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周魴 子魚

 

 

生没年:?~?

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡陽羨

 

 

 

 

周魴、字は子魚。無双シリーズでも、モブながら石亭の戦いで毎回登場。専用セリフもだいたい用意されている人物ですね。

 

当然、正史三国志でも石亭の戦いにおける記述(というか主にその時に書いた7通の長い手紙)が彼の伝のほとんどを占めますが……実際は主に山越(サンエツ)の異民族を相手に奮戦した人物の模様。

 

 

今回は、そんな周魴伝の記述を追ってみましょう。

 

 

 

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若かりし日の武勲

 

 

 

周魴は若かりし日から学問が好きで、名士や策士の素質がありました。

 

彼が世に出たきっかけは、孝廉(コウレン:儒教に基づいた推挙システム)によって推挙され、寧国(ネイコク)の県長に抜擢されたこと。

 

 

この頃から治績が高かったようで、周魴は懐安(カイアン)県のトップを経由し、今度は反乱頻発地帯の銭唐(セントウ)の相(ショウ:郡の他に国という知育区分も当時はあり、国のトップが相)に転任。

 

ここで一月余りのうちに首謀者らの首を斬り、あっという間に大規模反乱を鎮めてしまったのです。

 

 

周魴はこの功績が大いに認められ、精兵と反乱で有名な(?)丹陽(タンヨウ)西部の都尉(トイ:軍事管理職)を任されることになりました。

 

 

後に黄武に年号が変えられてしばらくすると、これまた反乱地帯である鄱陽(ハヨウ)にて、彭綺(ホウキ)なる人物大規模な反乱を実行。鄱陽の街々を武力制圧していきました。

 

周魴は、これまでの反乱鎮圧実績が買われ、この時鄱陽太守に転任してこの事件の収束に力を注ぐことになりました。

 

 

そして中央からの援軍である胡綜(コソウ)と協力し、鄱陽の反乱軍を次々と撃破。そう時間をかけないうちに彭綺をひっ捕らえ、孫権(ソンケン)の元に身柄を護送して反乱を鎮圧。

 

ここでも並外れた武勲を上げた周魴は、そのまま昭義校尉(ショウギコウイ)に昇進。呉の高級武官の一人に名を馳せるようになりました。

 

そしてこれが、後の大役へと繋がっていくのです……

 

 

 

 

 

曹休に送る7通の手紙

 

 

 

さて、この時、呉国内では敵の名将にして総大将である曹休(ソウキュウ)を嵌めるため、北方にも名が知れ渡った名将が偽りの内通を仕掛けて曹休を誘い込むという計略を実行しようとしていました。

 

そのため、呉は山越討伐のスペシャリストをあえて魏に寝返らせるため、偽投降を行う勇士を募る事にしたのです。

 

 

周魴は、「その辺の民間人などであれば策は失敗するはずです」として、なんとこの作戦に立候補。曹休に7通の熱烈なラブレターを送って彼に内通を持ち掛け、表向き必死に、曹休の軍勢に寝返るという旨を伝えました。

 

 

その伝、なんと周魴伝のほとんど。とても書ききれる量ではないので、バッサリ削って概要だけ以下に記します。

 

 

 

「私は不毛な辺境の土地を任されましたが、今まさに孫権のクソバカに理不尽な重罪をふっかけられようとしています。昔に許すと言っていながら家臣を粛清した孫権のやり口は知っていますし、今回も祖のパターンでしょう。かくなる上は、もはや天命。反乱を起こし、あなたに忠誠を誓いたく存じます。

 

私が治める鄱陽の民は、無駄にバカでバイオレンスなので、命令は無視する癖に反乱だけは意気揚々と行います。それに、今私の手紙を届けている使者たちは、皆我が家で育った者たち。信用してくださって大丈夫です。それに、今の孫権軍は軍事行動のために本拠は空っぽ。今こそ好機なのです。

 

かくなるは、味方の軍事行動と布陣をあなた方にバラします。どうか民心をまとめるためにも私を中郎将(チュウロウショウ:将軍の下の位だが校尉より上)として私を雇い、反乱の火種を一気に燃え上がらせてしまってください」

 

 

周魴はそんな手紙を曹休に送った後、続けざまに孫権に対して「今こそ策を実行すべき時。私が曹休軍に逃げ込み、そのまま奴を罠に嵌めてみせましょう」とひっそり上奏。孫権は作戦を実行するためにあえて公衆の面前で周魴を詰り、内通がバレた設定で妙なリアリティを持たせ、曹休をより強く信じ込ませることにしました。

 

 

 

 

 

石亭に曹休を破る

 

 

 

