諸葛亮 孔明


このエントリーをはてなブックマークに追加

諸葛亮 孔明

 

 

 

生没年:光和4年(181)~建興12年(234年)

 

所属:蜀

 

生まれ:徐州琅邪郡陽都県

 

 

勝手に私的能力評

 

諸葛亮 臥龍 孔明 蜀 丞相 劉備 三顧の礼 天才 マルチプレイヤー

統率 S 部下の統率は語るまでもなく答えが出ている。軍事能力は最近疑問視されつつあるが、間違いなく鬼才だった。手堅すぎるのが玉に瑕か。
武力 個人武勇は不明。戦争においても、思い切った行動がとれず慎重になりすぎたのかもしれない。無難だが不利を覆す意外性がないイメージ。
知力 戦場における大胆さはないが、そもそも奇策を滅多なことでは必要としないくらい作戦や手札の用意は神がかっていた。
政治 言うに及ばず。ここで無能呼ばわりすると、歴史人物のほぼ全員が無能政治家になるだろう。
人望 信賞必罰の姿勢はまさに蜀の柱。彼の死後丞相の官位は永久欠番となって、宰相=録尚書事になった。

 

スポンサーリンク

 

 

 

諸葛亮(ショカツリョウ)、字は孔明(コウメイ)。三国志は知らなくてもこの人は知っている……なーんて人も多い人物だと思われます。

 

 

天才軍師として日本では常にチヤホヤされる三国志のアイドル的存在ですが、正史三国志が広まった近年では、「大したことない」と過小評価されることも……

 

 

 

みんな大好き天才軍師、諸葛亮。陳寿からは、陸遜(リクソン)と二人だけ、君主でもないのに独自の伝をあてがわれる等かなり重要視されており、その実績もずば抜け……もとい常軌を逸した才幹の持ち主。

 

まあ演義のアレは行き過ぎて気持ち悪いとしても、「大したことがない」と言われるような凡夫とは次元の違う活躍をした人物なのは間違いないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

歴史家も絶賛の天才官僚

 

 

 

諸葛亮は万能の天才である。この評価は随分と昔から定着しており、誰かが彼の能力のどこか1点にでもケチをつけようものなら、すぐに別の誰かが反論し褒め称える……という流れがもはや定番になっています。

 

 

日本でもだいたい似たような感じですね。

 

慎重安定、信賞必罰、合理主義と、日本人が望む指導者としては理想ともいえる人物であり、崇拝の対象になるのも非常によくわかります。

 

 

 

さて、そんな諸葛亮の歴史家評ですが……まず、三国志の編纂者・陳寿の評から見てみましょう。

 

 

丞相になると民衆をよく慰撫し、踏むべき道をしっかりと照らし、また政策においても時代に合ったものを選択して公正な政治を執り行った。
善行は相手が仇のどんなに小さなことであろうと褒め、悪行は身内のどんなに小さなことでも罰する信賞必罰の人で、罪に服していても反省すればゆるし、適当な言い抜けやごまかしをする者は死刑に処した。

 

物事は根源をただして発言と事実が一致するかをしっかり調べ、嘘偽りは一切歯牙にかけなかった。

 

 

そのため、皆は諸葛亮を恐れつつも敬愛し、政治の何たるかを熟知した天下の良才であった。

 

 

つまり、信賞必罰で政治をよく知るスーパー官僚だった……ということですね。

 

他の歴史家たちからの評価でも、この公平性と政治能力に関しては、少なくともマイナス評価をぶつけている人はまずいないでしょう。

 

 

 

ちなみに官僚としての個人能力は非の打ちどころがありませんが、人事方面では意外と賛否両論だったり。

 

 

とりわけ問題になりやすいのが、馬謖と李厳の取り扱いについて。

 

例えば馬謖は、劉備に「あいつは口だけだ」と忠告されながらも、敵軍の足止めに起用。馬謖は言われたこと以上をしようとしてしまい、結果として惨敗。自軍敗北だけでなく、北伐軍全体の撤退とせっかく得た成果の放棄を余儀なくされることになりました。

 

 

そして李厳に関しても、「第四次北伐で兵糧不足に陥り退却した」と書きましたが……あれは実は李厳のせいだったのです。彼はこの時兵糧輸送の任務をしていましたが、長雨のせいで輸送が滞ったために、諸葛亮にその旨を報告して全軍撤退を決定させました。

