魯粛 子敬


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魯粛 子敬

 

 

生没年:熹平元年(172)~建安22年(217)

 

所属:呉

 

生まれ:徐州臨淮郡東城県

 

 

勝手に私的能力評

 

魯粛 戦略家 タフガイ 希代の狂人 危ない人 天才 最左翼

統率 D+ 演義では陸戦が得意という謎設定が加えられたが、正史では不明。私兵を囲ったり最終的に一万の兵を与えられていた辺り、それなりに兵をまとめる力はありそうだが……
武力 B 乱世を予感し、若い頃から体を鍛えて「何やコイツ」と周囲から白眼視されていた。関羽に単身喚き散らしに行くあたり、明らかにヤバい人。
知力 S 史書には失策も目立つが、むしろ倍速での巻き返しが本領の魯粛さんには失敗など関係なかった。漢帝国に見切りをつけ、独断で勝手に動いて全部結果オーライで済ませた人。
政治 A 内政能力は不明だが、卓越した先見性と頭の回転を活かし、タフで大胆な外交戦略を展開した。
人望 C 孫権の基本戦略を打ち立てた重要人物だったが、思想が危険すぎるため賛否両論。特に保守派からは干される所まで毛嫌いされた。

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魯粛(ロシュク)、字は子敬(シケイ)。少し前まで、メディアでは「お人好しで優柔不断のクソ雑魚外交官」といったキャラ付けがされてきた人物ですね。

 

 

……が、正史三国志を見てみると、明らかに別人

 

 

外交適性0、ナヨナヨした人物像、利用されやすい常識人。これら魯粛に長年あてがわれてきた人物像、そのことごとくが実像と真逆というのがよくわかります。

 

 

 

実際は常識なんぞ素知らぬ顔のタフで実利主義な希代の狂人、敵に回すこと自体愚策と言える危険なネゴシエーターと言えばよいでしょうか。

 

緻密な損得計算に基づいた大方針を拠り所に、どんな逆境や失敗にも必ず活路を見出し、最善のリカバリィを即時実行してくる恐ろしい人物です。

 

 

 

魯粛先生、パネェっす……!

 

 

 

 

 

 

 

劉備との荊州問題

 

 

 

さて、もともと呉の統治が行き届きにくかった荊州をあろうことか劉備への貸与という形で手放した魯粛ですが……これはまかり間違っても、劉備がかわいそうだから恵んであげたとか、そういう間抜けな話ではありません。

 

 

この魯粛劉備の猛毒ともいえる危険性を逆に利用し、曹操を倒すまでの一時的な駒として利用しようとしていた節すらあります。

 

当然、劉備も天下への野心を持った梟雄。完全に魯粛の掌中という訳にはいきませんでしたが、益州を制した劉備に対曹操での盾のような役割を押し付けることには成功。まあだいたいは魯粛の思惑通りに事は運んでいました。

 

 

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とはいえ、益州は元々、呉の将である周瑜や甘寧(カンネイ)も目をつけ、狙っていた土地。実は孫権が益州を攻めようとしたところ劉備が猛反対したという事実もあり、益州を孫権から泥棒したとも取れる劉備の動きは、孫権にとっても面白くないものでした。

 

 

 

そんな両者の仲がギスギスし始めた時も魯粛は自軍と劉備軍の諍いを仲裁するなど友好を保っていましたが、『呂蒙伝』では劉備から荊州を奪う手筈を献策した呂蒙に対して賛同の意を示したりと、既に場合によっては劉備を攻撃することまで視野に入れていた様子が伺えます。

 

 

 

……とまあそんなこんなで当面は仲良くしつつもお互い握手した手に画鋲を仕込むような仲が続きますが……劉備が益州を攻略し、しっかりした地盤を手に入れたあたりで一気にその関係が崩壊し始めます。

 

 

 

益州が手に入ったことで、孫権劉備に貸与していた長沙(チョウサ)、桂陽(ケイヨウ)、零陵(レイリョウ)の3郡の返還を要求しますが、劉備によって拒否されます。…………ん? 3郡?

