法正 孝直
生没年:熹平5年(176)~建安25年(220)
所属:蜀
生まれ:司州扶風郡郿県
勝手に私的能力評
統率 | B | 夏侯淵を討つ作戦は見事の一言に集約されるが、軍を率いる能力がどれほどだったかは不明。性格上、周囲の統率・統括も苦手そうではある。 |
武力 | D+ | そもそも軍師が最前線で戦うとか、想像つかん。ただし、後退しようとしない劉備の前に立って矢盾になったという胆力溢れる逸話がある。 |
知力 | S | 益州征伐では旧主の性格を読み切り、漢中争奪では敵の動きを読み切りと、活躍期間は短いものの驚異の読みを見せる。 |
政治 | A | 実は蜀の法律の制定メンバー。信賞必罰(自分本位基準)。勝手な妄想だが、きっと報復手段も法律の穴を縫った合法のものだったんだろう。 |
人望 | D | 恨みを後できっちり晴らした危険人物。それゆえか劉備に最も気に入られた人物なのに人気がない。諸葛亮からも才覚こそ認められたが、反りが合わなかったようだ。 |
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法正(ホウセイ)、字は孝直(コウチョク)。一般イメージでは蜀の軍師は諸葛亮(ショカツリョウ)、次点で龐統(ホウトウ)で固定されており、他の人物らは言ってしまえば2流のようなイメージを持たれることが多いです。で、法正もそんな知名度2流の内の一人。
が、近年では三國無双シリーズにもアレな人として参戦し、「なんかよくわからないけどきっとすごい人」くらいの世間イメージは手に入れた人物なのではないでしょうか。
今回はそんな法正の列伝を追っていきましょう。正直、この人結構濃いです。
日陰者の暗躍
法正は元々中央の出で、祖父も人格者として有名な人物という確たる基盤を持っていました。
しかし、董卓(トウタク)の死後から長安付近では戦乱が続き、法正の地元もそのあおりを受けるようになっていたのです。
そのため、同郷出身者の孟達(モウタツ)をともなって法正は故郷を離れて移動。益州(エキシュウ)の劉璋(リュウショウ)のもとに身を寄せたのです。
さて、こうして無事に戦乱を逃れた法正は県令や校尉といった高官に任命されますが、同郷者から流された悪評によって重用されることはなく、しばらくは歴史の影に埋もれる事を余儀なくされていました。
影でくすぶっていた法正はいつしか「劉璋は大事を行える人物ではない」とどこかで見切りをつけてしまったようで、同じく劉璋配下で仲が良くなった張松(チョウショウ)と二人で、劉璋の器量不足を憂いていたことが史書に記されています。
さて、そんな折、戦乱を戦い抜いて一大勢力となった曹操(ソウソウ)が、隣の荊州(ケイシュウ)に向けて南下を開始。劉璋も攻められてはたまらないと曹操への使者として張松を派遣します。
そして曹操と会見して戻ってきた張松は、劉璋に対してとんでもないことを口走ったのでした。
「曹操と断交し、それに敵対する劉備(リュウビ)と結びましょう」
この言葉を聞いた劉璋は、さっそく劉備への使者を送りますが、この時劉備の元に赴いたのが法正だったのです。
実のところ気乗りがしない法正は、辞退したものの強引に駆り出される形で嫌々劉備に会いに向かいますが……これが法正の大きな転機となったのです。
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益州あげます
一度劉備と出会った法正は、これまでのやる気のない態度を一変させ、張松に劉備が優れた人物である旨を伝えます。
そして二人は、劉備を益州に迎え入れて主をすげ替えるという一大計画を共謀。劉璋が隙を見せるのを楽しみにしながら、機会をうかがうことにしたのです。
そしてしばらく後、曹操が益州北部に割拠する張魯(チョウロ)の討伐に乗り出そうと動いた時……ついに計画発動の機会が訪れました。
張松は「張魯の次は我々だ」と怯える劉璋を説得し、法正を使者として劉備に援軍を要請。
まんまと劉備と再会した法正は、ここで劉備に「益州を奪いましょう」と献策。劉備はこれに従う形で、劉璋の援軍として益州に出向。そして張魯を曹操より早く討伐するため、北の前線拠点である葭萌(カボウ)まで軍を進め、そこで突如裏切って劉璋の軍を一気に蹴散らしていったのです。
そんな折に劉璋側の鄭度(テイタク)なる人物が、劉璋に対し「遠征軍の弱点は兵糧不足です」とし、現地調達のための焦土作戦を提案。この話をどこからか聞いた劉備は危機感を覚えて法正に相談を持ち掛けますが、法正自身は「劉璋にそんな度胸はありません」と冷静に分析。
結局、法正の言うとおり劉璋は案を否決し、鄭度を退けたのです。
そしていよいよ本拠・成都にほど近い雒(ラク)を劉備が包囲した時、法正は劉璋に対して降伏勧告の手紙を送付。建安19年(214)にはいよいよ成都の包囲を完成させ、やがて劉璋は劉備に降伏。
