入門者にもわかりやすく!これがけっこう難しい……


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当考察は、すべて「すべて焦げまんじゅうによる偏見と主観である」という言い訳前提のもと、独自解説を行っていくコーナーです。

 

 

的外れ? 上等。矛盾? 構わぬ。

 

そういうスタンスで、資料を見た上での自身の考察や直観を加えて色々と妄想見解を垂れ流していきたいと思います。

 

 

まあ、「こんな考え方もあるんだなー」程度に、軽い気持ちで見ていっていただければ幸いです。

 

 

当記事は事実ではなく、あくまで1視点から見た推測です。

 

 

袁紹(エンショウ)、字は本初(ホンショ)。大方の評価から見る人物像は、見てくれこそ威厳はあるものの所詮は見掛け倒しで優柔不断。一大勢力にのし上がったのも所詮は名門の血筋のおかげで、力量は大したことがない……といった感じです。

 

 

しかし、私個人としては、その評価には全力で待ったをかけたい。

 

 

もうすでに多くの人がこういった手合いの話をしていますが……私も今回、袁紹の優柔不断表について物申してみたいと思います。

 

 

 

 

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正史では「優柔不断」とバッサリ

 

 

 

袁紹の優柔不断評を決定づけるもっとも致命的な事実としては、三国志を編纂した陳寿の袁紹評が挙げられます。

 

曰く、

 

並外れた風貌と度量見識を持っていた。しかし寛大に見えて内側は猜疑心に満ち、謀略好きなのに決断力がなく、優れた人物や傑出した意見を聞くことができず、嫡子でなく庶子への寵愛を優先した。

 

 

 

おおよそ曹操(ソウソウ)の敵として悪く言われるのが宿命でありお約束。結果、まあこんな感じの酷評になってしまいますね。

 

この評価をまともに受ける限り、袁紹はボンボンの立場を享受して先祖の威光だけで上に立った雑魚群雄で、数だけで曹操を苦しめたものの、圧倒的な器の差が最後に出た……といった感じでしょうか。

 

 

もっとも、これは晋王朝の監修が入った、「魏や晋こそ正当でその他は偶然強くなれたその辺の雑魚」というバイアスのかかった評価。陳寿も祖国の蜀ならいざ知らず、興味もない北方の英雄のことなんぞ悪く書いたところでそこまで大きな悪感情を抱くことはないでしょう。

 

ましてや袁紹の政治スタンスは晋代にまで領内で影響を与えており、曹操が袁紹旧領を切り取った後も腹心の李典一族を影響下に移住させたり袁紹の息子たちの遺体を目に見えて粗雑に扱ったり、その血を絶やすために袁紹の息子を保護した異民族をわざわざ討伐に出かけたり等々……袁紹の影響力を削ぐのにかなり苦心している様子が伺えます。

 

 

つまり、袁紹の影響力を削ぐために必要以上に袁紹を過小評価した(せざるをえなかった)可能性もゼロではありません。

 

 

この辺を考えると、深く考えずに鵜呑みにしてしまうのは危険……かも。

 

 

 

 

 

極左のなんかヤバいアレ

 

 

 

袁紹の血筋は確かに後漢末でも最高級の超大物豪族でしたが、実は彼の母親はただの側室。もっとも、これに関しては成否不明なため諸説ありますが……少なくとも袁紹は名門袁家の影響力を強く使わない/使えない人物だったのかもしれません。

 

のっぴきならない境遇のためか元来の性格ゆえか、若き日の袁紹の態度は謙虚そのもの。身分によっての差別を行わない、絵にかいたような優等生でした。

 

 

しかし、その内側は……もう極左もいいところ。腐っても名家の血筋なわけで、大人しくしとけば国家重臣のはしくれくらいには食い込めたはずなのですが……そんな優等生の内側は過激で野心的、血生臭い思想で埋め尽くされていたようです。

 

 

おおよそ彼がやったことを簡潔にまとめると、こんな感じです。

 

 

・上司の仇討ちに宮中乗り込み。宦官と思しき連中は片っ端から粛清

 

・血族の身の危険を顧みず都から逃亡。案の定、都にいた袁家一門は粛清される

 

・独自軍閥を結成し、反董卓連合内でも意のままにならない奴に圧力をかける

 

皇族だけど漢の臣である劉虞を自分たちの皇帝に祭り上げようとする

 

・献帝・劉協の存在否定

 

・そのくせゴネてちゃっかり大将軍の位をゲット(地位の濫用)

 

群雄の韓馥を脅迫して無血で領土を奪う

 

・敵の敵は味方理論で異民族と結託し、公孫瓚を潰す

 

中原の外様名士を優遇し、土着の名士たちの言う事をほとんど聞かない

 

人材は道具とばかりに使い捨て

 

 

 

優柔不断なお坊ちゃま然とした性格にしては、やってることが血生臭い上に極端というかなんというか……

 

ハッキリ言って赤いです。やることなすことまっかっかです。こんな人間が本当に優柔不断……?

