不良軍師?
郭嘉は曹操から「奴だけが俺の考えを理解している」と語るほどに重用し、死後行われた赤壁の戦いに敗れた際も「郭嘉が生きていれば……」と嘆いたとされています。
三国志の編纂者・陳寿の評では
深く計略に長じ、物事の真理をつかんでいた
とされ、当代でも屈指の策謀家と言っても過言ではありません。
しかし素行が悪かったようで、品行方正、謹厳実直な陳羣(チングン)との折り合いは最悪だったそうです。特に陳羣はたびたび郭嘉の素行不良を起訴していた模様。
しかし荀彧はまるっきり気にせずケロッとし、曹操も郭嘉を罰することはしなかったそうです。
曹操としては郭嘉も陳羣も優秀な人材なので、結局は双方を重用する形で場を治めたそうな。
具体的にどう素行が悪かったのかはよくわかりませんが……陳寿には「荀攸と比べて徳が足りない」とされており、それが理由で彼よりも下位の列伝に記されたようです。
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傅子によるハイパー付け加えタイム
さて、こんな感じでまさに「天才策謀家」といった感じの郭嘉ですが……昨今のメディアでキャラ付けされている郭嘉は、むしろ『傅子』による肉付け部分を参考にしている部分が大きいです。
これだけでも長文なのにさらに長くなりそうなので流せるところはさらっと流しますが……どんなことが書いてあるのか、サクッと見ていきましょう。
・若くして将来を見通す力があった。世が荒れると20歳のころから偽名を使って隠遁し、見込みのある人としか付き合わなかった
・呂布との戦いで曹操が撤退しようとしたとき、項羽がボロ勝ちしまくったのに最後に負けた例を挙げている
・配下に加わった劉備の処遇に関しては、程昱と同意見で始末するよう進言。完全に真逆である
・劉備が袁紹と組んで徐州で反旗を翻したとき、「袁紹はのろまで劉備は叛逆したばっかり。今すぐ攻撃すれば容易に平定できるでしょう」と進言(実際は曹操が自ら予想を立てたものの様子)
・旧袁紹領を切り取った際、曹操は袁紹の影響力をそぐため地元名士を多数招聘。これは郭嘉が仕組んだ懐柔策なのだ
・「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」。郭嘉死後に嘆いたこの曹操の言葉は、実は傅子が初出
・さらに嘆きが止まらない曹操は、ブレーンの荀彧に郭嘉の死を手紙で追悼の意を表している。この時の曹操の手紙には、「荊州併呑の計略を話し合ったが、郭嘉は『南は疫病の危険が多くある。俺が行ったら生きて帰ってこれないだろうな』と常々言いながらも、命を捨てるつもりで荊州攻略の計略を練ってくれた」ともある
……とまあ、おおざっぱに書きましたが、傅子一つからの出典でもこれだけの数の記述があります。
まあすべてがでっち上げというわけではありませんが、傅子の内容はなかなか胡散臭いところ。
とはいえ、この傅子の記述が昨今の郭嘉像を彩る主な出展元となっている点と、郭嘉は本伝の記述だけでも十分人並み外れた知略の持ち主である点は間違いありませんね。
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最後に……これも傅子からの出典ですが、かの有名な郭嘉が見た「曹操と袁紹の10の差」を載せて、締めとさせていただきます。
違いその6:徳(人徳)
袁紹―代々の実績をベースに、謙虚な態度と高尚な論議で信頼を勝ち得た。そのため、議論を好んで外面ばかりを飾る者が多い。
違いその7:仁(仁愛)
曹操―目先の部分に無頓着な部分もあるが、大きなことに対しては多くの人と接して恩愛を施す。
袁紹―目先のこと……飢えて凍える人を見ると憐れみを覚えるが、目の届かない場所に考えが至らない。いわゆる「婦人の仁」。
いずれも、「袁紹よりも曹操が優れている」という旨の言葉ですね。この言葉に後押しされ、曹操は「お前の言う通りの人間になってやる」とさらに奮起したとか。