 

 

まあともあれ、この拒否を受け、さらに勝手にそれぞれの郡に長官を任命して派遣するものの、荊州を守っていた関羽に追い返される始末。

 

 

「返還の余地なし」と判断した孫権軍は、これによっていよいよ強硬手段に出ます。曹操が益州北部の漢中(カンチュウ)攻略に動き、劉備に圧力がかかったのを確認すると、なんと呂蒙を中心とした部隊が荊州に侵攻。先ほどあった通りの3郡を無理矢理占拠しようとします。

 

 

これを知った関羽呂蒙撃退のために急行し、さらには漢中が気になるはずの劉備も本隊を率いて駆けつけてくる始末。両軍はまさしく一触即発の事態に陥ります。

 

 

 

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……と、ここで魯粛はついに行動を開始。なんと荊州責任者の関羽の元に自ら赴き、護身用の刀だけを持って、お互いわずかな人数だけを引き連れて関羽との交渉に臨むこととなったのです。

 

 

 

これを俗にいう単刀会見ですね。その気になれば殺されるのは自分だというのに恐ろしい……

 

 

さて、こうして会見に臨んだ魯粛ですが……さしもの関羽といえども魯粛のような相手に論戦で敵う道理も無く、魯粛の論破で完結。

 

 

劉備殿は土地をお持ちでなかったから慈悲で貸し与えた土地を、地盤が固まった今でもまだ保持し続けるのはどういうことか。しかも譲歩して三郡の返還に留めようというのに、返す気はないのか!」

 

 

そんな魯粛の一喝に関羽の側近が「土地は徳のあるやつに帰服する。いつまでも同じ奴の元にあると思うか」と述べるとたちまちわめき散らし、怒った関羽が刀を振り上げると「国家の関わりに奴のような一部将が口をはさむとは何事か!」と怒鳴りつけて黙らせるという……まあ一騎当千の猛将相手に随分と派手に立ち回ったとされています。

 

 

『呉書』では鮮やかな魯粛の論破ショーが描かれていますが、長くなるので割愛……

 

 

 

ともあれ、曹操がそろそろ攻めてこようかというクソ忙しい時期に領土問題なんかを引っ張り出された劉備は、やむを得ず湘水(ショウスイ)という川を隔てた東側の土地をまとめて孫呉に返還・譲渡することで孫権軍と和睦。

 

呂蒙が占拠した零陵は再び劉備領ということになりましたが、元々呉が所有していた荊州領域よりもはるかに広大な領土を回収することができたのです。

 

 

 

建安22年(217)に、魯粛は四十六歳で死去。主君の孫権はもちろん哭礼(コクレイ)を行いその死を悼み葬式にも出席しましたが、なんと蜀の諸葛亮も彼のために喪に服し、しばらく活動を控えていたというのだから驚きです。

 

英雄は英雄を知るという事でしょうか……。

 

 

 

また、孫権は後に皇帝の座に就いた時、「魯粛はこうなるとわかっていたのか……。彼は先の見える人物だった」と思い返したと伝わっています。

 

 

 

 

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その人物像

 

 

 

と、こんな感じでぶっ飛んだ思想と爆弾発言、そして冷静沈着な現実主義的な対応が光る魯粛ですが……そのぶっ飛び具合は、意外にも普段の生活には現れることはなかったようです。

 

 

『呉書』には、そんな彼の私生活の様子が端的に語られていますね。

 

風貌魁偉で若くして大事を為さんという志を持っており、しばしば人が考え付かない目論見を立てていた。

 

 

人となりは方正謹厳。自らを飾り立てるのを好まず、その生活は質素なもので、人々がもてはやすようなものに興味を示さなかった。

 

また、軍の指揮はきっちりしていて禁令にも誤りはなし。

 

