甘寧 興覇


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甘寧 興覇

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:益州巴郡臨江県

 

 

勝手に私的能力評

 

甘寧 インテリヤクザ 鈴 猛将 鉄砲玉 呉 危険人物 呂蒙

統率 A- ヤンチャの多い荒くれだが、似たような気性の荒い部下をしっかりまとめた。あと、知名度が高いとこういうところで地味に評価にブーストがかかる。
武力 S 凌操射殺、唍への真っ向突撃、濡須での決死の奇襲など、武勇に関する逸話は本文裴注共に事欠かない。
知力 B 天下二分提唱者の一人というのは、最近割と知られている。ヤクザをやめてからは本の虫になった。
政治 E 政治の逸話を聞かないのはもちろん、周囲から煙たがられた可能性すらある。そりゃいい歳こいたオッサンがアレなら……
人望 C+ 経歴も中身も荒くれのため正当な評価が受けられず苦労し、あまりに荒っぽさのあまり呂蒙すら一時期匙を投げた。が、豪快で竹を割ったような性格から部下の受けはよかった。

 

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甘寧(カンネイ)、字を興覇(コウハ)。有名な呉の猛将で、多くのメディアでも呉の国を代表する武人として登場しています。

 

実際の甘寧も荒々しいところはありましたが知勇兼備で、早くから対曹操の要地である益州(エキシュウ)に目をつけるなど戦術眼も達者でした。

 

 

しかし、この人を見ていると、荒々しさのあまり前半生で大きく失敗し、それのせいか終始白い眼で見られ続けたような印象を受ける記述も……

 

 

 

さて、こういった話はあとにして……今回はそんな甘寧の記述を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

人物評

 

 

さて、まず後世の甘寧評を見てみましょう。

 

三国志を編纂した陳寿は、甘寧についてこう評しています。

 

 

粗暴ですぐに人を殺したが、あけっぴろげで将来の見通しを立てる先見性を持っていた。

 

有能な人材を惜しみなく礼遇して勇士たちを育て上げることに注力したので、兵士はみな彼のために喜んで働いた。

 

 

さすがに独自の伝を立てられているだけあって、その能力についてはかなりのものであることが明言されています。

 

また、なにより人格面のプッシュ。その人物像は、まるで任侠ヤクザといったところ。粗暴ながらも冷静さと爽快さを兼ね備えており、その性格は配下の兵士たちを魅了して多くの人望を得ていたようです。

 

 

反面、粗暴さや血の気の多さは上層部に多くの敵を作り、流れ者の名士層が多い点や自身の荒っぽさもあって、職場内の付き合いは上手く行かなかった様子が記されている逸話も少なくありません。

 

能力はあるが、自身の人物面はあまり信用されない。そんな様子が、史書の端々に残っています。

 

 

 

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合肥の鬼神は張遼のみならず

 

 

 

建安20年(215)、孫権曹操領の合肥(ガッピ)に軍を進めましたが、張遼(チョウリョウ)をはじめとする敵軍の勇将らに出鼻をくじかれ、伝染病も流行ったのもあって、圧倒的優位にもかかわらず撤退することになってしまいました。

 

さて、その撤退の折に孫権自らが殿軍として、呂蒙や凌統(リョウトウ)、蒋欽(ショウキン)、そして甘寧らを連れて味方の撤退完了を待っていました。

 

 

この時、孫権が後方に残っていることを知った張遼が再び兵を率い、孫権軍に向けて突撃。怒涛の攻勢の前に孫権軍は散り散りになり、大混乱に陥ったのです。

 

 

そんな中、甘寧は凌統と共に自ら命を張って奮戦。自失状態で呆然としていた軍楽隊にも「この時に何故音楽を鳴らさない!」と怒鳴りつけ、その勇ましさは何物にも負けないものでした。

 

 

孫権はこの時の甘寧の働きを、殊の外喜んだのでした。

 

 

また、『呉書』には濡須で曹操軍に強襲をかけた際にも敵兵の首を数十ほど挙げ、混乱した敵軍の陣が赤々と燃え盛る頃には既に陣中に帰還。笛や太鼓を鳴らして大勝利を祝ったことが記載されています。

 

その後孫権に目通りした時に、孫権は「曹操軍には張遼がいるが、うちには甘寧がいるのだな」と大喜びで、その場で大量の褒美を下賜したのでした。

 

 

 

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甘寧と凌統

 

 

 

