孫堅 文台


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孫堅 文台

 

 

生没年:永寿元年(155)~初平2年(191)

 

所属:呉

 

生まれ:揚州呉郡冨春

 

 

勝手に私的能力評

 

孫堅 虎 呉 名将 みんなのパパン 強い 軽薄

統率 S 正史の反董卓連合で、唯一善戦を続けるバケモノ。それだけに、なぜあのタイミングで死んだのか謎すぎる。
武力 S 黄巾の乱以前から、賊軍討伐で大暴れしている。軽率で前に出まくっていたため、おそらく生半可な武力では生き残れないと予測。
知力 B- 正面突破の猛将かと思えば、区星の乱や反董卓に向けての軍備強化で黒い搦め手も使っている。
政治 C 袁術配下に入るしたたかな外交力や、長沙太守として慕われる統治能力も持ち合わせていた。が、死後すぐに荊州が劉表の手に渡っている辺り……
人望 S- 味方に慕われ、敵の董卓もビビッて講和を考え、取り立てただけの関係である桓階はその遺体を必死に取り返そうとした。死後すぐに味方が瓦解した辺り、間違いなく柱だった。

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孫堅(ソンケン)、字は文台(ブンダイ)。堅パパなどという愛称で有名な人物ですね。無双シリーズ、三国志大戦などのゲームでもほぼ間違いないといった確率で出演し、そして圧倒的な力で敵を圧倒する存在として登場します。

 

 

かの高名な兵法家である孫武、つまるところ孫子の子孫であるなどとまことしやかにささやかれていますが……果たしてそれが真実であるかどうかは謎。

 

 

まあ何にせよ、史書を見ていても、並外れた戦闘力の持ち主で、文武両道であろうことは間違いないでしょう。

 

 

 

 

 

 

※わかりやすさから「孫堅伝」という名を打っていますが、実際は「孫破虜伝」です。就いた将軍職からの命名ですね。

 

 

 

 

 

孫堅の人物・評価

 

 

呉録という書物によると、「容貌は立派で、普通の人がやらない特異な事を好んだ」とあります。つまり、ワイルドタイプのイケメンで変わり者……という認識でだいたい大丈夫かな?

 

しかし、性格に関しては「闊達」……つまり度量が大きく自由奔放なタイプだったので、人々にも親しみやすかったようです。

 

 

内気タイプの変わり者はだいたい嫌われるのが常ですが……こういうタイプは、なぜか逆に好かれるという不思議な特性を持っていますね。

 

 

孫堅もそんな「好かれる変人」タイプの筆頭格だったようで、役人になった際にも「民衆や役人に常に慕われた」「どこに行っても評判が良かった」とあり、さらには実力を見た上司や上官はことごとくが妬みを持ち出さず、素直に孫権の活躍を褒賞してくれています。

 

つまり、上にも下にも好かれる人たらしの才能もあったようですね。

 

 

 

 

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さて、史書である三国志を編纂した陳寿(チンジュ)は彼をこう評価しています。

 

「勇敢にして剛毅。己の力ひとつで身を立てて、董卓を討つよう進言し、董卓に荒らされた洛陽の墓陵を復旧した。忠義と勇壮さを兼ね備えた烈士である」

 

 

さらに、後世信憑性を問わず様々な逸話を広め、自らの注釈や意見も入れて三国志を膨らませた裴松之(ハイショウシ)も、

 

「同時代に義を成さんと立ち上がった人々の中で、忠義と武勇は随一であった」

 

と、太鼓判を押しています。

 

 

 

さらには同年代のナチュラルボーン公孫瓉(コウソンサン)も、彼を

 

董卓を蹴散らして歴代皇帝の墓や霊廟を立て直した功績は計り知れない」

 

と述懐したとか。

 

 

おおよそ、「董卓を相手に善戦し、董卓の手で暴かれた歴代皇帝の墓を元通りにした」という功績によって当時の人々の心をがっちりとつかんだわけですね。

 

この辺りの行動が大々的なアピールとして働き、さらに董卓相手に力戦したこともあって、「忠義と武勇は天下一」というような評価がなされていたのでしょう。

 

 

実際にこの部分は三国志系メディアにもよく取り上げられ、野心家のように書かれることこそあれ、おおむね「武断派で、漢室の立て直しを図る熱い漢」のような設定で登場することが多いです。

 

 

 

