顧雍 元歎
生没年:建寧元年(168)~赤烏6年(243)
所属:呉
生まれ:揚州呉郡呉県
顧雍(コヨウ)、字は元歎(ゲンタン)。戦争メインに語られる三国志の世界では、バリバリの内政官やバックにいる名士層の影はどうしても薄くなってしまいます。
そのため、ハイパークラスの実力者であってももれなく埋もれてしまう事も……。
顧雍も、そんな後世の注目点のために埋もれてしまった一流文官、一流名士のひとりですね。
「呉の四姓」などと言われる超大型の名家の出ではありますが……そもそも孫家と名士層の水面下での争いが片鱗をのぞかせている呉国において、最終的に丞相(ジョウショウ:内閣総理大臣的な地位で、献帝時代の曹操や蜀の諸葛亮なんかもこの地位)に上るほどの信望と実力を示していたというのは、それだけで大人物であったことが伺えます。
今回は、そんな顧雍の伝を見ていきましょう。
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寡黙なる大器
顧雍の若い時の話は、史書にあまり詳しくは載っていません。
はじめに名が出たのは、黄巾の乱よりも前の話。高名な名士であった蔡邕(サイヨウ)という人物が、宦官たちから目をつけられていたため辺境の呉まで疎開していた時のこと。
顧雍は疎開してきた蔡邕から学問と琴を教わりました。
蔡邕は後々、董卓(トウタク)に召し出されて中央に戻っていきましたが、顧雍は数年、20歳くらいの時に比較的近くの合肥(ガッピ)の長として就任。
その後付近の任地を転々としましたが、いずれも恐るべき治績を挙げたとか何とか。この辺りは詳しくは書かれていませんが……おそらく治安や産業発展にかなり貢献したものだと思われます。
その後、いつの間にか孫権(ソンケン)に出仕。
孫権が会稽(カイケイ)太守の職に就くようになると、彼の代わりに郡丞(グンジョウ:太守の補佐官)として就任。会稽でなく別地で作業を行う孫権の代わりに会稽の民政を代行という形で執り行っていました。
顧雍は会稽太守代行としての役割を見事に遂行。反抗勢力は自ら武装して掃討し、数年後には民衆も役人も平穏を享受して彼に心服するようになったとか。
その数年後に中央に戻ると左司馬(サシバ:将軍の補佐官)に任命され、その後も順調に出世。
孫権が呉王となって呉国を打ち立てた際には、大理奉常(タリホウジョウ:九卿の役職の一つ。いわゆる法務省的な役職)と尚書令(ショウショレイ:上奏文の管理者)を兼任。さらには陽遂郷侯(ヨウスイキョウコウ)に封ぜられ、独自の領土を得るに至ったのです。
ちなみに領土を得たことに関して、顧雍は家族に伝えておらず、後に人からその話を聞いて仰天したとかなんとか。
黄武4年(225)、顧雍は故郷に居た母を当時の呉の都・武昌(ブショウ)に迎えました。この時、孫権が自ら出向いて祝辞を述べており、孫権の跡取りとして期待されていた孫登(ソントウ)や、その他の群臣たちも祝賀に訪たのです。
その後、太常(タイジョウ:当時はかなり重要視されていた儀礼や祭祀の責任者)に仕事を変更され、醴陵侯(レイリョウコウ)となり、爵位も上がりました。
さらに、当時呉の国の丞相をしていた孫邵(ソンショウ)が亡くなると、孫権自らの意思で顧雍は丞相に就任するに至ったのです。
家柄に頼らぬ姿勢のモラリスト
さて、こうして丞相の地位に上がった顧雍ですが、その業務姿勢は
・能力主義
・良策は身分問わず採用
といった感じのものでした。
任命する文官のポストはその職に向いているかどうかだけで判断し、個人感情や立場を考慮しませんでした。
また、たまに民衆からも意見を求めることがあり、良い意見はすかさず孫権に上奏。その意見が通れば孫権の発案であるという事にして、仮に通らなかった場合は決して人に知らせることがなかったとされます。名士層は基本的に君主であっても容赦がないものでしたが……顧雍はあくまで孫権を立てる姿勢をしっかりと保ち続けたわけですね。
一方で公の場では穏やかかつ謙虚な姿勢で臨みましたが、自身が正しいと思ったことは譲らないなど芯の通った姿勢を貫いたと言われています。
またある時、孫権から政務に関する不都合があるか尋ねられたことがあります。
この時、顧雍と共に孫権の前に居た張昭(チョウショウ)は「法律が複雑で刑罰が重いところがあります。簡略化していきましょう」との述べました。
この意見を聞いた孫権はしばらく黙っていましたが、次に顧雍に対して意見を求めると「張昭どのと同意見です」と話し、この意見を聞いた孫権はようやく刑罰を緩めたそうな。
こんな感じで、孫権は次第に顧雍には頭が上がらなくなっていった様子が伺えますね。
また、『江表伝』には孫権と顧雍の関係を表す面白い逸話があります。
孫権は常に役人を顧雍の元に送って様々な事柄に対して顧雍の意見を求めた。
顧雍と孫権の意見が合致した際には、顧雍はその場で討議して深く議題を煮詰め、使いの役人に酒と料理を用意した。
逆に意見が合わなければ顧雍は厳しい顔つきをして押し黙り、使者も早々に引き上げた。
