劉禅 公嗣


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劉禅 公嗣

 

 

生没年:建安12年(207)~泰始7年(271)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州南陽郡新野?

 

 

勝手に私的能力評

 

劉禅 後主 蜀 暗愚 阿斗 アホ 謎の強キャラ感 蜀 安楽公

統率 軍を率いたこともない。臣下も好き勝手。ただし諸葛亮を馬鹿にした李邈は殺す。最低限の君主権は確保していたようだ。
武力 そもそも武力を示す立場ではなく、いつしか贅肉だらけで動けないだの病弱だの散々な設定が付けられることに……
知力 そもそも自ら御輿に徹するタイプの君主なので未知数。滅亡後の逸話を素と見るか含むところがあると見るかで評価は分かれる。
政治 D+ 政治を握ってから蜀がおかしくなった感じに書かれる。が、反乱を頻発させるほどでなかったのは評価すべきか。異民族は攻めてきたけど。おお向寵よ、しんでしまうとはなさけない!
人望 C+ まさに両極端。国を40年持たせたとする意見もあれば、劉備万歳な人たちからは蛇蝎なんて生ぬるいレベルで嫌われる。当時からも残念なイメージはあったようだ。

 

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劉禅(リュウゼン)、字は公嗣(コウシ)。最近は無双シリーズで持ち上げられて若干株が上がった気もしますが、それでも未だに「どうしようもない無能のゴミ君主」といったような評価がついて回る人物ですね。

 

実際にみんな大好き蜀漢帝国を降伏という形で滅亡させていますし、戦犯扱いもやむなし……

 

 

しかし、それでもやはり劉備の息子。ほぼほぼ他人頼みだったとはいえ劉備(リュウビ)死後はおろか諸葛亮(ショカツリョウ)が死んだ後も国を長い間保ち続けており、まあ間違いなく有能ではないにしろ、どうしようもないレベルの暗君だったかと言われると……待ったをかけたくなる部分も少なくありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人物像

 

 

 

では、暗君、どうしようもないゴミとも謳われる劉禅が、実際どんな人だったのか……史書にある逸話や人物評を見ながら、少し確認してみましょう。

 

まず、劉禅無能説ははるか昔……下手をすると本人の存命中からそういう流れはあったかもしれませんね。

 

 

元は臣下で三国志の編纂者である陳寿は、彼の事をこう評しています。

 

 

 

優秀な宰相に仕事を任せているときは道理に従う君主だったが、宦官(黄皓)に惑わされてからは暗愚な君主であった。

 

「白糸はどうにでも変わり染められるままになる」とあるが、なるほどもっともである。

 

 

要するに、周囲の人次第で名君にも暗君にも化ける、と。

 

 

実際に劉禅諸葛亮や蒋琬、董允らが生きているうちはしっかりとした主君を行い、陳寿も「たびたびの出兵にもかかわらず無暗にお恩赦を与えて政治を弛緩させることはなかった」と太鼓判を押しています。

 

しかし、問題は彼らが亡くなった後。まともな権力を振るえるのが費禕くらいしかいなくなってくると体制に曇りが生じ始め、その費禕が暗殺されてからは、露骨に内部分裂が引き起っており、それが政治の荒廃にもつながっています。

 

 

自身の能力と身の丈をよく知っている点ではまさに立派な君主でしたが、それだけに他人任せになる場面も多かった……というのが、劉禅政権下の蜀の強みであり弱みでもあったのでしょう。

 

 

 

また、普段はどうにもパッとしないのに、たまーに覚醒したかのように有能化するような場面も史書や場面によっては見受けられ、それもまた劉禅の評価をよくわからないものにしています。

 

 

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臣下への厚い信頼

 

 

 

 

劉禅が特に信任した家臣と言えば、やはり諸葛亮でしょう。

 

彼の存命中、劉禅は全権を諸葛亮に移譲していたと言っても過言ではなく、実際に諸葛亮に反逆されると朝廷では全く対抗できないと言えるほどの独裁を許可していました。

 

 

そんな諸葛亮が亡くなり喪に付していた劉禅に、李邈(リバク)という人物がこのように上表したことがあったのです。

 

 

諸葛亮は国家を覆しかねない大権を持っており、過去に似たような権力体制を持った国家が転覆した例は多い。諸葛亮の死は、むしろそんな危険分子が取り除かれた慶事と言えましょう」

 

 

