このエントリーをはてなブックマークに追加

【タチの悪い】暴走・焦げまんじゅう式三國志【大暴投】

 

 

ただの悪ふざけであり、史実とかとほとんど意味がないネタでも何でも関係なしにブチ込んでいきます。

 

信じる信じないは自由ですが……信じた結果大恥をかいても責任は負いかねますので、くれぐれもご用心を……

 

 

 

 

さて、警告をしたところで……ようこそ、三国志と呼ぶにもおこがましい、焦げまんじゅうのふざけた妄想ワールドへ。

 

ここに書かれたネタは、すべてこの私のストレス発散。いわば、ほとんど三国志とかそういうのとは無関係なおふざけ空間です。

 

 

寒いネタ連発、トンデモな珍考察、歴史背景を無視した大暴投など、そういった考察ともいえない悲惨なネタをここに書き記していきます。

 

 

では、どうかごゆるりと……

 

 

 

関羽(カンウ)の娘、関銀屏(カンギンペイ)。その出所は関羽伝にて出てきた名もなき関羽の娘で、民間伝承によっていろいろと設定が付け加えられていますね。

 

 

もっとも、正史における関銀屏は名前すら知らぬまま、ただ関羽伝の一文にて軽く触れられているだけですが……そんなちっぽけな逸話からも見えてくることがあります。

 

 

 

関羽の外交下手。いや、もっと言えば社交クソくらえの人格とでも言いましょうか。

 

簡単に言えば、建前や社交辞令が言えない(言わない)、自分が最強の自負にどこまでも正直な人だったように見受けられます。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

関銀屏について

 

 

 

さて、関銀屏の概要に釣られを調べて来た方のために、軽く民間伝承における関銀屏を見ていきましょう(とはいえ、ネットと初心者用解説本の胡散臭いコラムからの引用ですが)。

 

関銀屏は関羽の3番目の子であることから関三小姐(カンサンショウシャ)などとも呼ばれており、生まれながらにして大変色の白い子でした。

 

 

ちなみに銀屏という名前の名付け親は、叔父である張飛(チョウヒ)。関銀屏は父親の関羽だけでなくこの張飛にもかわいがられ、そのまま真珠を贈り物にされるほど愛されたとか。

 

 

 

そんな関銀屏は、成長して女性として成熟してくると、聡明でありながら武勇にも優れた才女へと成長。某シリーズのような筋肉バカ天然で愛らしい性格というよりは、しっかり者のようなイメージで伝承には残っているようですね。

 

 

しかし、そんな折に呉の孫権(ソンケン)が突如背後から襲ってきたことにより死亡。関銀屏は無事に逃げ延びることができますが、悲しみのあまり食事すらとれず、張飛からの気遣いすらはねのけるほどに心身とも衰弱してしまいました。

 

その心根に強くある思いは、父の仇討ち。やがてなんとか立ち直った関銀屏は凄腕の武人である趙雲(チョウウン)に武術を師事し、もともとの要領の良さもあってみるみる上達していきます。

 

 

が、結局その武勇は仇討ちに活かされることはなく、諸葛亮(ショカツリョウ)の南蛮征伐に自ら随行し(この時、「国勢的には孫権より反乱討伐が重要課題です」と答えてます。賢い!)、そのまま南中の地に留まることになって生涯を迎えたとされています。

 

そのため、関銀屏の逸話は、主に雲南省の一部地域で未だに残っているとか何とか。

 

 

 

 

 

敵に大義を与えてアボン

 

 

 

さて、関銀屏の話はこんなところでよいでしょう。

 

では、今回のメインの話題である、「関銀屏(面倒なので以後こちらの表記で記載)の話」を通じて関羽の性格を見ていきましょう。

 

 

以下は、三国志の関羽伝(ちくま文庫による翻訳済)にある一文です。

 

 

孫権は息子のために関羽の娘が欲しいと申し込んだが、関羽は使者を怒鳴りつけて侮辱し、婚姻を許さなかったので、孫権は大いに立腹していた。

 