 

 

まあ確かに後継者争いを誘発してしまった件や官渡の戦いでの敗北を見ると、優柔不断と言いたくもなるでしょう。しかし、後継者争いを引き起こした要因が、従っとけば全然無難、むしろ安泰への唯一の道である「長男最強」の儒教精神を無視したと考えれば……これまた常識が良くも悪くも通用しないと言えるのではないでしょうか。

 

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後継者争い=名士たちの権力抗争

 

 

 

さて、後継者問題は三国志のみならず、それこそ中国すらも飛び越えて世界中の君主制国家でビッグニュースとなる一大行事ですが……そもそもなぜ後継者をお互いが争うのかを考えてみましょう。

 

この問題は、部外者からすると当人同士の醜い権力争いに見えるのですが、実はそれだけではありません。

 

本当の戦いは、後継者の後ろ盾となった名士同士の権力抗争。どの後継争いにも、当然袁紹の場合でもこれは同じことが言えます。

 

 

後継争いで言えば、実は袁紹だけでなく、三国志の各君主も引き起こしていますね。曹操は嫡男の曹丕(ソウヒ)を皇太子にしながらも旧来の貴族主義を脱却しそうな層から主な支持を受けた曹植(ソウショク)にも目移りし、お互いの派閥の多くの名士が犠牲になってます。

 

劉備(リュウビ)のところでは養子の劉封(リュウホウ)を早めに排斥することで分裂を免れていますが、もし劉封は実子であったら万一もあったでしょう。

 

孫権(ソンケン)のところは特にひどく、当人が傍観を決め込んだせいでどこよりも讒言処刑祭りが白熱化しています。

 

 

おおよそ、袁紹が三男の袁尚(エンショウ)をかわいがってみたり息子たち(と甥の高幹)に各地を分割統治させてみたりというのも、この後継者争いを使って君主権の強化だったり、本拠・冀州の土着名士を弱体化させたりといった狙いがあったのかもしれません。

 

 

 

 

中原名士と袁紹

 

 

 

さて、大雑把に黄河を挟んだ北側を河北、その南の首都圏一帯を中原と呼称することが多いのですが……袁紹は河北に勢力、本拠を持ちながらも、元来の出身地は中原の汝南(ジョナン)郡というアンバランスな立ち位置にいる人物でした。

 

言わば、中央から派遣されてきた地方官僚トップなわけですね。

 

 

こういう立ち位置の人たちは、基本的に現地の豪族たちと手を取り合って政治を押し進めていくのが基本でした。

 

しかし、そういった関係は言ってしまえば「地方の豪族たちがわざわざ余所者のリーダーに協力してやった」という意味にも解釈でき、地方豪族はとにかくその立場と現地の影響力を駆使して大物になりやすい傾向があったのです。

 

 

しかし、私は思うに、先述の通り袁紹は極左の人物。しかも独裁主義的な性格の持ち主でもあったようで、人の言いなりにならない気概と野心を持ち合わせていました。

 

そんな袁紹からすると、地方豪族の御輿としていつまでも担がれるのは面白くない。郭図(カクト)ら奸臣とされる人物の意見ばかりを聞いて田豊(デンポウ)や沮授(ソジュ)といった現地の鬼才たちを使いこなせなかったのは、はなから現地の人々を完全な味方と考えていなかった可能性が考えられます。

 

 

主に袁紹に対して讒言を働いた郭図はやはり中原にあたる豫洲潁川郡(ヨシュウエイセングン)の出身者。曹操陣営の主力名士たちと同郷です。

 

もう一人、讒言王と名高い(!?)逢紀(ホウキ)なる人物もいますが、やはり彼の出身地も荊州の南陽(ナンヨウ)郡。中原からは若干外れますが、それでも冀州からすれば外様であることは間違いありません。

 

 

後々に郭図と逢紀は敵対するようになっちゃってるからその辺本気で謎ですが……おおよそ袁紹の腹心たり得る人物は、おそらくこの2人で決まりでしょう。

 

そして面白いことに、荀彧(ジュンイク)、郭嘉(カクカ)、董昭(トウショウ)といった曹操軍のブレーンたちも、見限ったとはいえ一時期袁紹軍に所属しています。

 

 

袁紹が郭図と逢紀を主軸にして、土着名士を使い捨てて力を削ぎ、代わりに河北でなく中原名士を中心とした派閥を作っていこうと考えたのなら……袁紹が田豊、沮授、張郃(チョウコウ)、麹義(キクギ)といった文武の鬼才たちをむざむざ手放してしまったことは納得できないこともありません。

 

 

 

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袁紹の誤算―優柔不断の評のもと―

 

 

 

さて、こうして儒教的に長男の袁譚(エンタン)を後継ぎにするところを他の子供たちにもチャンスを与え、順調に土着名士たちを使い捨てていった袁紹ですが……この推測を立てるにあたり、おそらくいくつかの誤算があったのではと思われます。

 

 

1、郭図らの野心

 

2、土着名士たちの袁尚(エンショウ)支持

 

 

まあ袁尚は袁紹自身のお膝元で本拠の冀州を治めていますし、その過程で必然的に冀州土着の名士層とのパイプもできるでしょう。2に関しては誤算というより、袁紹にとっては思った通りか。

 

