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馬岱

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:司隸扶風郡茂陵県?

 

 

 

 

馬岱(バタイ)。正史ではもはや謎の人。彼はあの馬超(バチョウ)の従弟であり、三国志メディアでも非常に勇猛な将として描かれており、三國無双にも6で颯爽と出演。愉快ながらも影があるキャラで親しまれていますね。

 

さて、そんな馬岱の正史での様子はというと……

 

 

圧 倒 的 記 述 不 足

 

 

馬超が嫌われ者でそのあおりを受けたのか、馬岱本人がそもそもネームバリューだけで大したことのない人物だったのか……とにかく記述がありません。

 

史書に顔を出す回数、なんとたったの2回。司馬一族の公式史書である『晋書』の記述を含めても、3回しか名前が出ません。いったい何があったのでしょうか……

 

 

ともあれ、そんな微妙な馬岱の記述、字数に余裕があるのでその背景も含めて追っていきましょう。

 

 

 

 

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馬超「後を頼んだ……ガクッ」

 

 

 

馬超は元々西の辺境の英雄を先祖に持に、その地に根を張る軍閥の一人でした。しかし、西に目を向けた曹操(ソウソウ)の動きに過剰反応して反乱を引き起こしてしまった為に曹操と敵対する羽目になり、敗北。

 

馬超の一族はほぼ全員曹操の掌中にある朝廷に仕えていたため、この敵対行動を理由に全員処刑されてしまったのです。

 

 

さらに馬超はたびたび再起を図るものの、夏侯淵(カコウエン)をはじめとした曹操軍に尽く邪魔され失敗。ついに万策尽きた馬超は南へと逃れることになり、紆余曲折の末に劉備(リュウビ)に仕えることになったのです。

 

 

さて、ともあれ、こうして劉備率いる蜀の一因に加わったはいいものの……戦果は振るわず。章武2年(222)、精魂尽き果てるようにそのまま亡くなってしまったのでした。享年47。

 

 

 

さて、そんな馬超の遺言の言葉の中に、馬岱の名前が出てきます。

 

 

「一族は200人ほどおりましたが、皆曹操に誅殺されてしまいました。もはや残るのは、従弟である馬岱だけ。彼を一族の後を継ぐ者として任用していただければ、、¥思い残すことはありません」

 

 

つまり、馬超は臨終の際に、名門である馬一門の後事を馬岱に託したわけですね。これによって馬岱は一族の代表として多くの戦場に出たようで、最終的には列侯の仲間入りを果たしたとか何とか。

 

 

 

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反骨マン討伐隊

 

 

 

さて、続いて馬岱が姿を見せるのは、建興12年(234)のいわゆる五丈原の戦い。諸葛亮(ショカツリョウ)の死後に一波乱ありましたが、馬岱はこの波乱を収める人物の一人として姿を現します。

 

 

諸葛亮は自分の死に際し「速やかに撤退するように」と、撤退の段取りを重臣たちに遺していきました。この時、楊儀(ヨウギ)がその指揮を執ることになったのですが……彼と死ぬほど仲が悪かった魏延(ギエン)がこれに猛反発。

 

 

「わしがいるのに撤退とは。それに楊儀ごときの指揮下に入れとは、ふざけているのか!」

 

 

怒りに身を任せた魏延は、手勢を率いて蜀軍本隊の退路を勝手に燃やして遮断。魏延と楊儀は、互いに「あの野郎、反逆しやがりました!」と朝廷に上訴したのです。

 

この時、朝廷が肩を持ったのが楊儀。結果、魏延は反逆者として蜀から排除されることになりました。

 

魏延は反逆者にされてもなお、楊儀の排除のために行動。軍勢を率いて蜀本隊を待ち受け、迎撃態勢を整えたのです。

 

 

……が、そこで前に出てきたのは王平(オウヘイ)。彼は魏延軍の先鋒に対して口を開くと、彼らに対して大声で怒鳴り散らしました。

 

 

「丞相の遺体が冷たくならないうちから何をしているのだ、貴様らは!」

 

 

この言葉によって魏延がお尋ね者となったのを知った兵たちは思い思いに逃げて行って離散。最後には魏延の息子と重臣の数名だけとなり、魏延は逃走していったのです。

 

 

馬岱は反逆者の名を着たまま逃走を図った魏延を追跡・始末する役割を帯び、彼が向かったであろう漢中に向けて進撃。道中でか漢中に入った後かはわかりませんが、馬岱はとうとう魏延らを捕捉し、そのまま全員をまとめて斬殺。

 

魏延は諸葛亮の死を前後すると、蜀の中でも随一の猛将でした。そんな人物を野放しにして反政府組織を作られると、もしかしたら蜀はもっと早くに滅んだのかもしれん。そう考えると、この功績は非常に大きな意味を持ったと言えるのではないでしょうか。

 

 

三国志演義では、ここで馬岱は功績を認められ、爵位を受けています。

 

実際の馬岱は平北将軍(ヘイホクショウグン)、陳倉侯(チンソウコウ)と立伝されてもおかしくないくらいの高位に上り詰めており、もしかしたら魏延殺害の功績はかなり高く買われたのかもしれませんね。

 

 

 

 

総評:結局お前誰やねん

 

 

 

馬岱のその後の活躍と言えば、微妙に信用できるかグレーゾーンとされている『晋書』の司馬懿(シバイ)について書かれた『高祖宣帝懿本紀』による記載のみ。

 

曰く、翌年の建興13年(235)に再び魏に侵攻し、牛金(ギュウキン)という将軍に敗北。千余りの兵士を失ったとか。

 

以後、馬岱は史書から消えます。文字通り、どこにもその名を確認できません。

 

 

そして何より悲しいかな、蜀の名臣を賛美して書かれた『季漢輔臣賛』にもその名は語られていません。

 

雑号将軍や下手すると校尉のような、明らかに馬岱より位が下の人物についても称えられている書物なのですが……いったいどうしてこうなった。

 

 

結局のところ、事績不明のまま知名度がどんどん先行していった感じが否めない馬岱ですが……彼は強かったのか弱かったのか。

 

少なくとも彼をボロ負けさせた牛金はひとかどの武将なので、彼に惨敗したからといって必ずしも雑魚武将だった証左にはならないと思いますが……

 

 

 

ちなみに『季漢輔臣賛』における馬超の書かれ方ですが、その書かれ方はひどいものです。

 

曰く、「反覆常なく、その隙を敵に突かれて一族を殺されてしまった。これは道理に背いた結果であり、そのために劉備の元へとやってきたのだ」。

 

 

蜀を賞賛しまくるための書物ですらこの書かれよう。もしかしたら、馬岱の記述が少ない原因の一つに「あの裏切り馬超の血縁者」というのもあるのかもしれませんね。

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