 

ふむ……。孫権がわざわざ関羽に単独交渉を申し入れた理由も不明ながら、関羽関羽で外交的には最悪の事をしでかしてます。

 

 

まず、独断で勝手に孫権の申し出を却下したことが問題。

 

孫権にとっての同盟相手は関羽でなくその兄の劉備(リュウビ)であり、関羽はあくまで一方面軍の司令官に過ぎません。

 

当然そうなれば上の認可が必要で、関羽は感情的になるあまりそれを無視して独断専行をとってしまったことになりますね。

 

 

その上で、さらに侮蔑して叩き返したのであれば余計アウトです。

 

これはもう、孫権劉備どころか自分よりも格下と考えていると言ってもいい問題行動で、人を見下しやすい関羽の問題点が明るみに出てしまったと言って差し支えありません。

 

 

 

よりにもよって、この時関羽率いる荊州の文官トップである潘濬(ハンシュン)とも、その仲は最悪。

 

彼のみならず糜芳(ビホウ)や傅士仁(フシジン)ら劉備から派遣された助っ人や名士勢とも決定的な亀裂があり、おそらくこの時の関羽は外交的アドバイスができる人間をすべて見下し、また彼らも関羽にわざわざ助言などしたいとも思わず、しても聞いてすらもらえなかったのではないでしょうか?

 

いや、さすがにこの辺は推察(もとい妄想)ですが……俺様気質のあまり良い身分の人間や同格を下に見たい悪癖が何らかの形で作用した可能性はあると思われます。

 

 

 

この話は架空?

 

 

 

もっとも、いくら何でもこの対応は非常識。というわけで、関羽を擁護する声の中には「この話はそもそも創作のガセネタを拾った陳寿が書き記した」とする説があります。

 

他の面々ならばともかく、関羽が義兄(正史では兄のようなもの)の劉備をないがしろにした行動を取るのかどうかが疑問視されているわけですね。

 

実際のところ、私の個人的な意見としても、劉備を無視して好き勝手する関羽というのはいささか想像がしづらいです。

 

 

 

……が、それでも、関銀屏の婚姻のくだりは嘘であるという話がにわかに信じがたい自分がいます。

 

というのも、この話が書かれているのは、孫権の呉主伝や呂蒙伝といった呉の伝記ではなく、よりによって蜀の関羽の伝

 

 

まあ国賊の類いはあえて悪く書かれるのが恒例ですが……陳寿は政治の関係で魏と晋を表向き神のごとく信奉するような書き方をしていますが、実際には蜀をなんとか持ち上げようと奮戦していた様子が伺えます。

 

そんな中で蜀の崇拝すべき先主劉備の弟分である関羽を、そんないらん記述をつけ足してディスらなくても、糜芳や傅士仁はじめ嫌いな連中への対応だけで嫌な奴感を晋に見せるのは十分なはず。

 

 

本当にそんな話を付け足さなければ厳しいにしても、それは呉主伝辺りに付け加えればいいだけの事。わざわざ関羽伝に話が載っている辺り、やはりやらかした可能性が濃厚なのではないでしょうか?

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

部下には慕われたんだけどね……

 

 

 

 

さて、そんな同僚や同盟相手に対してゴミを見るような目で応対した関羽でしたが、意外にも自分より明らかに格下といえる連中には滅茶苦茶優しく、以外にも関羽直属の軍内ではかなり慕われていました。

 

はてさて、とすればあの性格は「自分がもっとも有能でなければ」という自負と焦りが生んだ態度か、はたまた真正のジャイアニストゆえの子分愛か……

 

 

 

何にせよ、外交の場においても「自分が一番」という意見を曲げることができず、結局一流の腹芸士である孫権にまんまと悪党として攻撃を加える大義名分を手渡してしまった関羽

 

何とも信じられないほど衝撃の話ですが、最後の最後には食料に困窮したあげく、「どーせ敵だから」とばかりに呉の領地で略奪を働いてしまっていますね(呂蒙伝より)。

 