法正はその後、揚武将軍(ヨウブショウグン)として任用され、さらに蜀郡(ショクグン)太守となったのです。
また、成都包囲の際に許靖(キョセイ)なる人物が勝手に劉備に降伏しようとしたことがあり、劉備は許靖に不信感を抱いて重用しませんでした。
そんな折、法正は許靖の処遇について劉備に進言。
「世の中には実情はダメダメなのに名声だけは高い奴がいます。許靖はまさにそういう人物です。こういう奴らは民衆の支持にだけは大きな影響を与えますから、一応は厚遇しておくと間違いありませんよ」
劉備は法正のこの言葉を聞き、許靖を厚遇。世論を敵に回すのを見事に回避したのです。
その他にも法正は蜀科という蜀の法律制定にも携わっており、万能な人物であることが伺えますね。
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策謀家としての真髄
建安22年(217)、法正は天下の情勢を分析し、劉備に漢中(カンチュウ)攻略を進言。
漢中は益州の北の玄関とも言うべき要衝で、曹操は前年、張魯を倒してこの地を平定しています。
にもかかわらず、曹操はそのまま劉備領になだれ込まず中央に帰還。これは何か心配事があるからではないか……というのが、法正の見立てでした。
劉備はこの意見を聞くと、すぐに漢中を攻撃目標に制定。軍を率いて侵攻作戦を開始します。
この作戦は始めのうちこそ劣勢で苦境に立たされていましたが、建安24年(219)に劉備自身が本隊を伴って本格侵攻を始めたことで戦況は好転。敵総大将・夏侯淵(カコウエン)の所在にほど近い陽平関(ヨウヘイカン)を攻略。本隊同士の直接対決まで持ち込むことに成功しました。
そして法正は戦いの中で的確な進言を繰り返し、小競り合いの中で夏侯淵の直属隊をどんどん分断していき、敵本陣の守りを手薄にしていきます。
そしてついに来た好機、法正は「攻撃しましょう」と劉備に進言。将軍の黄忠(コウチュウ)を高所に登らせ、勾配を利用して夏侯淵の本体を攻撃。たった一度の攻撃で夏侯淵本隊を粉砕し、夏侯淵を討ち取ってしまったのです。
後々には曹操自身が大軍を率いて漢中奪回のために動きますが、劉備が砦を構えて堅守し動かなかったため、結局は撤退。漢中は劉備が完全に占拠することになりました。
この時曹操は法正の事を聞き、「まあ、劉備があそこまでテキパキ動くんだから、そういう奴がいるんだろうなーとは思ったよ」と負け惜しみ賞賛を口にしたとか。
漢中を奪ったことで、劉備は漢中王を自称。曹操と並ぶ権威を主張することになったのです。
法正も劉備の王位就任に際して尚書令(ショウショレイ:勅令などの文章の取り扱い)、護軍将軍(ゴグンショウグン)に就任。今後も劉備を支えていくものと大きく期待されました。
……が、天は法正にこれ以上の時を与えず、漢中奪取の翌年である建安25年(220)に病によって死去。
劉備からは並み居る家臣団の中でただ1人だけ諡が与えられており、「翼侯」と称されました。
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すごいんだけどヤバい人
法正は活躍期間こそかなり短かったのですが、その中でも「デキル人」として多大な活躍を見せていました。
陳寿も彼を龐統と同列にしてまとめており、実力には太鼓判を押しています。
物事の成否を見極め、作戦計画や術策の類では並外れた力を発揮していた。しかし徳性は賞賛されなかった。
つまり、能力自体は超1流と言っても過言ではないものの、その性格面はいささかアレという感じですね。
で、法正の性格を簡単に言いますと……三國無双をご存知の方はアレでの彼を想像していただくと、わかりやすいかもしれません。
特に内政ではかなり好き勝手していたようで、彼の伝にも「些細な恩義や恨みにも必ず報復し、私刑で自身を貶めた輩を数人殺した」と書かれています。
この辺りは公平無私な諸葛亮とは対極で、政治議論でも意見は割れていたようです。
しかしある者が法正の品行の無さを諸葛亮に進言した際も、場合によっては愛弟子も処刑する諸葛亮ですら手を下すことがなかった辺り、やはり非常に優れた人物だったのでしょう。
そんな諸葛亮自身も法正の才覚は認めており、彼が無くなって2年後に夷陵で劉備が大敗した時も、「法正がいればなあ」とぼやいたとされています。
とはいえ、仮に長生きしても劉備亡き後の面子と仲良くできる姿が想像できない人物ですが……その辺どうなるかも含めて早死にが惜しい人物だと思います。
メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻
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