が、そんな彼にもとんでもない欠点があります。

 

これに関しては「三国志孫破虜伝」に、しっかりと陳寿さんが記載してくれていますね。その一文がこちら。

 

 

「行動が軽はずみで、結果をいち早く得ようとしすぎるきらいがあった。その性格が災いとして、最期の大失敗を招く原因となったのだ」

 

 

最期の最期に倒したはずの黄祖の手で殺される逸話なんかが、特にこの性格を表していますね。

 

 

他にも銭唐で海賊につかまったときもイチかバチかの賭けに出ていたり、西方と癒着している疑惑もあった董卓を、西方での反乱が本格化してしまう可能性があるのに斬ろうとしたりなど……結果論で孫堅が正しかった話ではありますが、「孤立覚悟で突出しまくる」という癖は、あちこちで見られます。

 

 

そういった短所を備えていたので、近年の三国志ヲタたちの間でも、おおよそ「荊州で生き延びてもどこかで討死してたのはほぼ確定じゃなかろうか」という意見がだいたい固まっていたりいなかったり……

 

 

ちなみにこの性格は息子たちにもしっかり受け継がれており、この後呉国の領土の礎を築いた孫策(ソンサク)は軽はずみな単独行動の末に暗殺されており、その弟で初代呉皇帝の孫権(ソンケン)も血気盛んな性格で、特に晩年は名士層との折り合いは最悪に近い状態にまでなってしまったのです。

 

他の弟たちも、部下により暗殺、曹操の血族になるも何故か早死に、不手際により孫権と不仲になり王族扱いされなくなると、これまたなかなかに壮絶な人生を送っています。

 

 

 

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その性格は野心家? 忠臣?

 

 

と、ここまでご覧の通り、「剛毅で勇猛果敢だが、一軍の大将としては軽率過ぎる」というのはほぼ間違いありません。

 

 

さらには勇猛なだけでなく頭の回転も速く、危機的状況も数々の機転で乗り切ったり、区星の反乱に関しても詳細はわからないものの様々な「計略を駆使して短期決着を実現した」ともあります。

 

 

知勇兼備だが猪突猛進で、一手先が見えても二手目以降が見えていない……案外、そんな性格なのかもしれませんね。この辺主君の袁術とそっくりだ

 

 

さて、その上でよくわからない部分もありまして……

 

 

どうにもこの孫堅、洛陽の墓陵を立て直した際に、伝国の玉璽……つまり、帝が公務用に使う印鑑を持ち逃げしたという話があるのです。

 

 

当時、帝は「天子」とも言われ、民衆からは常に絶対視、神聖視されていました。

 

当然帝の印鑑も、もはや神具の領域にまで価値が上がっており、「これさえあれば天下がとれる」とまで言われていた代物です。

 

 

実際に呉の末期には、この玉璽を「孫堅が拾ったものだ」として呉王朝の正当性を主張する材料にされていましたし、多くの歴史家も言及しています。

 

裴松之はこの事実を否定し、その際には「あんな代物を持ち出したのなら、間違いなく腹に一物抱えてい事になり、孫堅が忠義の士などではなくなる」「呉の連中はこぞって正当性を掲げているが、逆に孫堅の美徳を傷つけている」と痛烈に批判しています。

 

 

 

もっとも、孫堅が拾ったとされる玉璽に関しては、玉製でなく純金製であり、本物の玉璽と違うバッタモンだったというオチが付くわけですが……本物の玉璽は見つかっておらず、未だ真相は謎のまま。

 

 

孫堅孫堅で、朱儁や袁術ら多くの実力者に口添えしてもらってどんどん地位を挙げていますし、独自の軍閥も率いています。さらには王叡、張咨といった当時の上司たちを謀殺している辺り、野心がないとは言い切れないところがあります。

 

 

玉璽に関してはかなり怪しい話ですが……案外、玉璽と関係なしに野心があったのかも……?