この言葉に対し、劉禅は普段からは考えられないほどに大激怒。李邈はすぐに牢に繋がれ、処刑されてしまったのでした。

 

 

 

また、姜維の北伐が激化して家臣団からも非難の声が出ていたにもかかわらずなおも重用し続けたあたり、やはり基本は部下に全部委任しつつ、どうしても通したい自分の意見はしっかり通していた……と見るべきでしょう(それが正しいかは知らん)。

 

さらには魏に降伏した自分に付き従っている郤正を見て「なんでこいつを重用しなかったんだろう」と後悔したりといった記述もあり、いかにダメ君主であっても一国の主としての矜持は持っていたのかもしれませんね。

 

 

 

……まあ矜持とまでは言い過ぎでも、劉備諸葛亮の言い分を彼らの死後もしっかり守っていた辺りは、評価されても良いのではないでしょうか?

 

 

 

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結構な色ボケ?

 

 

 

さて、劉禅の逸話の中で意外と多いのが、お遊びや色欲関連の話。

 

帝位を継いでからもしばしば遊び回り、特にクソ真面目ともいえるツッコミ役である董允とのいざこざは少なからずあったようです。

 

 

これは『董允伝』での話になりますが……劉禅は自身の後宮の数をずっと増やしたいと思っていました。

 

それに待ったをかけたのが、ツッコミ役の董允。董允は劉禅のわがままに対し、「古来の王でも側室後宮は多くて12人かこっていただけに過ぎません。今同数ほどの後宮をかこっている以上、ここからさらに数を増やすのはよろしくありません」と強固に主張。

 

 

劉禅は常に不満を持っていたようですが、それでも董允がいる間は後宮拡張政策を断念せざるを得なかったのです。

 

 

 

また、劉琰(リュウエン)という人物とも、まあ色ボケと言えば似たような形で因縁があります。

 

というのも、劉琰の妻は大変な美人であり、蜀の太后は彼女の事を大変気に入っていたのです。そして後宮に年賀の挨拶に行った際、太后は劉焉の妻を引き留めて実に一ヶ月以上も後宮に軟禁。

 

ようやく解放されて返ってきた妻に対して、劉琰はとんでもない疑問をぶつけます。

 

 

「この女、劉禅様と浮気してやがったな!」

 

 

……今となっては真偽はわかりませんが、多分そう思われるような人物だったのでしょう、劉禅は。

 

ともあれ、これでブチギレた劉琰は、生来の小物気質な性格もあって妻を鞭でしばき上げた上に草履でぶん殴って離婚。

 

 

劉琰の元妻となった彼女からその報告を受けた劉禅は、「鞭は女をしばくためのものでもないし、草履は顔を踏むためのものでもない」というよくわからない罪状をひっさげて劉琰を処刑してしまったのでした。

 

ちなみにこの事件の後、妻が後宮で年賀の挨拶をする制度はスッパリと禁止されたとか。本当は密通の可能性あったんじゃ……

 

 

 

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有能か無能か

 

 

 

とまあこんな感じで、無能である証拠もそれを否定する証拠も、そろえようと思えばそこそこの数がそろってしまい、なおかつ決定打になり得ないのが劉禅の難しいところ。

 

 

色ボケに関しては英雄色を好むとも言いますし、劉禅の駄目さが明るみに出た蜀後期の政治も、真っ当に政治を回せる人間の少なさと保身を考える二代目に政権が移ったのが原因とも言えます。

 

逆に有能説を採っても、それほど有能ならば蒋琬や費禕が死んだあとに自身が実権を握って蜀を主導することもできたでしょうし、降伏後の司馬昭との逸話に関しても、そもそも徳を前面にアピールしてる司馬昭政権では、余計な演技をしなくても殺される可能性は高くなかったという意見もあります。(そもそも信憑性がアレだけど……)

 

 

 

とにかく評価の難しい劉禅ですが……まあ、おおよそ蜀を終わらせてしまったことが、評価の分かれるトリガーになったのでしょう。

 

 

何にしても、史書の穴を想像考察で膨らませていく余地のある、面白い人物ではあると思います。

続きを読む≫ 2018/05/28 12:55:28

 

 

 

 

 

劉備「後は任せた……」

 

 

 

劉禅が生まれたのは、建安12年(207)。劉備が荊州の新野(シンヤ)に間借りして、曹操軍としのぎを削っていたころ。

 

