孫策 伯符


このエントリーをはてなブックマークに追加

孫策 伯符

 

 

生没年:熹平4年(175)~建安5年(200)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡冨春

 

 

勝手に私的能力評

 

孫策 呉 小覇王 カリスマ 偉大な兄 名君 暴君 軽率

統率 S 臣下は忠義に厚く、用兵は神。群雄入り乱れる江東に途中参入し、しばしば包囲網を敷かれながらもことごとくはじき返す姿はまさに覇王。
武力 S 孫家の用兵は、自らを危険に晒すことらしい。大将のくせに斥候の太史慈と一騎打ちをしている辺り、やっぱ無鉄砲。
知力 B- 袁術を体よく使い捨て、危険勢力は機を逃さず一掃。父と同じく、武略的な意味での謀も得意だったのかもしれない。
政治 C 危険因子はとりあえず殺すマン。それによって江東を併呑し大勢力を築くまでは間違いなく良かったが、その政策の副作用で死ぬ。
人望 S 諡は長沙桓王で、帝ではない。この辺からも、孫権の足を引っ張る面々が孫策の面影を話題に出したことが何となく見えてくる。ちなみにラストエンペラー・孫晧も、孫策に似てるという理由で皇帝になれた。

スポンサーリンク

 

 

 

孫策(ソンサク)、字は伯符(ハクフ)。呉の国の武将中ではトップクラスの人気を誇る人物ですね。その勢いや、弟であり初代呉皇帝の孫権(ソンケン)をどう控えめに見てもしのぐほどです。

 

これほどの圧倒的な人気は呉という国が成立した当初からの物のようで、名士たちの間で孫策という人物が話の引き合いに出されることも……

 

 

当然、現行主君をも圧倒的にしのぐその人望は、時に呉という国の亀裂を生み、野心ある者が他者や国の足を引っ張るための材料として使われることもありましたが……それはまた別の話。

 

 

 

 

 

 

 

人柄、人物評

 

 

陳寿による三国志の本伝では、孫策の人柄について以下のように語られています。

 

 

 

容姿に秀でており、談笑を好んで、闊達で人の意見をよく聞き入れた。

 

優れた気概と実行力を備え、勇猛鋭敏な事世に並び無く、非凡な人材を取り立てて用い、その大きな抱負は中国全土を圧倒する者であった。

 

呉の国の基礎を作ったのは、紛れもなく孫策である。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

つまり、明朗快活な性格であると同時に有能な人の意見をよく聞き入れるだけの懐があり、しかも大望と覇気を備えていたと。さらには人を引き入れる強力なカリスマ性も持ち合わせており、まさに乱世に生まれるべくして生まれた英雄とでもいうべきでしょうか。

 

 

実際にやってのけた江東制覇の偉業は、並の武将にはとても短期間でできるものではなく、さらには追い払った劉繇、許貢、王朗らはそれぞれ正式な太守としての大義名分もあり、さらには劉繇や王朗に至っては独自に伝が立てられるほどの能力も備えていたわけで、決して踏み台程度に軽く捻り潰せるような相手ではなかったはずです。

 

 

それを、よもや数年と言わずにやってのけるとは……

 

 

またカリスマ性に関してもかなりのもので、彼の元に集まった武将や文官らはそのほとんどが呉の中核を担っています。

 

孫策個人に仕官した主立った人物を挙げてみると、張昭、張絋、秦松、陳端、蒋欽、周泰、陳武、凌操、呂蒙、虞翻……なかなか壮観……というかモロに一級線がほとんどですね。この中で伝が立てられず目立たないのは秦松、陳端くらいか……

 

これらの将らは、孫策死後、孫権の代になっても重きを成しています。

 

 

 

一方で、陳寿はこんな評も残していますね。

 

 

孫堅ともども性格が軽はずみせっかちだったために、身を滅ぼし志はついえてしまったのだ。

 

 

孫策の急成長は、まさに当人の並外れたカリスマによるゴリ押しと優れた才略と、孫策自身に起因する部分が非常に大きいものでした。

 

そのため孫策を嫌ている者がいた場合、その反発や恨みは半端なものではなく、それが孫策の占領した江東の内で常に燻っていたわけですね。

 

 

 