さて、このように武勇に非常に秀でた猛将甘寧ですが、軍中ではなかなかどうしてギスギスした人間関係を築いていたようです。

 

人間関係の軋轢として一番有名なのが、凌統との関係性。

 

 

演義はじめ創作では和解して無二の知己となった2人ですが、正史では終始剣呑な関係なまま、最後まで分かり合う事がありませんでした。

 

 

というのも、甘寧は孫権と敵対していた時に凌統の父を討ち取った張本人であり、凌統からすれば甘寧は肉親の仇。凌統は常に甘寧を恨み、対する甘寧も警戒して一切かかわりを持とうとせず……

 

そんな2人でしたが、『呉書』によればある時、呂蒙の家で宴会を開くことになり、偶然2人がその場に集まってしまったのです。

 

 

この時凌統は宴もたけなわとばかりに刀を持って剣舞を披露。すると凌統から殺気が放たれていることを知った甘寧も、自分もとばかりに双戟を手にして踊り始めたのです。

 

結局気を利かせた呂蒙が「俺の方が踊りは上手いぜ」と言い放ち、刀と盾を手にして二人の間に割って入って踊り始めたことで事なきを得ましたが……ここで呂蒙が動かなければどちらかの血を見るよ大騒ぎになっていたかもしれません。

 

 

後々この事を聞いた孫権は、甘寧の任地移動を決定。以後、甘寧は凌統と任地が被ることはありませんでした。

 

 

他にも孫権の従兄弟と喧嘩したり(向こうが先に吹っ掛けた&その後和解して仲良くなった)、些細なことで人を殺したりなど、その荒っぽい性格は結構な問題を呼び込んでいます。

 

 

 

 

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甘寧と呂蒙と料理人

 

 

 

甘寧は元々同じ荒くれだった呂蒙とは何かと馬が合ったようで、何か問題を起こしても咎められはしても大きな処罰は言い渡されなかったのですが……そんな呂蒙が甘寧に対して本気で怒りを覚えたエピソードがあります。

 

 

ある時、失敗をしてしまった料理人が甘寧の元から脱走し、呂蒙の元に逃げてきました。

 

呂蒙は「このまま追い返したら料理人は殺されるのでは……」と考え、しばらく家に匿う事に。

 

 

そんな折、甘寧は呂蒙の母に贈り物を届け、呂蒙との引見を希望。それに先立って、料理人は「絶対に殺さない」という約束の元に甘寧の元に送り返されたのです。

 

 

 

しかし甘寧は、そんな約束を真っ向から反故にしました。

 

桑の木に料理人を縛り上げ、自ら弓を引いて射殺。そして悪びれる様子も無く船に向かい、上半身裸になってゴロンと寝っ転がり、日向ぼっこを始めたのです。

 

 

この話はすぐに呂蒙の知る所となりましたが、この時、ついに呂蒙の中で何かがはじけました。

 

「俺、甘寧殺すわ」

 

太鼓をけたたましく叩いてその場に控えていた兵士を招集すると、呂蒙は一直線に甘寧のいる船に乗り込み、甘寧を攻め殺そうと攻めかかったのです。

 

一方の甘寧はそんな様子を見ても横になったまま。むしろその様子は「殺すなら殺せば?」と開き直ったかのような有り様でした。

 

と、このまま甘寧は殺されてしまうのかという今わの際で、意外な人物が呂蒙を止めにやってきたのです。

 

 

なんと、この騒動に終止符を打ったのは呂蒙の母

 

彼女は裸足のまま呂蒙の元に駆けつけると、呂蒙を一括します。

 

 

「お前はもう大身にもなったのに、こんな私事で使える将を殺す者がありますか! 仮にこの事で問責を受けなかったとしても、お前の行動は臣下としてあるまじき物なのですよ!」

 

 

もともと孝行心の厚い呂蒙は、母の懸命の叱責を受けると怒りは一気に霧散。そして自ら甘寧の元に向かうと、「母が食事に呼んでいる。さあ、急いで岸に上がれ」と笑いながら呼びかけて和解を呼びかけました。

 

この呂蒙の対応を見て甘寧は何かがはじけたのか、嗚咽を漏らしながら呂蒙に謝罪。一緒に戻ると呂蒙の母に目通りし、呂蒙母には終日頭が上がらなかったとか。

 

まるで中学生の反抗期

 

 

 

 