さて、一方の曹休の軍中ではこの話は半信半疑。周魴の寝返りは嘘だとする声も多数ありました。

 

しかし、周魴の計略はそれだけではありません。なんと、上記の通り、わざわざ自分の頭を丸坊主に丸めることで、孫権に謝罪。親からの授かり物で、切るのはタブーとされる髪をわざわざ剃ってしまったことで、周魴はこの寝返り作戦を成功させた流れになります。

 

その後に「いよいよ殺される」とばかりに降伏したのですから、曹休側はいよいよ信じるという意見が非常に多くを占めるようになったわけですね。

 

 

かくして、周魴は曹休の部将として彼の軍勢を誘導。呉軍の作戦行動を明かし、ガラ空きになった(という設定)の要衝・唍城(カンジョウ)を攻撃するよう献策します。

 

すっかりこの降伏を信じ切った曹休は、罠とも知らずにむざむざ死地と化した唍城を攻撃して伏兵により大敗。呉は魏の将軍らの奮戦によって曹休自身は取りのがしますが、数万の兵を討ち取る大戦果を挙げることができました。

 

 

この大勝利に気分が乗った孫権は、大宴会を催して「わざわざ親からの授かりものすら捨てたお前の偉業は、やがて書物にて大々的に語られるだろう」と周魴を賞賛。周魴を裨将軍(ヒショウグン)、関内侯(カンダイコウ)に取り立てたのです。

 

 

ちなみに以後、戦線では偽降の計が大流行し、特に魏では自軍大将が破られたこの作戦を高く評価したようですね。

 

例えば魏呉戦線では隠蕃(インハン)なる人物が名声を盾に呉の内部を引っ掻き回し、蜀でも十数年後に宰相の費禕(ヒイ)が郭循(カクジュン)なる人物に暗殺される大事件が発生しています。

 

 

とはいえ、儒教的に周魴の行いはあまり褒められたものではないようで、彼の偽降はあまり取り沙汰されません。

 

それどころか、『異同評』では「剃髪してまで功名を得ようとした、身勝手で不誠実、後の時代で評価されないのも当然の行い」と厳しく非難されています。

 

当時の儒教観念が何だかわかる評論ですね。

 

 

 

 

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その後の周魴

 

 

 

その後、周魴はやはり内部の反乱鎮圧に尽力。董嗣(トウシ)なる人物が周辺を荒らしまわっている時に、再びその名前が出てきています。

 

が、この董嗣という人物が、なかなかどうしてかなりのクセモノ。吾粲(ゴサン)、唐咨(トウシ)の二将が三千の兵を率いて鎮圧に向かっても、被害を防ぐのがやっとで、何ヶ月経ってもその根城を陥落させることができないほどの相手だったのです。

 

 

これはどうした物かと周囲がお手上げになりかけた時、周魴はついに動きます。彼は孫権に上奏すると、軍事行動を中止させて自らの一存で董嗣を消すことを約束。正攻法ではなく、刺客を放って董嗣を暗殺させたのです。

 

実のところ、反乱軍はほとんど董嗣が柱石となっていたも同然。突然大事な柱が消え去った事で軍は崩壊し、戦々恐々となった董嗣の弟は陸遜の元に出頭。かくして、周辺に平和が訪れたのです。

 

 

と、このように知力に秀でた活躍を見せた周魴でしたが、危険地帯の統治を行う事十三年、そのまま病没しました。

 

しかし、その息子の周処(シュウショ)も見事な人物で、呉に多大な功績を残したのです。

 

 

 

人物像

 

 

 

正史三国志の本文によると、周魴は信賞必罰な政治を貫き、威徳は郡全体にいきわたったとか。

 

また、陳寿の評にはこのように書かれています。

 

 

周魴は、優れた策略を用いて内患を良く処理した。

 

 

これは石亭での謀略、そして董嗣の暗殺を評価しての言葉だと思われます。

 

 

このように見事な策謀をもって反乱も魏も打ち破った周魴ですが……個人的な感想を言うと、おそらく功名心の非常に高い、野心的な人物だったのかもしれません。

 

というのも、石亭の戦いでは、わざわざ危険な役割に「その辺の小物では策が成りません」と立候補。さらに董嗣暗殺の時にはわざわざ軍事行動を中断するよう上奏しています。

 

 

当然、野心に見合う実力のある周魴でしたが……もしかしたら、そのポーカーフェイスの裏では野心を高ぶらせて功名を求める、そんなギラついた部分があったのかもしれませんね。

 

何にしても、周魴をはじめ呉の人々の野心とフロンティア精神には、つくづく圧倒されます……

 

 

 

 

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