張嶷 伯岐


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張嶷 伯岐

 

 

 

生没年:?~延煕17年(254)

 

所属:蜀

 

生まれ:益州巴西郡南充県

 

 

 

 

張嶷(チョウギョク/チョウギ)、字は伯岐(ハクキ)。蜀では貧民の出身者でありながら大身に上がり、そのまま立伝にまでありついた人物で、知る人ぞ知る名将です。

 

もっとも、演義はじめ三国志媒介では脇役の凡将。死に様は正史に則って格好良く書かれますが、全体的な評価と人々からの知名度は今一つですね。

 

 

今回はそんな渋い名将、張嶷の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

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知勇兼備の貧民の星

 

 

 

張嶷は身寄りがなく貧乏な暮らしをしていたそうですが、なんと20歳で県の功曹(コウソウ:人事評価を担当する官吏)に就職したとあります。昔から有名人だったのか、はたまた貧民といえども没落貴族だったのか……

 

 

ともあれ、地元役人として仕事に精を出していた張嶷でしたが、建安16年(211)に、益州に客将として来ていた劉備(リュウビ)が反逆。周辺の城がまたたく間に陥落していきます。

 

そして張嶷が住んでいる南充県も影響を受けて治安が悪化。どさくさ紛れに山賊が攻め寄せてくるという大変な事態に陥りました。

 

 

この時、県のトップは妻子を捨てて逃走。張嶷らは県長の妻子ともども取り残されてしまい、特に県長夫人らは日ごろ鍛えているはずもなく逃げ延びることができずにいたのです。

 

 

そこで張嶷、なんと山賊たちの中を突っ切りながら県長宅に突入。そのまま県長夫人を抱えて山賊たちの包囲を脱し、無事に救出することができたのでした。

 

当然、どこの馬の骨だか知らない貧民上りがこんな凄まじい義侠心と武勇を見せつけた張嶷の評判はうなぎ上りで、それが目に留まって一気に益州の従事(ジュウジ:副長官)にまで出世。雲の上の存在だったはずの超大物たちとも友誼を交わるほどになったのでした。

 

 

 

建興5年(227)に蜀が北伐の準備をしていた時には、ついに武官として山賊討伐を命じられることになりました。

 

しかしこの山賊たちは軍需品を盗んだり人さらいをしたりして勢力を増強させており、しかも妙に逃げ足も速いため、正攻法で壊滅させるのは困難であると予測されました。

 

 

そこで張嶷は、一計を案じます。なんと、山賊たちと戦うどころか逆に和睦。日時を決めて大宴会を催し、彼らが油断したところで武装した側近たちと共に宴会場になだれ込んだのです。

 

すっかり油断しきっていた山賊の頭たちは逃げる事すらままならず、主要人物はその場で全滅。残党狩りも含め、わずか10日という短い期間で山賊たちを完全に駆逐したのでした。

 

 

 

 

異民族討伐のプロ

 

 

 

後に張嶷は牙門将軍(ガモンショウグン)にまで上り詰めると、南方に転進。馬忠(バチュウ)の部下として異民族や不服従民の討伐に向かい、作戦立案を担当して蜀軍を勝利に導いたのでした。

 

 

陳寿著・益州の才人を取り扱った『益部耆旧伝』によれば、馬忠の軍勢は蜀への協力を阻んだ北方の羌(キョウ)族の反乱討伐までも受け持ったとか。

 

この時に張嶷も別動隊として参加していますが、羌族は落石によって敵軍を攻撃する立派な砦を設けており、とても攻撃できたものではなかったのです。

 

 

そこで張嶷は直接攻撃を諦め、通訳を連れて説得する方針に変更。

 

「俺は帝より、お前たちを滅ぼせと勅命を受けている。お前たちがあくまで協力を阻むなら、蜀の大軍がお前たちを雲霞の如く取り囲み、取り返しがつかなくなってしまうぞ。もし逆に兵糧や軍備を提供してくれるなら、その報いは何倍にもなって返ってくるが、どうする?」

 

 

あかん、これ恫喝や

 

