当記事は事実ではなく、あくまで1視点から見た推測です。
袁紹(エンショウ)、字は本初(ホンショ)。大方の評価から見る人物像は、見てくれこそ威厳はあるものの所詮は見掛け倒しで優柔不断。一大勢力にのし上がったのも所詮は名門の血筋のおかげで、力量は大したことがない……といった感じです。
しかし、私個人としては、その評価には全力で待ったをかけたい。
もうすでに多くの人がこういった手合いの話をしていますが……私も今回、袁紹の優柔不断表について物申してみたいと思います。
スポンサーリンク
正史では「優柔不断」とバッサリ
袁紹の優柔不断評を決定づけるもっとも致命的な事実としては、三国志を編纂した陳寿の袁紹評が挙げられます。
曰く、
並外れた風貌と度量見識を持っていた。しかし寛大に見えて内側は猜疑心に満ち、謀略好きなのに決断力がなく、優れた人物や傑出した意見を聞くことができず、嫡子でなく庶子への寵愛を優先した。
おおよそ曹操(ソウソウ)の敵として悪く言われるのが宿命でありお約束。結果、まあこんな感じの酷評になってしまいますね。
この評価をまともに受ける限り、袁紹はボンボンの立場を享受して先祖の威光だけで上に立った雑魚群雄で、数だけで曹操を苦しめたものの、圧倒的な器の差が最後に出た……といった感じでしょうか。
もっとも、これは晋王朝の監修が入った、「魏や晋こそ正当でその他は偶然強くなれたその辺の雑魚」というバイアスのかかった評価。陳寿も祖国の蜀ならいざ知らず、興味もない北方の英雄のことなんぞ悪く書いたところでそこまで大きな悪感情を抱くことはないでしょう。
ましてや袁紹の政治スタンスは晋代にまで領内で影響を与えており、曹操が袁紹旧領を切り取った後も腹心の李典一族を影響下に移住させたり袁紹の息子たちの遺体を目に見えて粗雑に扱ったり、その血を絶やすために袁紹の息子を保護した異民族をわざわざ討伐に出かけたり等々……袁紹の影響力を削ぐのにかなり苦心している様子が伺えます。
つまり、袁紹の影響力を削ぐために必要以上に袁紹を過小評価した(せざるをえなかった)可能性もゼロではありません。
この辺を考えると、深く考えずに鵜呑みにしてしまうのは危険……かも。
極左のなんかヤバいアレ
袁紹の血筋は確かに後漢末でも最高級の超大物豪族でしたが、実は彼の母親はただの側室。もっとも、これに関しては成否不明なため諸説ありますが……少なくとも袁紹は名門袁家の影響力を強く使わない/使えない人物だったのかもしれません。
のっぴきならない境遇のためか元来の性格ゆえか、若き日の袁紹の態度は謙虚そのもの。身分によっての差別を行わない、絵にかいたような優等生でした。
しかし、その内側は……もう極左もいいところ。腐っても名家の血筋なわけで、大人しくしとけば国家重臣のはしくれくらいには食い込めたはずなのですが……そんな優等生の内側は過激で野心的、血生臭い思想で埋め尽くされていたようです。
おおよそ彼がやったことを簡潔にまとめると、こんな感じです。
・上司の仇討ちに宮中乗り込み。宦官と思しき連中は片っ端から粛清
・血族の身の危険を顧みず都から逃亡。案の定、都にいた袁家一門は粛清される
・独自軍閥を結成し、反董卓連合内でも意のままにならない奴に圧力をかける
・皇族だけど漢の臣である劉虞を自分たちの皇帝に祭り上げようとする
・献帝・劉協の存在否定
・そのくせゴネてちゃっかり大将軍の位をゲット(地位の濫用)
・群雄の韓馥を脅迫して無血で領土を奪う
・敵の敵は味方理論で異民族と結託し、公孫瓚を潰す
・中原の外様名士を優遇し、土着の名士たちの言う事をほとんど聞かない
・人材は道具とばかりに使い捨て
優柔不断なお坊ちゃま然とした性格にしては、やってることが血生臭い上に極端というかなんというか……
ハッキリ言って赤いです。やることなすことまっかっかです。こんな人間が本当に優柔不断……?
