郭嘉 奉孝


このエントリーをはてなブックマークに追加

郭嘉 奉孝

 

 

 

生没年:熹平4年(170年)~建安12年(207)

 

所属:魏

 

生まれ:豫州潁川郡陽翟県

 

 

個人的人物評

 

 

統率 B 戦場でも軍師格としてちょくちょく顔を出している。おそらく兵の指揮も充分できていたのだろう。
武力 早死にしたせいか、どうにも虚弱体質なイメージがついて回る。
知力 下手をすると占い師の類いだったのかもと思えるほど予言が当たる。孫策の死に関しては一枚噛んでる可能性も否めない。
政治 政治に関しても、まあ才能はあったのではなかろうか。規律乱しそうだけど。
人望 隠遁時代も下手な奴と付き合わないよう心掛けていたが、袁紹にも招聘されたあたり名声は高かったらしい。ただし素行不良で、特に陳羣との対立は深かった様子。

スポンサーリンク

 

 

郭嘉(カクカ)、字は奉孝(ホウコウ)。言わずと知れた、曹操軍の天才軍師ですね。

 

ゲームメディアでも数多く登場し、その天才ぶりや、かの諸葛孔明を凌ぐこともなかなか多くなってきました。

 

 

しかし、正史を見ると一つ気になることが。

 

 

 

傅子の追記多すぎィ!?

 

 

傅子は、三国志の魏から晋代に代わるまでに活動した政治家・文学者である傅玄(フゲン)という人が書いた書物なのですが……

 

ぶっちゃけ信憑性的に極めて微妙。裴松之の注釈によってはじめて三国志系書物の参考文献されたものです。

 

 

さて、その傅子の記述ですが……なんと郭嘉伝の7割方を占めていると言っても過言ではありません。よほどシンパシーでも感じたのでしょうか……

 

 

 

 


 

 

 

 

不良軍師?

 

 

郭嘉曹操から「奴だけが俺の考えを理解している」と語るほどに重用し、死後行われた赤壁の戦いに敗れた際も「郭嘉が生きていれば……」と嘆いたとされています。

 

三国志の編纂者・陳寿の評では

 

深く計略に長じ、物事の真理をつかんでいた

 

とされ、当代でも屈指の策謀家と言っても過言ではありません。

 

 

 

しかし素行が悪かったようで、品行方正、謹厳実直な陳羣(チングン)との折り合いは最悪だったそうです。特に陳羣はたびたび郭嘉の素行不良を起訴していた模様。

 

しかし荀彧はまるっきり気にせずケロッとし、曹操郭嘉を罰することはしなかったそうです。

 

 

曹操としては郭嘉も陳羣も優秀な人材なので、結局は双方を重用する形で場を治めたそうな。

 

 

具体的にどう素行が悪かったのかはよくわかりませんが……陳寿には「荀攸と比べて徳が足りない」とされており、それが理由で彼よりも下位の列伝に記されたようです。

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

傅子によるハイパー付け加えタイム

 

 

 

さて、こんな感じでまさに「天才策謀家」といった感じの郭嘉ですが……昨今のメディアでキャラ付けされている郭嘉は、むしろ『傅子』による肉付け部分を参考にしている部分が大きいです。

 

 

これだけでも長文なのにさらに長くなりそうなので流せるところはさらっと流しますが……どんなことが書いてあるのか、サクッと見ていきましょう。

 

 

 

・若くして将来を見通す力があった。世が荒れると20歳のころから偽名を使って隠遁し、見込みのある人としか付き合わなかった

 

 

袁紹曹操の十の違い全部(最後に参照)

 

 

呂布との戦いで曹操が撤退しようとしたとき、項羽がボロ勝ちしまくったのに最後に負けた例を挙げている

 

 

・配下に加わった劉備の処遇に関しては、程昱と同意見で始末するよう進言。完全に真逆である

 

 

劉備袁紹と組んで徐州で反旗を翻したとき、「袁紹はのろまで劉備は叛逆したばっかり。今すぐ攻撃すれば容易に平定できるでしょう」と進言(実際は曹操が自ら予想を立てたものの様子)