 

……が、なぜか李厳は北伐軍が帰ってきたのを驚いたフリをして、撤退の全責任を諸葛亮に転嫁。

 

結局裁判で諸葛亮が全やり取りを証拠に持ち出したため、最終的に李厳が失脚することになりましたが……なんともドロドロした話ですね。

 

 

この辺りは蜀の人材不足や名士同士のドロドロがあるという説もありますが……受け手の考え方に大きく依存しますね。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

 

諸葛亮の軍才

 

 

 

さて、話題になりやすいのは一方の軍才について。

 

まず、陳寿からはこんな感じの評価がなされていますね。

 

 

思うに、臨機応変の軍略は苦手だったのではないだろうか?

 

 

要するに、実際に兵を動かして戦う際には、定石だけでなくその場その場で動いていく状況にタイプするのが肝要。諸葛亮の場合、その状況への変化について行くのが、いまひとつ得意ではなかったのではないか……というのが陳寿の意見ですね。

 

 

これに対しては……まさに後世の評は賛否両論といったところ。多くの書籍でこの評に同意する意見がある一方、

 

 

・「弱小国の蜀が大国の魏に勝つのは無理だから、とりあえずリスクの少ない手段をとるしかなかったんじゃないかな?」

 

・「バカでクソな主君(劉禅)のせいで保守的な作戦に路線変更しただけだし?」

 

・「大義の戦でコスっからい奇策なんぞに頼るとかするわけないじゃん(笑)」

 

 

などと、「なるほど」と思える真面目な状況考察から笑えてくるような感情論まで(!?)、擁護論もよりどりみどりといったところ。

 

中には「どうせ陳寿の親父は諸葛亮に罰せられた罪人なんだろ! だから恨んでんだろ!?」といういささかアレな陳寿本人への批判もあり、諸葛亮は万能な否かという点においては、なかなかに議論が熱中しています。

 

 

昨今でも諸葛亮の才幹においては、どちらかを唱えれば異を唱える人間が出てくるくらいにぎやかな話題です。

 

 

というか儒教関連の人からの評価がものすごく高いのな。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

何だかんだ、陳寿評が的を射てる気がする

 

 

 

個人的考察をすれば、これですね。

 

 

諸葛亮は天才的な官僚で、政治や組織作り、そして富国強兵への筋道立ては三国でも屈指の上手さだった。これはまず間違いないでしょう。論ずる余地もないと思われます。

 

 

問題の部分は軍才について。

 

 

陳寿評から個人的な解釈を入れますと、諸葛亮は少なくとも、軍才に関しては苦手意識を持っていたのではと思われます。

 

「自分は臨機応変の策は苦手だ。だったら、前準備と緻密な作戦、そして基本に則った手堅い戦術で確実に行こう」

 

おおよそ、諸葛亮の胸中はこんな感じだったのではないでしょうか?

 

 

諸葛亮の行動を見ていると、すべてにおいてそつがないと言いますか、一点に特化してとがらせるのではなく、極力丸く隙が無い戦い方をしようとしていたように見受けられます。

 

 

だからこそ蜀という国は敗北して滅ぶことも無ければ、逆に勝利を得ることもできなかった。

 

 

良くも悪くも堅実で安定性を重視した、バランスのいい作戦を重要視していた……というのが、諸葛亮の最も優れた部分であり弱点でもあったのではないでしょうか。

 

 

 

前もって立てた作戦も完璧。以前に露呈した弱点もしっかり補強。あらかじめ仲間を誘って多方面作戦を相手に押し付けつつ、手堅く有利な地形に陣を敷く。すべてが兵法の定石としては理想形態です。

 

ですが、定石の上での理想というだけで、そこに自身の持ち味も尖らせた部分も無かった。

 

 

そんな穴も無ければ得意もない、まさにオーソドックスな意味で理想の戦術は、諸葛亮が自信の無さを定石と前準備で埋め合わせた結果なのではないかと思えるのです。

 

 

だからこそ、正攻法には強かった。司馬懿が仕掛けてきた局地戦では圧勝することが出来ましたし、追撃してきた魏軍はすべて打ち破り、果ては張郃のような大物まで討ち取ることができました。

 

 

 

 