孫権はこれに対し、「顧雍が喜んでいるのならば、それは時節にあった政策だったのだろう。もし何も言わなかった時は考えが不十分だ。もう一度よく考え直さなければ」と話した。
もうどっちが上かわかんねぇな……
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晩年まで法とモラルを忘れず
こうして顧雍の元で、しばらく呉の政治に安寧が訪れましたが、孫権が呂壱(リョイツ)らを中書(チュウショ:政治監査官)として重用し始めると、顧雍をはじめ土着の名士層の立場が一気に暗転。
呂壱は苛烈な性格の持ち主であり、些細な罪や私怨によって人々を讒言。降格、謹慎、投獄とやりたい放題して、多くの実力者を失脚させていきました。
地元名士だけでなく、そのライバルである外様の名士たち、果ては皇太子の孫登まで呂壱を非難するような動きを見せたあたり、おそらくこの事件の荒れっぷりは相当なものだったのでしょう。
また、理由は不明ですが顧雍もこの讒言の被害を受けており、孫権から叱責を受けるようになってしまいます。
しかし、呂壱は多くの孫権家臣を敵に回してしまったことにより、最後には失脚。そのまま罪人として投獄されたのです。
こうして名誉を回復した顧雍は、囚人となった呂壱の取り調べを担当。己の受けた仕打ちをあえて忘れ、穏やかな顔で紳士的に申し開きを聞いたとされています。
この時同席した懐叙(カイジョ)という人物は、あくまで呂壱が許せず罵倒したと言われていますが、顧雍はあくまで「官では定まった法律が法律がある。私刑のような真似はしてはならない」と懐叙の態度を咎めたとか。
その後もしばらくは丞相として孫権に仕えましたが、赤烏6年(243)、66歳で病没。
その臨終の間際も、医者から話を聞いた孫権が末子である顧済(コサイ)を官職に取り立てたのを見て、自らの死を予見。
「ご主君が臨終の間際の私に、子が重用される姿を見せてくださったのだな」としみじみ語ったとされます。
孫権は顧雍の葬式には私服で弔問し、親しみをアピールしたとか。
ちなみに顧雍の息子は3人いましたが、長男は早くに逝去。次男は不治の病によって満足に働けないため、末子にお鉢が回ったようです。
後に顧済が亡くなったときは、その息子がいなかったため、惜しんだ呉国によって次男の顧裕(コユウ)がその後を継ぎ、顧雍の家はなんとか断絶することなく続いたのです。
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人となりはあくまで穏やか
顧雍が蔡邕に教えを乞うていた時、蔡邕は逆に顧雍の才能に驚愕したという逸話があります。
この時蔡邕は、「顧雍は絶対大成する」と確信し、自身の諱と同じ読み方をする「雍」の名前を授け、また蔡邕を感嘆させたことから、字にも「歎」の字をつけられたとか何とか。
さて、当時の名士は、言ってしまえば群雄や土地の守り神のような存在にまで祭り上げられており、主家に対しても自分の家の特権や利益ばかりを主張するケースも多く見られました。
中には主君など何する顔で、自らの名声や家格に固執した結果、主君との仲を破綻させるような人物までいた始末。
顧雍の死後数年後に起こる大混乱、「二宮の変」にも、権益を守る土着名士とその権勢転覆を狙う、いわゆるその他の人物らの対立という背景も多分に含んでいるように思われます。
顧雍は、そんな名士の座にながら、この通りに公平無視、特に名士の強い呉では軽んじることもできたであろう主君・孫権をしっかり立てるなど、いわゆる「良識派」の人物像と言えるでしょう。
概念的というか感情論な儒教観念ではなく法律を重視し、政策も能力主義。よい意見は身分など気にせず取り上げるなど、度量のある人物です。
が、寡黙、謙虚で自己主張をあまりしない性格によって、後世ではあまりに目立たない人物像に……
また、孫権は彼の事を「基本だんまりしているが、たまに口を開けば的を射た発言をする」と絶賛しています。もっとも、同時に下戸であり、宴会の場では彼の周囲がかしこまってしまう事から「酒がまずくなる」と愚痴られたりもしていますが……
また、呂壱への紳士的態度から「愚か者に対して甘すぎる」という意見もありますが……そもそもすでに落ちぶれている者に私情で追い打ちをかける行為もなかなかにアレな気がします……。
もっとも、そんな彼も言うべき時はしっかりいう人物で、孫の顧譚(コタン)が酔っぱらって宴会で無礼講を働いたときは、「顧家の面子を損なう」として徹底的に搾り上げ、二時間立ちっぱなしにするなどという逸話もあったりします。
(ちなみに顧譚はその後、讒言によって失脚してしまいます……)
また、いくら主家を敬うといっても、やはり出は名士。家格もそれなりに考えて動かなければならない部分もあり、同じ四家のひとつの出である張温(チョウオン)を「並ぶ者はいない」とオーバーに評価するなど、名士同士のネットワークや協調をとろうとする逸話も見られます。
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