当然そのままにしていてはあまりに危険なため、孫策は反発勢力の粛清や締め出しという強硬手段で一応の安寧は得ますが、それでも反孫策の気炎は収まらず、粛清のさなかで許貢という大物を殺してしまったことにより、復讐劇のトリガーが引かれてしまったことになります。

 

 

 

当然、粛清という強硬手段が悪いわけではありません。そうでもしないと、この手のカリスマに対する反発は収まることはないでしょう。しかしこの場合、恨まれていることを自覚し、暗殺者には十二分に用心すべきだったはずです。

 

 

しかし孫策は、あろうことか単独行動をとり、刺客による暗殺の絶好の機会を与えてしまい、そのまま襲われて命を落としてしまったのです。

 

 

 

そして厄介なことに、その並外れたカリスマは、その後は大きな反動として呉という国を苦しめていくことになったのです。

 

反動の内容は、例えば孫策の死により希望を失って内通や立ち退き未遂が発生したり、呉の最晩年の辺りでも孫策の残光を妄信する輩が出てきたり……とにかく、さまざまな影響を呉に与えています。

 

 

まあ、この辺りは孫権周瑜らの奮闘もあってほとんどが未然に防がれていますが、孫権は兄の孫策と比べて小さく映り、それが悪影響を与えたのではないかと推測できる部分も史書には多いです。

 

 

 

これまでみんなが依存してきた偉大なるカリスマが、ある日突然ポックリ亡くなってしまったわけですから、やはりそのダメージは計り切れなかったと言ってもよいでしょう。

 

 

なんであそこで死んだんや……

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

孫策の死にまつわる逸話云々

 

 

 

孫策の死は、正史本伝では「単騎外出したところ襲われた」とありますが、他の歴史書とか小説とかを見てると、結構いろいろあるんですね。てなわけで、孫策の死亡に関する逸話を少し列記していきましょう。

 

 

1.于吉という仙人がいたが、于吉の人望は孫策異常であり、危険な存在だった。そこでイチャモンをつけて于吉を殺した。すると于吉の呪いが発動し、あちこちで現れる于吉の幻聴に発狂して死んだ(捜神記、三国志演義。江表伝にも于吉を殺した描写のみあり)

 

 

2.狩りにふらっと出かけた時に、殺した許貢が雇っていた三人の食客に遭遇し、主の仇とばかりに襲われ、暗殺を見破るも頬に矢を受け、異変に気づいた従者がその場に駆けつけたのはその後だった(江表伝)

 

 

3.曹操が柳城(リュウジョウ)征伐(正史では孫策死後数年後に行われたのに……)に兵を動かしたときに大司馬を自称。そのまま武勇を恃んで曹操の本拠地を狙おうとしたが、準備不足が祟って死ぬことになった(九州春秋)

 

 

4.負傷した際に医者に診てもらうと、「ギリギリ致命傷は免れたけど、百日は安静にしないと死ぬよ」と言われたものの、鏡で顔を見るとふがいなさやら苛立ちやらが爆発して鏡を地面に投げつけ、力んだことで傷が裂けてその日の夜に亡くなった(呉歴)

 

 

捜神記や三国志演義は小説だから完全スルーしてしまうとして……なんだかどれもバラバラで、よくわかりませんね。

 

なお、3の説ですが、志林を書いた虞喜や注釈者の裴松之にボロクソに叩かれていて、これまた見てる分にはなかなか愉快←

 

 

 

ちなみに于吉仙人は江表伝にも登場し、やはり孫策に殺されていますが、孫策自身の死には直接関与していないというスタンスですね。

 

于吉が殺された後の信者は、あまりに信奉しすぎるあまりヤンデレ化して、「于吉さまは死んだと見せかけて仙界にお帰りになられたのだ」とかトンデモな理論を以って、それ以降も于吉信奉を辞めなかったとか。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

どうして長沙桓王?