 

 

・旧袁紹領を切り取った際、曹操袁紹の影響力をそぐため地元名士を多数招聘。これは郭嘉が仕組んだ懐柔策なのだ

 

 

・「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」。郭嘉死後に嘆いたこの曹操の言葉は、実は傅子が初出

 

 

・さらに嘆きが止まらない曹操は、ブレーンの荀彧郭嘉の死を手紙で追悼の意を表している。この時の曹操の手紙には、「荊州併呑の計略を話し合ったが、郭嘉は『南は疫病の危険が多くある。俺が行ったら生きて帰ってこれないだろうな』と常々言いながらも、命を捨てるつもりで荊州攻略の計略を練ってくれた」ともある

 

 

 

 

 

……とまあ、おおざっぱに書きましたが、傅子一つからの出典でもこれだけの数の記述があります。

 

まあすべてがでっち上げというわけではありませんが、傅子の内容はなかなか胡散臭いところ。

 

 

とはいえ、この傅子の記述が昨今の郭嘉像を彩る主な出展元となっている点と、郭嘉は本伝の記述だけでも十分人並み外れた知略の持ち主である点は間違いありませんね。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

最後に……これも傅子からの出典ですが、かの有名な郭嘉が見た「曹操袁紹の10の差」を載せて、締めとさせていただきます。

 

 

違いその1:道(法則)

曹操―自然のままで堅苦しくない。

袁紹―堅苦しい儀礼や儀式を優先。

違いその2:義(正義)

曹操―天子を味方に付けている

袁紹―天子を守る曹操と戦う=天子に逆らっている

違いその3:治(政治)

曹操―猛(厳しさ)をもってしっかり律し、関係をわきまえさせている

袁紹―寛(ゆるさ)で寛(ゆるさ)をどうにかしようとしておりうまくいっていない

違いその4:度(度量)

曹操―外は簡略、心は明晰。適材適所で分け隔てがない

袁紹―寛大に見えるが内心は猜疑心が強く、親戚や親族以外の人を信用しない。

違いその5:謀(策略)

曹操―策を思い浮かんでからの実行力に優れ、変幻自在

袁紹―思いつく策は多いが優柔不断で、勝機を逸して失敗する

違いその6:徳(人徳)

曹操―真心をもって他人と接し、誠意を貫いて実行する。慎ましさを以って下を従え、恩賞も惜しまない。誠実で将来のビジョンがあり、中身のある人間は曹操に尽くそうと思っている。

袁紹―代々の実績をベースに、謙虚な態度と高尚な論議で信頼を勝ち得た。そのため、議論を好んで外面ばかりを飾る者が多い。

違いその7:仁(仁愛)

曹操―目先の部分に無頓着な部分もあるが、大きなことに対しては多くの人と接して恩愛を施す。

袁紹―目先のこと……飢えて凍える人を見ると憐れみを覚えるが、目の届かない場所に考えが至らない。いわゆる「婦人の仁」。

違いその8:明(聡明さ)

曹操―道義を以って統制し、讒言が浸透することがない

袁紹―讒言に惑わされて混乱している

違いその9:文(法律)

曹操―善い事には礼を以って推し進め、悪い事は法で罰する

袁紹―善悪の区別があやふや

違いその10:武

曹操―少数で多勢に勝ち、用兵は神のごときもの。味方はそれを頼りにし、敵は恐れている

袁紹―好んで虚勢を張るが、軍事の要点はわかっていない

 

 

 

いずれも、「袁紹よりも曹操が優れている」という旨の言葉ですね。この言葉に後押しされ、曹操は「お前の言う通りの人間になってやる」とさらに奮起したとか。

続きを読む≫ 2018/01/03 13:19:03

 

 

 

 

 

袁紹曹操

 

 

袁紹(エンショウ)は群雄割拠の時代の黎明期を引っ張る巨大勢力の主で、特に曹操の台頭前は袁紹のほうがよっぽど人気。

 

そのため曹操の幕僚も、当時は袁紹軍に属する地元仲間のコネで、彼に仕えていたケースも少なくありませんでした。

 

