趙雲別伝、驚異の主人公補正
さて、人気となった人物には賛美として散々事績が水増しされまくった『別伝』なるものが立ちますが、蜀では趙雲がその別伝持ちの人物に数えられます。
まあ別伝に限らず、歴史家は好きな人物の記述や嫌いな人物の汚点なんかはとことん盛りまくって、時には根も葉もないでっちあげを用いてまで好き勝手吹聴することも多いのですが……
なんと言っても、この別伝は名前が冠された人物専用の事績誇張というのが大きな特徴でしょうか。
当然実際の事績を元にして誇張された内容のため、すべてが嘘とは言い切れない部分も多いのですが……まあ元の歴史書からして100%真実を書いているわけではなし。そういう物だと思って目を通すのがいいのかもしれません。
では、別伝による趙雲無双活劇を、ザックリと以下に記載していきましょう。
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イケメンと劉備の出会い
趙雲は長身のイケメンで、郷里から推挙され、義勇兵を率いて公孫瓚の元に向かった。
当時の公孫瓚は、冀州牧を自称する袁紹(エンショウ)と戦っていたが……実は趙雲の地元は袁紹よりの意見が多かった。そこで公孫瓚がからかって「地元は悪しき袁紹支持してるのに、どうして正義に目覚めて俺のところに来たの?」と趙雲につげた。
すると趙雲は「天下は騒然とし、情報が今だ足りていません。郷里は仁政を敷くものに従うというだけで、どちらを贔屓するわけではありません」とスッパリ。
また、当時公孫瓚の元にいた劉備も常に趙雲を目にかけて評価しており、趙雲も劉備と親交を深めていたが、ある時兄が死亡し、趙雲は地元に帰ることになった。劉備は趙雲の帰郷を聞いて「彼とは二度と会えないだろう」と悟って、趙雲の手を握って別れを告げた。
趙雲も日頃の劉備の厚意を「絶対に忘れません」と告げ、そこで二人は別れることとなった。
それからしばらく後、放浪の末に袁紹の客将に収まった劉備と再び合流。ひそかに募集した数百人の兵と共に臣下に加わった。劉備は趙雲を信用しており、二人は同じ寝室で寝るほどの深い仲となっていた。
その信頼たるや、劉備が敗北し趙雲が行方不明になった際、ある者が「趙雲が裏切って逃げました」と報告すると、劉備は怒ってその者を殴りつけるほどであり、趙雲もその後しばらくして戻ってくるのであった。
さて、劉備は今度は荊州に向かい、対曹操の抑えとして新野に間借りすることになったが、この時、曹操軍が大挙して侵攻。
劉備は伏兵を用いてこれらを撃退したが、その時の捕虜の中に、趙雲と同郷の幼馴染である夏侯蘭(カコウラン)なる者がいた。
趙雲は夏侯蘭の姿を見つけると、劉備に彼の命を助けるように懇願。さらには彼が法規に詳しい者であることから、彼を軍正(グンセイ:軍の風紀取り締まり)に推挙。こうして幼馴染の命を助けた趙雲だったが、妙な疑いを持たれないためにも、これ以降は夏侯蘭には自分から近づくことがなかった。
女に厳しい趙雲?
その後、江南平定の際に、偏将軍(ヘンショウグン)となった趙雲は降伏してきた同姓の趙範(チョウハン)という人物に代わって桂陽(ケイヨウ)太守となっていた。
趙範はこの時、趙雲を懐柔しようと思い、未亡人であり美人と名高い兄嫁を趙雲の嫁に提供。しかし趙雲は断固として辞退。縁談を受けるように勧めたものに対しても、「趙範は一応降伏した形であるが、本心はわからない。天下に女は多くいる以上、そんな危険な縁談を無理に受けることはできない」と語った。
かくして後に、趙範は案の定逃亡。姿をくらませたが、趙雲はそれに対して何の未練も抱かなかった。
劉備が益州平定を始めようという時、趙雲は留営司馬として、奥向きの取り締まりを兼任するようになった。
この頃、劉備の元には孫権(ソンケン)の妹である孫夫人(ソンフジン)が嫁いできていたが、これが傲慢で立場を鼻にかけたとんでもないクソ嫁だった。官兵を大勢率いてやりたい放題、法も守らないと、その悪行はこんな感じだったのだ。
劉備が趙雲にこの仕事を兼任したのは、そんな傲慢な孫婦人をなんとかしてほしいと願ってのことだったのだ。
が、その結婚生活は長く続かず、劉備に出し抜かれたことを知った孫権は怒って孫夫人との離縁を決定。大量の船を差し向けて彼女を迎えに行った。
孫夫人もそのまま呉に帰ることを望んだのだが、なんとこの時、劉備の跡取りである劉禅を連れて帰ろうとしたのである。