 

 

 

孫策の諡号は、皇族本流に本来与えられるはずの帝ではなく、ワンランク下の王。

 

陳寿はこれを、「孫権の兄への敬意は不足しており、道義に欠けていた」と批判していますが……孫盛という人がこれに対してなかなか面白い反論をしていたので最後に記載……

 

 

孫策はその慧眼を以って、遠くない未来に勢いが落ち目を迎えることを見抜いており、そのため弟に一切を任せることで以後一切の禍根を断ち切ろうとしたのではないか。

 

また孫権孫策の息子をあまり厚遇しなかったが、これは貴賤の区別をはっきりつけ、あわよくばという群臣の思いを封殺し、内乱を未然に防ぐ手段だったと思われる。

 

 

 

なるほど……。確かに、孫呉は一枚岩ではなく、特に孫策という巨大なカリスマを失ってからは内部で対立している印象も多く受けます。

 

 

孫権も身勝手な暴君だとか実は暗君だとかいろいろと言われていますが、その裏では兄・孫策の偉大過ぎる事績と強烈なカリスマに引っ張られる国内を吹っ切らせ、自分の統治をうまく運ぶために色々やっていた部分もあるのかもしれませんね。気分屋なのは否定しないけど

 

 

 

【孫策伝3】 人物評 逸話   【孫策伝3】 人物評 逸話   

続きを読む≫ 2018/06/16 11:39:16

 

 

 

 

 

江東平定~グッバイ袁術

 

 

 

劉繇を群雄として成立しないほどに叩き潰した後、孫策の元で戦った周瑜は、一度ここで戦線を離脱しています。

 

周瑜伝によると、孫策軍に駆けつけた周瑜は、実は長江を渡った北にいる叔父に挨拶伺いに行く最中に偶然近くに居合わせただけだったとか。

 

 

孫策の方も、「後は自分でもなんとかなる」と確信し、周瑜を送り返したとのこと。なんだか少し意外ですね。

 

 

 

さて、ともあれ……こうしてようやく活動の基盤を手に入れた孫策は、次の狙いとして東の呉郡と会稽郡に狙いをつけ、太守を追い払ってこの土地を奪おうとします。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

この時、各郡の太守の他に厳白虎(ゲンハクコ)なる者が1万もの大軍を率いて呉の付近に駐屯しており、呉景らはまず脅威となる厳白虎討伐を企てますが、孫策はこれに反対。

 

 

「厳白虎ごとき野盗の類、いつでも潰せます」

 

 

そう豪語した後朱治(シュチ)に呉郡平定を任せ、自身は川を渡って会稽郡攻撃を断行。戦争能力はともかく、後に曹操の元に流れ着いて出世することになる大器・王朗(オウロウ)を撃破し、朱治も呉郡太守の許貢(キョコウ)を追い出したことで付近の制圧を完了。

 

そして丹陽太守を自称して孫策に抵抗していた元劉繇配下の太史慈(タイシジ)を撃破しこれを傘下に加え、後に厳白虎も打ち破る等、急速な勢いで各地を平定していきました。

 

 

 

そして肝心なのは、占領後の統治活動。形の上袁術軍配下として動いていましたが、それでも元々その場にいた役人を追い払ったことに変わりはなく、官吏をそのままにするのは危険という状態でした。

 

そのため孫策は占領した軍の官僚はすべて入れ替え、反乱の危険性を潰すことに専念。

 

 

さらに自身は会稽太守を兼任し、肩書上袁術の純粋な配下であった呉景らを袁術の元に返し、各郡の太守に自らの息がかかった者を任命。さらには徐州から張昭(チョウショウ)、張紘(チョウコウ)といった独自の参謀を抱え込むなど、着々と自身の勢力の地盤を固めていきました。

 

 

 

 

そして 建安2年(197)に袁術が皇帝を自称したのを機に満を持して独立を宣言。袁術を非難する文書をしたためて絶縁を発表し、完全に一群雄として独り立ちを成し遂げたのです。

 

 

『江表伝』ではこの辺りで朝廷から使者が来て、孫策を騎都尉(キトイ:近衛兵長)の位と父・孫堅が持っていた烏程侯(ウテイコウ)の爵位を授け、会稽太守に正式に任じるという詔を伝えました。

 

しかし孫策は「会稽太守を兼任するなら、騎都尉では軽すぎる」としてそれとなく上の官位を希望してみたところ、使者は自己の権限で明漢将軍(メイカンショウグン)の位を孫策に授けることにしました。

 

 

そしてその詔を奉じ、袁術討伐に参加。この反袁術の軍事行動は呂布(リョフ)や陳瑀(チンウ)といった群雄との共同での行動でしたが、陳瑀は孫策がある程度軍を進めたところで、祖郎(ソロウ)や厳白虎ら反孫策の面々を内応させ、一斉に襲撃させるよう計画。早い話が、裏切りの騙し討ちを企んでいたわけですね。

