郭汜
生没年:?~建安2年(197)
所属:他
生まれ:涼州?
郭汜(カクシ)。別称として阿多(アタ)という名も使われており、こちらは彼の字なのか幼名なのかはっきりしません。
さて、そんな郭汜は共に董卓(トウタク)軍として戦い後に独立群雄として李傕(リカク)らと連合体制を組んだ人物ですね。
如何せん李傕が強烈すぎてなかなか彼の横暴さは表に出ませんが……まあ、恐らくそれ相応にはヤバい人だったのでしょう。
しかし、謀略家でもあった李傕と違い、もっと武勇に特化させた猛将のような印象がありますね。この辺りも、イマイチ都の破壊者として影が薄い原因なのかも。
さて、今回はそんな郭汜の生涯を追ってみましょう。
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りかくといっしょ!
郭汜が歴史に名を見せたのは、董卓が都・洛陽を焼き払い西の長安に撤退した後のこと。この時董卓は東から攻め寄せる連合諸侯の抑えとして、娘婿の牛輔(ギュウホ)に軍を預けて陝(セン)の地に駐屯させていました。
郭汜は李傕らと共にこの迎撃軍の一翼を担い、董卓に敵意を示した朱儁(シュユン)を撃破。男を殺して女は犯すを文字通り行い、徹底的に暴れ回っていたのです。
しかし初平3年(192)、董卓は彼に反発する王允(オウイン)や内心董卓を恐れていた呂布(リョフ)らの謀略により死去。それを聞いた牛輔も逃走の末部下に殺され、董卓軍は壊滅してしまったのです。
朝廷からも赦免が出ず「涼州人は皆殺しにされる」という風聞すらも流れる絶望的な状況の中、李傕らは賈詡(カク)の進言により一か八かの長安強襲作戦を実行。
郭汜もこの作戦に参加し、呂布を追い払い王允ら反董卓の面々を殺害。見事に強襲作戦を成功させ、李傕らともども朝廷を手中に収めたのです。
郭汜は後将軍(コウショウグン)、美陽侯(ビヨウコウ)に格上げされ、実質的に李傕に次ぐナンバー2となったのでした。
ちなみに『英雄記』では、なんとあの呂布に一騎打ちを挑んだという郭汜の雄姿が描かれています。
もっとも、相手は三国志最強と言っても差し支えない武人。一方的にボコボコにされ、遠巻きに見ていた兵士たちが助けに乱入してくるまで耐えるのが手いっぱいだったようですが……
その後、郭汜は李傕と共に長安を統治し、無法地帯ともいえる地獄に叩き落して支配を強めていったのです。
李傕との仲違い
さて、こうして涼州人の天下を再び呼び込んだ立役者である郭汜は李傕と共に専横を強めていきましたが、2人の仲は非常によく、しばしば苦しむ民そっちのけで李傕に誘われて宴会を開くほどでした。
……が、そんな2人の仲にも、遠からぬ先で亀裂が生じることになります。
元々連合体制を敷いていた李傕陣営は、主導権争いが頻発。そのあおりを受け、同志であった樊稠(ハンチュウ)が李傕の手により殺害されてしまったのです。
これを機に、李傕と郭汜の仲は急激に険悪化。疑心暗鬼に駆られ、最終的には市街地で戦争を始めるほどになってしまったのです。
一応李傕は始めこそ郭汜とよりを戻そうと役人を使者にして郭汜の元に送っていましたが、郭汜はそれらをすべて拘留し李傕に敵対の意を表明。
ついに2人は完全に決裂し、長安では李傕、郭汜の2頭による内紛の時期を迎えました。戦闘は数ヶ月によって行われ、死者も数万に膨れ上がったと言われています。
結果、同郷の士である張済(チョウサイ)が仲裁に入り、この争いに嫌気がさした帝は洛陽に帰ることが決定してしまったのです。帝の護送の列の中には郭汜の姿もあり、これでようやく争いは決着かと思われましたが……最後にもう一波乱、この男は引き起こしてしまうのでした。
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郭汜最期の大勝負
郭汜は途中まで大人しく帝の東進に付き添っていましたが、やはり思い返して「帝は俺たちで戴くんだ!」と突如変節。反逆して帝を武力拘束しようと試みたのです。
しかし帝を守る護衛軍はその数を増しており、この強襲は失敗。郭汜は反逆者として山中へと逃亡し、あれほど殺し合った李傕の元へと逃走したのです。
そして李傕と、帝を護送しながらも周囲と仲違いした張済を巻き込んで再戦。そのまま帝を護衛する軍勢を討ち破ってしまったのです。
……が、ここまでやっておいて、そう上手く行くはずもありません。帝はすでにさらに東へ逃亡しており、結局追いきれずに帝の命令で官軍と和睦。
こうして大義名分を失い権威を喪失した李傕らは各勢力から付け狙われるようになり、郭汜もやはり各国の敵になってしまいました。
こうなってしまっては好き勝手など利くはずもなく、李傕は後に諸将に攻められ処刑。郭汜に至っては部下の裏切りによって殺され、その首は曹操の元に送られてしまったのです。
剛勇の郭汜
さて、これだけ見ると良いところはひとつもないように見える郭汜ですが、実は武勇においてはまさに剛勇の士といっても過言ではなかったようです。
というのも、先述の呂布との一騎打ちなんかもその証左の一つですね。ボコボコにされただけなので一見情けなくも思えますが、相手があの呂布ならば生き残っただけでも武勇を誇るに値すると言えるでしょう。
何より面白いのが、献帝の陪臣である董承(トウショウ)が郭汜を語った時の言葉。
「李傕と争っていた時には、数万の李傕軍をたった数百で撃退するような奴だった」
お前はどこの張遼だ
史書にあるわけではなくあくまでひとりの証言ではありますが……少なくとも超劣勢を武勇ひとつで押し返すだけの人物であるのは間違いないでしょう。
一方、性格はお察しの様子。
『漢書』では李傕を叩き潰すために役所の高官を招いてもてなし、意見を求めた際に楊彪(ヨウヒョウ)という人から「ひとりは帝を、ひとりは高官を人質にとって相争う!こんな臣下がありますか!」と一喝された際には楊彪を殺そうとするなど、やはり武人特有の荒々しさがあったようです。
もっとも、この時多くの同席者から諫められて怒りを収めたあたり、まだ邪神崇拝者の李傕よりは話が分かるかもしれませんが……
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郭汜の妻は味噌うんこ
郭汜が李傕と仲違いした理由として、郭汜の妻が原因であるとされている説もあります。
というのも、『典略』での話。
郭汜は李傕の宴会に頻繁に呼ばれて時には泊りがけになったこともあり、さらには李傕から美女を与えられることもある間柄でした。
さて、こうなると面白くないのが、郭汜の奥さん。
彼女は郭汜の寵愛を失うのが怖くなり、ある時ふと一計案じ、李傕から贈られてきた食べ物に細工をし、味噌を丸めて作った塊を一つ仕込んだのです。
そして、郭汜が李傕からの贈り物を食べようとすると制止をかけ、その味噌を取り出して「ほら、李傕はあなたを殺そうとしていますよ。私は前々から李傕が怪しかったのです」と訴えかけたのです。
そして次に招待を受けた時、郭汜は李傕の酒に毒が盛られているのではと勘違いし、なんと糞を絞った汁を解毒薬として持っていき、それを呑んで解毒しようとしたのです。
これを機に二人はお互いを信用できなくなり、最後には殺し合う仲になったとか。
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