しかし、そもそも北伐という行為自体が無謀を通り越した危険行為そのもの。

 

どう贔屓目に見ても無茶でしかない戦いに勝つには、やはり曹真や司馬懿のような化け物同然の強敵相手に、何かしらの奇策を実行しようとする……そんなある種の頭の悪さも必要だったのかもしれません。

 

 

 

自分の弱点をわかっていたからこそ、自分の才覚ではなく定石や前準備だけを信用する。結果として、予定通りに進んでいる間は無敵だが、ひとたび予想外の事態に陥るとどうすることもできなくなる。

 

 

諸葛亮は、ある意味では頭が良すぎたのが欠点だったのかもしれませんね。

 

 

続きを読む≫ 2018/02/21 14:06:21

 

 

 

 

第三次北伐でようやく一矢報いるが……

 

 

 

建興7年(229)、諸葛亮は休む間もなく再び北伐軍を結成。将軍の陳式(チンショク/チンシキ)に兵を預け、再び魏領に侵攻。

 

今回の北伐は今までとは違い小さなスケールで行われており、漢中からほど近い上戦略的価値の薄い武都(ブト)、陰平(インペイ)に狙いを絞ったものになりました。

 

何故そんな土地を狙ったのかは、おそらく北伐の政治的理由からくるものなのでしょうが……ここではひとまず割愛しておきます。

 

 

ともあれ、戦略的価値の低い土地ともあれば、狙われる可能性も取られたダメージも低いと言っても過言ではありません。そのため守備兵もほとんどおらず、蜀軍拠点からほど近いのもあって奪取は容易でした。

 

 

一応、敵将の郭淮(カクワイ)が救援に赴く姿勢は見せましたが、諸葛亮が本隊を率いて牽制、封殺し、その隙に武都陰平の2郡は陥落。三度目でついに、諸葛亮の北伐は成果らしい成果を上げることができたのです。

 

 

 

結果がどんなものであれ、蜀の領内は北伐成功に喜び盛り上がっていたようです。その証拠として、諸葛亮には「丞相に復職すべし。事態は認めない」との勅使が届けられ、再び丞相の座に返り咲くことができたのです。

 

 

 

が、これが思わぬ結果を生むことに……

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

魏呉の躍動

 

 

 

さて、まずこの状況下で動いたのは同盟国である呉です。

 

なんと孫権は、同盟国の蜀が浮足立っているその隙を狙って、みずから帝位に即位。自領の国号を呉とし、漢王朝でも魏の臣下でもない自分の国を完全に打ち立ててしまったのです。

 

 

これに関しては、「それがどうした」という声も出てきそうなものですが……そもそも蜀という国は、正式名称を「蜀漢」、つまり漢王朝の正式な跡取りを自称しているのです。

 

つまり、漢王朝を簒奪した魏はもちろん、漢以外のどんな国の存在も認めず、「漢こそが中国にあるべき王朝なのだ」と高らかに謳った国なのです。

 

 

そんな中、あろうことか心強い味方の同盟者が、漢王朝を無視した別の国を建ててしまったわけですね。戦勝で対魏路線が固まったこの瞬間に一本取られてしまった蜀にとっては随分と頭の痛い話だったでしょう。

 

諸葛亮は自分たちの政治的ドクトリンと合わないこの同盟者とどう付き合うかを考えましたが、やはり呉の力は必要であると判断し、外交官の陳震(チンシン)を祝賀の使者に立てて呉帝即位を祝賀。これまでと変わらない同盟関係の維持を選択しました。

 

 

 

 

そして一息ついたところ、今度は魏が蜀に対してアクションをかけてきます。

 

第三次北伐で面子を潰された魏でしたが、なんと大将軍の曹真自らが大軍を率いて一斉に蜀に侵攻。諸葛亮は山の中に大量の砦を建築してこれを迎え撃つ作戦を建てましたが、もはや魏蜀の戦力差は歴然。

 

 

後世からするとある意味楽しみな決戦の様相を見せた両軍でしたが……偶然にも天候トラブルが発生。

 

 

もともと蜀の土地は山が多く、魏の侵攻ルートでは必ず桟道を渡る必要があったのですが、なんと長雨で桟道の一部が欠落。ジメジメした雨により味方の士気も上がらず、結局魏軍は無理攻めを避けて撤退。

 

 