 

 

しかし孫策はこれに気づいて陳瑀軍を強襲し撃破し、捕虜4千人を得たとか何とか。

 

 

ちなみに陳瑀は、『山陽公載記』によると袁紹に逃げ延び、そこそこの地位に就いたそうな。

 

 

 

ともあれ、こうして反袁術の旗色を明白にした孫策は、袁術の叛逆討伐に燃える朝廷に貢物を届けて従属の意を表します。

 

そして曹操にも目をつけられ、彼からの懐柔策として朝廷に働きかけて討逆将軍(トウギャクショウグン)の位、そして呉侯(ゴコウ)の爵位を孫策に送られてきました。

 

 

さらにこの頃、周瑜も後に呉の重鎮となる魯粛(ロシュク)を伴って孫策の元に帰参し、さらには袁術配下として働いていた孫賁や呉景らも彼を見限って孫策に合流。孫策の群雄としての力は、着実に高まっていったのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

 

勇躍の裏の暗雲

 

 

 

建安4年(199)に袁術が病没すると、その勢力は完全に滅亡。彼の子飼いであった劉勲が幅を利かせるようになり、孫策の元に向かおうとした袁術軍残党を捕縛し財宝を奪うなど、その勢力を飛躍的に高めていくことになります。

 

 

それを聞いた孫策は本格的に劉勲討伐を計画しますが、まずは騙し討ちにするため、本音を隠して劉勲と同盟。

 

 

へりくだった態度で「あくまで私の方が立場が下ですよ」とアピールした上で、「付近の上繚(ジョウリョウ)には大規模な宗教結社が存在します。その地を攻め、傘下に加えてしまうのはいかがでしょう」と提案。

 

 

そして劉勲が孫策の提案に乗って全軍を上繚を攻撃した劉勲の軍勢を見て、いよいよ行動を開始します。

 

 

孫策はすぐに劉勲との同盟を破棄し、彼の本拠地に向けて昼夜兼行で強行。一気に攻め落とし、劉勲勢力を滅亡に追いやったのです。

 

 

『江表伝』によると、この前後では勢力の急激な増加に劉勲軍の兵糧事情が間に合わず、食料面で大きな不安があったそうです。

 

そこで豫章太守であった華歆(カキン)に兵糧提供を依頼しましたが、この時豫章付近でも兵糧不足のため、ほとんど成果は上がらず。

 

 

そのため、最後にはいっそのこと略奪のために兵を差し向けますが、諸勢力は倉庫をカラにして逃亡したため、無駄足に終わりました。

 

 

そんな折、父の仇である黄祖(コウソ)討伐に向かっていた孫策でしたが、劉勲が動いて本拠地に不在と聞き、伏兵に劉勲を待ち伏せさせた後、自身は周瑜らと共に劉勲の本拠地である皖(カン)を即座に襲撃。

 

この襲撃に驚いた皖城はすぐに降伏し、孫策らは大量の捕虜を獲得。その中には袁術や劉勲の妻子や楽奏隊、さらに意外なところでは後に孫策らの妻になる大橋(ダイキョウ:演義では大喬)小橋(ショウキョウ:演義では小喬)だとか、さらには孫権の側室となった歩夫人(ホフジン)などもいたとか。

 

 

これでどうしようもなくなった劉勲は黄祖に救援を要請しましたが大敗。結局曹操を頼って北に落ち延びていきました。

 

 

 

曹操もこの勢いには警戒し、「北に袁紹がいるのにあんな奴相手にしていられるか」と、再度孫策の懐柔を開始。お互いの娘をそれぞれの血族に嫁がせた上、弟の孫権や孫翊(ソンヨク)に官爵を与えて特退待遇するなど、あらゆる手を尽くそうとしているのが伺えますね。

 

 

勢いに乗る孫策はこの曹操の懐柔を快く受ける裏で、曹操不在の許都を襲撃する計画を練り上げますが……そんな勢いに乗る孫策の裏で、彼の急激な勢力拡大に対する反動も、また表面化しつつあったのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

早すぎる最期

 

 

 

 

