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許靖 文休

 

 

生没年:?~章武2年(222)

 

所属:蜀

 

生まれ:豫州汝南郡平輿県

 

 

人物伝・蜀書

 

 

許靖(キョセイ)、字は文休(ブンキュウ)。有名な人物評論家でありながらさらに上を行く従弟にその将来を潰された結果、各地を転々とする羽目になった、不幸の星に生まれたのかとでも疑いたくなる人。

 

最後には劉備(リュウビ)の臣下として大きく出世しましたが、その理由が「あんなのでも名声が高くて看板にはなるから」。つくづく残念な人ですね。

 

 

今回には、争いの気配がするといの一番に逃げ出す、そんな許靖の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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ドタバタ逃走劇 前編・事始め

 

 

 

許靖は優れた人物評論家として名が知られていましたが、従弟である許劭(キョショウ)という人物に少々人望を食われ気味。しかもその許劭から嫌われて一方的に排除されていた事から、非常に貧しい生活を余儀なくされていました。

 

その貧しさたるや、肉体労働がクソ同然とされてきた時代に、名士であるにもかかわらず馬磨きにまで手を出したというほど。とにかく徹底的に従弟に潰され、芽を見ることがなかった人物なのですね。

 

 

しかし、許靖を買っていた人物も少なくはなく、それが彼にとって救いとなったのです。

 

そのうちの一人が、劉翊(リュウヨク)という人。劉翊は許靖を推挙枠に引っ張り上げると、朝廷に働きかけて尚書郎(ショウショロウ:公務人事課の役員)として、役員選考の任務を用意。

 

 

 

中平6年(189)に霊帝が崩御すると、その後董卓(トウタク)が実権を掌握。許靖は周毖(シュウヒ)なる人物と共に、朝廷の人事起用を担当することになりました。

 

この時に韓馥(カンフク)や孔伷(コウチュウ)ら実力の割に名声の低いであろう人物を多く地方要職につけ、代わりに汚職を働く者を解任するなど、政治の正常化に尽力。

 

……が、後に韓馥ら抜擢した人物は、任地に着くなりことごとく董卓に反発。董卓排除の軍勢を上げて都に迫り、その責任を問われた周毖が処刑されるほどの事態となったのです。

 

 

許靖は処罰を恐れて董卓の元に出奔。自身が推薦した孔伷、続けて陳禕(チンイ)という人物の元に出奔。しかし、出奔先で彼らは次々と病死し、そのたびに中央から離れて辺境に向かう事を余儀なくされたのです。

 

 

 

 

 

ドタバタ逃走劇 後編・運命のBダッシュ

 

 

 

正史三国志の日本語訳でもたったの2行ほどの間で実に2人もの君主を亡くした許靖は、安住の地を求めて長江を渡河。江東の郡太守を務める、旧友の許貢(キョコウ)や王朗(オウロウ)といった面々の元で庇護を求めます。

 

2人には快く迎え入れられ、ようやく一時の平穏を手にした許靖。ついでに散り散りになった一族郎党も可哀想だから引き取って、決まり事を決めて養うことを決定。しかし、その安寧は、そう長くもないうちに破られることになるのです。

 

 

――小覇王、孫策(ソンサク)の快進撃。

 

 

またたく間に江東に領地を広げた孫策が、今度は王朗や許貢らに狙いを定めたのです。

 

文人や民間人は戦争が嫌い。もちろん、許靖らだってそうです。このままでは孫策軍に安寧が砕かれると思った許靖らは、王朗らの元を離れて東へと転向。現在ではベトナムとの境界線付近となっている交州(コウシュウ)の士燮(シショウ)なる人物を頼り、長い船旅に出ることにしたのです。

 

 

最後尾で一族郎党が皆船に乗り終えたのを確認すると、いよいよ士燮の元に向けて出発。極貧ゆえに飢餓に見舞われ、許靖の手紙にあるには一族の3分の2が餓死するという災難を乗り越えてついに交州に到着。

 

名声パワーもあって士燮には歓待を受けることになったのです。

 

 

……が、ここでもやはり一悶着あったようで、許靖の不運を物語っています。

 