さらにそれから間を置かず曹真は病に倒れ、諸葛亮にとっておそらく一番危険だった人物が世を去ったのです。

 

後任は、知略に長けるものの大軍指揮の経験がまだまだ浅い司馬懿(シバイ)。これを好機と見た諸葛亮は改めて軍備を整え、今一度北伐の準備を進めるのでした。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

第四次北伐

 

 

 

第四次北伐では、先の反省を生かして補給機構の欠陥を埋めることに着手。

 

木牛(モクギュウ)なる輸送用の新機材を開発、導入して補給部隊の物資運搬を効率化。さらに敵軍からの食糧略奪が容易になる収穫期での侵攻を予定したのです。

 

 

そして建興9年(231)、西方の間道から軍を進めた諸葛亮は、魏の大拠点である祁山(キザン)に侵攻。これも魏軍の想定通りの動きと言えましたが、今回の諸葛亮は以前と動きが違いました。

 

始めから魏に反感を持っていた異民族と通じて協力体制を敷き、さらに収穫前の作物を全て刈り取って当面の食事事情を解消してしまったのです。

 

 

これに対して司馬懿は始めこそ持久戦を展開し追い返すことを考えていましたが、諸葛亮があまりにも粘り強く対陣する上異民族に背後を脅かされる形となり、たまらず蜀軍との局地戦を展開する形となりました。

 

一度ぶつかってしまえば、諸葛亮司馬懿の経験の差が大きく出るのは明白。局地戦は諸葛亮の勝利に終わり、魏軍の指揮を削ぐことに成功。

 

しかし、今回の北伐成果はここまで。正面からでは勝てないと踏んだ司馬懿は敗北以降砦に籠ったままになってしまい、最終的には蜀軍の補給線が耐えきれず、またしても兵糧切れで撤退。

 

 

蜀軍の撤退を見た司馬懿は張郃に追撃を命じるというポカをやらかしてしまい、それに乗じて因縁の強敵である張郃を見事討ち取った……という華々しい戦果こそ挙げるものの、またしても一歩届かず、北伐の目標は達成できなかったのです。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

陣中に死す

 

 

 

さて、当時の諸葛亮の仕事ぶりを端的に表すと、内閣総理大臣が必死に仕事をしながら頻発する戦争の指揮まで執っているという状態。さすがにその状態が何年も続くと、体にもガタが来るのは無理がありません。

 

 

第四次北伐の後はさすがにしばらく内政に努めていましたが、この時もハードワークと評すほかないほどの忙しさだったとされています。

 

 

 

こうして戦に内政にとあちこち駆け回った諸葛亮は、再び呉の孫権と共同戦線の約束を取り付けた後、建興14年(234)、大軍を再び動員して最後の戦いに赴いたのです。

 

 

この時も流馬(リュウバ)なる輸送機材を使い、輸送の問題にしっかりと対応した作戦を展開。魏軍大将・司馬懿の誘いに乗る形で武功(ブコウ)郡五丈原(ゴジョウゲン)に進軍し、この地の優位な高台に軍を展開。

 

そして万一の持久戦に備え、屯田を開いて少しでも自給自足が可能な状態を整え、東では同時に孫権が魏領に侵攻して敵の目を逸らす事で、少しでも勝算を上げる算段を整えて決戦に臨んだのです。

 

 

しかし、司馬懿もやはり一流の将軍。以前は苦杯を舐めさせられましたが、今回はそうはいきません。自軍に誘い込んで有利な防戦で叩き潰したい諸葛亮と、誘いに乗らずどっしりと慎重に構える司馬懿

 

余りに動かないものだから、諸葛亮司馬懿を徹底的にこき下ろして挑発してみますが、それでも司馬懿は動かず、逆に諸葛亮の身体が限界を迎えつつあるのを悟ってより防備を強化してしまいます。

 

 

そんな折、さらなる凶報が諸葛亮を襲います。

 

魏軍に大規模攻勢をかけていた呉軍が、敗北を喫し撤退。

 

 

万策尽きた諸葛亮は、対峙すること100日余り、8月に過労から発した病によってこの世を去り、彼の北伐の夢は終わりを迎えてしまったのです。

 

 

諸葛亮の死後、蜀軍は総退却。その後敵陣跡を訪れた司馬懿諸葛亮の陣立てに驚き、「天下の奇才である」と称したとか。

 