しかもその1年後には荊州全体は曹操に降伏し、劉備曹操軍からの逃避行を余儀なくされます。しかもこの時曹操軍の追撃が激しく、まだ年端のいかなかった劉禅は混戦の中で劉備とはぐれて(というか置いて行かれて)しまったのです。

 

 

この時劉備の臣下である趙雲(チョウウン)が母ともども劉禅を助けてくれたため事なきを得ましたが……その裏では劉備の娘が曹操軍に捕まっており、一歩間違えばここで亡くなっていた可能性すらあったことが容易に想像できます。

 

 

 

さて、そんな激動の幼少期を過ごした劉禅でしたが、建安24年(219)に劉備が漢中王(カンチュウオウ)を称するようになると、晴れて皇太子に任命され、劉備が帝位に就くとそのまま劉禅も次期皇帝として将来を保証されるようになったのです。

 

この時劉備劉禅に対し、「教育係の言う事はよく聞き、一つの事で三つの善を行えるようはげむのだぞ」と声をかけ、期待を向けるようになります。

 

 

しかし、その劉備はその後に孫権軍を攻めて未曽有の大敗北を喫し、章武3年(223)に死去。劉禅は17歳にして、もはや亡国寸前にまで叩きのめされた弱小国家の主として歩む運命を背負ったのです。

 

 

 

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有能な補佐に恵まれて

 

 

 

さて、こうしてほぼ無理難題にも近い運命を背負い立つことになった劉禅ですが、それでもまだ諸葛亮を始め有能な家臣団が控えていました。

 

劉禅は彼らに国家の事をほぼ一任。自身はあくまで国家の象徴に徹して必要な時以外は表舞台に立たない道を選んだのです。

 

 

皇帝の位を継いだ劉禅は、大赦を行い年号を建興に改め、そして張飛(チョウヒ)の娘を皇后に立て、険悪な間柄となってしまっていた孫権(ソンケン)に対して再同盟の使者として鄧芝(トウシ)を派遣。鄧芝の弁舌によって呉との友好関係を復旧させ、ひとまず蜀は内部の鎮圧に力を入れることとなりました。

 

 

 

まず、朱褒(シュホウ)や雍闓(ヨウガイ)、高定(コウテイ)らの反乱に続き、益州南部で次々と発生する反乱を鎮圧するために諸葛亮らが出陣。

 

大規模に膨れ上がった反乱に諸葛亮らが対応している中、劉禅ら蜀朝廷は建興2年(224)に農業の奨励を大規模に実施。外部に続く関門も閉ざして民衆に安らぎを与えることに注力します。

 

 

そして翌日の春には、反乱鎮圧軍も無事に役目を終えて帰還。亡国同然という荒廃具合であった蜀は、わずか2年の内に国として成り立つだけの力を取り戻したのです。

 

 

こうして力を蓄えていた蜀は建興5年(227)、魏が世代交代でバタついている隙を見てついに出撃を決定。しかし魏を揺るがすほどの大勝利を得ることができず、攻めては撤退の繰り返しで進展が見えないまま、魏との争いは混迷化。

 

劉禅は血族を魏呉との境界線に王として土地を与え、少しでも国家の安寧を与えられるように動きます。

 

 

しかし、建興12年(234)に諸葛亮は出陣した先で死去。国内では楊儀(ヨウギ)と魏延(ギエン)の対立がありましたが、魏延を斬ることで一応の終息を得て、大赦を行って軍事では呉懿(ゴイ)、政治では蒋琬(ショウエン)を中心に置くことで、諸葛亮という大きな穴を埋めようとしたのです。

 

 

 

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重臣の死により……

 

 

 

その後は楊儀が「自分がトップになれなかったのはおかしい」とかき回したり、妻の張氏(チョウシ:敬哀皇后とも)が亡くなったりといった朴報こそありましたが、国家としての力はまだまだ健在。

 

逆に攻めてきた魏軍を押し返すなど、その軍事力は大きくは衰えていませんでした。

 

 

皇后の死もその妹を新たな皇后に立てることで政治的部分での問題を解決し、新たに皇太子も立てて年号を延煕に会合。

 

これでしばらくは国としての機能は保てていたのですが……延煕9年(246)に蒋琬が死去。ここから小規模な民衆反乱も見られるようになり、国内に不穏な空気が流れ始めたのが見て取れます。

 

 

さらには、ここからは陳祗(チンシ)を始めとした複数の政治家がそれぞれ政治を動かす多頭体制に移行しつつあり、その乱れの中、後に蜀を揺るがす黄皓(コウコウ)も密かに権力を増していくなど不穏な影が広がり始めていたのです。