 

 

 

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その死因について

 

 

さて、孫堅の事績を辿るにして、その死因は「敵と偶然遭遇した結果、矢を受けて戦死」とさせていただきましたが……実はまだまだ死因に関して言及されている文献は存在するのです。

 

 

まず、典略(魏略・曹魏の歴史と正当性を説いた歴史書)という書物に関してはこちら。

 

 

劉表は黄祖を夜中に襄陽から脱出させ、付近で兵を集めさせた。

 

 

孫堅はこの行動を読んでおり、戻ってくる黄祖を待ち伏せして撃破した。

 

しかし敗れた黄祖を追撃する中で、逆に黄祖から伏兵の奇襲を受け、矢によって射殺された。

 

 

また、後漢末の軍閥や群雄について描いた「英雄記」でも死因に関する記述は異なっており、こちらでは、

 

 

呂公(リョコウ)という人物が山沿いに伏兵を設置し、そこに武具も固めず軽騎で近づいてきた。

 

呂公はすかさず伏兵での奇襲を実行し、さらに落石で孫堅を攻撃。この落ちてきた岩が孫堅の脳天を直撃し、脳髄を露出するほどの傷を受けて即死した。

 

 

とあります。

 

 

 

つまり、

 

1.高祖と偶然居合わせて射殺

 

2.勝ちに乗ったばかりに黄祖の罠にかかって射殺

 

3.呂公が張った落石の罠で即死

 

 

と、このうちのいずれかというわけですね。

 

 

ちなみにその後、黄祖は孫策孫権に父の仇として何年も命を狙われて彼らと争っており、どの説にしても黄祖が密接にかかわっていることは間違いありません。

 

 

とすれば、可能性が高いのは1か2か。3の説にしても呂公はおそらく黄祖の配下である可能性が高いという事になります。

 

 

もっとも、どの説であるにしても、孫堅のフットワークの軽さが最期の最期で仇となったのは確かなことです。

 

 

 

【孫堅伝3】評価、逸話   

   

続きを読む≫ 2018/06/16 11:38:16

 

 

 

 

宿敵董卓・台頭!

 

 

中平6年(189)、後漢の12代目天皇である霊帝が崩御すると、漢帝国中央部で事件が発生します。それまで外戚(皇后の血族)として大将軍の地位にいた何進(カシン)が宦官らに暗殺され、それがきっかけになって何進派に属していたグループが中央に武力介入。宦官たちを殺害して回る等の大混乱に陥りました。

 

 

その混乱を収拾し、中央の政権を奪取したのは、なんと以前から反りの合わなかった董卓。彼は何進に援軍要請を受けたのをいいことに、混乱のさなか堂々と中央に突入。そのまま次代皇帝を保護、擁立し、中央政権を奪取。そのまま朝廷を牛耳り、都・洛陽にて専横を極めていました。

 

 

 

董卓の台頭を良しとしなかった人物の数は多く、多くの州や郡で諸侯が軍を立ち上げ、反董卓連合を結成します。孫堅もこの連合に参加。因縁の相手、董卓との戦いに身を投じることとなったのです。

 

 

長沙より北上する孫堅軍は急速に規模を拡大させていき、ついには数万の兵士に膨れ上がりました。さらには日頃から自身を軽んじていた荊州(ケイシュウ)刺史・王叡(オウエイ)や、荊州北部の南陽(ナンヨウ)郡の太守・張咨(チョウシ)を謀殺し、実質的に勢力を拡大。

 

 

その後連合軍盟主・袁紹(エンショウ)の弟である袁術(エンジュツ)と合流し、彼の口添えで破虜将軍(ハリョショウグン:孫堅の伝。孫破虜伝の由来となる将軍職)、豫洲刺史の地位を手に入れました。

 

 

その後、袁術領内で兵士を徹底的に鍛え上げ、さらに部下の一人を領内に送り返して兵糧の輸送手配を完了させ……ついに、孫堅袁術の実質的な指揮下という立場で、董卓討伐に乗り出したのです。

 

 

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孤軍奮闘

 

 

さて、こうして意気揚々として立ち上がった反董卓連合軍ですが……実はやる気に燃える諸侯は存外少なく、孫堅を除いて積極攻勢に出ていたのは曹操(ソウソウ)とその一派ら、ごくごく一部だけだったようです。

 

気になる他の群雄たちはというと……基本的には酒盛りと膠着を繰り返し、来る乱世に備えて自勢力の温存ばかりを考えていたそうな。

 

 

そのため、勢いに乗る孫堅軍も思うように軍を進めることができず、案外苦戦していたようです。

 

 

ある時、孫堅が息抜きも兼ねて地元の役人会を開いていた時に董卓軍が来襲。あわやという中で孫堅が機転を利かせて堂々と行動し、そのおかげで辛うじて攻撃を受けることがなかった……という逸話も残っています。

