遂げたが、平素の性格を見るに必然の道理である」とも述べており、能力面はともかく性格に関してはかなりキツイ評価を下しています。

 

 

事実、張飛は目下には冷酷とも取れる振る舞いを見せますし、関羽は自分がナンバーワンでなければ気が済まないタイプだったのは、史書の逸話からも何となく見えてきます。

 

 

とまあ性格のダメ出しはさらに下に続けるとして……能力面に関してはまさに文句なし、武将として一級線どころかトップクラスだったのは間違いないでしょう。

 

曹操の参謀である劉曄(リュウヨウ)の伝では「蜀の名将は関羽一人」とまで言われていますし、同じく曹操参謀の程昱(テイイク)も「関羽張飛は一万の軍勢にも立ち向かえる」と称するなど、すでに武勇の面では著しく傑出していたことが伺えます。

 

 

 

 

また、剛毅な性格を表す逸話として、こんなものもあります。

 

 

ある時関羽は毒矢を受けて、それが左ひじを貫通してしまった。

 

天候が悪くなるとどうにもその傷が痛むので医者を呼んだところ、医者は切開して骨を削る必要があると回答した。

 

 

そのため関羽は医者に対してひじを伸ばして腕を差し出し、手術の間諸侯と宴会して平気な顔で酒や肉を摂取していた。

 

 

もうどこから突っ込んでいいやら。

 

他にも樊城では龐悳に額を射られたにもかかわらず次の戦いでは平気で復活しているなど、もはやモンスターレベルの生命力を発揮しています。

 

 

 

ちなみに「江表伝」には「春秋左氏伝をほとんど暗唱できるくらい愛読していた」ともあり、教養もかなり高かったのかもしれません。

 

 

 

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呉との不仲

 

 

 

さて、「一騎当千、万人の敵」と評されるほどの剛勇と勇名を持ち、義理と誇りに満ちた人格は今なお尊敬され続ける関羽ですが……その最期は上記の通り、恨みと裏切りに囲まれてのものでした。

 

 

とりわけ関羽の致命傷となり得た孫権の裏切りですが……これに関しては、実は関羽の性格にも原因があるのは否定できません。

 

 

関羽は義理堅くも剛直で謙虚になれない、言うなればジャイアン的な性格の持ち主でもありました。

 

 

そのため、嘘や方便でごまかしたり適当に引いてみせるといった虚々実々の渡り合いは苦手で、この最期も、良くも悪くも柔軟無形を体現する孫権に見事にしてやられた結果と見てよいでしょう。

 

 

 

当然関羽を殺した最大の原因は、狡猾老獪に爪を研ぎ続けた孫権でしょう。

 

 

 

が、その孫権が大義名分を得るに至ったのは、関羽の傲慢ともいえる誇り高さからきているのもまた事実です。

 

例えば、孫権との縁組の話。これは演義では、「虎の娘を孫権のような犬の息子に嫁がせるものか!」と怒鳴り散らしたとあります。まあ正史ではここまでひどくはないようですが……何にしても孫権への疑心から使者を怒鳴りつけて追い返したのは確かなようです。

 

 

そして完全に冷え切った同盟関係にトドメを刺したのは、関羽孫権領に対する略奪行為なのです。

 

 

というのも、関羽は樊城攻めでは兵糧不足に苦しんでおり、その折に孫権軍の軍需物資を略奪したとかいう話が残っています。

 

もっとも、孫権はそれ以前から関羽討伐の策を練っていたわけですが……少なくとも関羽による略奪は、孫権にしっかりとした口実を与えてしまったのは間違いありません。

 

 

 

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味方に対しても……

 

 

 

 

関羽のジャイアニズムは、一方で味方に対しても向けられています。

 

自分より劣る人間に対しては非常に優しいですが、身分の高い人間に対してはとにかく辛辣。とことんケチをつけたり、自分の方が上でなければ納得しない部分も散見されます。

 

 

例えば演義での五虎将軍だと、黄忠(コウチュウ)が同格の将軍に就くときには真っ先に黄忠を批難。「あんな老い耄れと俺が同格かよ!」と不満を隠さずに爆発させています。

 

 

他にも剛勇で知られる馬超(バチョウ)が劉備に降った時にもすかさず諸葛亮に手紙を送り、馬超の実力を確認。

 

そして諸葛亮がお世辞半分で「張飛と互角だが髭殿(関羽のこと。さり気に髭の立派さを褒めている)には及ばない」と発言すると、調子に乗って来客に見せびらかすなど、「子供か!」と突っ込みたくなる部分もチラホラ。

 

 

 

特にまずかったのが、当時力を持っていた豪族や、純粋な関羽の部下ではない劉備から派遣された将軍たちへの対応。

 

 