袁尚を土着名士ごと切り離すにしろ、長男の袁譚を差し置いて本当に後継者にするにしろいろいろな解釈ができます。

 

 

 

さしあたって、本当に袁紹の誤算たり得たのは1。

 

 

郭図ら潁川中心の名士グループは袁紹の腹心として、官渡の戦い前後までは冀州名士の力の削ぎ落しに動いていたのですが……なんと、官渡の戦いの後に審配(シンパイ)を讒言

 

審配は冀州の名士でありながらも外様側の陣営として動いている記述が散見されますが、郭図らはそんな審配を敵として排除しようとしてしまったのです。

 

しかも同じ外様名士の腹心である逢紀が審配を擁護してとりなしたことで、ついに郭図と逢紀という2代巨頭が対立関係になってしまいました。

 

 

袁紹はその後憂悶のうちに病死しますが……官渡での敗北よりもこちらのほうが憂悶の理由になってそうなのはきっと気のせいではないはず。

 

 

 

結局、郭図は潁川名士団を連れて長男の袁譚を支持。対する逢紀は審配ともども新生した冀州グループに鞍替えして三男の袁尚を支持することで両者が対立してしまいます。

 

それから先は、もはや歴史が示す通り。曹操の来襲にこそ力を合わせて対抗したものの、曹操が一時的に手を緩めると戦争を継続。袁尚有利のまま戦いは過熱していき、袁譚は郭図らのパイプを利用して曹操に降伏。

 

紆余曲折あってそのまま袁家兄弟は全滅し、完全に袁一門は破滅を迎えてしまったのでした。

 

 

優柔不断と叩かれて創作でも頼りなく書かれることが多い袁紹ですが……もしかしたら、ここに書いてあるような裏事情があって動いていたのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/11/01 12:52:01

 

 

 

 

反三国志という書物では、蜀は魏呉を圧倒し、ついには天下を統一するというオリジナルストーリーが展開されます。

 

そしておなじみ・三国志演義でも、蜀は勝てないまでも、天才軍師・諸葛亮の活躍により魏を圧倒し、あと一歩まで追い詰めるに至ります。

 

正史三国志でも、諸葛亮主導の元手堅い勝利を重ね、完勝には遠く及ばないまでも、ある程度の有利に戦いを推し進めました。

 

 

で、こういう話をして思うのが、

 

「蜀って、魏に勝てる可能性があったのだろうか?」という疑問。

 

 

今回は、焦げまんじゅう的に「蜀の勝ち目」について考えていきたいと思います。

 

 

 

 

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結論:無理

 

 

 

考えていこうといった矢先にこれである。

 

 

まあ演義やそれに準ずる、蜀がハイパーチートと化すようなご都合主義夢のような展開があるならまだしも、

 

タイトルにある通り「諸葛亮が」というくくり、すなわち北伐を行っている時代として考えると、とてもではないですが不可能です。

 

 

まあ曹真、張郃、司馬懿、郭淮といった対蜀戦線の面々が軒並み急死し、しかも魏の各地で大規模な反乱が頻発、これを機に呉や異民族が一斉に魏の領地に侵攻するくらいの奇跡が起きれば、案外どうにかできるかもしれません。が、はっきり言ってそんな虫のいい奇跡、起こるはずがないわけでして……。

 

 

 

当時の蜀は、三国の中でも最弱と言ってもよく、人口、生産力、兵力のすべてが圧倒的に不足していました。

 

蜀末期の推計によると、魏:呉:蜀の戸籍人口の対比は、4:2:1とも言われており、呉蜀の総力を結集してもなお、魏には届かない有り様。とてもではないですが、まじめにやって勝てる道理はありません。正直、何をやってもジリ貧でしょうね。

 

現に蜀は諸葛亮が亡くなった後、30年ともたずに滅亡しています。

 

 

時代がさかのぼり、関羽が荊州から北上軍を出している頃ならば、あるいはと思われますが、これも呉が領有権を主張している荊州を所持する条件がある以上、呉との同盟関係も危ういので厳しい。

 

そもそも、呉が領有権を持ったまま蜀に荊州を「貸与」という形で譲っている以上、ひと悶着は絶対に避けられないと言えるでしょう(蜀も蜀で、荊州が地元の名士を大勢抱えている)。

 

 

以上のことから、蜀の打倒・魏帝国は限りなく不可能に近く、とてもではありませんが今回の命題が「達成可能」という形で果たされることは、まずもって無いと思われます。

 

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魏延の長安奇襲策の勝率

 

 

 

 

それでも、どーしても勝ちたいという場合に持ち出されるのが、この長安奇襲策。

 

魏延という猛将が編み出した策で、結果的に諸葛亮は「危険」として棄却した策なのですが……「もう死んでもいいから勝ちたい」という場合には、私としてはこれしかないのかなと思います。

 

 

作戦の内容は、まず本隊とは別に奇襲部隊を編制。そしてその奇襲部隊が、谷間の狭い道を通って、魏の西側の大都市・長安を強襲、一気に制圧し、防備を整えて、広い街道沿いを制圧しながら進む本隊の長安到着まで待つというもの。

 

 

結論から言って、長安の奇襲は不可能とは言い切れないでしょう。

 