 

 

 

 

陽人の戦い

 

 

そんなこんなであわやという場面があったもののほぼ順調に進撃を続けていた孫堅軍ですが、梁(リョウ)の東部に展開していた時、董卓軍の将・徐栄(ジョエイ)の軍の襲撃を受けます。

 

この徐栄、実は曹操の進軍を食い止め、その一軍を徹底的に打ち破った名将です。

 

 

孫堅はこの難敵相手に力及ばず敗走。数十騎のお供だけを連れて脱出、その後潁川(エイセン)の太守が捕らえられて処刑される等の大敗北でした。

 

この時、孫堅の危機に際し、祖茂(ソモ、あるいはソボウ)という人物が孫堅のトレードマークである赤い頭巾をかぶって身代わりを務め、危うくなったところで柱に頭巾を括りつけて草むらに隠れることで難を逃れたという逸話があります。

 

三国志演義では孫堅をかばって討ち死にした祖茂ですが……元の逸話ではうまく逃げおおせたのですね。

 

 

 

 

さて、手痛い敗北を喫した孫堅袁術の支援を受けて再起を果たし、再度集結した軍を率いて陽人(ヨウジン)の地に進軍。

 

ここでは徐栄ではなく、呂布(リョフ)や胡軫(コシン)らの軍勢と激突。

 

ここでは孫堅が前回と違ってしっかりと敵に備えていたり、さらには敵兵の疲労や呂布、胡軫らの仲間割れなどの有利な条件が重なり、董卓軍を大破。都尉(郡の軍事統括者)である華雄(カユウ)を討ち取り、大勝利を収めます。これが、反董卓連合軍の貴重な戦勝となったのです。

 

 

一方、連合軍の不和は健在で、将軍の一人が袁術に讒言を行い孫堅との仲を裂き、疑念を持った袁術孫堅への援助を一時取りやめるという事件が発生。この一件は孫堅自身が直接袁術に会いに行き、潔白を証明し説得。このおかげで袁術は支援を再開することで事なきを得ました。

 

 

 

が、反董卓連合軍の不和はすでに広がっており、さらには略奪により近隣の民を殺害するような群雄まで出てきており、すでに董卓という敵なしでは形式上の同盟すら保てない状況に陥っていたのです。

 

 

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そして群雄割拠へ……

 

 

諸侯の不和や野心がこうも筒抜けである以上、敵にそれを悟られないのは実質的に不可能と言っても過言ではありません。

 

そこで董卓は、連合軍の瓦解のために2つの策を実行したのです。

 

 

 

まず一つ目は、孫堅の懐柔です。

 

 

曹操軍が壊滅し逃げ延びた以上、董卓にとっての脅威は、実質的に孫堅一人だけという状況でした。

 

そこで董卓は、側近の李傕(リカク)を使者に立て、孫堅との和睦を目論みます。

 

 

が、もともと反董卓の気風の強い孫堅はこれを頑なに拒否。あくまで董卓と戦う姿勢を示します。

 

 

そして董卓孫堅懐柔をあきらめ、孫堅軍が洛陽のすぐ近くまで進撃したのを知ると……董卓は第二の策を実行したのです。

 

 

後に董卓最大の悪行として知られる、都・洛陽の焼き討ち

 

 

董卓は人民らを引き連れて西の大都市・長安(チョウアン)へ遷都・移住を実行。同時に洛陽の街に火を放ち、あろうことか漢の都を完全に焼き払ったのです。

 

孫堅はその後すぐに洛陽に入ると、董卓軍によって暴かれた歴代皇帝の墓を修復し、埋めなおしたのです。

 

 

この時孫堅は変わり果てた都に落胆して「張温が俺の言うとおりにしてくれれば」と落胆しただとか、漢帝国に伝わる玉璽(ギョクジ:帝のしるしが入った印鑑。これをかざせば、実質天に認められ帝になったも同然とすら言われる代物)を見つけて野心に胸を躍らせたなど複数史書でいろいろ言われていますが……この辺りは当人のみぞ知る、といったところでしょうか。

 

なお孫堅が拾ったとされる玉璽は鑑定したところ偽物で、裴松之は「誇ろうとするあまり逆に孫堅に泥を塗っている」とツッコミを入れていましたが……?

