丁奉 承淵
生没年:?~建衡3年(271)
所属:呉
生まれ:揚州廬江郡安豊県
丁奉(テイホウ)、字を承淵(ショウエン)。コーエー発売の三國無双にもプレイヤーキャラとして参戦している人物ですが、どちらかというと同社の三國志11にて「顔グラがスターリンに見える」ことからネタにされ、そっちの方が有名ではないでしょうか。
彼は優れた武人として多くの功績を上げ、三国志の後期において「呉の最後の名将」といわれるほどの人物となりました。
が、成り上がりという事もあって、高官になると少し性格に難が出始めたそうな。
今回は、そんな丁奉の事績を追っていきましょう。
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若き勇将
丁奉と言えば、三国志演義の影響で徐盛(ジョセイ)と2人でセットのように思われがちですが、実は彼は徐盛よりも世代は下。主な活躍時期が異なっています。
そんな彼は若かりし日、武勇に優れていたため小さな部隊を預けられ、甘寧(カンネイ)、陸遜(リクソン)、潘璋(ハンショウ)といったそうそうたる面子に率いられて、しばしば外征に参加していたのです。
丁奉はいつも敵陣の不覚に切り込み、敵将を討ち取り軍旗を奪うなど、どの戦場でも抜群の手柄を立てていました。しかしそんな危険が伴う戦い方をしていたため、体はいつも傷だらけになっていたとされています。
当然これほど暴れ回った人物が無視されるはずもなく、やがて叩き上げの士官として偏将軍(ヘンショウグン)に昇進。
孫権(ソンケン)が亡くなって孫亮(ソンリョウ)が後を継ぐと、冠軍将軍(カングンショウグン)に昇進し、都亭侯(トテイコウ)の爵位を与えられました。
東興の役
建興元年(252)、孫権の死を聞きつけた魏は、これを好機として全国からかき集めた大部隊を呉に派遣。一気に併呑してやろうと行動を始めました。
これに対し、呉は諸葛恪(ショカツカク)を大将として防衛部隊を編成し迎撃。両軍は東興(トウコウ)の地で激突しました。
この戦いにおいて呉の諸将は「諸葛恪様が直々に迎撃したとあっては、敵軍は怯えているはず。敵前上陸を果たして一気に潰してしまいましょう」と進言しますが、丁奉はただ一人この意見に反対。
「敵軍がこれだけの大部隊を投入したのなら、勝算あっての行動のはず。コケ脅しが通用するとは思えません」
結局、諸葛恪が長江を渡って敵前上陸を行うと同時に、丁奉らは別動隊を率いて優位な地形を奪いに向かう形で作戦は決定。
丁奉ら別動隊はそれぞれ軍を率い、山岳地帯を潜伏しながら進みますが、ここで一つ問題が発生します。
それは、部隊の行軍速度。このままでは敵軍に優位な地形を奪われてしまうと考えた丁奉は、他の部隊を置き去りにする形で、自身は3千の部隊を率いまっすぐに部隊を強行させます。
そして折しも強風が吹き荒れていたので、それを追い風として船に乗り換え、丁奉の軍勢は奇襲予定地点にわずか2日でたどり着いたのです。
早速敵軍の様子を探っていた丁奉でしたが、この時敵軍が酒盛りしていたことが判明。まさに絶好の機会だったのです。
これを好機と見た丁奉は、兵たちに鎧を脱いで兜だけを着用するように伝達。そのまま軽装で敵陣に駆け降りて、一気に先鋒部隊を壊滅させてしまったのです。
その後置き去りにした部隊も無事に合流し、さらに朱拠(シュキョ)の軍が退路を絶ったことにより敵軍は大混乱に陥り、そのまま重臣の子であった桓嘉(カンカ)や以前呉から寝返った韓綜(カンソウ)を始め多くの戦死者を出しながら敗走。呉の大勝利に終わったのです。
立役者となった丁奉は、滅寇将軍(メツコウショウグン)に任命され、爵位も都郷侯(トキョウコウ)に昇進。すっかり、呉の中でも重鎮の一人に食い込んだのです。
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まだまだ続くよ出世街道
後に敵将の文欽(ブンキン)が呉に投降を申し入れると、丁奉は虎威将軍(コイショウグン)に昇進。当時の実力者であった孫峻(ソンシュン)の配下として彼の救援に赴きました。