元々手に画鋲を仕込んで握手をしかねないくらいのギスギス関係であった劉備孫権。そのちょうど地理的に中間にいた関羽がこうしてまんまと呉の大義名分づくりに乗っかかってしまったのが、劉備らの荊州失陥の主な要因のひとつです。

 

 

そんな関羽の性格(というか短所)を外交能力から紐解いて表すと、

 

問題を沸騰させることにおいては、現代の電気ケトルが湯を沸かすのに勝る

 

と。

 

 

まあ演義だと近寄りがたい偉人(やってることは正史以上にDQNだけど)な関羽にも、このような致命的弱点がありました。

 

それを端的に表現した逸話が、娘の関銀屏と孫権の息子の懇談破局の逸話と言えるのではないでしょうか。

 

 

とはいえ、そんな関羽の傲慢さを「どうしようもない奴だな」と見るか、「あの関羽が親しみやすくなった」と見るかはその人次第。

 

何にしても、完璧な人ってのはやはりいないものですね。

 

 

続きを読む≫ 2018/10/27 16:34:27

 

 

 

甘寧の事績に関する記述は、こちらをご覧ください。

 

 

 

甘寧(カンネイ)、字を興覇(コウハ)。ぶっちゃけ字はDQNネームと思っていい。まあ、この時代は無上将軍とか何とか平気で名乗る人もいるので、その辺をつつくのはよしておきましょう。

 

さて、今回は、呉を代表する生年不詳の荒くれ武者・甘寧の年齢についてちょっと考えてみたいと思います。

 

 

本当は考察のメニューにぶち込めばよかったのですが……あまりに考察と呼ぶには事実確認ばかりなのとザックリしすぎな点。そして甘寧像をぶち壊しかねない事などから、暴走側のカテゴリーに入れさせていただきます。

 

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

まずはメディアでの甘寧を……

 

 

 

さて、考える前に、まずは三国志メディアに登場する甘寧の年齢をちょっと覗いてみましょう。

 

まず、もっとも間近な三國無双シリーズでは、3時点での設定年齢は23歳。その後もシリーズを跨いでも若者然とした顔立ちに変化は無く、おおよそこれくらいだと思ってよいでしょう。

 

 

他のメディアにおいても、出で立ちは暴力団関係者を連想する若者風、あるいは、壮年の男性と言った物が主。たまに例外はありますが、冷静だったり正統派の猛将だったり、荒くれらしさが抜けただけで、結局青~壮年くらいの見た目であることは間違いないでしょう。

 

 

というわけで、おおよそ想像できる甘寧像は、以下の通りに集約されますね。

 

 

・20~35歳くらいの間で描かれることが多い。

 

・肌を露出してる場合は刺青とかもしちゃってるヤクザだが、たまーに普通の感じの甘寧もいる。

 

 

さて、前置きが長くなりましたが……とりあえずこれらの要素を踏まえた上で、甘寧の若かりし日の事績を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

益州時代のアレコレ

 

 

 

まず甘寧が益州を離れた理由ですが、これは益州の主である劉璋(リュウショウ)に反乱を起こしたのが原因とされています。まあ甘寧伝の本文には、本の虫になってインテリ化した後にふらっと益州を出たような書き方をしていますが……今回はこの反乱説を信じてみましょう。

 

とりあえず甘寧が関与している可能性が考えられる反乱は2つ。まず興平元年(194)に反劉璋によって引き起こされた反乱と、建安5年(200)に趙韙(チョウイ)が引き起こした州民反乱ですね。

 

 

前者は『英雄記』に書かれた反乱であり、甘寧の名も末端に記載があります。また、後者のものは荊州の人間から略奪を受けた益州人がキレて趙韙の主導の元に起こしたもので、こちらは後に呉の将となる李異(リイ)も参加していることが見受けられます。

 

 

もう名前があるのならほぼ確定でいいんですが……ここは限界まで若く見積もってみましょう。

 

 