というのも、もうその時代よりも30年以上前のことでかつ長安が混乱のさなかにあったという前提条件こそありますが、実際に李傕(リカク)らが電光石火で長安を攻め、見事に陥落させることに成功させています。

 

しかも第一次北伐の時はまだ魏も侵攻を警戒しておらず、長安は手薄。ましてや軍事的才覚に乏しい夏侯楙(カコウボウ)が長安を守っており、直前まで気付かれずに奇襲を成功させれば、あるいは陥落させる可能性はあったのです。

 

 

 

ただし、問題は「奪った長安を本隊到着まで守り抜く」という点。

 

 

長安は魏蜀の戦争における要衝。つまり、魏にとっても大事な土地というわけです。そこが奪われたとなると、魏軍は大兵力を引き連れて、長安奪還のための大攻勢をかけることが予想されます。

 

対して迎え撃つのは、蜀軍の別動隊。ただでさえ劣っている戦力をさらに分けて、圧倒的劣勢の中で戦うのです。しかも奇襲で奪った以上、退路も補給路もまともに確保できない状態。いかに戦争にめっぽう強い魏延と言えども、守り抜くのはかなりの困難を極めます。

 

 

ただし、もし圧倒的に不利なこの掛けに勝てば、魏は西方の領地を一気に失陥。本拠地をいつでも狙える位置に、一番厄介な敵を抱え込むことになります。

 

当然、勝ち同然の戦を落とした魏国内では少なからず反乱が起こるでしょう。そして、呉もそれほどの好機を見逃すとも思えません。もしかすれば、東西から一気に弱った魏の戦線を押し上げることも可能だったのかもしれないのです。

 

 

上手くいっても勝てる見込みは薄く、失敗すれば滅亡一直線。どう考えても普通ならば選択肢にも上がらない大博打ですが……蜀が「勝つ」という点にこだわるならば、もはや馬鹿になるしかなかったんでしょうね。

続きを読む≫ 2018/05/31 20:11:31

 

 

 

裴松之(ハイショウシ)、字を世期(セイキ)。元々三国志は起きた事実のみを淡々と語る、良くも悪くも無駄のない史書でしたが、それを細かく肉付けし、昨今まで続く三国志熱の発端ともいえる物へと仕立て上げた人物です。

 

 

彼は元々簡素だった三国志の記述に対して、時に所感を述べ、時にあまりにアレな資料には毒舌セルフツッコミを入れながらも大小様々な異説や逸話を取り入れ、その世界を膨らませた第一人者です。

 

 

 

言うなれば、三国志編纂において陳寿に次ぐ、第二の作者とでもいうべき存在でしょう。

 

 

 

 

…………が、そんな彼の三国志注も、一部黙っていられない部分が含まれています。

 

 

 

それが、特定人物に対する暴走ともいえる嫌悪、憎悪です。

 

 

例えば、二宮の変で孫覇(ソンハ)側に属した全琮(ゼンソウ)や呂岱(リョタイ)らは「語る価値すらない極悪人」と述べてみたり、呉の功臣の一人である陸遜(リクソン)らに対しても事あるごとにその行動を批判し、「狡猾で残虐な冷血策士」という印象を与えます(冷徹なのは間違いないか……)

 

 

さて、そんな中で、今回スポットを当てる賈詡(カク)も……まあ、「お前のそれただの感情論じゃん」と冷ややかにツッコミ入れたくなる事書いてたりしますね。

 

 

陸遜評に関してはおいおい語るとして……今回は賈詡に対するヘイトに対して、サイト名らしく暴走気味に所感を述べていきましょう。

 

 

 

 

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長安奇襲についての意見

 

 

 

賈詡董卓(トウタク)死後にその側近である李傕(リカク)たちと共におり、董卓を暗殺した面々から「一人残らず皆殺し」という宣告を受けていました。

 

連中はその時長安にて帝を奉戴していたため、必然的に「董卓がいた涼州は悪党の巣窟だから一掃しようぜ」という意見の元、賈詡たちは悪者と断定されたわけですね。

 

 

で、その結果李傕らは「軍を解散して逃げよう」という流れになりますが、ここで賈詡は「バラバラに逃げても各個に撃破されて殺されるだけです」と反対し、その代わりに出した案が長安奇襲作戦。

 

 

いっそこのまま殺されるのを待つくらいなら、いっそのこと手持ちの軍でイチバチの賭けに出て、自分らの命の危険を根絶しようぜ、と。

 

ようは賈詡の言っている内容をまとめるとこうなるわけですね。で、その結果は成功。李傕らは無事に長安を陥落させて、反涼州の面々は散り散りになり、偶発的に李傕らが帝を奉戴し天下に号令をする立場になりあがりました。

 

 

 

で、そんな賈詡らの行動に対する裴松之のコメントがこちら。

 

 

ここで賈詡が余計なことを言い出したせいで、董卓が死んで希望が見えてきた長安が混乱することになった。賈詡のたわごとのせいで時代はまた暗黒に! こいつの罪はなんと重い事よ!