 

 

ともあれ董卓が自ら漢の中央から撤退し、「董卓による中央進出を許さない」という一大目標を失った連合軍は、音を立てるように瓦解。元々不仲であった諸侯はこれ好機とばかりにお互いを食い合い、世の中は群雄割拠の時代に突入します。

 

 

 

群雄割拠の波に呑まれて……

 

群雄が群雄を呑む時代に突入し、反董卓連合軍が瓦解。その後、乱世において中心となったのは、名門袁家の血を引く袁尚、袁術による兄弟間の争いでした。

 

袁術の実質的な指揮下として入っていた孫堅は、この争いでは袁術派の勢力の一つとして活動。まず手始めに、袁紹が豫洲刺史である孫堅に退行し、新たな豫洲刺史を送り込んできました。手始めに、孫堅袁術らと協力して袁紹派の豫洲刺史を撃退。

 

 

その後、お返しとばかりに、孫堅袁術の名の元、荊州に割拠していた劉表(リュウヒョウ)の攻略に取り掛かります。

 

 

劉表は迎撃のために黄祖(コウソ)を中心とした迎撃部隊を送り込みますが、精強な孫堅軍にはかなわず敗走。

 

孫堅はその後も敗軍を追撃し、ついには荊州の主要都市のひとつである襄陽(ジョウヨウ)を囲み、荊州攻略に大手を掛けます。

 

 

……が、ここまで来て、突如として孫堅の命運は立たれてしまいました。

 

孫堅は元々豪胆すぎるところがありましたが、それが災いとなって、単騎で行動しているところを黄祖軍の兵に見つかり、そのまま矢を浴びて死亡。三十七歳の時の出来事でした。

 

 

孫堅軍の首魁である孫堅自身の死により、荊州の攻略は断念。甥である孫賁(ソンフン)に率いられ、軍は袁術の元へ撤退。しばらくは孫賁が孫堅の跡を継ぐ形になり……以後、孫堅の息子である孫策(ソンサク)が袁術から独立するまで、孫家は群雄として立つ機会を得ることができませんでした。

 

 

 

 

【孫堅伝2】反董卓連合、そして群雄割拠へ   【孫堅伝2】反董卓連合、そして群雄割拠へ   【孫堅伝2】反董卓連合、そして群雄割拠へ

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黄巾以前――東呉の暴れん坊将軍――

 

 

黄巾の乱で名を挙げる前、孫堅は役人として揚州の狭い範囲を拠点に活動していました。

 

 

さて、そんな孫堅17歳のある日、ちょっとした用事があったので、父と共に銭唐(セントウ)という地に出かけることになりました。

 

 

が、その途上に海賊の襲撃に巻き込まれ。行く手を阻まれてしまったのです。

 

 

 

普通ならばごたごたが収まるまで待つか、迂回でもするものでしょうが……短気な孫堅はあろうことか、父の制止を振り切り刀を持って海賊の前に躍り出て、兵に指示を出すためのジェスチャーをしているかのように刀を振り回し始めたのです。

 

 

孫堅の動きを見た海賊たちは、役所に駐屯している軍団が攻めてきたのと勘違いし、奪った金品財宝などを放置して逃走。さらに孫堅はあろうことかこれを一人で追撃。海賊の一人を殺して首を持ち帰ってきたのです。

 

 

これを見て父は驚愕。そりゃそーだ

 

後に孫堅は見込みありとして仮の立場ではあるものの尉(治安維持や軍事の統括者)の役を引き受けるようになりました。

 

 

 

 

熹平(172)には、辺境の会稽(カイケイ)で勃発した、数万単位の人民による宗教反乱を鎮圧。この時孫堅は武勇に秀でた者を千人余り率い、鎮圧軍に合流して勇戦したそうです。

 

 

臧旻(ゾウビン)という人に孫堅に関する報告を受けた朝廷は、その後孫堅をひとつの県の補佐官に任命。そこから数年、複数の任地を転々としましたが、その評判は高く、役人や人民を問わず親しまれたそうな。

 

 

 

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黄巾の乱でひと暴れ

 

 

中平元年(184)、宗教結社を秘密裏に統括していた張角(チョウカク)が、弟や自身を信じる部下らを引き連れて反乱を引き起こしました。それにつられ、張角を支持する多くの民衆が続いて各地で蜂起。国中は大混乱に陥りました。

 