諸葛亮は奇しくも自分がライバルに経験を与えてしまい、それが元で敗北。そしてそんなライバルから、最大限の誉め言葉を受け取ることになったのです。

続きを読む≫ 2018/02/19 15:43:19

 

 

 

 

最優先事項は不利な状況を打開すること

 

 

 

建興元年(223)、諸葛亮は武郷侯(ブキョウコウ)として領土、爵位を拝領。さらには益州牧になり自身の幕府を開いて、基本的に静観を決めている劉禅に代わり国の第一人者として政務を取り仕切るようになりました。

 

基本的に劉禅は人に一任するタイプだったので、実質的に諸葛亮が政治のトップに君臨したわけですね。

 

 

また、この頃「蜀はもう終わりだ!」という風潮もあったため、南に位置する南中では反乱が頻発。諸葛亮もこの時ばかりは、劉備の喪と敵に囲まれた状態での出兵を嫌ったのと2つの理由から、兵を出せずにいたのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

そんな限られた状況下で、諸葛亮はまず孫権との和解の道を選択。群衆が「孫権は危ないから」と反対する中、鄧芝(トウシ)を使者に立てて和睦と再同盟の交渉に当たらせました。

 

孫権の側は劉備が亡くなったことで旗色をはっきりとさせませんでしたが、実は元々魏の飼い犬のまま終わるつもりもなかったため、鄧芝の話に納得するとすぐに使者を蜀に派遣。再び両国は同盟国として、魏に対抗することになったのです。

 

 

その後喪が明けて後の健興3年(225)、ついに南中の反乱鎮圧のため自ら軍を率いて南征を開始。春に軍を率いて始めた遠征でしたが、その年の秋には反乱した地域のことごとくを平定して帰還したと言われています。

 

『漢晋春秋』には、この時の諸葛亮が何をしていたかを明確に記載されています。

 

有名な「七縱七禽」の語源となった心攻作戦を実施し、南中の豪族である孟獲(モウカク)らを心服させて忠誠を尽くさせたと言われており、実際に何度も豪族と戦い、彼らが負けを認めるまで勝ち続けたそうな。

 

ちなみに負けた側の孟獲は負けるたびにあれこれと敗北した理由を述べて、逃がしてもらっては再戦を繰り返し、七度目の敗北で囚われた際に始めて負けを認めておとなしく従ったのです。

 

 

 

さて、そんなこんなで広大な南中の土地を蜀勢力下に収めた諸葛亮は、一気にその国土を回復。一時期は実質的に亡国と言っても過言ではなかった蜀漢を、厳しいながらも他国への侵攻が可能なレベルにまで立て直すことに成功したのです。

 

 

 

蜀の成り立ちが魏へのアンチテーゼに準拠している以上、国力が整ったのならば、必然的に魏を攻めなければならないのが蜀という国の在り方。

 

諸葛亮は崖や高い山の多い蜀の地のインフラを徹底整備し、集めた兵たちをまとめ上げて演習等の実質的な訓練を多く実施。魏への侵攻に備え、着々と準備を整えつつあったのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

第一次北伐

 

 

 

建興5年(227)、諸葛亮は名文として名高い『出師表』に自らの覚悟と言いたいことを綴って劉禅に上奏。

 

そしてついに、前線基地の漢中に10万の大軍を移送。翌年6年(228)、目標を長安近くの魏軍拠点・郿(ビ)と定めて大々的に触れ回り、趙雲(チョウウン)、鄧芝らを向かわせます。

 

 

しかし、これは実は囮。本当の狙いはそれよりもさらに西の、西涼の諸郡にあったのです。

 

諸葛亮は趙雲らが敵を食い止めている間に南安(ナンアン)、天水(テンスイ)、安定(アンテイ)の三郡を内通させて無傷で奪取。

 

 

 

しかし諸葛亮の北伐が上手く行ったかに思えたその時、魏の本国からの援軍が北伐軍に接近しているという情報を入手。

 

援軍を率いているのは、歴戦の名将・張郃(チョウコウ)。

 

野放しにするには危険すぎる相手。北伐をこれ以上続けるには、本国からの援軍を食い止める必要がありました。

 

 

 