 

 

そして延煕16年(253)、蜀をまとめる柱石として最後の希望と言える費禕が魏から降伏した郭循(カクジュン)なる人物によって暗殺され、蜀は一気に暗転していくことになったのです。

 

 

『魏略』では、蒋琬の死により劉禅自らも国政に参加するようになったと書かれています。ここまで御輿に徹してきた劉禅にとって、突然良く知りもしない国政を握れというのは、やはり酷な話だったのでしょう。

 

実際にこの頃から大赦の記述が多くみられ、政治の弛緩も滅亡の遠因なのではという声も根強いです。

 

 

 

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蜀の降伏

 

 

 

さて、費禕の死去から間を置かずしてまず動いたのは、軍事のトップに立った姜維(キョウイ)でした。姜維はすぐに北伐軍を編成し、魏領へと侵攻。しかし、鄧艾(トウガイ)を始め魏のぐ厚い人材層に常に阻まれ続け、結局は失敗。

 

その後は毎年のように姜維による北伐が敢行され、その都度劉禅が大赦によって臣下らの機嫌を伺うという流れの繰り返しで、国力は見る間に疲弊。次第に国内でも不満が噴出し、姜維を嫌って引きずりおろそうとする文官たちも続出するほどになりました。

 

 

そしてそんな中、景耀元年に劉禅補佐の中心的人物であった陳祗が死去。ここに来て黄皓が政権を握り、後々専横を極めるようになってしまったのです。

 

 

黄皓は讒言により気に入らない臣下を失脚させて回り、その力は日に日に強大になっていき、多くの臣下も保身のために仲間同士で助け合うばかりで誰も彼を失脚させようと動かなかったと言われています。

 

 

そんな黄皓でしたが、北伐の念に駆られて暴走する姜維の失脚を目論んだ時だけは賛同者も多く、諸葛亮や董允の息子もこれに連名したとか。

 

 

ともあれ、そんな状態では国は長くは持ちません。景耀6年(263)、ついには魏の侵攻を許し、その滅亡の時を迎えてしまったのです。

 

元々厳しい戦いでしたが、鄧艾によって成都近郊まで迫られた劉禅は、配下の譙周(ショウシュウ)の進言により降伏を決定。この決定に五男の劉諶(リュウシン)が家族と心中し、多くの家臣らも涙してこの降伏を悔やんだとされています。

 

 

ともあれ、こうして蜀の皇帝という大任から解き放たれた劉禅ですが、翌年に旧臣による反乱失敗もあって付き従う者は少なく、郤正(ゲキセイ)らわずかな家臣と息子らを伴って洛陽に移送されることに。

 

その後は安楽公(アンラクコウ)として、父の育った地にも近い幽州へと領地を移され、そこで一生を終えたのです。

 

 

 

『漢晋春秋』では、劉禅の暗愚なんだか父親似のタヌキなんだかよくわからない逸話が載せられています。

 

司馬昭(シバショウ)との宴会の折、彼は劉禅のため蜀の音楽を披露。これを聞いた周囲の家臣らは泣き始めたにもかかわらず、劉禅だけは平然としていました。

 

そのため司馬昭も「こりゃ確かに駄目君主だわ」と一笑。

 

 

その後日、司馬昭は再び劉禅の元を訪問。「やはり蜀のことは思い出したりしますか?」とさり気なく質問してみたところ、劉禅からの返答は、「いやいや、ここでの暮らしが楽しくて思い出すこともありませんよ」というもので、周囲を呆れさせました。

 

そしてこれを聞いた郤正が、「ここは『蜀がある西を向いては心が痛み、一日とて思い出す日はございません』と悲しんでください」とアドバイスを送ると、後日同じ質問をされた劉禅はその通りに返答。

 

司馬昭は「郤正と同じこと言ってるよ」と一言ぼやくと、劉禅は驚いた顔をして「まさしくその通りです」と返答したため、その場にいた者は皆大笑いしたのでした。

 

 

亡国の主とは、基本的に叛逆を警戒されて殺されるようなこともよくある存在。本当に悔しがったり悲しんだりすれば命はなかったかもしれないため、これもまたタヌキ芝居にも見えてしまいますね。最も、本音からこのようなアホな発言をした可能性は否定できませんが。

続きを読む≫ 2018/05/26 22:51:26
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