人物評
さて、これだけの大活躍をして呉でも屈指の大物として君臨した陸遜でしたが……歴史家からの評価はなぜか今一つ。
陳寿は大絶賛してるはずなのにどこか含みのある言い方を残してますし、裴松之に至ってはほぼ全否定という有り様。
恐らく彼自身の人物像に、中国の歴史家たちは思うところがあったようですが……
とりあえず、まずは彼の人物評から見ていきましょう。
三国志を編纂した陳寿は、彼をこう評しています。
無名のまま壮年に差し掛かった陸遜が、老練な戦術家である劉備を打ち破った夷陵での功績は大きい。
陸遜の類稀なる才覚、そしてその力量を見抜いて起用した孫権の器には感嘆を覚える。
陸遜の忠誠心、そしてそのために命まで縮めた生き様は、まさに社稷の臣のようであった。
社稷の臣と言えば、国家の超重要人物のような意味合いの言葉ですが……陳寿はハッキリと「そうである」と言い切っていないのが気がかりです。何か思うところがあったのか……。
まあ何がともあれ、しっかりと高く評価して褒め称えており、国家の重鎮らしい評に収まっていますね。
さて、問題は裴松之の評について。
(襄陽から撤退中に江夏の各都市を襲撃したことについて)わざわざ必要のない拠点を攻撃し、無辜の民を苦しめた許されざる悪行である。
また、その時に捕虜を多く獲得したもののそれらを寛大に迎え入れて逃がしてやった件だが……そもそもにぎわっていた街を攻撃して得た捕虜である。言ってしまえば鳥の巣を自分で潰しておきながら生き残った雛を育てるようなマッチポンプ。善行ともいえない、取るに足らないやけっぱちである。
(江夏太守に仕掛けた離間策について)国境線なんだから荒らし回られるのはいつものこと。それを大仰に手柄として書いているわけだが……国家の危機でもない小事に対してわざわざ自分の身を卑しめてまでこざかしい謀略に走るのは、個人的にどうかと思う。
まあ賈詡のように人物評にまでケチをつけるほどのものではないにしろ、これまた随分な嫌いようですね。
見方によっては賈詡よりはマシかもしれませんが、ネガティブに捉えるともはや人物評にケチをつけるのすらアホらしくなっていた可能性も……
さて、なぜこんなキツイ評価になってしまったか、陳寿に関しても微妙に歯切れが悪いのかと言いますと……まあ、思い当たる節はなんとなくあります。
それは、本人の正直というか、機械のような共感を得にくい性格にあったのではないでしょうか?
以下には、そんな陸遜の、よく言えば清廉潔白で合理的、悪く言えば人情に疎い陸遜の性格に迫る逸話を紹介しましょう。
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陸遜、味方を見捨てる?
夷陵の戦いのとき、孫一門で陸遜とも血縁関係にある孫桓(ソンカン)という人物が、劉備の大軍勢に包囲されて絶体絶命の窮地に陥ってしまいました。
諸将はこの様子を見て「すぐに助けに行かなければ」と進言しましたが、陸遜は一歩も動かず。
「孫桓ならばあの状況でも十分に耐えきれる。捨て置けばよろしい」
結局陸遜は援軍を1兵たりとも送らず、孫桓は陸遜の読み通り自力で拠点を守り抜いて生還できたのです。
なんとか生き延びた孫桓は「見通しがきちんとあったのだから何も言わない」としつつも、「さすがに動く気がないのを知ったときは本気で恨んだ」と胸の内を明かしました。
ちなみに医療の戦いの際中、陸遜は自分に逆らった人物の告訴を控え、後に孫権から問われると「国のために立ち上がった名将を処罰し、国家の力を落としたくなかったのです」と語っています。
この辺りから、性格が悪いというより、人情よりも合理性に思考回路をガン振りしている人物であることが伺えます。
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容赦なき公平なジャッジマン
呂蒙による関羽討伐の数年前、淳于式(ジュンウシキ)なる人物が陸遜を告発し、「徴兵によって民に不満が生じています」と孫権に伝えたところ、陸遜は意に介さず。
むしろ後になって彼を「立派な役人である」と称したという話があります。
他にも陸遜に対して悪意を持っていた人物も、その能力やしっかりとした心構えを備えていた人物は公平に見られてしっかり評価されている記述が史書に散見されています。
また同時に無能や怠惰には一切の容赦無し。
孫権の息子である孫慮(ソンリョ)が戦鴨(トウオウ:闘鶏の鴨バージョン)にドハマりし、そのために柵を仕掛けるほか様々なレギュレーションを仕込んでいた時に陸遜は厳しい顔で言い放ちます。
「高貴な身分の方ならば、こんなものより書物を読んで特性を磨かれるべき。で、その上でお伺いしますが、これは何ですか?」
陸遜にビビった孫慮はすぐに柵を取り壊し、勉学に励んだのです。
また、孫権の甥にあたる孫松(ソンショウ)が自身の立場に気を良くして訓練をサボっていた時も、これに激怒。
さすがに本人にはこれといった罰は与えられませんでしたが、取り巻きの役人を丸坊主に。
当時、体の毛は親からの授かりものとして、切ったりするのは御法度という価値観だったのですが……まるで容赦がない。
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礼が先か罰が先か
議論においても、自身の正義を貫く陸遜の姿勢は変わりません。
劉廙(リュウヨク)なる人物の「刑罰最優先。礼儀はその後だ」という発言は大きな賞賛を呼び、孫登の配下である謝景(シャケイ)もこれを絶賛。
ここでも陸遜は猛反発し、謝景を責め立てています。
「昔からのしきたりだろう。礼節や刑罰よりも優先する。こざかしい発言で先人の偉大な教えを否定する時点で、この議論は間違っている!
仮にも皇太子にお仕えする身で、そんな間違った教えを太子に吹聴するのか!」
個人的には卵が先か鶏が先かの議論に近いものを感じるのですが……陸遜的には古くからのしきたりはとても大事なものだったようですね。
とにかく君主であれ血縁者であれ世評の流れであれ、自分が違うと思った物は毅然として「否」と答えるのが陸遜の良さであり、同時に晩年の悲劇を引き起こした原因、ネックでもありました。
この特性は陸遜の血筋に連なる欠点でもあったようで、孫の陸機(リクキ)は晋に仕えたものの方々の嫉妬や恨みを買って一族郎党処刑され、陸遜の直径は孫の代で途絶えることになってしまったのです。
英傑かどうかと訊かれるとほぼ間違いなく「YES」と言える陸遜ですが、その合理性を追求した鉄の意思が逆に災禍を招いてしまったという点に関しては、どうにも惜しい。