糜芳と士仁は関羽と特に不仲だったようで、例えば二人とも呉の領域との境目付近を守っていたのもあってか、関羽からの援軍要請を拒否。

 

後方支援に徹していたものの、ある時ボヤ程度の火災が発生。大騒ぎにはなりませんでしたが、軍器がわずかに消失するという事件があったのです。

 

 

これを聞いた関羽は、援軍を拒否された恨みか自尊心を満たす踏み台にしようと思ったのかは不明ですが、二人の怠慢と判断して激怒。「帰ったら処罰してやる」と息巻いた結果、もう何もかもが嫌になり孫権に降伏する結果となったのです。

 

 

士仁に関しては事績は不明ですが、糜芳は徐州時代からずっと劉備に付き従って、ともに流浪の日々を耐え抜いた人物。実際に内通していたという記述がある一方で「最初は戦おうとしたが、士仁がすでに裏切っていたためどうにもならずに抵抗を断念した」という記述も見られます。

 

まあどっちの記述が本当かはわかりませんが……日頃の対応次第では、最悪でも糜芳だけはある程度戦ってくれた……かもしれませんね

 

他にも名士出身で政治を劉備から任された潘濬とも揉めてた記述も残っていますし……本当、この自尊心だけはどうにも惜しい。

 

 

 

本当に有能で当代屈指の名将なだけに、傲慢さが呼び込んだ結末が惜しいと思ってなりません。

続きを読む≫ 2018/01/03 14:16:03

 

 

 

 

劉備の片腕

 

 

関羽は元々は長生(チョウセイ)という字でしたが、何らかの罪を働いたのか、突如北に出奔しました。一説には、塩の密売をしていたとか何とか……

 

 

さて、こうして最北端の幽州にまでたどり着いた関羽でしたが、ある時、付近の劉備という人物が兵を集めている話を聞き、彼の元に参陣。張飛と共に、劉備の護衛として動くことになりました。

 

 

後に劉備が平原(ヘイゲン)の相(ショウ:だいたいやることは太守と同じ。郡のトップ)になると張飛共々、非主力の別動隊を率いる別部司馬(ベツブシバ)として部隊を任されるようになりました。

 

劉備はこの時、関羽張飛の二人を兄弟分同然に扱い、寝る場所も同じというほどの寵愛ぶりで、関羽も大勢が集まる席では劉備のそばを離れず護衛するという忠勤で答える等、その有り様は理想の主従といった感じだったようです。

 

 

その後劉備は平原国相を辞めて各勢力を転々としますが、関羽はその後も劉備と苦労を共にする道を選びます。

 

 

また、劉備が一時期曹操配下となった後に徐州で背いた際には、劉備に代わり主要都市の下邳(カヒ)で太守としての事務作業を代行するなど、内政面にも造詣があった事を匂わせる記述も……

 

 

しかしこの時劉備と別行動をとっていたのが災いし、曹操による劉備討伐の際に逃げ遅れて曹操軍に取り囲まれ、そのまま曹操に降伏することとなってしまったのです。

 

 

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曹操の客将として

 

 

 

こうして一時的に曹操の配下となった関羽は、曹操からいきなり偏将軍(ヘンショウグン)の地位を与えられるなど、深い恩愛を得ていました。

 

 

建安5年(200)に曹操袁紹(エンショウ)と激突すると、曹操軍の前線拠点である白馬を攻撃していた敵将顔良(ガンリョウ)の攻撃を曹操に命じられます。

 

張遼(チョウリョウ)と共に先鋒としてこの戦いに臨んだ関羽は、すかさず敵陣に突撃。顔良のいるであろう将軍旗に狙いをつけて馬に鞭を打って全力で駆けさせ、勢いのままに顔良を討ち取ってその首を持って帰ってしまったのです。

 

正史本伝の記述によると、この時の関羽の強さは圧倒的で袁紹軍の諸将で相手になる者もおらず、そのまま白馬包囲軍は包囲を解いて撤収したとか。

 

 

この一連の活躍を聞いた曹操は大喜びし、即座に関羽の手柄を朝廷に報告。漢寿亭侯(カンジュテイコウ)に封ぜられ、曹操軍の仲での立場は安泰となりました。

 

 

曹操関羽の実力と人柄を高く評価していましたが、関羽が自分の元にとどまることはないであろうことをひそかに予見していました。

 

その真意を探るために張遼を関羽に差し向けて本心を訊いてみたりしましたが、返ってきた答えは、「曹操殿には感謝しているが、やはり劉備を裏切れない」という物。

 

 

これを聞いた曹操は感激し関羽に様々な贈り物をしますが、関羽はそれらを封印。置手紙を残し、そのまま劉備の元へと帰っていきました。

 

 

関羽出奔の知らせを聞いた側近たちは関羽討伐を献策しますが、曹操は「奴なりの忠義だ」と関羽の出奔を見逃し、追手を差し向けることはしませんでした。

 

