人物像
では、暗君、どうしようもないゴミとも謳われる劉禅が、実際どんな人だったのか……史書にある逸話や人物評を見ながら、少し確認してみましょう。
まず、劉禅無能説ははるか昔……下手をすると本人の存命中からそういう流れはあったかもしれませんね。
元は臣下で三国志の編纂者である陳寿は、彼の事をこう評しています。
優秀な宰相に仕事を任せているときは道理に従う君主だったが、宦官(黄皓)に惑わされてからは暗愚な君主であった。
「白糸はどうにでも変わり染められるままになる」とあるが、なるほどもっともである。
要するに、周囲の人次第で名君にも暗君にも化ける、と。
実際に劉禅は諸葛亮や蒋琬、董允らが生きているうちはしっかりとした主君を行い、陳寿も「たびたびの出兵にもかかわらず無暗にお恩赦を与えて政治を弛緩させることはなかった」と太鼓判を押しています。
しかし、問題は彼らが亡くなった後。まともな権力を振るえるのが費禕くらいしかいなくなってくると体制に曇りが生じ始め、その費禕が暗殺されてからは、露骨に内部分裂が引き起っており、それが政治の荒廃にもつながっています。
自身の能力と身の丈をよく知っている点ではまさに立派な君主でしたが、それだけに他人任せになる場面も多かった……というのが、劉禅政権下の蜀の強みであり弱みでもあったのでしょう。
また、普段はどうにもパッとしないのに、たまーに覚醒したかのように有能化するような場面も史書や場面によっては見受けられ、それもまた劉禅の評価をよくわからないものにしています。
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臣下への厚い信頼
彼の存命中、劉禅は全権を諸葛亮に移譲していたと言っても過言ではなく、実際に諸葛亮に反逆されると朝廷では全く対抗できないと言えるほどの独裁を許可していました。
そんな諸葛亮が亡くなり喪に付していた劉禅に、李邈(リバク)という人物がこのように上表したことがあったのです。
「諸葛亮は国家を覆しかねない大権を持っており、過去に似たような権力体制を持った国家が転覆した例は多い。諸葛亮の死は、むしろそんな危険分子が取り除かれた慶事と言えましょう」
この言葉に対し、劉禅は普段からは考えられないほどに大激怒。李邈はすぐに牢に繋がれ、処刑されてしまったのでした。
また、姜維の北伐が激化して家臣団からも非難の声が出ていたにもかかわらずなおも重用し続けたあたり、やはり基本は部下に全部委任しつつ、どうしても通したい自分の意見はしっかり通していた……と見るべきでしょう(それが正しいかは知らん)。
さらには魏に降伏した自分に付き従っている郤正を見て「なんでこいつを重用しなかったんだろう」と後悔したりといった記述もあり、いかにダメ君主であっても一国の主としての矜持は持っていたのかもしれませんね。
……まあ矜持とまでは言い過ぎでも、劉備や諸葛亮の言い分を彼らの死後もしっかり守っていた辺りは、評価されても良いのではないでしょうか?
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結構な色ボケ?
さて、劉禅の逸話の中で意外と多いのが、お遊びや色欲関連の話。
帝位を継いでからもしばしば遊び回り、特にクソ真面目ともいえるツッコミ役である董允とのいざこざは少なからずあったようです。
これは『董允伝』での話になりますが……劉禅は自身の後宮の数をずっと増やしたいと思っていました。
それに待ったをかけたのが、ツッコミ役の董允。董允は劉禅のわがままに対し、「古来の王でも側室後宮は多くて12人かこっていただけに過ぎません。今同数ほどの後宮をかこっている以上、ここからさらに数を増やすのはよろしくありません」と強固に主張。
劉禅は常に不満を持っていたようですが、それでも董允がいる間は後宮拡張政策を断念せざるを得なかったのです。
また、劉琰(リュウエン)という人物とも、まあ色ボケと言えば似たような形で因縁があります。
というのも、劉琰の妻は大変な美人であり、蜀の太后は彼女の事を大変気に入っていたのです。そして後宮に年賀の挨拶に行った際、太后は劉焉の妻を引き留めて実に一ヶ月以上も後宮に軟禁。
ようやく解放されて返ってきた妻に対して、劉琰はとんでもない疑問をぶつけます。
「この女、劉禅様と浮気してやがったな!」
……今となっては真偽はわかりませんが、多分そう思われるような人物だったのでしょう、劉禅は。
ともあれ、これでブチギレた劉琰は、生来の小物気質な性格もあって妻を鞭でしばき上げた上に草履でぶん殴って離婚。
劉琰の元妻となった彼女からその報告を受けた劉禅は、「鞭は女をしばくためのものでもないし、草履は顔を踏むためのものでもない」というよくわからない罪状をひっさげて劉琰を処刑してしまったのでした。
ちなみにこの事件の後、妻が後宮で年賀の挨拶をする制度はスッパリと禁止されたとか。本当は密通の可能性あったんじゃ……
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有能か無能か
とまあこんな感じで、無能である証拠もそれを否定する証拠も、そろえようと思えばそこそこの数がそろってしまい、なおかつ決定打になり得ないのが劉禅の難しいところ。
色ボケに関しては英雄色を好むとも言いますし、劉禅の駄目さが明るみに出た蜀後期の政治も、真っ当に政治を回せる人間の少なさと保身を考える二代目に政権が移ったのが原因とも言えます。
逆に有能説を採っても、それほど有能ならば蒋琬や費禕が死んだあとに自身が実権を握って蜀を主導することもできたでしょうし、降伏後の司馬昭との逸話に関しても、そもそも徳を前面にアピールしてる司馬昭政権では、余計な演技をしなくても殺される可能性は高くなかったという意見もあります。(そもそも信憑性がアレだけど……)
とにかく評価の難しい劉禅ですが……まあ、おおよそ蜀を終わらせてしまったことが、評価の分かれるトリガーになったのでしょう。
何にしても、史書の穴を想像考察で膨らませていく余地のある、面白い人物ではあると思います。