読書家で行軍中でさえも本を手放さず、談論や文章表現も巧みで深慮遠謀、人並み外れた洞察力を備えていた。

 

 

 

つまり、過激すぎる思想と危険な野望を持っていながらも、あくまでそれは自身の思い描く世を実現するためのもの。つまらない私利私欲を満たすためのものではないのは明白です。

 

 

 

一方、短絡的な分野での戦術、短期戦略では読み違えや誤算が多く存在しており、こういった目先の利益を追いかけるのはかなり苦手な分野だったと言ってもよいでしょう。

 

この苦手分野が、魯粛の長期戦略を毎回のように破綻に導いたわけですが……まあ、それを平気でカバーしていくのが魯粛の恐ろしいところですね。

 

 

 

しかし、そんな計算違いの逆境でも焦らずヤケにならずで、冷静な現状把握と再計算によってむしろ逆境を好機に換えていく手腕は、明らかに他者にはまねできないこと。

 

おそらく本人の頭の良さと大元の方針をずらさない志向が、味方によっては開き直りとも取れる数々の行動につながったのでしょう。

 

 

思うに、魯粛は目論見が破綻してからが本番

 

どんなにダメな状況に放り投げられても、即座に大方針を達成するまでの道筋を明白にする頭脳と、それに向けてすぐに動く大胆な行動力を持ち合わせた傑物であることに変わりはありません。

 

 

 

魯粛死後、孫権は長江を固めて自身の領土を天然の城砦に仕立て上げることに腐心しますが……これは魯粛の叩き出した帝王論をなんとしても成し遂げようとしたが為の行動なのかもしれませんね。

 

 

 

【魯粛伝3】荊州問題と人物評   【魯粛伝3】荊州問題と人物評   

続きを読む≫ 2018/07/23 14:23:23

 

 

 

魯家の狂人

 

 

魯粛の家は代々名の売れた名士のようなものではありませんでしたが、父は実業家で。非常に裕福な家庭の出でした。

 

 

しかし、その稼ぎ頭である父は魯粛が生まれるとすぐに死亡。祖母と共に暮らすことになりましたが……まあこれがまた地に足の着いた考え方からは程遠い人物だったようで、魯粛は父が堅実に行っていた家業をうっちゃらかして崩壊。

 

田畑は売り飛ばし財貨はばらまき、事業を大きくすることよりも人々の貧困を解決することばかりに着目。

 

さらには自らが認めた有能な人物ともコネを作っておくなど、明らかにその家業の為だけにあれこれ考えればいい実業家とは程遠い、「素晴らしい人物」という名声を得るための独自の動きを見せるようになっていました。

 

 

『呉書』にはさらに明確にその事が書かれており、「剣、弓、騎馬を習い、集めた若者らと狩りや兵法の訓練にいそしんだ」とあります。

 

……つまり、思いっきり乱世に身を立てる気満々。

 

 

これを見て、里の老人たちは口々にこう言ったのです。「あの魯家にキ〇ガイが生まれた」と。

 

 

 

 

また、ある時、県の長に任命されていた周瑜(シュウユ)の来訪を受けると、彼から「米を援助してほしい」という協力要請を受けることとなりました。

 

これを聞いた魯粛は、なんと二つある穀倉のうちの一つを丸々周瑜に寄付。

 

 

「こいつ、タダモノじゃない……」

 

 

そう感じた周瑜は、魯粛とすっかり友好関係を結ぶようになり、この縁が後に魯粛の運命を決定づけることとなるのです。

 

 

 

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周瑜との縁により……

 

 

 

さて、こうして周瑜とマブダチになった恩恵は、意外にもすぐに現れました。

 

 

魯粛ははじめ評判を聞いた袁術(エンジュツ)によって召し抱えられ東城(トウジョウ)県長になりましたが、 彼のやることなすことが支離滅裂だったので「ダメだこりゃ」と見限り、大事を為せる人間ではないと見抜いて離脱を決意。