とにかく実力だけで高い評価を受け、人物面では問題行動の多い甘寧ですが、その幼少期にいったい何があったのか……少し気になる所です。

続きを読む≫ 2018/04/21 12:51:21

 

 

 

 

 

めっちゃヤバい前半生

 

 

 

甘寧は実は益州の出なのですが、若くして狂気侠気に満ち、若い衆を集めて無頼の放浪軍を結成して頭目として暴れ回っていました。
甘寧率いる軍団は皆武装しており、腰に鈴、背には水牛の尻尾を模した旗指物を差すという大変派手な格好をしており、すぐに話題になったのです。

 

 

軍団は皆相手が地方の長官であっても容赦せず盛大な歓迎をさせ、甘寧らの団体を拒絶あるいは無視した者からは略奪を働くという始末。

 

そして自分たちをしっかりともてなしてくれた長官に対しては、その土地の治安維持に貢献。銃犯罪が発生した時には犯人を洗い出して制裁を加えていったのです。

 

当然、服装も派手の一言に尽き、『呉書』でも「その一行の行く先々は照り映えた」と記されており……まあ、総括すれば非常に目立つヤクザみたいな生活をしていたわけですね。

 

 

 

さて、そんな生活を続ける事20年ほど。ある時、甘寧はこの無頼の軍勢による活動をピタリとやめ、突然学問に目覚めます。

 

そしてすっかり本の虫となって学問をかじると、突然荊州(ケイシュウ)に移住。そこに割拠する劉表(リュウヒョウ)の元に身を寄せたのです。

 

 

ちなみに『劉焉伝』から引く『英雄記』ではある時大きな反乱が起きており、これを鎮圧した際に荊州へ逃げた主要人物の中に甘寧の名があります。

 

つまり、学問を身に着けてから益州の当主に反乱を企てて失敗した可能性があるというわけですね。

 

 

 

さて、こうして劉表の元に向かった甘寧でしたが、結局取り立ててもらえなかったため彼の部下である黄祖(コウソ)の元へ移動。

 

しかし黄祖は甘寧をただのあぶれ者として扱ったため、結局そこから東に移り、今度は孫権(ソンケン)の元に身を寄せることにしたのでした。

 

 

 

 

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甘寧の天下二分

 

 

 

黄祖軍の中でほぼ唯一自分を買ってくれた蘇飛(ソヒ)らの協力もあって無事に孫権軍に亡命した甘寧でしたが、彼の力を見抜いた周瑜(シュウユ)や呂蒙(リョモウ)らはこぞって重宝するように進言。

 

かくして孫権は、甘寧を古参の武将らと同列に扱うことにしたのです。

 

 

 

そして孫権軍として無事に迎え入れられたある日、甘寧は孫権に対してとある戦略を進言します。

 

 

「荊州に跋扈する面々は大した連中ではありません。これでは、曹操にも難なく取られてしまうでしょう。そこで、まずは急ぎ荊州を奪取しましょう。現在黄祖がその入り口を守っていますが、耄碌しており大した脅威になりますまい。黄祖を打ち破り、軍を整えて荊州を奪えば、その西にある益州を手中に収めるための展望が見えて参ります」

 

 

つまり、天下を二分して曹操と対峙する足掛かりとして、まずは荊州を奪ってしまうようにという献策ですね。天下二分は周瑜、そして荊州を奪うという目標は魯粛(ロシュク)が唱えたものですが、甘寧はそれが今ならば現実的であると判断したのです。

 

 

これに対して控えていた張昭(チョウショウ)は「それでは呉の地では反乱が起きてしまう」と反対しますが、甘寧は「かの名宰相・蕭何(ショウカ)の任を殿より授かったお方が、反乱を心配なさるのですか。反乱を抑えられず心配するようならば個人と並びたいという考えと矛盾しますぞ」と真っ向から反論。

 

孫権は「張昭の意見を気にかけることはない。まずはそれを可能とすべく、黄祖を討つのだ」とノリノリで賛同し、黄祖討伐の軍を発足。何年と苦しめられてきた黄祖をついに討ち果たし、その軍勢を取り込むことに成功したのです。

 

 

 

 

猛将甘寧

 

 

 

その後甘寧は赤壁の戦いにも参加し、その後南郡(ナングン)をめぐる攻防戦では別動隊を率いて夷陵(イリョウ)を奪取。

 