曹操袁紹と官渡で争い、長期戦になっている裏、孫策曹操の背後を突いて一気に攻め滅ぼすべく、ひそかに兵を訓練させ、部将たちにも極秘の仕事を与え、順調に準備を進めていました。

 

 

しかしそんな中、孫策は突如として刺客に襲われ、その命を落とします。享年26。まさに激動の太く短い人生の、何とも唐突な幕切れでした。

 

 

 

この時孫策を手に掛けたのは、雄飛の足掛かりとして滅ぼした群雄の一人である許貢が囲っていた食客と言われており、大きく飛躍する裏で反感や恨みも多数買っていたのもまた事実のようです。

 

 

『江表伝』によると、許貢は生粋の朝廷臣下であり、飛躍する孫策を警戒。彼をあの項羽になぞらえ、「地方に放っておくのは危険です。高官を与えて中央に召し抱えておくべきでしょう」と上奏。

 

この時の上奏文を孫策側の官吏が入手して孫策に見せたところ、孫策は許貢に会って直接どういうことか訊くことに。

 

しかし孫策の質問に対し、許貢は知らぬ存ぜぬと上奏そのものを否定したため、孫策は許貢を敵と判断し、絞首刑に処しました。

 

 

これの他にも孫策が敵対勢力を粛清によって鎮圧していた様子は様々な文献に記されており、その強固な手段は江東の頑固で独善的な風潮に合わずに散々恨まれた様子が伺えますね。

 

 

また、孫策死亡の異説として于吉(ウキツ)なる仙人を殺したことによる祟りという説もいくつかありますが……何が正解なのやら……。

 

 

 

 

ちなみにこの許都襲撃計画ですが、三国志評を行った晋の孫盛(ソンセイ)は、「敵対勢力も多く、しかも上流に黄祖がいるという不安定な情勢で遠く離れた許を襲撃するのは無理がある」とし、裴松之も許都襲撃の記述にはその毒舌をいかんなく発揮しています。

 

 

というわけで、「実は孫策行っていたのは、これまでひそかに苦杯を舐めさせられていた陳登(チントウ)襲撃の準備なのではないだろうか」という説も濃厚だったり。

 

 

 

ちなみに死因は、父孫堅と同じく単独行動をしていた事により襲撃を許してしまったため。二代目(というか三代目?)当主お前もか

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

なお、刺客に襲われた際は致命傷を負いながらも何とか逃げ切り、張昭をはじめ群臣の前で遺言として孫権を次期当主に据えるように伝えています。

 

 

この時、孫策孫権に対して

 

 

「単純な武略は俺の方が上。だが、お前には人を盛り立て、この江東の土地を安んじて守っていく力がある。この内治の才は、お前の方が上手だ」と告げ、群臣と共に江東を盛り立てていくよう伝え、息を引き取りました。

 

 

諡は長沙桓王(チョウサカンオウ)。皇帝の直系の諡は普通は皇帝なのですが、まさかの王止まり。しかも息子の孫紹(ソンショウ)も一族として扱われながらもどこか優遇とは言い切れなかったそうな。

 

 

これに関して孫権はいろんな歴史家から叩かれています。まあ個人的にはこの行動は正解かなと思っており擁護論もありますが……そこは長くなるため割愛。

 

 

とにかく、こうして激動のまま人生を終えた希代のカリスマ・孫策。その早すぎる死と圧倒的な影響力は、後の孫権にさまざまな影響を与えることになります(ただし大半は悪影響)

 

 

ともあれ、乱世に生まれ乱世に生きたこの人物が未だに高い人気と魅力を備えているのは間違いありませんし、多くの人が彼を慕い、今なお愛され続けているのは納得です。

 

 

 

【孫策伝2】雄躍からのフリーフォール   【孫策伝2】雄躍からのフリーフォール   【孫策伝2】雄躍からのフリーフォール

続きを読む≫ 2018/06/16 11:38:16



孫堅軍閥の御曹司




孫策の父・孫堅(ソンケン)は独自軍閥を立ち上げ、その後一時期は大勢力にまで成り上がりましたが、長沙(チョウサ)太守としての地位を得た時には家族を江東でもやや荊州よりの舒(ジョ:現在の盧江)という場所に移住させています。


孫策も母と共に舒へと移住しており、ここで偶然にか出会った周瑜(シュウユ)と意気投合。彼と硬い友情で結ばれ、以後断金の友問い言葉の語源として知られるほどの熱い友情で結ばれるようになったのです。