 

血気盛んな若者数百人と老人や子供らの手を引き、任地となった東城よりも南にある居巣(キョソウ)に滞在するマブダチ・周瑜の元へと身を寄せることとなりました。

 

 

また、周瑜袁術から逃れて東に向かうと、魯粛も家族を江東の大都市:曲阿(キョクア)に住ませてこれに同行します。

 

 

ちなみに袁術の影響下を脱した周瑜は叔父の元へ向かう前に親友:孫策(ソンサク)の躍進に助力しており、魯粛もこの戦いに参加、あるいは孫策配下として何らかの動きをしていた可能性が高いです。

 

「呉書」では、魯粛らの邪魔をする追手を得意の口先と武力を用いた脅迫で説得して手を引かせた後、孫策に引見。その非凡さを認められたとあります。

 

 

 

さて、こうして周瑜らと共に江東へ移り無事に安住の地を得ましたが、ここで思わぬ事態が襲い掛かります。

 

魯粛の育ての親ともいえる祖母が、病のため死去。

 

 

くだらない形式ばかりの儒教概念とか漢室への忠誠とかどうでもいいようなのが魯粛という人物像ですが、育ててくれた祖母への思いはそれとはまた別。

 

 

ここまで育ててくれた祖母の遺体を棺に納め、葬儀のために再び東城に赴くことに。喪のために孫策配下の立場を捨て、しばらく喪のために大人しくすることとなりました。

 

 

 

 

 

 

魯粛復帰!そしてさっそくぶちまけた!

 

 

 

実は魯粛は後に曹操軍の幕僚になる劉曄(リュウヨウ)という人物とも仲が良く、「鄭宝(テイホウ)とかいう男が肥沃な土地に割拠している。われわれもこれに従おうじゃないか!」という誘いの手紙が彼から送られてきました。

 

 

この手紙を受け取った魯粛は、二つ返事で快諾。祖母の喪が明けるとすぐに北へと出発しようとしますが、そんな魯粛を引き留める人物が一人いました。

 

他ならぬ周瑜です。

 

 

「今、相手を選ぶのは主君だけでない。臣下が主君を選ぶときでもあるのです。その点、我が主君:孫権(ソンケン)は配下の賢者を重宝する素晴らしい人物といえるでしょう。

 

今、密かに『江東では前の領主である劉家に代わるものが現れる』と言われていますが、これを占ったところ、主・孫権が割拠する呉の土地がこれに該当しました。つまり、ここから帝王の覇業が始まるというのです。

 

志ある者は、そういった大きな力に取り付いて、精いっぱいの力を示すべきでしょう。私は今、そのきっかけを得ました。あなたも、どうか劉曄殿のお言葉に惑わされないように」

 

 

つまり、「孫権の影響下から離脱するのは自由だけど、その前に孫権が仕えるに値するかどうか見ていかないか?」という誘いですね。

 

 

繰り返しますが、魯粛は政治と関係ない民間の実業家でありながら、狂人と言われながらも立身出世を掲げてきた人物です。

 

それらを理解した上で放たれた周瑜のこの言葉は、魯粛の胸を打つものがあったのでしょう。

 

 

ちなみにこの一連の時系列は不明ですが、劉曄は本人の伝で鄭宝に勝手に悪事の首謀者に挿げ替えられそうになって一悶着。その後諮問にやってきたのを利用し、鄭宝を斬り捨てたとあります。

 

また、鄭宝らが好き勝手出来るタイミングはすでに孫策が死去した時には失われていたことから、この話は手紙の逸話以前。つまり作られた話という説も……

 

 

また、この頃は曹操による内部切り崩し工作が行われ、孫策死後は重臣らの離脱、反乱が相次ぎました。この事から、鄭宝でなく曹操の元に来いという誘いだったという説の方が有力かも。

 