 

 

 

うん、まあ結果論としてその通りなんだけどね。

 

 

 

実際に、賈詡自身はともかくとして……一緒にいた李傕らの董卓子飼いの面々は、政治力皆無の上暴君としての素質を持ち合わせていました。

 

しかもこの二つの汚点は董卓以上に強烈で、李傕らの政治の中で人々は飢えに苦しみ、死体も野ざらしにされる有様だったとか。しかも賈詡が離脱した後は内ゲバも起こしてより荒廃するというありさま。

 

 

確かに、この後の地獄を見ていると、裴松之の言う通り賈詡の一言のせいで天下は大荒れしたと言えるでしょう。

 

 

 

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……が、ここでよく考えるべき点は、見知らぬ人々のために、すすんで自分から命を捨てられる人間が何人いるかということ。

 

賈詡がこの献策をした当時、先述の通り反董卓派の面々が天下を取って暴走。涼州人の粛清を唱え、「皆殺し」を提唱していました。

 

つまり、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。董卓への余りある反感が、彼が死んだことでその出身地の人間にまで向けられていたわけですね。

 

 

実際にこの時行動を起こした李傕軍は、当初はほんのわずかな手勢でしかなかったにもかかわらず、長安に着くころには10万にまで達していたというのですから……涼州の人間はどれだけ気が気でなかったかがわかるような気がします。

 

 

 

それに、少なくとも賈詡は赤の他人のために自己犠牲で死ねるタイプではなかったようですが、この後李傕らからの褒賞や官位といった「命を助けられたお礼」をすべて固辞した辺り、個人的に思うところはあったのかもしれません。

 

 

あるいは、賈詡の行動を見るに、「自分の身を漢室のそばに置いて、帝を自分でも手の届く範囲で保護しよう」とすら考えていた可能性もあるとかないとか……。

 

 

何にせよ、こうして李傕らのグルとして長安を落とした後、賈詡は一貫して態度を一新し、李傕でなく漢王朝に仕える態度を一貫している辺り、本人の言う通り単に「死にたくないから策を練った」だけなのかもしれませんね。

 

 

裴松之の言う事も結果論としてごもっともですが……これに同調するならあえて問いたい。

 

お前は、今後見知らぬ人の迷惑になるかもしれないからといって、じゃあ今この場で死ねるのか」と。

 

 

 

 

 

赤壁の戦いについて

 

 

さて、赤壁の戦いと言えば、もう有名なアレですね。華北を統一し、ある意味緩衝地帯のようになっていた荊州も降伏、曹操は圧倒的な勢力を手にしました。

 

 

しかし、孫権軍の都督、周瑜劉備軍と協力して強大な曹操軍を大敗北に追いやったという戦いです。

 

 

で、肝心な賈詡はこの戦いでどうしていたかと言うと……戦前に反対意見を唱えていました。

 

その主張は、「すでに我が軍の名声も軍事力も、並ぶ者はおりません。ここはまずは荊州の豊かさを活かして軍備、領民の慰撫に徹しましょう。そうして隙をなくせば、江南は頭を下げて帰順してきます」

 

というもの。

 

 

これに対しても裴松之は突っかかって批判しており、「この献策は間違いだ」と述べています。その主張がこちら。

 

 

時節を見るに、この発言は大間違いだ。

 

まず西の馬超や韓遂らは虎視眈々と曹操の隙を狙っていて、曹操が荊州にとどまっていれば、奴らが向かってくるのは明白だ。

 

 

それに荊州は元々、劉備孫権の影響力が高く、本来は彼らの騒乱の地になるはずだった。赤壁の戦いの後に曹仁が江陵で敗北したのがその証拠だ。

 

そんな連中を「慰撫」できるとか、その結果江南が「頭を下げる」とか草生えるわ。

 

 

むしろこの時の曹操の判断は正しいに決まってる。敵が曹操軍に対して震え上がっている、あの瞬間こそが好機だったのだ。

 

だからあの負けは曹操の判断ミスではなく、運がなかっただけ。

 

 

そういえばこの後、劉備の蜀を攻めるかどうかで、劉曄(リュウヨウ)が曹操に攻撃を進言してたよね。あの策は曹操が採用しなかったとはいえ、世間の人々が「劉曄は正しい」と発言している。

 

ほれ見ろ。似たような状況で、「攻撃が正しい」って結論が出てる。だから賈詡のこの意見は間違いなんだよ。

 

 

…………坊主憎けりゃってやつか←

 

 

まず事実として、赤壁に負けた後の曹操は荊州の南部を失陥。その後、馬超らに攻め込まれて西涼軍閥との大激闘にもつれ込んでいます。

 

 

こういう結果論を見れば、確かに言ってる内容は筋が通っている……と思えてきますね。

 

 

 

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ただまあ、個人的な意見を述べると……さすがにここまで来るとこじつけにしか思えません。

 

 

というのも、いつ裏切るかわからないとはいえ、当時馬超ら西涼軍閥とは同盟関係。しかも馬超の父である馬騰らの一族は曹操庇護下の漢室に直接奉仕している身で、裏切ると彼らの身が無事ではありません。

 

当然、韓遂からも息子らを人質に取っており、これもまたまともに動けるかと言うと微妙。

 

 