ただし『江表伝』にはこれとはまた違った異説もあり、それによると舒への移住は周瑜の勧めによるもので、前々から孫策の評判を気にかけていたとか、意気投合した後は屋敷を一つ一家に提供して家族同然に付き合ったなどと、周瑜との関係構築の流れがある程度詳しく書かれています。



ともあれ、こうして地元名士の周瑜らのバックアップもあって、さらに当主の孫堅も乗りに乗っているという最高に近い滑り出しの孫堅軍閥でしたが、ある時、思いもよらない朴報にに見舞われます。



スポンサーリンク





当主孫堅、戦死。


突然当主を失った孫堅軍は瓦解し、大半が孫堅の後ろ盾であった袁術(エンジュツ)に吸収されてしまったのです。


幸い、孫堅の遺体は無事に取り返すことに成功しており、孫策らは父・孫堅の遺体を奉じて故郷に帰り、葬式を済ませると、今度は徐州の江都(コウト)の地へと移住することになったのです。






雌……伏……?




こうして江都に移り住んだ孫策らでしたが、徐州牧(ジョシュウボク:徐州の長官)である陶謙(トウケン)は孫策らを忌み嫌っていたらしく、日の目を見ることはありませんでした。

そのため孫策は家族らを一度故郷に帰し、今度は一族の孫河(ソンカ)や偶然知り合って配下に加わった呂範(リョハン)と共に母方の血筋である丹陽(タンヨウ)の呉景(ゴケイ)という人物を頼り、その援助によってようやく数百の私兵を雇う事が出来たのです。



興平元年(194)には、父の代から親交のあった袁術の配下に加わり、袁術軍に身を寄せていた元孫堅軍の兵士1000人余りを返還してもらいました。

この父の遺した兵たちは数こそ少ないものの、皆精強。その軍中には、程普(テイフ)、黄蓋(コウガイ)、韓当(カントウ)、朱治(シュチ)といったそうそうたる面子がそろった精鋭部隊だったのです。


ちなみに『江表伝』では、この時涙ながらに袁術に返還を訴えたものの拒否され、代わりに呉景の元での募兵を勧められて先述のように数百の兵を確保。しかしそれも祖郎(ソロウ)と言う人との戦いで壊滅的な損害を受けたため、もう一度袁術にお願いして初めて返還が叶ったとあります。



そして袁術に可愛がられ、その配下の将軍たちからも敬愛されてとなかなか好待遇で出迎えられていますが、他の史書には「袁術孫策を内心警戒していた」ともあり、何が本当なのかは定かではありません。


ともあれ、こうして袁術配下と言う立場に収まった孫策は、朝廷から来た馬日磾(バジツテイ)と言う人を通じて懐義校尉(カイギコウイ)となり、以後しばらくは袁術配下という立場の元で動くこととなります。



スポンサーリンク



さて、分家からとはいえ後に陸遜(リクソン)を輩出することになる江東の陸家はかなりの名門で土地も物資も多く持っていましたが、その分名士としてのプライドもあって、人におもねるタイプの家系ではありませんでした。

その陸家の当主である陸康(リクコウ)は袁術から支援を要請されていましたが、ことごとくを拒否。さらに孫策が使者として陸康に再度支援のお願いに来た時も、本人ではなく秘書に応対させるという有り様でした。


そこで、袁術は陸康を討伐することを決意。孫策には、「陸康を倒した後、その支配下であった盧江一帯の管理をお願いしたい」と、太守の任に就ける約束をして彼に討伐軍の指揮を一任。

孫策は陸康を攻め滅ぼすことに成功しましたが、なんと袁術は約束を反故にして子飼いの武将の劉勲(リュウクン)を盧江太守に任命してしまったのです。


実は袁術による孫策のタダ働きはこれだけではなく、以前にも「九江(キュウコウ)太守をお願いしたい」と口にしながら、別の子飼いである陳紀(チンキ)を九江太守に据えたこともあったのです。


そういった袁術の行動に不信感が溜まっていた孫策はいつしか「こいつはアテにならない」と思うようになったようで、以後は優秀な人材を独自に確保するような動きを見せるようになっていました。


ここで個人的に気になるのは、孫策袁術配下になってからの出仕期間。約束を反故にした袁術袁術ですが、その幕下に加わって間もない孫策を理由なく重用したのでは、他の配下に示しがつかないでしょう。

もしかしたら始めから独立するつもりで、その後付けの理由にこれを選んだ……とか?