 

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ともあれ魯粛周瑜の熱い説得に感じ入り、周瑜の「この者は大業を為すのにふさわしい」という周瑜の推挙の元、孫権に会ってみることにしました。

 

 

そして孫権に出会い、面接の結果大いに気に入られたのです。その気に入りようや、宴会後にみんなが退散する中魯粛だけを呼び戻し、二人で飲み直すほどだったとか。

 

 

この時、孫権魯粛に対してある話題を吹っ掛けます。それは、「私は漢帝国復興の功労者になりたい。どうすればいいと思う?」という物。

 

要するに、「今の国を立て直したい」という質問ですね。並の者ならば、おそらくほとんどが「内部に群がる敵を打ち倒して覇業を達成しましょう!」などと月並みな受け答えをするものですが……魯粛の答えはまったく別のものでした。

 

 

曹操が漢王朝を守っている限り、無理ですな。今の最良の策は、大まかに言えば江東に割拠し、しっかりと世のほころびを見据えることです。

 

現在、北は群雄割拠の時代により荒れに荒れています。この騒乱が片付くまでの間に、我らは西の荊州までを奪取。地盤を固めてしまいましょう。

 

 

私が考える覇業は、これらを終え、長江以南を制圧した後に帝王を名乗り、天下に駒を進めていく。これでございます」

 

 

 

つまり、「今の国をどうにかよくして、その功労者として上に立ちたい」という問いに対して、「確固たる地盤を固めて新しく国を作りましょう」という答えが返って来たのです。これには孫権もびっくりだったでしょう。

 

 

ちなみに孫権はさすがにこの話題には「そこまでは考えたことがないな」とやんわり否定を示したものの、以後おおよその外交、戦略における動きは、これをベースにした戦略を取るようになりました。

 

 

 

当然、この考えは「上と古きを良しとする」儒教的考えへのアンチテーゼともいえるもの。保守派の代表格である張昭(チョウショウ)らには大いに非難し、「まだ分別もつかないガキ」とこき下ろすなど、当然並の価値観を持つ人に理解できるものではありませんでした。

 

 

しかし逆に孫権からは大いに気に入られ、魯粛の母は孫権からの贈り物だけで以前通りの生活水準で暮らすことができる程の厚遇を受けたと言われています。

 

 

 

   【魯粛伝1】唸れ、狂人の牙   【魯粛伝1】唸れ、狂人の牙

続きを読む≫ 2018/07/23 14:22:23

 

 

 

荊州こそ必要な地!

 

 

 

独自の帝王論を説いて「何言ってんだこいつ」みたいな目で見られていた魯粛でしたが、彼の唱えたラディカルな覇道には、実は大きな誤算がありました。

 

それは、自身がかつて「仕えようかな」と揺れた曹操という人物のあまりの強さ、そして孫権軍の進撃の停滞です。

 

 

 

もともと魯粛の唱えた戦略は北が荒れに荒れている隙に荊州を取って領土を拡大するという物でしたが、荊州の玄関口・江夏(コウカ)を抑える将軍:黄祖(コウソ)に手こずっているうちに曹操が華北を制し中原一帯を完全に掌握してしまったのです。

 

 

こうなってしまえば、曹操に対抗するのもなかなか難しいところ。しかし、当の魯粛は焦るどころか冷静さと過激さを失っていませんでした。

 

 

 

荊州の主である劉表(リュウヒョウ)が亡くなると、彼が囲っていた劉備の反曹操の気持ちと家中の不仲に着目。

 

 

「私が劉表の弔問の使者に向かい、劉備らを刺激して反曹操の意見を焚きつけて参ります」

 

 

 

これを聞いた孫権は二つ返事で快諾。曹操が南下を始めるのも時間の問題であり、魯粛も昼夜兼行で荊州に急ぎますが……なんと、ここでも再びとんでもない問題が起こってしまいます。

 

 