まず、甘寧は益州でヤクザをやっていたのが20年余り。本に親しんだのはその後であり、もうこの時点で30代も半ばに差し掛かっているはず。しかも呉書ではヤクザになる前は会計報告の役人をしていたとあるので、もう少し上かもしれませんね。

 

 

つまり、どれだけ生まれが遅くても、建安5年(200)、つまり曹操(ソウソウ)が袁紹(エンショウ)と官渡でガチってる時には、40歳が手に届くような年齢に差し掛かっていたと言えるのです。

 

 

 

 

英雄記を信じるともうヤバい……

 

 

 

と、史書を無視して若く換算しても、呉に着くころには40歳を超えてそうな勢いの甘寧ですが……先述の通り、『英雄記』によれば反乱に参加したのは興平元年(194)のこと。

 

つまるところ、先ほどの換算からさらに5~10歳くらいプラスした年齢が、甘寧の実年齢である可能性が非常に高いです。

 

 

 

……怖いですが、もっとはっきりした数値を見てみましょう。

 

官吏となって辞める⇒20年余りのヤクザ時代⇒読書三昧⇒反乱⇒逃亡

 

とまあ、ここまでの経歴をぎゅっと絞ってだいたい25年とします。そして、官吏に任官されたのを、数え年で15歳と計算(これでも異常に早いですが)。

 

 

えー、この時点で、194年時点では40歳。つまり、数え年換算だと生まれは155年、当時の元号で永寿元年。

 

これ、曹操と同い年です。

 

 

つまりこの計算をそのまま考えると、甘寧は曹操袁紹あたりとほぼ同世代、下手すると数歳年上という可能性も出てきてしまうわけです。/(^o^)\ナンテコッタイ

 

 

そこから劉表(リュウヒョウ)、黄祖(コウソ)と不遇の時期を過ごすのが10年余り。甘寧、呉に使えるようになったのは予測に照らし合わせると50歳くらい。下手すりゃもっと上。

 

 

とまあ、こんな感じで、若々しい筋肉で暴れ回る爽快な猛将・甘寧は、あっという間に老将と言える存在に……。このまま還暦くらいの年齢で唍城一番乗りや決死部隊を率いての奇襲作戦におもむいたのだから、まったくもって恐ろしいものです。

 

 

スポンサーリンク

 

 

おじいちゃんが不貞腐れるにしてもだね……

 

 

 

さて、そんな曹操が疲れから耄碌を始めるころに絶頂期を迎えた甘寧ですが……彼がおじいちゃんだとして、ひとつ「これギャグだろ」と思えてしまう逸話があるので、それをちょっと思い出しながら締めたいと思います。

 

 

陳寿から「粗暴ですぐに人を殺した」と言われる老害ヤンチャな爺さんの甘寧ですが、ある時、ブチギレて料理人を殺そうとしたという事件がありました。

 

この逸話は甘寧伝の人物評と共に載せておりますが……まあ、結論から言いましょう。

 

 

呂蒙(リョモウ)に「殺すなよ」と釘を刺された甘寧は、知るかとばかりにその料理人を縛り上げて射殺。キレた呂蒙に殺されかけるも不貞腐れ、突如現れた呂蒙ママによってなんとか和解するという話になっています。

 

 

 

ええ、なっているのですが……。

 

 

まず、老成したいい歳の爺さんが許せないとはいえ縛り上げて射殺というのがどうなのか。そして何より、呂蒙が剣を片手に押し掛けてきた時も、上半身裸で寝そべって日光浴。呂蒙がキレながら呼びかけても無視して起き上がろうともしませんでした。

 

まあ、これで呂蒙を完全無視しているだけなら、まだ老害らしいエピソードのようにも言えるのですが……なんと甘寧、母の呼びかけで正気に戻った呂蒙が優しく声をかけると、突如嗚咽を漏らして泣き始めたのです。子供か!