馬超と韓遂は軍閥の二代巨頭と言ってもよく、その二つをしっかり押さえている以上、裏切りが行われるかどうかは怪しいところ。

 

 

彼らは最終的には裏切りましたが、あれはあくまで曹操が軍を西に向けたため、馬超らが危機感を覚えたというのが主な理由です。

 

まあこの叛逆理由が建前であれ本音であれ、軍を動かす大義名分がない以上、裏切りは非常に難しかったのではと私は思うのです。

 

 

次に荊州の影響力について。

 

 

荊州は元々、孫権の父である孫堅が武力占拠した土地であり、まあ孫家の影響力が少ないとは思えません。

 

一方の劉備も、曹操の追撃を逃れるにあたって荊州名士を多く抱え込んでおり、間違いなく荊州においては非常に高い声望を得ていたと言えるでしょう。

 

 

……が、荊州名士を召し抱えているのは曹操も同じこと。というのも、荊州が降伏を宣言した時、その名士層も多くが流れ込んでいたのです。

 

中でも、荊州の元主・劉表(リュウヒョウ)の一番の功臣である蔡瑁(サイボウ)や懐刀であった蒯越(カイエツ)など、影響力の強い人物も多いのです。

 

とはいえ、どうにも荊州南部の影響力は劉備が圧倒的なようなので、やはりその地は彼に取られてしまう可能性はありますが……それでも三国鼎立には、幾分有利な形で持ち越せたかもしれません。

 

 

一方の孫権は……これはあくまで予想ですが、父・孫堅が死んだときにあっさり荊州全土が劉表に靡いた辺り、もしかして孫一門は荊州であんまり人気がなかったのかなと邪推してしまいます。

 

 

どちらにしても赤壁の戦いでは曹操の影響力が低下したのは間違いなく、その結果苦戦する羽目になった正史を見ても、一概に間違いとは言えないというのが私の意見ですね。

 

 

まあ孫権陣営も当時は懐刀の張昭(チョウショウ)が降伏論唱えてみんなそれを黙って聞いていたくらいですし、曹操軍が強くなりすぎて手が付けられなくなると、降伏の可能性もあったかもしれませんね。

 

 

 

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誰がおがらの光じゃ

 

 

 

 

トドメとばかりに、裴松之は最後に賈詡をこう切り捨てています。

 

 

こんな奴を荀彧や荀攸と同格にするのは論外。

 

 

なんか陳寿は荀攸と一緒に彼を賞賛していたが、人格面での格が違い過ぎる。

 

荀攸は夜の帳を照らす宝石の輝きだが、賈詡のはいうなればおがらの光だ。

 

 

これだけ格の差があるにもかかわらず同列に並べるのは、やっぱりおかしい。

 

 

こ こ ば っ か り は 絶 対 お か し い

 

 

ここに関しては感情論と断じてよいでしょう。まあ「賈詡荀彧らより郭嘉や程昱と並べるべき」という意見には大方同意しますが、ここまで口汚く罵るのは、プロの歴史家としてナンセンスでしょう。

 

 

……いや、裴松之自身に対しては素直に尊敬していますよ? ここまで三国志を広めた第一人者で、こういう毒舌は時に小気味よくも写ります。

 

 

でも気に入らないから全否定はさすがにダメです。いくら素晴らしい人だからと言ってもこれはダメダメです。

 

 

 

というわけで、今回は私の言いたいことを、裴松之と同じ感情論半分、暴走半分に語らせていただきました。

 

 

私正式な学者じゃないから別にいいもん←屁理屈

続きを読む≫ 2018/05/31 20:03:31

 

 

 

 

裴松之(ハイショウシ)、字を世期(セイキ)。元々三国志は起きた事実のみを淡々と語る、良くも悪くも無駄のない史書でしたが、それを細かく肉付けし、昨今まで続く三国志熱の発端ともいえる物へと仕立て上げた人物です。

 

 

……と、賈詡(カク)評にケチつける時と同じ前置きはほどほどに……

 

 

 

今回は裴松之から特に嫌われていたと言われる、陸遜(リクソン)の評について。

 

 

陸遜と言えば、孫呉を代表する重臣中の重臣で、孫呉においても有数の功績を上げた人物ですね。

 

その権威たるや主君の孫権にも迫るものというか下手すりゃほぼ同等で、身分功績共に呉の大黒柱ともいえる存在ですが、裴松之先生からは非常に手厳しい評価を受けた人物です。

 

 

今回は、そんな陸遜評について、少し見ていきましょう。

 

 

 

 

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裴松之評はだいたいこんな感じ

 

 

 

 

裴松之が嫌いな人間を扱き下ろす際には、その行為から人格まで妄想想定し、その人物の人間性をダイレクトに全否定することが多いです。

 

例えば賈詡に関しては「あんな奴はくっそショボくて汚らしいおがらの光に過ぎん」だとか、于禁(ウキン)には「友達を法の下に捌くとか、どーせあいつは心の汚いサイコパスだよ」とか……若干意訳気味ではありますが、ニュアンスとしてはだいたいこんな感じですね。

 

 

……が、陸遜評における裴松之の批判は、個人的にはちょっと属性が違うような気がします。

 