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曹操の南下に伴い、荊州の新しい主である劉琮(リュウソウ)が降伏

 

 

 

おまけに反曹操の要とも言えた劉備はすでに持ち場を脱走し、南に向かって逃走中とのこと。

 

早い話が、完全に魯粛の目論見は破綻してしまったのです。

 

 

 

もはや立て直しは不可能。普通ならば自分の失策を悔いてさっさと戻ってしまうところですが……そうはならないのがこの魯粛という男なのです。

 

 

なんと彼は、血迷ったか孫権の指示を仰がず劉備の元に急行し、独断で交渉を開始。

 

 

独 断 で 劉 備 と 交 渉 。

 

 

劉備も参謀の諸葛亮(ショカツリョウ)も孫権という思わぬ協力者の出現に大喜び。ともに夏口(カコウ)の地まで向かい、そこから使者という名目で諸葛亮を伴って、孫権に事の次第を報告に向かったのです。

 

 

ちなみに『蜀書』では魯粛は特に何もしておらず諸葛亮孫権に直接協力を説いたことになっていて、意見が食い違っています。

 

裴松之はこれらを折衷して「魯粛のたくらみを諸葛亮は早くから聞いて知っていた」と考え、また、「呉蜀ともに手柄の誇示するばかりで、歴史を残そうという史書の本質を無視している」と呆れかえった様子の一文を残しています。

 

 

 

 

 

降伏? 笑わせんじゃねえ!!

 

 

 

劉備と結んだとはいえ、肥沃な戦略の要である荊州は曹操の手に落ち、孫権曹操に攻め滅ぼされるかどうかの瀬戸際に立たされることとなりました。

 

 

孫権はこの憂慮すべき事態にどう立ち向かうかを群衆と議論しますが、出てくるのは降伏論ばかり。すでに人口の多い首都圏を抑え、さらには広大な領土の、しかもおいしいところをだいたい抑えている曹操には勝ち目がないと踏んでいたわけですね。

 

魯粛もこの場で言い返したところでどうにもならないと感じ、その場は黙りこくって場を治めました……が、やはりこの男、このまま終わるほど大人しい人間ではありませんでした。

 

 

なんと、意見を言うのは周囲の前でなく、孫権と二人きりの時。孫権が用を足しに出るとその後を追い、邪魔者が居なくなった場所で胸の内を堂々と言い放ってみせたのです。

 

 

「私のような名士層は、曹操の元でもそこそこ重宝され、ほどほどにやっていけるからよいのです。しかし、後ろ盾をお持ちでない殿はいかがでしょう?」

 

 

 

早い話が、「曹操に降ればあんたの命はないよ」という、半ば脅迫……というかモロな脅迫を、あろうことか自分の主君に向けてやってのけたのです。これぞ狂人の極み

 

 

魯粛の言葉を聞いた孫権は嘆息し、「そういう言葉が聞きたかった。お前こそ天からの授かりものだ」と漏らしたとか何とか。

 

 

 

ちなみに『魏書』及び『九州春秋』では、あえて降伏論を唱えて孫権を挑発、孫権が殺してやると剣を抜いた時にようやく「本心はお決まりのはずです」と本音を語ったとありますが……

 

これに関しては歴史家の中でも「いや、魯粛だけ斬られそうになるとかおかしい」という意見が出ており疑問視されていますね。

 

 

 

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ともあれ、こうして交戦論を唱えた魯粛は、周瑜を呼び寄せて彼に具体的な勝ち筋の解説と主戦論のダメ押しをしてもらい、満を持して曹操と決戦。

 

後に言う赤壁の戦いに大勝した後、魯粛は真っ先に返ってきました。

 

 

そして待っていた孫権に「俺が馬の鞍を支えて馬から迎え降ろしたらお前にとって十分なのかね?」と質問を受けます。

 

 