 

 

 

まあ中年になるまでヤクザとして暴れまわり、その後も誰からも半ば認められず、呉に入ってからも優遇なのか不遇なのかよくわからない日々を過ごしたのが甘寧という人物。

 

 

もしかしたら、優しく受け入れられる居場所というのは、幼いころから欲しくても手に入らなかった物なのかもしれませんね。

 

 

 

……まあ、それにしても60過ぎの爺さんの態度ではないとは思いますが。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/10/13 20:43:13

 

 

これは焦げまんじゅうが史書を曲解した末にたどり着いた、くだらない妄想の一種の終着点です。

 

本来の呂布に関する考察は、こちらをご覧ください。

 

 

 

さて、私、正史三国志(と言っても日本語訳のほうですが)の呂布伝を読んでから、とある疑惑(というか妄想)を抱えておりました。

 

まあ先にネタバラしをしとくと、実際はただのこじつけですが……抱え落ちするのもなんかもったいない気がするので、ここで暴発させようと思います。

 

 

今回の話題は、無双の猛将・呂布、まさかのヘタレ説です。

 

 

 

………………。

 

はい、いきなり滑り散らかした気がしてどうにも落ち着きませんが……せっかく話題に出してしまったのです。この際、私が呂布をヘタレではないかと疑うに至ったエピソードを、彼の生涯と照らし合わせて追っていきましょう。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

魔王にガチビビリ

 

 

 

呂布ははじめ、丁原(テイゲン)という人物に武勇を感激され、非常に深い寵愛を受けていました。

 

しかし昭寧元年(189)、呂布は突如として丁原を裏切り、殺害。彼の手勢を掌握すると、裏で糸を引いていた董卓(トウタク)の元に向かいます。

 

 

これも「董卓にビビった」というヘタレエピソードにしようと思えばできましたが……まあさすがにそこまでのこじつけはやめにしておきましょう。

 

 

 

さて、話は戻って……初平2年(191)、諸侯は反董卓連合軍を結成し、彼が政治を牛耳る洛陽へと一斉に攻め寄せてきました。

 

この時に呂布は胡軫(コシン)という武将と共に、もっとも脅威となる孫堅(ソンケン)の抑えに出陣したのですが、呂布はなんと、大嫌いな胡軫を騙し、強力な相手である孫堅に無防備な状態でぶつからせて敗走させてしまいました。おい何やってんだ

 

 

そのせいで、孫堅軍は一度徐栄(ジョエイ)に敗北するものの臆することなく進軍。ついに洛陽に迫っていき、追いつめられた董卓は都・洛陽を放棄して西の本拠地付近である長安に逃げ込んでいきました。

 

 

こうして追い詰められた董卓は、疑心暗鬼からかいよいよ乱暴な振る舞いに歯止めが利かなくなってきます。そしてついには、呂布にも些細なことでキレて手戟(シュゲキ:投擲用の小さな戟)を呂布に投げつける事すらあったのです。

 

 

しかもタイミングが悪いことに、呂布は当時、董卓の侍女の一人と絶賛熱愛中。はい、董卓の女といわゆる不倫状態にあったのです。

 

 

……はい、この時の呂布、史書によれば気が気ではなかったとか何とかで、もうどうしようもないくらい内心ビクついていたそうな。

 

 

「ヤバい……これバレたら董卓に殺される……!」

 

 

そんな思いから、呂布はなんと、董卓に反感を持つ過激派筆頭格の王允(オウイン)という人物に、「俺、実は董卓に殺されそうになったんだ」と相談を持ち掛けます。ちょっとー!?おーい!!