ちなみにこの辺の事情、結構いろんな場所で言われています。








雄飛の足掛かり




古い時代、揚州の役所は寿春に置かれていましたが、揚州刺史の劉繇(リュウヨウ)は長江を渡った、孫策の故郷の近くで父・孫堅の葬儀を執り行った曲阿(キョクア)の地に役所を移設していました。

そして、袁術の影響下である呉景、そして孫策の従兄に当たる孫賁を長江を渡った袁術領側に追いやり、反袁術の旗色を明確にしていたのです。


任地を追いやられた二人は、結局長江を渡った先の歴陽(レキヨウ)で軍をまとめ、さらに劉繇も袁術の進出阻止のため軍勢を沿岸に送り込み、両陣営は長江を挟んで膠着状態にもつれ込んでしまったのです。



この状態を好機ととらえて……かどうかはわかりませんが、孫策は親族である呉景らの救援を袁術に進言。袁術は快諾し、朝廷から折衝校尉(セッショウコウイ)も位と、殄寇将軍(テンコウショウグン)の代行役の立場を授けました。


しかし、この時袁術から預けられた軍勢はわずか千人余り。軍馬も数十匹。そこから志願者を足しても、その数は千数百と、一地方を擁する群雄を倒すにしては圧倒的に少ない数でした。



しかし、孫策の名声を聞きつけた人々が次々と合流。兄弟分同然の周瑜も駆けつけ、呉景らと合流する頃には、その数は5倍以上にも膨れ上がっていたのです。



スポンサーリンク




孫策は軍をまとめて歴陽に到着すると、ひそかに逃げてきていた家族を安全地帯の阜陵(フリョウ)に向かわせ、さっそく長江を渡って劉繇軍を攻撃。

劉繇軍中にはその進撃を止められる者がおらず、孫策軍は行く先々で全戦全勝。郡の規律もしっかりと守られて民衆の不人気を買う事もなかったのもあり、すさまじい勢いで劉繇の勢力下にある地域を落としていったのです。



また『江表伝』には、少し詳しい記述が載っています。

それによると、孫策は長江を渡ると、手始めにすぐ近くにある牛渚(ギュウショ)の劉繇軍の陣を攻撃。その倉庫に備蓄されていた兵糧や軍備を軒並み奪い去ることに成功しました。

その後興平2年(195)には、劉繇軍に身を寄せていた笮融(サクユウ)と薛礼(セツレイ)に攻撃を開始。まず孫策は笮融に狙いを定め、初戦で圧勝を飾りますが、孫策の力を見た笮融は籠城を決意し、城の門を固く閉ざしてしまいました。


そのため孫策は、先に薛礼攻撃を敢行し、追い払います。さらに孫策相手に敗走した後軍を立て直した劉繇軍を大敗させ、笮融を孤立させて再び攻撃を開始。


この時孫策は流れ矢に当たり負傷してしまいました。

そこで一計を思いつき、孫策が死んだという偽情報を流して敵を油断させ、敗走を装い一度撤退。これに釣られた笮融を伏兵による奇襲で撃破。


とうとう恐れをなした笮融は堀を深くしてがっちり防御を固めたため、孫策はこれを無視して進撃。劉繇だけを狙うように動いたのです。



何にせよ、孫策の進撃を止めることが叶わず、劉曄軍の諸将は次々に打ち破られていったのですね。


さらには占領地においても適材適所を心掛け、孫策に会った者は皆彼のために尽くしたいと思ったとか何とか。



そんな勢いと人望を武器に攻め込む孫策軍を前に、劉繇はこれ以上の抵抗は厳しいと考え、曲阿を捨てて脱出。その配下たちも軒並み孫策に叶わず逃亡し、孫策はついに雄飛への足掛かりをつかむことに成功したのです。





   【孫策伝1】雄飛の足掛かり   【孫策伝1】雄飛の足掛かり

続きを読む≫ 2018/06/16 11:38:16
このエントリーをはてなブックマークに追加

ホーム サイトマップ
お問い合わせ