当時、主君が自ら臣下を支えて下馬を手伝うというのは、功労者への最大限の報いと言え、当時まだ校尉、それも赤壁前になり立ての魯粛には明らかに割に合わない好待遇だったのです。が……

 

 

魯粛は「全然足りませんな」とバッサリ。

 

 

「天下をお取りになりなさい。そうして安車蒲輪(アンシャホリン:皇帝が賢者を呼ぶために使う馬車)で私を迎えに来てくださったら初めて報われたと言えるでしょう」

 

 

 

…………言っちゃったよオイ。

 

繰り返しますが、当時は儒教国家であり、皇帝は「天子」と言って、神様の子供扱いされて神聖視される時代です。間違っても、それにすげ変わるなどもってのほかというのが一般論です。

 

こんな即刻処断間違いなしのトンデモ発言をした魯粛に対して孫権はというと……なんと手を叩いて大喜び。なんなんだこの主従は

 

 

参考にさせていただいたサイトにも「出来過ぎている」などと言われていましたし、さすがにこれは誇張ですよね。……そうですよね?

 

 

 

ともあれ、こうして発言権すらなかった魯粛は主戦論により一気に立場を高め、以後は重鎮として呉に尽くしていくことになるのです。

 

 

 

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荊州問題の火種

 

 

 

赤壁の大勝後、劉備から「荊州の都督になりたい」という申し出がありました。

 

しかし、劉備は基本、曹操に取り入って一州を得たら即裏切った前科持ち。しかもその野望は果てしなく、言ってしまえばかなりの危険人物です。

 

 

当然、群臣は皆反対しますが、魯粛だけはケロッと「いいんじゃないですか?」などと言ってのける始末。

 

 

というのも、赤壁で負けたとはいえ未だ曹操の威光は効果絶大。さらには当時、劉備軍に荊州名士が多く参入しているなど、孫権軍がこのまま統治するにはしこりの残る土地だったようなのです。

 

そのため、魯粛は「荊州を貸し与えるつもりで劉備と協力しましょう」という道を提唱したわけですね。

 

 

結局、孫権はこの案を承諾。荊州を得た劉備は一気に天下へと飛躍し、対曹操の心強い仲間とであるとともに、内面ギスギスな領土問題を抱える内敵として権謀術数の限りをぶつけ合う仲となっていくのです。

 

 

 

こうして計算違いも多くあれど大筋は魯粛の掌中で事が進む中、建安15年(210)、周瑜が西の益州攻略の途上に死亡。これによって呉は求心力を大きく削がれ、以後は大攻勢に出ることなく守りを固めることに腐心するようになります。

 

この周瑜の死により日の目を見たのが劉備で、以後、孫権を出し抜いて彼が一気に大勢力に浮上しますが……これもまた後のしこりとなってしまったようですね。

 

 

 

ともあれそんな周瑜ですが、死の間際にはわざわざ孫権への遺言で、後継者に魯粛を指名。奮武校尉の位と配下の四千人の兵、そして所領はすべて魯粛に預けられることとなったのです。

 

 

魯粛周瑜の遺言通り、前線の江陵(コウリョウ)から退いて陸口(リクコウ)まで軍を移動。領内慰撫に努め、徳義と恩義のいきわたる政治を行い、四千人の軍隊を一万以上に膨れ上がらせました。

 

 

その後は漢昌(カンショウ)郡太守・偏将軍(ヘンショウグン)に昇進し、さらに建安19年(214)の皖城(カンジョウ)攻略にも参戦し、横江将軍(オウコウショウグン)の位にさらなる昇進を遂げたのです。

 

 

こうしていよいよ大身になって立身出世を遂げた魯粛ですが……ここから先は、劉備との薄氷の上を渡るような危険な外交戦が始まることとなるのです……。

 

 

【魯粛伝2】劉備との誠実で素敵な同盟   【魯粛伝2】劉備との誠実で素敵な同盟   【魯粛伝2】劉備との誠実で素敵な同盟

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