鄧艾 士載


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【鄧艾伝2】凋落のドンタコス

※タイトルの由来は三國志シリーズでドンタコスと言われていることから面白半分につけたもので、内容と無関係です。内容は正史三国志・鄧艾伝の後半の記述をなぞる物なのでご了承ください。

 

 

 

 

 

対北伐戦線・後編

 

 

 

安西将軍の代行役任じられた鄧艾は、その年のうちに再び北伐の抑えに転進。この年、姜維の北伐により将軍の王経(オウケイ)が大敗、狄道(テキドウ)で追い詰められて風前の灯となっていました。

 

鄧艾はこれを救出するために軍を進発。辛くも王経を追い詰めていた姜維を撃退します。

 

しかし、姜維は未だ近くの拠点に滞在。まだまだ攻勢に転じることも可能な位置に軍を駐屯させており、まだまだ予断を許さない状態でした。

 

 

正式に安西将軍に昇進、事実上の西方総大将となった鄧艾は、「もう姜維は来ない」と楽観する諸将に対して未だに周囲の警戒をするよう通達。あくまで姜維の攻撃に備える構えを見せました。

 

 

「王経の敗北で敵は勢いづいた上に兵糧も確保し、対してこちらは敗戦により精兵を多く失い、武器の手配もろくにできず、遠方より駆けつけ疲れ切った兵が大部分を占めるという有り様。おまけに相手が戦力を一点集中出来るのに対し、こちらは異民族への対応も含めると軍を四分割する必要がある」

 

 

かくして鄧艾は、「敵が攻めるなら穀物が豊富な土地」として、ちょうど麦が成熟した祁山(キザン)の防備を強化し、姜維の侵攻に備えることにします。

 

すると、姜維は鄧艾の予想通りに侵攻を開始。祁山ルートがふさがれているのを察した姜維はすぐにルートを変更しましたが、鄧艾はそれすらも先読みして完璧に対応します。

 

圧倒的な優位にいた姜維軍ですが、この鄧艾の読み勝ちと頼みの援軍が到着できなかったこともあって大敗。鄧艾の言葉通り危機的状況でしたが、その活躍によってなんとか危地を乗り越えることができたのです。

 

その翌年、鄧艾は鎮西将軍(チンセイショウグン)・鄧侯(トウコウ)に昇進し、更に西方の軍事を司る都督の職にも就いたのです。

 

 

またこの時より、蜀内部では姜維の度重なる北伐に対する反対意見が爆発。甘露2年(257)に再び攻め寄せてきたのを最後に、数年の間鳴りをひそめます。

 

一方の鄧艾は、北伐を再び防いだとしてさらに征西将軍(セイセイショウグン)に昇格。六千六百戸という、武官としては明らかに桁が違う広大な領地を与えられることとなりました。

 

 

北伐を何度も失敗させてしまった蜀内部の混乱に、姜維と朝廷の対立。鄧艾が西方ににらみを利かせている間、いよいよ蜀の終わりが近づきつつあったのです。

 

 

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蜀征伐・前哨戦

 

 

 

景元3年(262)に姜維は再び北伐軍を動かしましたが、ここでも鄧艾は姜維を破って撃退に成功。徐々に大きくなりつつあった蜀は、いよいよ目に見えて崩壊が始まりました。

 

翌年、ついに大将軍の司馬昭(シバショウ)は帝の勅命を通じ、蜀の征討を宣言。司馬昭自身の指揮のもと、ついに魏は蜀の平定に向けて進軍を開始したのです。

 

 

鄧艾は迎撃に出た姜維を引き付ける陽動の役割を負い、蜀の主力と対峙します。そして、鍾会(ショウカイ)の軍勢が主力不在の蜀領内へ侵攻していくの手助けして作戦を成功しました。

 

さらには慌てて後退する姜維に会戦を仕掛けて打ち破る所まで行ったのですが大きな打撃を与えることはできず、友軍が姜維の陽動に引っかかってしまったのもあって取り逃がしてしまいます。

 

 

かくして上手く逃れた姜維ら主力部隊は、撤退して要害の剣閣(ケンカク)に籠城。鍾会はそのまま剣閣を攻撃しますが、山間部の要害に籠城されたのでは手の出しようがなく、そのまま進軍が止まってしまいました。

 

 

完全に手が止まってしまった蜀への侵攻。もはや正攻法ではどうしても上手く行かないのを悟った鄧艾は、ついにとんでもない滅茶苦茶な作戦を提案することにしたのでした。

 

 

「山脈の横道を通り、一気に敵の中枢部へ奇襲を仕掛けましょう。これで奇襲部隊に釣られた敵は剣閣を放棄するか、それができなければ奇襲部隊が領内を一気に食い荒らすことができます」

 

 

蜀の位置する益州は2000メートル級の山脈に覆われた盆地。昔から攻めるのも難しい要害といわれており、おまけに回り道は一部崩落すらしています。つまり鄧艾は、危険な上に兵士最大の敵である多大な疲労と補給不足をともなう悪路を、自らが進軍しようと考えたわけですね。

 

誰がどう考えても無謀でしかない危険な奇襲策。しかし鄧艾はこの作戦指揮を自ら名乗り出て、意気揚々と首都・成都(セイト)近郊に向けて進軍を開始したのです。

 

 

 

蜀の滅亡

 

 

 

鄧艾が選んだのは、もはや道と言えるかも微妙な陰平道(インペイドウ)。あまりに険阻なため人が住める地域ですらなく、鄧艾軍は人っ子1人いない獣道をひたすら進軍していきました。

 