そして文欽と合流すると、魏から差し向けられた追手を迎撃。丁奉は自ら馬に乗って敵陣に突撃し、数百の首を上げる大立ち回りを披露。兵器を奪い戻ってきて、その活躍から安豊侯へと爵位を上げました。
その後魏で大身であった諸葛誕(ショカツタン)までもが呉に投降を申し入れると、丁奉は彼の救援部隊の1将軍として参戦。
すでに諸葛誕を包囲した敵陣の切り崩しを任された丁奉は、この時も突撃隊長として果敢に戦功を上げ、ついに左将軍(サショウグン)に任命されたのです。
後に孫休(ソンキュウ)が3代目の呉帝となると、それまで政争を次々と勝ち進み強権を振るっていた孫綝(ソンリン/ソンチン)の暗殺を張布(チョウフ)と共に進言。この意見を取り入れた孫休は孫綝を殺害。専横を振るっていた権力者を打ち倒したことで、強いとは言えなかった皇帝権力をいくらか元に戻すことができました。
その功績を以って、丁奉はついに将軍職でもトップに当たる大将軍に就任。さらに永安3年(260)には徐州牧(ジョシュウボク)として仮節(カセツ)が与えられ、事実上軍事のトップに食い込み、丁奉の栄華はここに極まったのです。
重臣丁奉
丁奉が徐州牧になったのと同年、隣国の蜀はついに魏の大部隊によって侵攻を受け、風前の灯火となっていました。
丁奉はこの時、魏の目を蜀から引き剥がすべく北の寿春(ジュシュン)に大部隊を送って攻撃しますが、蜀が降伏したことで作戦目標は失敗し、そのまま帰還。
後に孫休が死去すると、孫晧(ソンコウ)がその後を継いで皇帝になりました。この時、丁奉も孫晧の重臣・万彧(バンイク)の意見に従って彼を皇帝に迎える手助けをしたと言われています。
孫晧が正式に皇帝になると、丁奉は右大司馬(ウダイシバ:大司馬は防衛大臣的な役職)、左軍師(サグンシ:軍事統括職)
その後も丁奉はたびたび魏やそれに代わって建立した晋を攻撃しますが、まったく成果は得られず。
せめて物資だけでもと前線基地の徐塘(ジョトウ)を修復して晋の前線都市を攻撃しますが、市民が察知して逃げ隠れてしまったため失敗。この報告に怒った孫晧は、丁奉配下の導軍(ドウグン・斥候……なのか?)を叩き斬ったのです。
丁奉が亡くなったのはその2年後。建衡3年(271)のことでした。
丁奉が死んだと知ると、孫晧は彼の家族を辺境に強制移住させたのです。
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人物像
丁奉は「呉を支えた勇猛なる将軍たち」をまとめた巻に、その名を連ねています。
実際にこうして記述を追ってみると、家柄についての記述がない(つまり寒門出身)のに大将軍に上り詰めた辺り、やはり武勲ひとつでのし上がった叩き上げで、並外れた力量の持ち主だったと見るべきでしょう。
しかし、「位が高くなるとともにどんどん傲慢になっていった」と史書にはあり、実際にそのことを非難する言葉も当初から寄せられていたようですね。
結局、孫晧にはそういうところが嫌われて、死後に遺族につらい思いをさせることに繋がりますが……陸凱(リクガイ)伝に、孫晧との確執を示す面白い記述があります。
陸凱が孫晧暗殺を目論んだ際、丁奉はこれに賛同。孫晧が廟に詣でる時を狙う計画を立てた。孫晧の護衛を務める予定の留平(リュウヘイ)にもこの計画を打ち明けて協力を願い出たが、留平は丁奉が嫌いで参加を拒否したため計画は不発に終わった。
留平は協力しない代わりにこの事を誰にも漏らさないと約束したため問題にはならなかったが、不審を感じた側近の忠言によって孫晧は警戒心を強めた。
孫晧の側近はこの時天候を見て、天文的な占いから忠言をしていますが……もしかしたら孫晧はひそかにこの事に気付いていたかもしれませんね。
ちなみに万彧が孫晧に失望した時も丁奉にそのことを愚痴っていたり、丁奉が孫晧と対立関係にあったと推測できる逸話には事欠きません。
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