そこで諸葛亮は、張郃の軍勢を食い止めるため、将来を渇望されている馬謖(バショク)を足止め部隊の大将に任命。「街道沿いに布陣し、勝とうとせず足止めに徹するように」と言い伝えました。

 

 

 

しかし、馬謖は将来を担う若手といえども、まだまだ実績は不十分。そのため、裏では「足止めだけでは不十分。勝たねば」と意気込んでいたようです。

 

結果、馬謖は堅実に守りを固められる街道を捨てて勝算のある山頂に布陣。

 

 

これで相手が凡将ならば勝つ見込みも充分あったのですが、相手の張郃は魏でも戦争の名手。山頂で強気の陣を敷く馬謖に対して冷静に対応し、水の手を絶って士気を激減させた後、ほぼ一方的に馬謖軍を打ち破ってしまったのです。

 

 

その後後方の軍が打ち破られるだけでなく趙雲らの囮も見破られて敗走し、北伐軍は全滅の憂いに立たされて撤退。

 

結局は捕獲した住民を移住させるだけにとどまり、第一次北伐は失敗に終わってしまったのです。

 

 

 

この失敗は蜀にとっては大きな痛手となり、馬謖を始め特に責任の重い者を処刑。自身を始め多くの重心を降格処分とすることで、敗北のケジメとしたのです。

 

しかし、本当に職務を分相応にしてしまえば国が立ち行かなくなります。そのため、諸葛亮の仕事は、降格前とは変わることがなかったそうな。

 

 

『襄陽紀』には、馬謖処断の逸話が詳しく載せられています。

 

馬謖は自らを恥じ、諸葛亮に当てて「法を明確にするため、私は処刑されるべきでしょう」と自ら述べ、これを汲んだ諸葛亮は彼を処刑しました。

 

 

その後馬謖の葬式にも参加し、遺児の生活も不足なく行うように手配したのです。

 

 

その後蒋琬(ショウエン)が「今回の事は残念でした」と述べると、諸葛亮の中の思いは爆発。涙を流し、「明確厳正な法は戦争での要。大事を為すには、どうしても法に照らして殺すしかなかったのだ」と思いのたけを述べたのでした。

 

「演義」でも諸葛亮は涙を流していますが、そちらは馬謖の為というより、そんな人物を重用した自分を恥じての物だったとされています。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

第二次北伐、完封される

 

 

 

同年の冬、諸葛亮は再び北伐軍を編成し、今度は長安を目指して直接の攻撃を企て、以前奪った3郡と長安の中間地点にある陳倉(チンソウ)を狙って進軍。

 

この時、西方で蜀を待ち受ける魏軍大将は曹真(ソウシン)でしたが、彼もやはり魏の名将。実は諸葛亮の今回の侵攻ルートは完全に読まれており、陳倉は完全に要害化していたのです。

 

軍配置の関係で陳倉の守兵は数千人と小勢でしたがそれでも攻め落とすことが出来ず、兵糧もほとんど持ち合わせていなかったため撤退を余儀なくされてしまいました。

 

 

一応、諸葛亮も追撃してきた王双(オウソウ)なる将を討ち取ることに成功はしましたが、成果はこれだけ。

 

その王双も大物かというと、魏ではあくまでその他大勢に毛が生えた程度という有り様で、大戦果と褒め称えるほどのものではなかったのです。

 

 

一度目の北伐は不意打ちで上手く行ったものの、二度目は相応の対策を練られており、圧倒的物量差を前に敗北は必至。

 

諸葛亮の北伐は、以後も小さな戦果は上げられるものの大目標は達成することができず、失敗を繰り返してしまう事になるのです。

続きを読む≫ 2018/02/18 13:56:18

 

 

 

 

 

諸葛亮「俺スゲーから」

 

 

 

諸葛亮は元々中国の極東に位置する徐州(ジョシュウ)名士の家系でしたが、両親は早くに死去。幼い諸葛亮は叔父についていき、豫章(ヨショウ)太守に任命されるものの別の太守との権力争いに敗れ、荊州に逃れていったのです。

 

 

そんな叔父が亡くなると、諸葛亮は自ら農耕に携わり、『梁父吟(リョウホギン:春秋戦国時代の斉の国の宰相が、国難を未然に防いだ逸話の歌)』を口ずさみながら田畑を耕していたそうです。

 

 

 