 

 

かくいう郭嘉もその一人で、袁紹の元に向かい彼に謁見。

 

しかし当の郭嘉は引っかかるところがあったのか、袁紹の幕僚である郭図(カクト)や辛評(シンピョウ)に、一つ意見を申し出ました。

 

 

袁紹殿は名士にへりくだった態度を見せて過去の偉人を真似ておられますが、人材任用の機微をご存知でありません。そもそも我々謀臣は君主の器を見極めるからこそ、功績を打ち立てられる者。
袁紹殿では、きっちりと協力して事に当たるのは難しいでしょう」

 

 

つまり、郭嘉の方から袁紹をNG。結局、袁紹に仕えることなくすぐに立ち去ったのです。

 

 

 

その後、相性の良かった謀臣・戯志才(ギシサイ)を亡くして自身の相談相手に困っていた曹操の元に、同郷の名士である荀彧(ジュンイク)の推薦で謁見。

 

 

二人はしばらく話し合った結果、すっかり意気投合。郭嘉は「私の主君はこの人だ!」と確信し、また曹操も「こいつは俺の大業に必要な逸材だ!」と感じ入ったとか。

 

互いにシンパシーを感じたところで、曹操は朝廷に上奏し、司空軍祭酒(シクウグンサイシュ:司空は当時の曹操の官職。曹操お付きの軍師)として採用。こうして、郭嘉曹操の元でその知略を振るうことになったのです。

 

 

曹操袁紹の十の違いについては、一番最後に記載

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

曹操のブレーンとして

 

 

その後、数年にわたるすったもんだの末、曹操はようやく呂布(リョフ)を徐州の下邳(カヒ)城に追いつめます。

 

しかし、呂布軍は異民族の兵も多く、本人の圧倒的武勇もあって精強。連戦連勝した曹操軍ではありましたが、その軍は疲弊しきっており、曹操もそれを見て一時撤退を心に決めていました。

 

 

しかし荀彧は、同じく軍師の荀攸(ジュンユウ)と共にこれを制止。

 

 

「我が軍の連勝により、呂布軍は士気が下がっています。呂布自身も気力が大きく減退し、参謀の陳宮(チンキュウ)もまだ策を思いついていない今こそが好機です」

 

 

優れた軍師二人の意見を聞いて、曹操は奮い立って呂布の攻撃を続行。これ以上戦いを長引かせないために総攻撃を仕掛け、全力を出せず力の衰えた呂布を捕らえることに成功したのです。

 

 

また、『魏書』には劉備の才覚を見抜いて「速めに処分するように」と訴えた程昱(テイイク)に対し、「奴は危険ですが、今処分すると諸侯の疑念を買って、思わぬ裏切り者を招いて名声を地に落とします」と曹操に申し入れています。

 

 

 

ともあれこうして呂布を倒し、周囲もまとめて併呑したことで、いよいよ曹操の目下の敵は、北方にいて圧倒的な巨大勢力を誇示する袁紹のみ。曹操は一大決戦に臨むべく、着々と準備を進めます。

 

しかし、そんな曹操にはもう一つ、気がかりなことがありました。南の江東で勢力を広げる、孫策(ソンサク)です。

 

 

孫策曹操を危険視し、袁紹との戦いの隙を突いて、曹操軍の本拠地を襲撃する計画をひそかに練っていました。

 

 

これを危険視する曹操に、郭嘉は涼しい顔で「孫策は警戒心がなく、自身が打倒した者らが人望の厚い英傑だと気づいていません。ともすれば、刺客に命を狙われるのは時間の問題です」とその死を予想。

 

結果、孫策は自身が併呑、殺害した許貢(キョコウ)という人物の仇討ちを狙う人物によって殺されてしまい、郭嘉の予言は的中したのです。

 

(ただし、裴松之はこれに対して「殺される時期まで言い当てるのはさすがに無理がある」としています)

 

 

 

これで心配事がほとんど片付いた曹操は、官渡の戦いで袁紹軍を撃退し、隆盛を誇った袁紹はその2年後に病死。

 