 

というのも、人格批判と言えばまあ言ってることは人格批判なのですが、どうにもこんな感じで妄想に妄想を重ね掛けしたりダイレクトにこき下ろすのではなく、事実を元に批難している感じといいましょうか。

 

 

 

裴松之が陸遜を徹底的にこき下ろしているのは、嘉禾5年(236)に、荊州の襄陽(ジョウヨウ)攻略の帰りに、ついでとばかりに石陽(セキヨウ)を始め複数の街を襲撃したことに対してのコメント。

 

 

この一件のあらすじを述べると、陸遜は撤退の途中で敵軍の都市にある市場を攻撃。慌てた敵軍が民衆を切り捨ててでも門を閉じて防戦体制に入ったため、取り残された兵士や捕虜を数千獲得。

 

陸遜は捕らえた民たちに危害を加えることを全軍に禁じ、手厚く保護したうえで解散させるというマッチポンプ善行です。

 

これによって陸遜の名声はうなぎ上りで、近隣の敵対的な住民たちはどんどん陸遜に帰順していきましたとさ……と、こんな感じですね。

 

 

これに対して裴松之は、以下のようにコメントしています。

 

 

普通に撤退することもできたのにわざわざ敵の都市を攻撃とな。魏軍に損害を与えるほどの事でもなく、ただ無辜の民を犠牲にしただけ。

 

これは孫の代で滅ぶのも納得ですわ。

 

要するに、わざわざ鳥が巣を構えている木を切り倒し、それで生き残った雛を育ててやったことを自慢してるだけ。マッチポンプやん(笑)

 

 

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離間策に対しても……

 

 

 

その直後、陸遜はしばしば国境沿いを荒らしていた敵前線都市の太守に対して離間策をかけています。

 

その方法というのが、非常に評判の良かった前任太守の息子との仲間割れ。元々前太守の子とギクシャクしていた現太守の逯式(ロクシキ)なる人物に、以下のような手紙を書いて送り付けたのです。

 

 

「寝返りの約束ありがとうございます。すぐに陛下に報告の上で準備をいたしますので、寝返り結構の日時を教えてくださいますようお願いします」

 

 

当然、逯式にとっては一切身に覚えのない話。

 

しかし逯式はこれによって一気に精神的に不安定になり、本国に妻子を人質として送り返すなどして必死に潔白をアピール。その情けない姿に呆れかえった兵士の心は離れてしまい、そう時間のたたないうちに逯式は太守の任を解任されて本国に帰っていきました。

 

 

 

……とまあ、こんないかにも乱世の謀略といった話ですが、石陽襲撃で火が付いた裴松之はここでも止まらず以下のように口火を切っています。

 

 

 

逯式はこんな手を使ってまで貶める必要があるほどの危険人物だったのか?

 

つーか国境接してる場所の太守なんだから、国を荒らすのは日常茶飯事やん。

 

 

わざわざこんな卑怯で卑しい手段に頼って小賢しい詐術を繰り広げるとか、どうかしてるぜ。

 

 

 

さらに付け加えるように、「以下に偉大な陳寿(チンジュ)先生の言う事だといっても、ここに関しては賛同できない」と断言しており、陸遜をとことん嫌っている様子が伺えます。

 

 

 

 

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裴松之は陸遜が嫌い?

 

 

 

 

個人的見解としては、逯式なる人物は記述がこれだけで何ともコメントしがたいですが……帰りに前線の街を襲撃して捕虜を得るというのは、確かに私としても疑問に思うところはあります。

 

相変わらずの毒舌ぶりにちょっと笑いが出てきそうではありますが……まあ、おおよそ現代の価値観ではいろいろと引いてしまう行動ですね。

 

 

……しかし、陸遜の性格は、史書を見る限り「自分が最良だと思った事以外はやらない」というものではとも考えられ、何か理由があったのではと思えても来ます。

 

 

 

なんと言っても、陸遜は自力でどうにかなる力を持つ味方はどれほど窮地にあっても助けようとしませんし、国を傾けてでも自分が正しいと思った事しか言わない←

 

 

 

そんな人が、余計な思い付きだけで後先考えずに街を攻めるなど、正直考えられないのも事実なのです。

 

 

 

 

……というか、裴松之も嫌いな人間の事になったら普段見えてる物も見えてない。

 

その辺考えると、もしかして冷静な人物眼を損なってしまっているのかも、とも思えないでもありませんね。

 

 

 

よくよく考えると裴松之はどちらかというと蜀に思い入れのある人物のようで、さらに彼の時代では関羽をマンセーする声も盛んになり始めていたそうですし、その辺も陸遜嫌いの要因になっているのかもしれませんね。

 

陸遜扱き下ろす際も諸葛亮との比較とかもしてますし、呂蒙と共に蜀に仇なしたこと、そして諸葛亮と能力も近しく扱いもほぼ同等であることなどから、もしかしたら裴松之の「嫌い」センサーに引っかかったのかもしれません。

 

 

 

……あれ、呂蒙って叩かれてなくね?