この企みは張飛と共に軍を率いて彼女の帰路を遮った趙雲によって防がれ、なんとか阻止された。
その後益州が平定された後、劉備は備蓄されてあった財貨や田畑を、長年付き従ってきた諸将らに分け与えようとしたのだが、趙雲は反対。「今は領内の慰撫が先。戦乱で荒れた益州を立て直しましょう」と提案し、劉備はそれに従った。
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漢水の戦い
また、曹操との漢中をめぐる戦いでは、曹操軍の輸送物資の多さに着目。黄忠はこれを奪い取ってやろうと考えて出陣し、趙雲配下の兵もこれに従った。
しかし、黄忠はいつまでも帰ってこない。「何かあったのでは」と心配になった趙雲は数十騎と共に軽装で様子を見に行ったところ、曹操軍本隊とバッタリ出くわしてしまった。
とてもではないが勝てる様子はない。趙雲はそのため急ぎ撤退することにしたが、この時突撃を仕掛けて戦いながら、敵の追撃を断ち切って逃げ帰った。
その後曹操は本戦で敗北したが、再び終結して力を盛り返したので、趙雲は敵軍を打ち破ると、すぐに自陣営に帰還。
しかしこの時、将軍の張著(チョウチョ)が曹操軍と戦って負傷。趙雲は張著を援護して自陣営まで撤退させるが、圧倒的な数の敵軍までもが趙雲の陣に集結し、危機に陥ってしまう。
しかしここで趙雲は一計を案じ、なんとわざと陣営の門を開放。あえて敵の陣内侵入を許すように仕向けたのだ。
この動きに怪しさを覚えた敵は、伏兵を疑って撤退。
しかし、そこで容易に撤退を見過ごす趙雲ではない。趙雲は雷の如く天を震えさせる勢いで太鼓を鳴らして合図を送ると、曹操軍の背後に向けて、趙雲の軍勢が怒涛の勢いで弩を斉射。曹操軍は大混乱に陥り、多数の死傷者を出して慌てて逃げ帰ったのである。
劉備はこの活躍を喜び祝宴を開き、そこで趙雲をこう評したのだ。「一身之肝なり」と。
その後も続くよ趙雲活劇
乗りに乗る劉備軍であったが、その最盛期は長くは続かなかった。関羽が呉の裏切りにより荊州を失陥し、死亡。
この知らせを受けた劉備は怒り狂って孫権打倒を宣言。趙雲もこれを必死で諫めたが、受け入れられなかった。その後、江州(コウシュウ)で劉備敗北を聞いた趙雲は急ぎ軍を進めたが、趙雲が永安(エイアン)にまで着いたころには劉備軍はボロボロ。孫権軍も撤退した後だった。
さて、さらに後、話は飛んで北伐の際。曹真軍本隊の猛攻により撤退した趙雲軍だったが、その敗勢とは裏腹に軍はしっかり統率され、軍需物資の損失はほとんどなかった。
諸葛亮がなぜかと尋ねると、趙雲と共に出陣していた鄧芝は、「趙雲殿が自ら殿軍となって敵を食い止めてくれたおかげです」と答え、それを喜んだ諸葛亮は、軍需品を趙雲指揮下の将兵に褒賞として送ろうとした。
しかし趙雲は「敗北した戦いに褒章など不要。それよりもこの物資はひとまず貯め置いて、冬になる前に支度品として賜るのがよろしいかと」と提案し、諸葛亮をさらに喜ばせた。
ちなみに順平侯の諡だが、姜維らの進言によれば「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を順と称し、仕事をするのに秩序があるのを平と称し、災禍・動乱を平定するのを平と称します」とのこと。これらの文字を組みわせて、順平侯と称されたのである。
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盛り過ぎた記述はかえって本人の名誉を損なう毒に……
まあすべてが嘘ではないでしょう。さすがに正史三国志の本伝と言えども、国家の都合が入っている限り書けない部分はあるでしょう。
しかし、だからといって下手にアレコレ持ち上げすぎるのは、かえって本人の名声に傷をつける結果につながることもしばしば……
特に趙雲の場合、記述と華のある話題が少ないだけで、正史本伝の時点で十分に有能な将軍なのです。
事実、これのおかげで趙雲、あるいは正史に興味を持たなくなり、「演義こそ史実」だとか、「趙雲は雑魚」だとか間違った知識を周囲に吹聴する人も中にはいるわけです。
ちなみに私の知り合いには、「趙雲が弱く書かれているから、やはり正史はアテにならない」という結論にたどり着き、演義の知識をまるで史実のように語っている人とかも……
まあ、あれですね。捏造はほどほどに。無から作ったり1を10まで膨らませるのではなく、元からある素材の原形はとどめましょう←