無事に作戦行動を終えた甘寧でしたが、その後敵軍が甘寧の軍勢をはるかに上回る大軍で逆に夷陵の甘寧らを包囲してしまいます。

 

甘寧は長期間の包囲によって窮地に陥り兵たちも恐れおののく有り様でしたが、この時甘寧だけは平気な顔で談笑していたと伝えられています。

 

そして、そうこうしているうちに周瑜らの救援が到着し。敵軍を追い散らしていき、甘寧らは事なきを得たのです。

 

 

 

建安19年(214)、孫権軍は曹操軍の前線都市であった皖城(カンジョウ)の攻略に着手。甘寧は呂蒙によって升城督(ショウジョウトク:城攻めの突撃隊長)に任命され、一気呵成に皖城へと攻勢を仕掛けます。

 

そして自ら戦闘切って城壁をよじ登り、敵軍を撃破して守将の朱光(シュコウ)を生け捕りにしたのです。

 

 

この戦いでは、前線総大将として自ら太鼓をたたいていた呂蒙に次ぐ武勲を認められ、甘寧は大いに名を上げました。

 

 

 

翌年の建安20年(215)、劉備軍との間で揉めていた荊州問題が完全に爆発し、甘寧は魯粛の配下として劉備軍の関羽(カンウ)の抑えにりました。

 

魯粛の軍勢と正面切って睨み合っていた関羽は、自ら5千の兵を率いて夜半の間に渡河、そのまま魯粛らに接近する動きを見せ、その情報は魯粛らの本陣に伝わってきたのです。

 

 

この時、甘寧は僅か300人の兵しか連れていませんでしたが、魯粛に対し「あと500人預けてくだされば、関羽を止めて見せましょう」と進言。魯粛はこれを受けて千人を甘寧に預けてみせ、軍勢を与えられた甘寧もまた夜のうちに進軍し、関羽軍に圧力をかけました。

 

甘寧が迫ってきている。それを聞いた関羽は無茶を避け、浅瀬に陣を敷いたものの渡河作戦を中止(この時の関羽の陣所後は関羽瀬と呼ばれているらしい)。

 

 

甘寧はこの活躍を買われ、西陵(セイリョウ)太守に任命されることになったのです。

 

 

 

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鈴の甘寧大暴れ

 

 

 

その後、曹操が濡須(ジュシュ)に軍を進め、孫権と雌雄を決する構えを見せてきました。

 

孫権はこれに応じる形で、ほぼ全力を以って之に応じ、両軍は対峙することになったのです。

 

 

甘寧はこの時、前部督(ゼンブトク:先鋒隊長)となって敵先鋒隊の屯所を攻撃する任務を与えられ、その出撃に際して孫権から酒や米、上物の料理が贈られてきました。

 

どう見ても決死隊に対する扱い

 

 

甘寧は孫権から受け取った料理を集まった部下100人ほどに振舞ってやり、それが終わると自身が酒を2杯飲んでから、部下たちにも回していきました。

 

 

完全に決死隊

 

 

 

しかし、部下は突っ伏してそれを受取ろうとせず、無言の抵抗で決死の突撃を拒否しようとしました。

 

それに対して甘寧は刀を膝に置くと部下に怒鳴りつけます。

 

 

「将軍の俺ですら死を覚悟している! お前が命を惜しんでどうする気だ! 俺とお前、どっちが殿から大事にされているのかわかっているのか!?」

 

 

その言葉に感銘を受けたのか甘寧の顔を見てヤバいと思ったのか、渋っていた部下はすぐに姿勢を正し拝礼して酒を受け取り、兵たちにも酒と銀一粒を配って回ったのです。

 

 

そして夜半を回ったころ、静かに潜伏して敵陣への夜襲を敢行。官営らの突然の襲撃に驚いた敵軍は算を乱して大混乱に陥り、そのまま退却していったのです。

 

 

決死の突撃を生き抜いた甘寧はこの活躍を大いに気に入られ、部下の数を2千に増員。ようやくまともな軍勢を与えられ、甘寧はその力を認められたのです。

 

 

しかしすでに老齢に達していた甘寧は、その後大きな活躍を見せることなくいつしか病死。孫権はその死を惜しみましたが、甘寧の軍勢は残される事無く潘璋(ハンショウ)軍に編入。

 

息子の甘瓌(カンカイ)も罪を犯して流罪となり、配流先から復帰することなく亡くなったのでした。

 

 

 

 

続きを読む≫ 2018/04/19 21:10:19
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