この乱は後に黄巾の乱と呼ばれており、統制を失った漢帝国の威厳は失墜。群雄割拠の時代、さらにはその後の三国志の時代への引き金となったのです。

 

 

朝廷はすぐさま軍を編成し、皇甫嵩(コウホスウ)、朱儁(シュシュン)といった人物らを大将として討伐に向かわせることにしました。

 

 

孫堅は討伐軍大将の一人、朱儁(シュシュン)の要望で、彼の副官として参戦を表明。同郷の仲間たちと千人ほどの兵を募集し、朱儁の軍勢に合流。

 

討伐軍の勢いに押された反乱軍が宛(エン)の街に立てこもったときには、孫堅が先頭に立って城壁をよじ登って敵を強襲し敗北させるなど、孫堅らの朱儁軍は「敵なし」と言われるほどの活躍を見せます。

 

 

そんな孫堅の活躍を目の当たりにした朱儁はすぐさまその様子を朝廷に上表。朱儁の報告を聞いた朝廷は、孫堅に別部司馬(非主力部隊の指揮官)に任命されます。ここで、田舎者・孫堅の名声は一気に高まることとなるのでした。

 

 

 

宿敵・董卓との出会い

 

 

さて、孫堅には、どうしても許せない宿敵が一人いました。

 

 

乱世の魔王・董卓(トウタク)です。

 

 

 

その董卓との出会いが、辺章(ヘンショウ)、韓遂(カンスイ)という二人の人物が中心となって起こした反乱の際です。

 

 

この反乱には董卓が鎮圧にあたっていましたが、成果が挙げられなかったため、中平3年(186)に張温(チョウオン)という人を大将にして援軍が送られました。この時に、孫堅も張温の副官として同行していたのです。

 

張温は軍を率いて長安(チョウアン)に到着すると、漢の帝から譲り受けた詔書をもって董卓を呼び寄せ、近況を聞くことにしました。

 

が、董卓はいつになっても現れず、ようやく顔を出したのは随分と後のことでした。

 

 

さらに遅れてきた董卓の態度は不遜そのもので、誠意の欠片もないといった様子。反乱軍と癒着してるのか?

 

 

 

ともあれ、あまりにアレな董卓の態度に腹立たしさと底知れぬ不気味さを覚えた孫堅は、

 

 

1.上官である張温への不遜な態度

 

2.味方の援軍拒否などの鎮圧妨害

 

3.他ならぬ漢帝の勅書にすぐに応じず、成果も上げない不忠

 

 

の3つを理由に、董卓の処刑を提言。対し張温は、董卓が西域で多大な影響力を持っているためこの提案を拒否。孫堅は渋々董卓の処刑をあきらめることになりました。

 

 

後日、討伐軍の大軍が現れると聞いた反乱軍は降伏・離散し乱は終結しましたが……この話を人づてに聞いた董卓は、孫堅を敵視するようになったとか。

 

以後、孫堅董卓の二人は決して相容れず、敵としての道を歩むことになるのです。

 

 

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区星の乱

 

 

時を同じくして、荊州南部の長沙郡。区星(オウセイ)という人物が、漢室の勢力弱体化を機に独立し、将軍を自称。万余りの兵を率いて周囲を攻撃、支配下に加えていくという事件が発生していました。

 

中央に戻った孫堅は、この区星の反乱を討伐する任務を引き受け、そのまま太守(長官)に任命され、長沙に向かうことになりました。

 

 

長沙に着いた孫堅は、すぐに行動を開始。計略を用いて区星の軍勢を突き崩し、さらには自ら将兵を率いて戦ったため、この反乱はなんとたったの1ヶ月もせぬうちに鎮圧されたのです。

 

その後、お隣の桂陽(ケイヨウ)、零陵(レイリョウ)で同時に起きていた乱もまとめて鎮圧し、完全に周囲の反乱を鎮圧してしまったのです。

 

 

そんな孫堅の功績を認め、朝廷は彼を烏程侯(ウテイコウ:侯とは、独自領地を持つ身分。地名をもじって○○侯と呼ばれる)に封じられたのです。

 

 

こうして順調に自らの軍閥を立てては大きくしていくことに成功し、波に乗る孫堅でしたが……この後、彼は予想だにしない出来事に遭遇してしまうのです。

 

 

 

   【孫堅伝1】反乱鎮圧のエース級!   【孫堅伝1】反乱鎮圧のエース級!

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