まあ確かに後継者争いを誘発してしまった件や官渡の戦いでの敗北を見ると、優柔不断と言いたくもなるでしょう。しかし、後継者争いを引き起こした要因が、従っとけば全然無難、むしろ安泰への唯一の道である「長男最強」の儒教精神を無視したと考えれば……これまた常識が良くも悪くも通用しないと言えるのではないでしょうか。
スポンサーリンク
後継者争い=名士たちの権力抗争
さて、後継者問題は三国志のみならず、それこそ中国すらも飛び越えて世界中の君主制国家でビッグニュースとなる一大行事ですが……そもそもなぜ後継者をお互いが争うのかを考えてみましょう。
この問題は、部外者からすると当人同士の醜い権力争いに見えるのですが、実はそれだけではありません。
本当の戦いは、後継者の後ろ盾となった名士同士の権力抗争。どの後継争いにも、当然袁紹の場合でもこれは同じことが言えます。
後継争いで言えば、実は袁紹だけでなく、三国志の各君主も引き起こしていますね。曹操は嫡男の曹丕(ソウヒ)を皇太子にしながらも旧来の貴族主義を脱却しそうな層から主な支持を受けた曹植(ソウショク)にも目移りし、お互いの派閥の多くの名士が犠牲になってます。
劉備(リュウビ)のところでは養子の劉封(リュウホウ)を早めに排斥することで分裂を免れていますが、もし劉封は実子であったら万一もあったでしょう。
孫権(ソンケン)のところは特にひどく、当人が傍観を決め込んだせいでどこよりも讒言処刑祭りが白熱化しています。
おおよそ、袁紹が三男の袁尚(エンショウ)をかわいがってみたり息子たち(と甥の高幹)に各地を分割統治させてみたりというのも、この後継者争いを使って君主権の強化だったり、本拠・冀州の土着名士を弱体化させたりといった狙いがあったのかもしれません。
中原名士と袁紹
さて、大雑把に黄河を挟んだ北側を河北、その南の首都圏一帯を中原と呼称することが多いのですが……袁紹は河北に勢力、本拠を持ちながらも、元来の出身地は中原の汝南(ジョナン)郡というアンバランスな立ち位置にいる人物でした。
言わば、中央から派遣されてきた地方官僚トップなわけですね。
こういう立ち位置の人たちは、基本的に現地の豪族たちと手を取り合って政治を押し進めていくのが基本でした。
しかし、そういった関係は言ってしまえば「地方の豪族たちがわざわざ余所者のリーダーに協力してやった」という意味にも解釈でき、地方豪族はとにかくその立場と現地の影響力を駆使して大物になりやすい傾向があったのです。
しかし、私は思うに、先述の通り袁紹は極左の人物。しかも独裁主義的な性格の持ち主でもあったようで、人の言いなりにならない気概と野心を持ち合わせていました。
そんな袁紹からすると、地方豪族の御輿としていつまでも担がれるのは面白くない。郭図(カクト)ら奸臣とされる人物の意見ばかりを聞いて田豊(デンポウ)や沮授(ソジュ)といった現地の鬼才たちを使いこなせなかったのは、はなから現地の人々を完全な味方と考えていなかった可能性が考えられます。
主に袁紹に対して讒言を働いた郭図はやはり中原にあたる豫洲潁川郡(ヨシュウエイセングン)の出身者。曹操陣営の主力名士たちと同郷です。
もう一人、讒言王と名高い(!?)逢紀(ホウキ)なる人物もいますが、やはり彼の出身地も荊州の南陽(ナンヨウ)郡。中原からは若干外れますが、それでも冀州からすれば外様であることは間違いありません。
後々に郭図と逢紀は敵対するようになっちゃってるからその辺本気で謎ですが……おおよそ袁紹の腹心たり得る人物は、おそらくこの2人で決まりでしょう。
そして面白いことに、荀彧(ジュンイク)、郭嘉(カクカ)、董昭(トウショウ)といった曹操軍のブレーンたちも、見限ったとはいえ一時期袁紹軍に所属しています。
袁紹が郭図と逢紀を主軸にして、土着名士を使い捨てて力を削ぎ、代わりに河北でなく中原名士を中心とした派閥を作っていこうと考えたのなら……袁紹が田豊、沮授、張郃(チョウコウ)、麹義(キクギ)といった文武の鬼才たちをむざむざ手放してしまったことは納得できないこともありません。
スポンサーリンク
袁紹の誤算―優柔不断の評のもと―
さて、こうして儒教的に長男の袁譚(エンタン)を後継ぎにするところを他の子供たちにもチャンスを与え、順調に土着名士たちを使い捨てていった袁紹ですが……この推測を立てるにあたり、おそらくいくつかの誤算があったのではと思われます。
1、郭図らの野心
2、土着名士たちの袁尚(エンショウ)支持
まあ袁尚は袁紹自身のお膝元で本拠の冀州を治めていますし、その過程で必然的に冀州土着の名士層とのパイプもできるでしょう。2に関しては誤算というより、袁紹にとっては思った通りか。
袁尚を土着名士ごと切り離すにしろ、長男の袁譚を差し置いて本当に後継者にするにしろいろいろな解釈ができます。
さしあたって、本当に袁紹の誤算たり得たのは1。
郭図ら潁川中心の名士グループは袁紹の腹心として、官渡の戦い前後までは冀州名士の力の削ぎ落しに動いていたのですが……なんと、官渡の戦いの後に審配(シンパイ)を讒言。
審配は冀州の名士でありながらも外様側の陣営として動いている記述が散見されますが、郭図らはそんな審配を敵として排除しようとしてしまったのです。
しかも同じ外様名士の腹心である逢紀が審配を擁護してとりなしたことで、ついに郭図と逢紀という2代巨頭が対立関係になってしまいました。
袁紹はその後憂悶のうちに病死しますが……官渡での敗北よりもこちらのほうが憂悶の理由になってそうなのはきっと気のせいではないはず。
結局、郭図は潁川名士団を連れて長男の袁譚を支持。対する逢紀は審配ともども新生した冀州グループに鞍替えして三男の袁尚を支持することで両者が対立してしまいます。
それから先は、もはや歴史が示す通り。曹操の来襲にこそ力を合わせて対抗したものの、曹操が一時的に手を緩めると戦争を継続。袁尚有利のまま戦いは過熱していき、袁譚は郭図らのパイプを利用して曹操に降伏。
紆余曲折あってそのまま袁家兄弟は全滅し、完全に袁一門は破滅を迎えてしまったのでした。
優柔不断と叩かれて創作でも頼りなく書かれることが多い袁紹ですが……もしかしたら、ここに書いてあるような裏事情があって動いていたのかもしれませんね。