ともあれ、抵抗の意を示していた羌の部族は降伏し、協力を約束。周囲で様子を見ていた他部族も山へ逃げるなり協力を申し出るなりして、簡単に鎮圧を成功させたのでした。

 

 

また、後には南蛮の部族の蜂起にも、鎮圧軍として参加。この時は知恵を絞るのではなく先頭を切って戦い、首謀者を斬り殺すことに成功しています。

 

 

張嶷は知勇兼備の良将だったのですね。

 

 

その後、異民族の台頭により実質名ばかりになっていた越巂(エツスウ)郡に太守として赴任し、過去に太守が殺されたことすらある環境で張嶷は働くことになりました。

 

南蛮に接する地域は統治が難しく、実際に追い出されたり殺された太守も大勢いましたが……張嶷は恩愛と徳義でこの地をうまく治め、逆に南蛮の異民族と仲良くなって、多くの部族を仲間に引き入れてしまったのです。

 

 

また、北方の精鋭騎馬部族である捉馬族(ソクバゾク)が蜀の命令を無視し続けた際も、張嶷は討伐に参加。戦って大将を捕縛すると、解放して説得することで仲間に引き入れ、仕事を与えて定住させてやったのです。

 

「張嶷が仕事を与えてくれた」という噂は、すぐに周辺の部族にも伝播。結局、捉馬族をはじめ周辺の民族は蜀に帰順し、張嶷は功績を認められて関内侯(カンダイコウ)に任命されたのでした。

 

 

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張嶷流の飴と鞭

 

 

 

さて、続いて張嶷は南で再び反乱の討伐に向かいます。この時、一度は降伏した部族が隙を伺ってもう一度反乱を起こし、蜀の西部周辺を荒らしまわっていました。

 

張嶷は、その反乱の元締めである冬逢(トウホウ)を殺害。これを聞いた冬逢の弟・隗渠(カイキョ)は西方の国境地帯に逃走し、その途中で策の一環として側近を裏切らせ張嶷に降伏させてしまったのです。いわゆるスパイとして、彼らに諜報活動をさせたのですね。

 

それに気づいた張嶷は、逆に大きな恩賞を約束してスパイを懐柔し、あえて軍の機密情報を漏らすことに。結局そのまま張嶷に飼いならされたスパイは、隗渠のもとに戻って彼を殺害。もともと隗渠が怖くてついていっただけの住民たちも軒並み蜀に復帰したのでした。

 

 

また、他にも鉄や塩などを独占する部族に対してまさに飴と鞭(部族長殺害と大規模な恩賞)によって服従させて物資調達ルートを開拓したり、冬逢の仇を討とうと意気込んで反乱を起こした者がいた際には終始友好的に接して帰順させ、国境付近を落ち着かせたりと、張嶷の手腕は蜀の異民族対策に多大な影響を及ぼしています。

 

その影響力たるや、張嶷が南方を去ると知った時には異民族の部族民たちが殺到。中には張嶷が載っている車に縋り付いて泣き始める者もいたとか何とか。

 

 

そんな張嶷、予測能力にも優れていたようで、大将軍の費禕(ヒイ)が人を信用しすぎるのを危険視したり、呉の諸葛恪(ショカツカク)が魏を攻めようとしたときに失敗を予見したりして、どちらも忠告空しく張嶷の悪い予感通りの末路を迎えています。

 

 

 

 

対魏戦線、そして……

 

 

 

さて、こうして中央に戻った張嶷は、盪寇将軍(トウコウショウグン)に昇進。

 

延煕17年(254)、魏の領内である狄道(テキドウ)を守る李簡(リカン)なる者が降伏を申し入れると、姜維(キョウイ)を総大将とした北伐軍が発足。

 

 

張嶷はその北伐に将軍として参加し、李簡の歓待を受けると、さらに軍を魏領深くへ進発。徐質(ジョシツ)なる将軍率いる軍勢とぶつかりましたが、奮戦空しく戦死。この時徐質の軍に味方の倍近い損害を与えており、勝利と引き換えの落命といっても差し違えない最期でした。

 

 

昔治めていた越巂郡の異民族たちは張嶷の死を聞くと大いに悲しみ、土地神として彼の廟を祀ったと言われています。

 

 