 

 

 

 

劉備の背中を守る

 

 

 

さて、無事に劉備と合流できた関羽でしたが、今度は劉備が荊州の劉表(リュウヒョウ)を頼ることになると、それにしたがって荊州に入ります。

 

 

が、建安13年(208)に劉表が死亡すると、袁紹の勢力を打ち倒した曹操が大挙して荊州に襲来。劉備はまたしても曹操から逃れることとなってしまったのです。

 

この時、関羽は水軍を率いて先行し、劉備の退路を切り開く役目を負います。

 

 

劉備はこの後曹操軍に捕捉されて退路を断たれるという危機を迎えましたが、この時は関羽が別動隊を率いていたおかげで予定とは違ったルートを辿って逃げることができ、合流して夏口(カコウ)に逃亡。さらには赤壁の戦いで孫権軍と連合して曹操を撃退することに成功したのです。

 

 

これによって一番の天敵を退けた劉備は、孫権の不意を狙って、彼らに先んじて荊州南部を平定。

 

こうしてようやくまともな領土を得た劉備は功労者に対して官爵を与えて回り、関羽に対しても襄陽(ジョウヨウ)太守として荊州の守備に就かせるとともに盪寇将軍(トウコウショウグン)の位を授けられました。

 

さらに劉備が入蜀を果たして益州の土地を手に入れると、関羽は軍事総督として荊州を一任されます。

 

 

しかし荊州の政務取り仕切りを任された潘濬(ハンシュン)らとは折り合いが悪く、これがのちの災いを生むことになります。

 

 

 

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その最期は……

 

 

 

こうして劉備勢力の中の独立軍としての地位を確立した関羽ですが、実のところ孫権の日和見な対応や関羽自身の剛直な性格が災いし、孫権ら呉の面々とは折り合いが悪く、一時は一触即発の状態になったり、魯粛(ロシュク)にやり込められて講和で領土を一部失陥したりと、同盟の水面下ではギスギスした関係が続いていました。

 

 

そして建安22年(217)には曹操軍が孫権領に侵攻し、孫権曹操軍を撃退した後、なんと曹操と講和。孫権曹操の敵ではなくなってしまったこの事件は、おそらく関羽らにとってはよろしくない影響力を与えた事でしょう。

 

 

 

そんな一抹の不安を抱えたまま、関羽劉備から前将軍(ゼンショウグン)の位と犯罪者の殺生権を示す仮節(カセツ)を受け、樊城(ハンジョウ)に籠る曹操軍の守将・曹仁(ソウジン)を攻撃。

 

 

関羽軍のほうが多勢の上士気も高く、樊城にも食料が少ないという有利な条件も重なり、関羽の軍勢は一気に曹仁を圧倒します。

 

さらに天運は関羽に味方したか、曹操が派遣した于禁(ウキン)率いる援軍部隊が偶然の大洪水により全軍が水没し機能を停止。関羽はこれ好機とばかりに于禁軍へも攻撃を仕掛け、于禁らを降伏させて、さらに龐悳(ホウトク)を斬首する大戦果を挙げました。

 

 

もはや止められるものなどいないとばかりに意気高揚する関羽軍ですが……ここで驚愕の知らせが舞い込んできます。

 

 

孫権軍が曹操の要請を受け、荊州に侵攻。

 

 

 

元々不仲で関羽討伐の機会をうかがっていた孫権でしたが、とうとうこのタイミングで牙を剥いたのです。

 

しかもこの時、関羽は「前線指揮官呂蒙(リョモウ)が病気のため本国に帰還し、代わりに来た陸遜(リクソン)は惰弱で思い切ったことができる人物ではない」という情報を得、ちょうど対孫権の守りを極限まで弱めていた段階だったのです。

 

 

こうして士気を大きく削がれた関羽軍はには曹仁救援に来た徐晃(ジョコウ)に打ち破られ、南へと敗走する事になってしまいました。

 

 

その後は主要都市である江陵に籠って戦おうと考えた関羽ですが、付近まで来てさらに驚愕の事態が目に飛び込んできたのです。

 

 

関羽との仲が最悪だった味方の糜芳(ビホウ)と士仁(シジン)はすでに降伏し、江陵は陥落。しかも関羽が到着したころには妻子まで捕らえられていたのです。

 

 

この最悪な状況を見せつけられた関羽軍は四散し、思い思いに逃亡。関羽はなんとしても逃げようと試みましたが、孫権軍の潘璋(ハンショウ)の待ち伏せを受け、捕縛。息子の関平(カンペイ)ともどもその場で斬り殺され、その首は曹操の元に送られました。

 

 

曹操関羽を丁重に、諸侯として弔ったとか。

 

 

 

 

 

 

続きを読む≫ 2017/12/14 13:27:14
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