龐統 士元
生没年:光和2年(178)~建安19年(213)
所属:蜀
生まれ:荊州襄陽郡
勝手に私的能力評
統率 | B | 軍師というからには兵を率いることができた……はず。 |
武力 | C | 武勇に関しては不明だが、よくよく考えると劉璋軍の人材って劉備軍でも将軍……。彼ら相手に快進撃ってヤバくね? |
知力 | S- | -付きは実績不足のせい。益州侵略時の助言も的確で、頭脳は確かに卓越してたんだろうなぁ…… |
政治 | C | 政治もやれたのだろうが、事務仕事は明らかに不向きという結論以外これといった記述がない。 |
人望 | C | 正直なところ、当時はもっさりしたブサメンだったせいで大した人望や評判はなかったのだろう。しかし、有能さとその性格は一流どころには確かに評価されていた。 |
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龐統(ホウトウ)、字は士元。知っている人は知っている、かの臥龍・諸葛亮と並び称される天才ですね。
もっとも、飛び抜けた天才として名を挙げるには、少しばかり功績や記載が不足気味なのは否めませんが…………それでも、短い活躍時期の中で非凡な才能を見せつけた策略家の一人であることには違いありません。
ブサメン、ハイパーニートと出会う
龐統は見た目がもっさりしていて、全員見た目で「無能」と決めつけて評価する人間がいませんでした。
そんな龐統をは初めて評価したのが、司馬徽(シバキ)、別名・水鏡先生。司馬徽は人物鑑識に優れていると非常に有名なニート隠者であり、先生という名詞からわかる通り、多くの人から慕われていました。
彼は龐統と日が暮れるまで語り合い、「南方のトップエリート」と評価。これにより、龐統はようやく名士として徐々に有名になっていったのです。
さて、この龐統、実は初めの士官先は劉備ではなく、孫権軍の周瑜のもとだったのです。というのも、周瑜が亡くなるとその遺体を故郷に送ったのは龐統という記述があり、さらには周瑜の後継者である魯粛の推薦状を以って劉備に仕官した、とのこと。
そして劉備の第二婦人(!?)へ
さて、そんなこんなで劉備のもとへ流れ着いた龐統ですが、意外にも最初の評価は最悪に近かったようです。
というのも、まず小さな仕事を任されていましたが、まったく成果が上がらなかったとか。これによってその仕事を解雇され、魯粛に「こいつは統治みたいな実務じゃなくてもっと責任の大きな参謀でないと、本領を発揮しませんぜ」と指摘され、さらには最愛の参謀・諸葛亮まで同じようなことを言い始める始末。
そして半信半疑の劉備との面談で非凡さを見せつけて大いに気に入られて、ここでようやく本領発揮となったのです。
ちなみに龐統と語らった後の劉備は、自ら「妻」と例えた諸葛亮に次ぐ、この例えを引用するなら第二婦人のような扱いを受けたとか。
『三国志演義』では、小役人の身分に納得しなかった龐統が仕事をさぼって劉備に激怒され、指摘されると数日で片付けて高い評価を勝ち取った……という流れの話に変えられています。
龐統、蜀の地で暴れ、そして……
さて、そんなこんなで人材が少しずつ充実てきた劉備軍ですが、まだまだ領土は借り物の南荊州のみ。これでは、曹操に対抗し天下を争うのは不可能でした。
そこで目を付けたのは、遠縁ながら同族の劉璋が治める、西の益州の地。しかし大義名分に強いこだわりを持つ劉備は、「同族を攻めたら俺らは不義理の塊みたいに思われちまう」と引っ込み気味。
そんな劉備の尻を叩いた一人に龐統がいて、彼の発言こそが劉備の益州強奪の原動力になったとか。
一説には、「その場に応じた柔軟な方法が必要。道義を以って正しく統治し、そして奪われた劉璋らにしっかり敬意を払えば、不義にはなりません」と語ったとされています。
さて、そんなこんなでさっそく劉璋と会見を行った劉備。ここで龐統は「この隙にひっ捕らえましょう」となかなかゲス合理的な献策をしますが、あくまで世評にこだわる劉備はこれを却下。
結局その場は見逃し、劉璋の目下の敵である北の張魯に向けて進軍。ここで初めて、劉備は牙を剥くことになります。