また、当時の諸葛亮はかなりのビッグマウスだったようで、自らを管仲(カンチュウ:斉の伝説的な宰相)や楽毅(ガクキ:燕の名将。用兵と忠義で人間辞めてる人)になぞらえて自分を語っていたようです。

 

当然、実績も根拠もなく大口をたたく若造を評価する者はその当時はほとんどおらず、彼と友人関係にあった崔州平(サイシュウヘイ)や徐庶(ジョショ)だけが、わずかに彼の才幹を認めている状態だったそうな。

 

 

つまり今でいうところの、「俺はいつか大物として世界に羽ばたく!」とか言ってる痛い若者だったわけですね。そんなダメ人間オーラ全開の男が、本当に世界の偉人にもランクインしそうな器の持ち主だったといったい誰が気付くでしょうか?

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

臥龍世に起つ

 

 

 

さて、「俺はすごいんだ」とぼやきつつも周囲からは後ろ指をさされる、ある意味若者らしい鬱屈とした日々を過ごしていた諸葛亮ですが、27歳の時に転機が訪れます。

 

友人である徐庶から話を聞いた劉備(リュウビ)が、諸葛亮の住居まで訪問。

 

 

俗にいう「三顧の礼」をもって、諸葛亮に「曹操を倒すにはどうすればいいか」と天下への方策を問いに来たのです。

 

 

これに対して諸葛亮は、優れた計略で大勢力にのし上がった曹操、地の利と長きにわたる支配でしっかりと江東に根付いた孫権を引き合いに出し、それと比べて暗愚とされ隙の多い劉璋(リュウショウ)が割拠する益州に着目。

 

「劉表が亡くなり混沌とし始めたこの荊州、そして益州の2つを備え、また孫権とは同盟を結び、中国南部の総力を駆使して曹操と対決しましょう」

 

 

これこそが、諸葛亮の描いた戦略。いわゆる「天下三分の計」ですね。

 

 

劉備に広い視野での戦略を説いて戦略性をアピールした諸葛亮は、その後も劉備から度重なる訪問を受け、いつしか劉備軍に仲間入り。

 

曹操が南征を開始したころには既に行動を共にするようになり、すっかりその中に溶け込んでいたのです。

 

 

 

さて、そんな諸葛亮の才覚、実は劉備だけでなく、荊州の雄・劉表の息子である劉琦(リュウキ)も大いに買っており、彼もまた複雑な自身の環境について諸葛亮からアドバイスをもらいたいと考えていました。

 

しかし、劉備の置かれている状況は非常にデリケートで、劉表の跡継ぎである劉琮(リュウソウ)から睨まれると危険な状態に放り投げられる可能性も。そこで諸葛亮はあえて明言することは避け、劉琦からの相談は拒否するようにしていました。

 

が、ある時劉琦は諸葛亮と共に高台に登って梯子を外して退路を断ち、再び諸葛亮に今後の相談をしました。

 

さすがに進退窮まった諸葛亮は、ここで観念してようやく口を開きます。

 

 

「確か昔、一国の太子が国内にあくまでとどまったばかりに、重臣たちに自害させられ、もう一人の太子が国外に逃げたおかげで難を逃れたという話がありませんでしたか? 晋の文公の話です」

 

 

これにピンときた劉琦は、劉表の影響下から脱し、孫権に攻め落とされて空白都市となていた江夏(コウカ)に赴任。おかげで一命をとりとめ、以後彼の軍勢は劉備の心強い味方となったのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

天下三分へ

 

 

 

その劉表の後を継いだ劉琮は、曹操に降伏。孤立した劉備はなんとか曹操の追手を振り切って夏口(カコウ)まで脱出。

 

 

諸葛亮はそんな折、手始めに曹操軍の侵攻を追い散らすべく、江東の孫権の元に向かい、彼の力を得るために説得に赴くことにしました。

 

この時諸葛亮孫権に対し、あえて「曹操に降伏すべきです」と挑発。

 

孫権から逆に「なんで君らは曹操に仕えない?」と訊き返されたところ「我々は漢王朝のために戦っています」と受け応えてさらに刺激した旨が本伝には書かれています。

 

 

魯粛周瑜の後押しもあって始めから戦うことを決めていた様子もある孫権ですが、やはり面子に関わるため、劉備と無条件で手を結ぶのには慎重だった様子。

 

 

 