 

ビビりまくった呂布から泣く泣く相談を受けた王允は、呂布にこのような提案を持ち掛けます。

 

 

「ああ将軍、災難でしたな。実は現在、董卓を殺すための謀略を巡らせておりまして……。これが成功すれば、将軍は助かるどころか、天下を救った英雄にもなれますぞ」

 

 

さすがの呂布も「義理の親を殺すのか」とためらったものの、「命の危険が迫っているのに、苗字が違う親子関係を心配する者がいますか!」という王允の一喝に、ついに呂布は「殺ってやるぞ!」と奮起。一刀の元、董卓を斬り捨てて王允派に正式に組み込まれたのでした。

 

……が、後に董卓軍残党によって王允らは襲撃を受け、都は大混乱に。呂布は敗北し、「長安と運命を共にする」と都に残った王允を置いてそのまま逃げ去る事になったのでした。

 

 

 

ちょっとコメント

 

まあ命の危険があるのならば、普通に考えてこの裏切りもやむ無しといったところ。

 

しかし、普通の将軍ならともかく呂布がやったというのが、なんというか、うん。仕方ないにしてもイメージとはちょっと違ってきますね。

 

 

とはいえ……個人的にはそれよりも、嫌いな上司である胡軫を嵌めてわざと敗走させたところが、呂布のヘタレっぽさというか小物臭溢れるエピソードとしてのハイライト。ぶっちゃけ、呂布の限界が明らかになった気がします。

 

 

ちなみに呂布と密通した侍女ですが……これが後に貂蝉(チョウセン)という名で三国志演義に出て、その大胆な脚色と共に名が知られて中国四大美女にまで数えられたと言われています。

 

最後の逃亡に関しては……『英雄記』には敵方の猛将・郭汜と一騎討ちをしてボコボコにのしたと書かれており、この辺はさすがの武勇といったところですね。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

そうそうこわぃ(´・ω・`)

 

 

 

その後、いろんな群雄たちにお世話になりながらも長居できなかった呂布でしたが……曹操軍の陳宮(チンキュウ)なる人物から、ある誘いがかかります。

 

「もう曹操にはうんざりです!あなたを主君に兗州(エンシュウ)で反乱を起こしたいので、是非お越しください!」

 

 

呂布はこの話を快諾し、さっそく兗州に突入。曹操の留守を見計らって根回しした陳宮らの策謀により、兗州のほぼ全土はあっという間に呂布のものとなったのです。

 

さて、こういう反乱したての地域というのは、一応は味方した豪族もまだまだ新君主のお手並み拝見をしている最中。求心力的にも戦力的にも、地盤は固まっていないものです。

 

そのため、本来ならばこういう場面は攻勢に回ってでも、鎮圧に来た軍勢を追い返さないと周囲も従ってくれないのは明白です。

 

 

……が、ここで呂布がとった手段は、本拠である濮陽(ボクヨウ)への駐屯、籠城。前線の砦などを使って曹操を手早く追い返すのではなく、優位に驕ってかちょっとビビったか、本拠の濮陽で曹操を迎撃しようと考えたのです。

 

しかしまあ、これで撃退できたのならば、この戦術は悪いものではありませんでした。

 

 

が、この時は旱魃やイナゴの発生による不作の時期であり、もともと兗州を奪ったばかりで蓄えが無かった呂布軍は、その影響をモロに受けてしまったのです。

 

呂布軍は一時期こそ曹操軍を追い詰めたりもしたものの、結局飢餓には勝てず曹操軍と休戦。地固めができないままの呂布軍は、曹操軍に地力の差で負け始め、両軍戦争状態に戻ると連戦連敗を繰り返し、ついにはせっかく奪った兗州から叩き出されてしまったのでした。

 

 

 

ちょっとコメント

 

 

まあ、うん。結果的に曹操を追い詰めたから良しといったところか。この時曹操は落馬して手のひらを火傷したとか、一度呂布軍につかまったけど機転で逃げたとかいろいろ言われていますね。なんだかんだ、呂布軍の抵抗はかなり激しかったようです。

 

しかし、前線の要害を使わず城に籠って迎撃となる……、どこで聞いたか、私はある言葉を思い出してしまいます。

 

 

「慎重な者は国境付近に多く兵を配備する。臆病者は首都近郊に兵を配備する」

 

 

正直、呂布=ヘタレと結びついてしまった要因の一つはこの言葉のせいです。

続きを読む≫ 2018/10/05 16:15:05
このエントリーをはてなブックマークに追加

ホーム サイトマップ
お問い合わせ