人物・評価
三国志を編纂した陳寿は、関羽と張飛を並べてこう評しています。
さらに、「二人とも非業の死を遂げたが、平素の性格を見るに必然の道理である」とも述べており、能力面はともかく性格に関してはかなりキツイ評価を下しています。
事実、張飛は目下には冷酷とも取れる振る舞いを見せますし、関羽は自分がナンバーワンでなければ気が済まないタイプだったのは、史書の逸話からも何となく見えてきます。
とまあ性格のダメ出しはさらに下に続けるとして……能力面に関してはまさに文句なし、武将として一級線どころかトップクラスだったのは間違いないでしょう。
曹操の参謀である劉曄(リュウヨウ)の伝では「蜀の名将は関羽一人」とまで言われていますし、同じく曹操参謀の程昱(テイイク)も「関羽と張飛は一万の軍勢にも立ち向かえる」と称するなど、すでに武勇の面では著しく傑出していたことが伺えます。
また、剛毅な性格を表す逸話として、こんなものもあります。
ある時関羽は毒矢を受けて、それが左ひじを貫通してしまった。
天候が悪くなるとどうにもその傷が痛むので医者を呼んだところ、医者は切開して骨を削る必要があると回答した。
そのため関羽は医者に対してひじを伸ばして腕を差し出し、手術の間諸侯と宴会して平気な顔で酒や肉を摂取していた。
もうどこから突っ込んでいいやら。
他にも樊城では龐悳に額を射られたにもかかわらず次の戦いでは平気で復活しているなど、もはやモンスターレベルの生命力を発揮しています。
ちなみに「江表伝」には「春秋左氏伝をほとんど暗唱できるくらい愛読していた」ともあり、教養もかなり高かったのかもしれません。
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呉との不仲
さて、「一騎当千、万人の敵」と評されるほどの剛勇と勇名を持ち、義理と誇りに満ちた人格は今なお尊敬され続ける関羽ですが……その最期は上記の通り、恨みと裏切りに囲まれてのものでした。
とりわけ関羽の致命傷となり得た孫権の裏切りですが……これに関しては、実は関羽の性格にも原因があるのは否定できません。
関羽は義理堅くも剛直で謙虚になれない、言うなればジャイアン的な性格の持ち主でもありました。
そのため、嘘や方便でごまかしたり適当に引いてみせるといった虚々実々の渡り合いは苦手で、この最期も、良くも悪くも柔軟無形を体現する孫権に見事にしてやられた結果と見てよいでしょう。
当然関羽を殺した最大の原因は、狡猾老獪に爪を研ぎ続けた孫権でしょう。
が、その孫権が大義名分を得るに至ったのは、関羽の傲慢ともいえる誇り高さからきているのもまた事実です。
例えば、孫権との縁組の話。これは演義では、「虎の娘を孫権のような犬の息子に嫁がせるものか!」と怒鳴り散らしたとあります。まあ正史ではここまでひどくはないようですが……何にしても孫権への疑心から使者を怒鳴りつけて追い返したのは確かなようです。
そして完全に冷え切った同盟関係にトドメを刺したのは、関羽の孫権領に対する略奪行為なのです。
というのも、関羽は樊城攻めでは兵糧不足に苦しんでおり、その折に孫権軍の軍需物資を略奪したとかいう話が残っています。
もっとも、孫権はそれ以前から関羽討伐の策を練っていたわけですが……少なくとも関羽による略奪は、孫権にしっかりとした口実を与えてしまったのは間違いありません。
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味方に対しても……
関羽のジャイアニズムは、一方で味方に対しても向けられています。
自分より劣る人間に対しては非常に優しいですが、身分の高い人間に対してはとにかく辛辣。とことんケチをつけたり、自分の方が上でなければ納得しない部分も散見されます。
例えば演義での五虎将軍だと、黄忠(コウチュウ)が同格の将軍に就くときには真っ先に黄忠を批難。「あんな老い耄れと俺が同格かよ!」と不満を隠さずに爆発させています。
他にも剛勇で知られる馬超(バチョウ)が劉備に降った時にもすかさず諸葛亮に手紙を送り、馬超の実力を確認。
そして諸葛亮がお世辞半分で「張飛と互角だが髭殿(関羽のこと。さり気に髭の立派さを褒めている)には及ばない」と発言すると、調子に乗って来客に見せびらかすなど、「子供か!」と突っ込みたくなる部分もチラホラ。
特にまずかったのが、当時力を持っていた豪族や、純粋な関羽の部下ではない劉備から派遣された将軍たちへの対応。
糜芳と士仁は関羽と特に不仲だったようで、例えば二人とも呉の領域との境目付近を守っていたのもあってか、関羽からの援軍要請を拒否。
後方支援に徹していたものの、ある時ボヤ程度の火災が発生。大騒ぎにはなりませんでしたが、軍器がわずかに消失するという事件があったのです。
これを聞いた関羽は、援軍を拒否された恨みか自尊心を満たす踏み台にしようと思ったのかは不明ですが、二人の怠慢と判断して激怒。「帰ったら処罰してやる」と息巻いた結果、もう何もかもが嫌になり孫権に降伏する結果となったのです。
士仁に関しては事績は不明ですが、糜芳は徐州時代からずっと劉備に付き従って、ともに流浪の日々を耐え抜いた人物。実際に内通していたという記述がある一方で「最初は戦おうとしたが、士仁がすでに裏切っていたためどうにもならずに抵抗を断念した」という記述も見られます。
まあどっちの記述が本当かはわかりませんが……日頃の対応次第では、最悪でも糜芳だけはある程度戦ってくれた……かもしれませんね
他にも名士出身で政治を劉備から任された潘濬とも揉めてた記述も残っていますし……本当、この自尊心だけはどうにも惜しい。
本当に有能で当代屈指の名将なだけに、傲慢さが呼び込んだ結末が惜しいと思ってなりません。