さて、そんなこんなで裏切りを決めた劉備に、またしても龐統は献策。今回は三つの策を立てて、それぞれを劉備に説明。
1.なりふり構わず劉璋勢力の首都、成都を包囲し一気に攻撃。最短決着が実現できるため、これが最善。
2.劉璋軍の精鋭部隊を率いる名将・楊懐、高沛の二人を暗殺し精鋭部隊を強奪してから成都に進軍。これは次善の策。
3.本拠の荊州に戻ってからゆっくり進軍。最悪の策がこれ。
結局、劉備が選んだのは次善の策。
さっそく荊州に帰る振りをして、お見送りに来た楊懐、高沛をいきなり殺してその部下の精兵を指揮下に置き、それから満を持して成都に進軍。
劉璋軍の拠点である雒城(ラクジョウ)を攻撃しますが、長期にわたる攻防の最中に流れ矢を受け、突如として龐統は戦死。享年36歳。これから生きていたらその名に恥じぬ活躍を見せていたであろう軍師の、早すぎる死でした。
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意外と容赦のない人物像
龐統が無能呼ばわりされた理由の一つに、表現がとんでもなくストレート……早い話が、素直で手加減知らずの口下手というものがあるのではと、私は考えています。
というのも、彼は容赦ない態度や発言の逸話が結構多い……。謀略特化の策士肌の人物ですし、やはりドライというか、冷徹な部分もあたのでしょうか?
例えば、劉備が昔、「じつは周瑜の罠?」と不安に思った事項を、「もしかして?」と龐統に質問したところ、「その通りです」とバッサリ。
さらにその態度がよく出たのが、先述の楊懐、高沛を暗殺し、さらには各地で勝利を重ねた時のこと。
実はこの時、劉備は大々的に宴を開いて、「イヤー愉快愉快」と、もう仁者が迷子になりそうな発言をかましたのです。
しかし、この当時は主君は絶対の神にも等しい存在。口答えなど論外も論外とされていた時代です。
当然、周りもそんな発言スルーして、宴を目いっぱい楽しんでいました。
そこに容赦なく舌鋒を浴びせたのが、ほかならぬ龐統。
相変わらず単純明快、朴訥ながら棘だらけの舌で「他国を騙して領土を強奪している最中に、こんなチャラチャラした宴が仁者のやることですか」とまあ、容赦のかけらもない一言。
当然、こんな言葉を掛けられると劉備も機嫌を悪くし、「昔の偉人だって同じことをしとるわい! 気に入らねえなら出てけ!!」と、もうカンカンの様子。
龐統も龐統でさっさと退席して、しばらくは劉備も気分良くしていましたが、やがて時間が経つにつれて後悔の念が膨らんでいき、龐統を宴会の場に呼び戻しました。
さて、そんな一悶着あったにも関わらず平気で飲み食いする龐統に、逆に気圧される劉備。結局は「で、どっちが間違ってたんだろうね」と恐る恐る劉備が質問すると、龐統は何事もなかったように「どっちもどっちですね」と回答。緊迫したその場もようやくほぐれ、笑い話となりましたとさ。
そして龐統の人格を表す話でもう一つ重要なのが、人物評が好きという点。
しかもよりにもよって、人物を大げさにほめたたえ、目に見えて過大評価する場合もあったとか。
そんな龐統の人物評にある人がインタビューした結果、返ってきた答えがこちら。
「今の世の中、悪人のがよっぽど多くて、正義なんかクソ食らえだ。そんな中でクソみたいな扱いの正義をまた栄えさせようとするなら、過大評価して名誉欲を満たしてやるしかない。で、名誉欲が満たされなきゃ、善行なんてしようと思わない輩って多いよね。
まあこういうやり方で例えば10人世の中に排出したとして、まあ半分くらいがクズだったとしても、残り半分の善人を世に出すことができたって結果が残る。こうやって半分の善人を積み重ねれば、いつか道徳的な世の中が作られていく。こういうやり方もいいんじゃない?」
なるほど、と思わざるを得ない。確かに、半分の善人が増えていくと少しづつでも世の中変わっていきそうですね。
個人的には、「清濁併せ持って一人前」とかいうゴミみたいな悪逆擁護論でうやむやにする輩の言葉より説得力がある気がする。
メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻
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