というのも、許靖の名声を慕っていた曹操(ソウソウ)によって軍中に招待されたのですが……その使者の1人が権力尽くで許靖を脅迫し、無理矢理従わせようとしてきたのです。

 

許靖はこれを嫌って拒絶。曹操にも辞退の手紙を送りました。

 

しかし、許靖に拒否されたことを根に持った使者は、この許靖の手紙を部下に命じて捜索。すべて見つけ出し、川に投げ捨てるという暴挙に出たのでした。傲慢なのか、ここまでひどいなら許靖の断り方がアレだったのか……。

 

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いざ、蜀へ

 

 

 

安寧の地を得た許靖は後に劉璋(リュウショウ)に要請を受け、益州の地に出向。その地で巴(ハ)、広漢(コウカン)、蜀といった郡の太守を歴任。

 

しかし、そんな折に、益州でまたしても戦乱が巻き起こります。

 

 

劉備(リュウビ)による蜀取りの開始です。

 

精強な劉備軍を前に、劉璋の軍勢はことごとく敗北。ほとんどの郡がたやすく打ち破られていき、ついには劉璋自身が籠る成都までも包囲されてしまったのです。

 

戦争が大嫌いな許靖はここで降伏を決意。城壁を乗り越えて劉備軍に投降しようと画策しますが、事があっさりバレて失敗。

 

そうこうしているうちに劉璋は劉備に降伏を申し込み、ついに益州での戦乱が決着したのです。

 

 

許靖もようやく戦乱から解放されて劉備に仕えることになりましたが……降伏しようとした醜態が嫌われたのか、閑職に留められてしまいました。

 

……が、そんな許靖に助け船を出した人物がいました。蜀取り前から劉備軍に内通していた法正(ホウセイ)です。

 

法正は許靖の実態を見て、劉備にこのように進言しました。

 

 

「能力と名声がかみ合っていない者も、この世には多くいます。しかし、名声はそれだけの人望の高さを表しており、礼遇すれば天下が黙っていないでしょう。許靖なんかは名声だけは他を圧倒していますので、優遇して世論を味方につけるのがよろしいかと」

 

 

劉備はこの意見に「なるほど」と思ったのか、この日を境に許靖を優遇。自身の属官につけ、やがては太傅(タイフ:帝の師ともいえる役目)、そして蜀漢帝国が成立されると、民政官の大臣ともいえる司徒(シト)にまで上り詰めたのです。

 

 

しかし、すでに許靖も70を超える老齢。その命は長くなく、蜀漢の成立を見届けた翌年には、静かに息を引き取ったとされています。

 

 

 

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ビックリ名士・驚きの慕われよう

 

 

 

あちらこちらを逃げ回った一生と戦争のたびに逃走を図るその性格から、許靖にはこれといった実績が残っていません。しかし、名士としてはかなり上位ともいえる人物で、その実多くの人たちに慕われる破格の人望の持ち主であったことが史書からは明らかになっています。

 

 

そんな許靖の人物評、および性格を知ることができる陳寿の評は以下の通り。

 

 

早くから名声があり、篤実さで評判を受けていた。また、優れた人物を世に送り出すことに心を向けていた。しかし、その行動がすべて妥当であったかといわれるとそうでもない。

 

70を超える高齢になっても、人を愛し、後進を導き受け入れ、世俗から離れた議論を盛んにしていた。

 

 

まさに名声と篤実な性格の権化といった人物評でしょうか。やはり彼は人物評や人事方面で優れた才能を持っており、後進を育てるような仕事は転職だったのかもしれませんね。

 

また、建前を気にしない魏の自由人・蒋済(ショウサイ)も彼を「国政を担う人物」と評し、彼を非常に高く評価しています。

 

 

また、恐るべきはその交友関係。蜀内でも諸葛亮(ショカツリョウ)を始め多くの人物に慕われていましたが、魏の臣となった人物の中でも、王朗や華歆(カキン)、陳羣(チングン)といった大物たちと親交を結んでおり、皆自分が重役に就くと許靖に手紙を送っています。

 

 

本人の資質や実力は大したものではなかったかもしれませんが……名声と慕われようは圧倒的で、良くも悪くも他者を引き立てることで自分も力を発揮する。そういう人物だったのかもしれませんね。

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