『益部耆旧伝』には、張嶷の死を迎えるまでがより具体的に描かれています。

 

張嶷はこの時、実は重大な病によって体が麻痺し、すでに杖がなければ歩行すらままならないという有り様でした。

 

そんな中で李簡からの手紙を受け取ったわけですが、蜀内の群臣が「罠だろう」と疑う中、ただ1人だけ真実であると主張。さらには北伐軍発足にあたっても、病をおして自ら出陣を希望し、「俺は敵地でこの身を蜀にささげたい」周囲の反対を振り切って参加したのです。

 

そして出立が近づいたある日、張嶷は蜀の帝・劉禅(リュウゼン)のもとに参内し、最期の別れを告げたのでした。

 

「私は聡明なる陛下の御世に生を受け、過分な寵愛を受けて参りました。にもかかわらず病気を患い急に世を去らないものかと、日々恐怖しておりました。しかし天は猶予を与え、軍事に参加してご恩に報いることができそうです。

 

もし勝利を得ることができれば敵国から国土を守る守将として前線に留まり、勝つことが叶わなければ、この命をもって報恩とさせていただく所存です」

 

 

そんな張嶷の覚悟には劉禅もただ涙する他なく、主君の涙という栄誉を得て、張嶷は最期の戦場へと向かったのでした。

 

 

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人物像

 

 

さて、このように忠臣に相応しい末路を迎えた張嶷は、かなり小粒ながらも根強い人気を誇っている名将の1人として名が挙げられます。

 

諸葛亮や姜維のために彼を二流どころの凡将とした演義でも、やはり似たような男気溢れる最期を描かれていますね。

 

 

そんな張嶷を、陳寿は以下のように評しています。

 

優れた見識を持って果敢に行動した。

 

激烈な危害の持ち主で、士人のほとんどは彼の人柄を尊敬した。

 

 

しかし同時に礼節を気にしないタイプのようで、儒教万歳な当時においてはそのことで陰口を良く叩かれていたとも。

 

礼節を気にしなかったのは、やはり礼儀なんぞよりまずは日々の食事が最優先の、貧民出身という立場故でしょうか?

 

 

若い時に重病にかかり、お金がないから完治するまで遠方の仁者のもとで養ってもらったという逸話もあり、やけに遅咲きなのもあって、やはり出自がネックだったというのが何となくうかがい知れます。

 

しかしながら優れた見識と武力はそれ以上に評価されたようで、さすがに列伝に加えられる人物だけあって功績のスケールが大きいです。

 

 

ちなみに、三国志本文では宰相の蒋琬(ショウエン)すら見抜けなかった敵国の情勢を見抜き、内応したもののやけに到着が遅い部族民たちを「きっと内部分裂でそれどころではなくなったのでしょう」と予測し、しばらく後にその予測通り内部分裂が発覚したという話も載っていますね。

 

他にも費禕や諸葛恪の最期も半ば言い当てているのだから、やはり並外れた観察眼があったのでしょう。

 

他人に心を開かなかったのか思うところがあったのか、魏から下ってきた夏侯覇(カコウハ)に「友人と同じような交友を持ちましょう」と挨拶されたときには、「お互い知らないことだらけなので、友人になるなら3年はお互いよく知り合うべきです」とそっけなく返していますね。(益部耆旧伝)

 

……夏侯覇の内面に何か良からぬものを見出したのでしょうか?

 

 

 

ともあれ、張嶷は知名度こそ小粒ながら、間違いなく蜀の大物武将の1人として数えられる大人物です。最後に、『益部耆旧伝』から彼の評を引っ張り出してから張嶷伝をしめたいと思います。

 

 

私は張嶷の事を観察したが、見た目も動作も言葉づかいも、全部が一見すると凡庸なものだった。

 

しかしながら内面の知勇はどちらもずば抜けており、やはり上に立つに足りる何かがあった。

 

臣下としては忠誠、節義を有し、異民族への態度は率直で公平、行動を起こすときは必ず規範となるよう心掛けていたので、後主(劉禅)にも尊敬されていたのだ。

 

 

古の名将たちといえども、彼より数段も勝っているはずがあるまい。

 

 

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