こうして孫権軍は赤壁の戦いに臨み、曹操軍の大部隊を見事に撃退。一方の劉備はその戦勝の隙を縫って荊州南部を制圧して自領に加え、ようやくまともな拠って立つ地を入手。

 

そして劉璋の元から「北に割拠する張魯(チョウロ)を打ち破ってほしい」という救援要請を得て、劉備は天下三分に向けて益州に旅立っていきました。

 

 

こうして益州に劉備本隊が向かって行ってしばらく後、いよいよ劉備は劉璋に反旗を翻し、本格的に蜀の地を奪いにかかります。荊州でこれを聞いていた諸葛亮も、劉備から預かっていた軍勢を率い、これに呼応する形で益州に攻め寄せていったのです。

 

劉備軍は怒涛の勢いで益州各地を蹂躙していき、最後には劉備本隊と合流して劉璋軍の本拠である成都を包囲。降伏まで追い込み、ついに天下三分の要である益州を手中に収めることができたのです。

 

 

これによりようやく大勢力に成り上がった劉備は、それぞれの人材に官位を与え人事を整えます。諸葛亮もその人事整理の中で軍師将軍(グンシショウグン)の地位と、劉備の補佐役の役職に就任。

 

以後の諸葛亮は、劉備が外で戦う際の留守番係として食料や軍事力の管理に専念。地味な仕事のため特にこれといった記述はありませんが、このおかげで劉備は宿敵・曹操を撃退する等の大金星を挙げることができたのは想像に難くありません。

 

 

また、政治面でも法正(ホウセイ)、伊籍(イセキ)、李厳(リゲン)、劉巴(リュウハ)という特に法律に詳しい4人と共に蜀科(ショクカ:蜀の法律)の制定をするなど、確かな実績を残しています。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

失意の劉備、蜀の実質滅亡

 

 

 

建安24年(219)には、劉備や荊州を守る関羽(カンウ)の対応に内心不満を募らせていた孫権が裏切り。曹操との合同で荊州を奪い、劉備軍の要である関羽も討ち取ってしまいました。

 

 

さらに翌年の建安25年(220)には、病死した曹操の後を継いだ曹丕(ソウヒ)が漢王朝からの禅譲を受け国号を魏に変更。

 

ここまで劉備たちが大義名分としていた「漢王朝の復興」すらも、音を立てて崩れ去ってしまったのです。

 

 

これに対し、蜀内では劉備が帝位に就くべきという声も多発。この群臣の中には諸葛亮の姿も含まれており、劉備は臣下らの説得を受けて自らの領地を「蜀漢」とし、新たに「漢王朝の後継」を称する国を建国。

 

諸葛亮はこの時蜀の丞相(ジョウショウ:内閣総理大臣のようなもの)に任命され、国の中枢に君臨。

 

 

 

劉備はこのまま裏切った孫権を攻撃するように計画を立てましたが、その途上で今度は関羽に次ぐ重鎮であった張飛(チョウヒ)までも部下の裏切りに遭い死亡。諸葛亮張飛が担っていた司隷校尉(シレイコウイ:首都近郊の警備隊元締め)の任を引き継ぐこととなりました。

 

こうして暗雲立ち込める中で孫権への侵攻を実施した劉備でしたが、敵の計略にかかりあえなく敗走。国力の大半を削ぎ落された上、劉備本人も翌年には病没。

 

 

諸葛亮劉備死去の際、息子の劉禅(リュウゼン)の後見と実質的な跡取りを任され、もはや滅亡同然の打撃を受けた蜀の建て直しのため、自ら険しい道を突き進むことになるのです。

 

 

 

劉備は病没の際に諸葛亮を呼び寄せ、こう言ったそうです。

 

「もし倅に力がないと思えば、君に蜀の皇帝になり替わってほしい」

 

 

これに対し諸葛亮は涙を流して拒否。命を懸けて劉禅を支える旨を伝え、これを聞いた劉備劉禅に対し「諸葛亮を父と思え」と遺言したと、本伝にはあります。

 

 

また、この時には益州土着の主要人物である李厳もいたとか何とかと言われており、「劉備の発言は諸葛亮らを試す意味合いがあった」という説もあるようですね。

続きを読む≫ 2018/02/16 16:19:16
このエントリーをはてなブックマークに追加

ホーム サイトマップ
お問い合わせ