その行軍内容たるや、山にトンネルを掘ってそこを進み、崖には橋をかけてなんとか通過し、毛布にくるまって崖を転がり降りては木につかまってロッククライミングという無茶苦茶なものだったと史書には書かれています。

 

おまけにそんな深い山の中ならば、当然ながら兵糧のめども無し。輸送も何度となく滞り、とにかく作業は難航を極めたと言われています。

 

 

しかし、そんな無茶の甲斐もあって鄧艾はついに蜀内部の平野部に到着。姜維の後詰として涪(フ)にて首都防衛隊を率いていた諸葛瞻(ショカツセン)は、この報告を受けるとすぐに後退。涪を捨てて首都にほど近い綿竹(メンチク)で鄧艾の軍勢を迎撃する構えを見せました。

 

諸葛瞻を破れば、いよいよ蜀の中枢部は完全にがら空き。鄧艾はすぐに息子の鄧忠(トウチュウ)と部下の師纂(シサン)を攻撃に繰り出します。

 

 

が、鄧艾軍はすでに疲労困憊の上、山脈を越えてきた関係で軍備も圧倒的に不足という有り様。諸葛瞻に一度は敗れ、そのまま両名とも「無理」と結論付けて後退してきました。

 

鄧艾はこの時「何が無理だ!今こそ存亡の分かれ目ぞ!」と激怒してもう一度2人を繰り出しましたが、この時にはどちらも処刑してやろうかとすら考えていたそうな。

 

 

結局、鄧艾に殺されるか諸葛瞻相手に討死するかの2択を迫られた鄧忠と師纂は、死に物狂いで諸葛瞻の軍勢に再度突撃。諸葛瞻や張飛(チョウヒ)の孫・張遵(チョウジュン)らを討ち取り、蜀の首都近郊を丸裸にすることに成功しました。

 

 

鄧艾軍によって蜀内部の防衛部隊をほとんど壊滅させられた蜀は、いよいよ降伏を決意。帝の劉禅(リュウゼン)は鄧艾の元に出頭してきました。

 

 

これによって、蜀は完全に滅亡。鄧艾は蜀での略奪は行わず、降伏してきた蜀の臣は許し、蜀の兵で一度は晒し上げにしたもののすぐに戦死した魏の将兵らと共に埋葬するなど、善政に努めて民心の確保に専念。

 

同時に「しばらくは兵の疲れをいやすことが先決ですが、呉を滅ぼす際には長江を下って攻めていくのが良いと思われます。今は蜀の人民に寛大に接し、呉にもそれを見せつけましょう」と対呉の進言も行っています。

 

 

しかしながら、この手柄で鄧艾はすっかり天狗になってしまった模様。

 

蜀の名士たちに対して自慢げに「苛烈な征服者でなくわしに会えたおかげで無事にすんだ。よかたな!」などといいはじめ、挙句姜維を評して「英雄だったんだけどなー、相手がわしだからかわいそうにも負けちゃってー」などと、もういかにもアレな感じになった様子が史書に描かれています。

 

 

とまあ鄧艾自身は元々こういうタイプの人物であったために……蜀討伐の手柄を最後に、後は凋落の道を駆け降りるばかりとなってしまいました。

 

 

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凋落のドンタコス

 

 

 

鄧艾の不器用な上に敵を作りやすい性格は、長きにわたり多くの潜在敵性を作ってしまっていました。

 

おまけに職を滅ぼした後には、とうとう司馬昭にすら「今は指示を待って、独断専行は控えろ」と注意を受けては「国益を損なうような行動はしません」と返すなど、ちょっとギスギスした様相を呈していったのです。

 

 

とまあそんな言い合いが発生した結果、ついに鄧艾に対して敵対心を持つ者や、手柄に対し嫉妬心を向ける者に目を付けられてしまいます。

 

 

まず初めに動いたのは、事実上蜀征討の司令部として動いていた鍾会。彼は鄧艾が独断専行すら行おうとする姿勢を見て、「あれは反乱の兆しです」と司馬昭に讒言してしまいます。

 

おまけにこの讒言には、同僚の胡烈(コレツ)や衛瓘(エイカン)、1度自分に斬られそうになった師纂すらも乗っかかる始末。

 

早い話が、無意識下で敵を作りすぎたせいで、完全に孤立してしまったわけですね。これだけ多くの讒言が飛び出てしまえばさすがに司馬昭もかばいきれなかったようで、ついに鄧艾は反逆罪として逮捕。囚人として護送されるに至ってしまいます。

 

 

その後、鍾会が成都に入って反逆を目論んだものの失敗して死去。讒言の元である鍾会の反乱で濡れ衣と証明できる手がかりを得た鄧艾軍の本営たちは鄧艾を取り返そうとしましたが、特に恨みが深かったのか衛瓘は鄧艾殺害のために兵を派遣。結局鄧艾は息子ともども、反逆者のまま斬殺されてしまったのでした。

 

 

とはいえ、衛瓘が意地で鄧艾を殺そうとしたのは功名心からという説の方がはるかに有力。この時に田続(デンゾク)という人をそそのかして鄧艾を殺させたとされていますが、むしろ鄧艾に恨みがあったのは田続であったそうな。

 

しかしまあ、鄧艾も敵や恨みを作りやすいタイプだったのはまた事実。怨恨の可能性も個人的には捨てきれません。

 

 

ちなみに鄧艾の無実が晴れたのは、泰始3年(267)のこと。この時の上奏文にも内面はボロクソに書かれており、またそれまで誰1人として擁護しなかったようですね。その辺を考えると、やはりどれほどの実績も恨みには勝てないことが伺えますね。

 

 

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