続きを読む≫ 2018/05/01 21:02:01

 

 

さて、トラブル発生によりひそかに封印していた龐統の記述が無事完成したことを祝しまして…………

 

 

今回は彼に関するお話。

 

 

実のところ、「龐統は孫権軍がよこした劉備の監視役・スパイであり、殺されたのは劉備の陰謀」という説が囁かれているとか何とかで……。

 

今回はそんな龐統に関する黒いうわさについて、焦げまんじゅうなりに考察していこうと思います。

 

 

 

 

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孫権軍の所属という言い回しは「本当!」

 

 

 

実は龐統の最初の士官先は、劉備ではなく孫権配下の周瑜の軍。彼の軍の一員として赤壁を戦い抜き、そして周瑜の死後はその遺体を孫権の本営の元まで送り届けたという記述があります。

 

そして無事に遺体の搬送が終わった後、任地に帰ろうとするときに見送りとして孫権軍の有力者たちが集まり、得意の人物評を披露したとか。

 

 

この時に評価したのは、陸績(リクセキ)、顧邵(コショウ)、全琮(ゼンソウ)という三人。いずれも孫権軍では多大な功績を残しており、特に全琮に至っては後の孫呉を代表する一流の名将となる人物です。

 

この時の評価は、以下の通り。

 

陸績:今は駑馬だが俊足の能力あり。

 

顧邵:足は遅いがタフで遠くまで進める牛。

 

全琮:知力はイマイチだが徳性が高く、樊子昭(ハンシショウ:当時頭のいい人たちに高い評価を受けた、隠れた大物)に近いものがある。時代を代表する大物。

 

 

…………誉め言葉ながら、やっぱり容赦ねえなこの人。

 

 

ともかく、こんな感じで、率直すぎるあまりちょっと棘のある部分が出るのは、龐統が親しい人と話しているときの特徴(だと思う)。実際に陸績や顧邵は、「天下が平和になったら人物談義でもしよーぜ」と約束し、深く心を許し合ったとか。

 

 

と、こんな感じで呉の人たちとも普通に馴染んでいる点もあり、なんだかんだ孫権軍に残留してもやっていけそうなイメージがあります。

 

 

さらに極めつけは、魯粛から劉備に送られたアドバイス。

 

 

龐統伝を読み進めていくと、やはり劉備は一度龐統を見限って左遷しています。しかしその時に「事務じゃなくて参謀で頭使わせなきゃ真価を発揮しませんぜ」とアドバイスを送ったのは、他ならぬ魯粛諸葛亮もこれに賛同してはいますが、史書を見る限り言い出しっぺは魯粛で間違いないようです。

 

こんな感じで、あろうことか同盟国の大黒柱がわざわざ龐統の扱いに口出ししてきている辺り、やはり孫権側にもかなり太いパイプを持っていたと見て間違いないでしょう。

 

 

さらには後年に宴会で喧嘩した時も、恐々ととしている劉備を尻目に龐統は平気そうな顔だったという描写もあり、ここでも孫権という後ろ盾の存在を認知できないこともありません。

 

 

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ただし、やはり一つの陰謀論

 

 

とまあここまで証拠を持ち出したうえでも、やはり私は一つの陰謀論かなという結論を出します。

 

劉備は龐統の死後、その話が出るたびに泣いたとされますが……劉備も狡猾な狸親父。演技であるという可能性も捨てきれないでしょう。

 

 

 

とはいえ、やはり龐統の劉備への献身はスパイという言葉で片付けるには行き過ぎているのかなとも思われます。

 

 

まず、自分の元上司である周瑜の策謀を、彼の死後とはいえあっさり劉備にバラした点。そして魯粛の天下三分という構図の範疇ではあるものの、劉備の蜀取りには抜かりない策をきっちり提言していたりと、劉備への一定以上の忠誠心も確かに確認できます。

 

さらにはその遺族たちも孫権勢力に戻ることなく、蜀の配下として残留したとか。この辺りを見ても、すでに龐統が劉備の配下としてしっかり組み込まれていたことが伺えます。

 

 

 

そしてもう一つ見逃せない点があります。

 

 

荊州の名士層の動きです。

 

実はこの時、荊州の領土の所有権は孫権にありました。しかし、その土地に住む有力者たちは、ほとんどが劉備についていってしまっているのです。

 

当時の同族は血族に等しいとも言われ、非常に強いつながりで結ばれています。

 

この辺りの事情を考えると、同じく荊州名士の龐統も、孫権軍より劉備軍のほうが居心地がよかったのかもしれませんね。

 

 

そして何より、双方にパイプを持つ龐統が孫権軍からわざわざ劉備軍に向かうことで、孫権側からの戦力提供やお互いの同盟関係の強調といった効果も持つのではないかと思われます。

 

 

以上の観点から、「龐統は孫権軍からの一種の橋渡し役まではあり得るが、スパイかと言われると違うのではないか」というのが焦げまんじゅうなりの回答。

 

 

とはいえ、仮に龐統が孫権軍のスパイで、しかも益州平定を生き延びたとしたら、後に行われる樊城の戦いを中心にした荊州動乱ではどう動くのか…………ちょっと気になるところではあります。

続きを読む≫ 2017/08/03 10:56:03
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