流れが完全にこちらに向いた曹操軍の軍内では、この機に袁紹領を軒並み併呑してしまおうという意見が強くなります。

 

 

 

が、ここで郭嘉は反対に、「少しの間放置しましょう。袁紹の旧臣らは団結が薄く、袁紹自身が後継者を決めていないのも手伝って揉め事が起こるはずです」と主張。

 

曹操は「郭嘉の言葉に理がある」とし、袁紹死後の領地の動向をしばらく見守ります。すると案の定袁紹の長男・袁譚(エンタン)と三男・袁尚(エンショウ)の間で後継者争いが勃発。

 

曹操はこれに付け入る形で侵攻を開始し、袁紹軍の本拠地であった鄴(ギョウ)を攻め落とし、袁尚を北に駆逐。さらには袁譚を討ち取ってその領地を平定しました。

 

袁紹ら北の軍閥との戦いに終止符を打った曹操は、今こそ臣下の恩に報いる時と考え、特に優れていた一部家臣に恩賞を与えましたが、この時に郭嘉も功績をたたえられ、洧陽亭侯(イヨウテイコウ)に封ぜられたのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

烏丸征伐

 

 

さて、こうして袁紹の息子らを軒並み駆逐した曹操ですが、北に逃げた袁尚はまだあきらめていませんでした。

 

彼は北の統治を行っていた兄・袁煕(エンキ)と共に、北方の異民族である烏丸(ウガン)に協力を依頼。袁紹の時代から親交のあった烏丸族の単于(ゼンウ:王)の蹋頓(トウトン)らはこれを受け、反曹操の旗色を明確にしました。

 

 

 

曹操軍はこれを受けて烏丸征伐を計画しますが、この頃劉備が南方に逃げており、荊州刺史(ケイシュウシシ:荊州の長官)の劉表(リュウヒョウ)に兵と領地を借りて反曹操の活動をしていました。

 

この劉備の動きを警戒し、曹操軍の多くは「烏丸討伐が長引けば劉備が攻めてくるのでは」と心配していました。

 

 

が、郭嘉は烏丸討伐の強行を提唱。

 

「今、烏丸らはこちらの来襲を想定せず防備を手薄にしているはずです。しかしもしここで南に進路を切り替えれば、人材は北に流れ敵に力を与えることでしょう。
一方の劉表は自身の器を自覚しており、劉備を使いこなせないのを理解しています。攻めてくる心配はないでしょう」

 

 

この言葉を容れて、曹操は烏丸討伐を決意。軍を勧めます。また、その途上でも郭嘉は、敵の防備が盤石になる前に少数兵力で奇襲を行うよう進言。

 

この時にはなった言葉が、かの有名な「兵は神速を貴ぶ」だったとされています。

 

 

 

そこで曹操は輜重(軍備)を捨て、少数精鋭の騎馬隊だけで烏丸らの砦に強行。突然の奇襲に慌てふためく烏丸隊を強襲、そのまま打ち破り、総大将の蹋頓すらも討ち取る大勝利に終わったのです。

 

 

 

早すぎる死

 

 

こうして無事に烏丸討伐を終えた郭嘉ですが、北の空気が体に合わなかったのか体調を崩し、曹操領に戻ってからはさらに症状が重篤化してしまいます。

 

曹操はその知らせを聞くと、大慌てで見舞いの使者を出します。後に郭嘉だけが幕僚の中で若かった。次代を託してみたかった」と述懐しているのを見るに、やはり若い郭嘉には並々ならぬ思い入れがあったのでしょう。

 

 

しかし、そんな曹操の思いもむなしく、郭嘉は38歳の若さで世を去りました。

 

 

曹操郭嘉の死を聞くと、「これが運命か」と嘆き、せめてものはなむけとして帝に上奏して領地を加増。諡は貞侯(テイコウ)とされ、その後は子の郭奕(カクエキ)が継ぐことになりました。

 

 

 

 

続きを読む≫ 2017/12/03 13:30:03
このエントリーをはてなブックマークに追加

ホーム サイトマップ
お問い合わせ