魏延 文長
生没年:?~建興12年(234)
所属:蜀
生まれ:荊州義陽郡
勝手に私的能力評
統率 | A | 劉備存命時には張飛を差し置いて漢中太守となり、北伐においてはエースとして活躍した。しかし、諸葛亮死後のアレは……うーん。 |
武力 | S | 武名も武勲も、主軍武将として文句無しの実力者。漢中太守就任時の気概は見事なものだった。 |
知力 | C | 蜀の「もしも」を語る上での主役・長安奇襲策の考案者。知力はあったのだろうが、最期のアレを見ると大局が見えないタイプらしい。 |
政治 | E | イケイケの突撃武将だったが、大局眼は備えていなかった。最期には敵を差し置いて勝手に争い、扱いに困った蜀に捨てられた。 |
人望 | E+ | あり得ない裏切り者説が割と最近まで跋扈していた上にクソ勘違い野郎の楊儀を差し置いて真っ先に消されたあたり、つまりそういう事だったのだろう。しかし近年は、魏延擁護の声も……? |
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魏延(ギエン)、字を文長(ブンチョウ)。長らくの間裏切り者として忌み嫌われてましたが、昨今の正史ブームによって再評価が進む人物の一人ですね。
裏切り者の証である反骨の相を持っていたという演義の設定から「諸葛亮(ショカツリョウ)といがみ合っていた」ような印象がありますが、むしろ彼が死ぬまでの間、魏延の待遇は悪くなかったようですね。
しかし、諸葛亮の子飼いである楊儀(ヨウギ)と激しくいがみ合い、また自身も我の強い人物だったばかりに裏切り者の濡れ衣を着せられ、そのまま味方に殺されたちょっぴり可哀想な武将。でも今なおみんなの嫌われ者である楊儀よかはマシ
今回はそんな魏延の事績を追っていきましょう。
劉備軍期待の新入り
正史における魏延の荊州時代はよくわかっておらず、史書にはいきなり蜀攻めについての記述から入っています。
建安16年(211)、劉備は蜀の地に割拠する劉璋(リュウショウ)を攻略すべく軍を西に展開。この時劉璋軍を油断させるため、劉備は古参でなく新参の武将らを主戦力に編成していましたが、魏延もその中の一人でした。
劉備軍本隊の1部隊長としてこの大事な戦局に望んだ魏延は、行く先でたびたび戦功を上げて己の力を存分にアピール。蜀の平定後はすぐに牙門将軍(ガモンショウグン)に昇進。下級ながらも劉備軍の貴重な将軍としてスタートを切りました。
劉備もそんな魏延には並々ならぬ期待をしており、建安24年(219)、自ら漢中王に名乗り出ると、曹操への抑えとして要衝の漢中を守る役目を魏延に任せたのです。
当時の漢中は対曹操の前線基地総本山のような場所であり、人々は「大身で劉備の家族同然である張飛(チョウヒ)が任命されるのでは」と考えている人がほとんどで、皆この大抜擢に驚いたと史書では語られています。
こうして漢中太守を任され、将軍としての地位も鎮遠将軍(チンエンショウグン)となった魏延は、群臣の前で劉備と会合。
この時劉備から意気込みを聞かれましたが、魏延は強気にこう宣言したと言われています。
「曹操が天下の兵を統べて攻めたならば、必ず漢中を守ります。副将が十万の兵を率いてきたなら、これを呑み込んでくれましょう」
劉備はこの言葉を聞いて「良きかな」と一言。群臣も魏延の発言を勇ましく思ったとか。
その後劉備が蜀の帝を名乗ると鎮北将軍(チンホクショウグン)に昇進。建興元年(223)には都亭侯(トテイコウ)として領土も与えられました。
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北伐の主戦力
劉備の死後、蜀の国はほとんど消沈しきっていましたが、諸葛亮ら幕僚陣の手腕もあって建興5年(227)には国としての機能をなんとか復旧。準備整ったりと、魏を攻撃する北伐の戦いが始まりました。
その始めである第一次北伐では、魏延は先鋒部隊の総大将に任命され、さらには諸葛亮の軍事的な側近と言えるの丞相司馬(ジョウショウシバ)や涼州刺史の役割も追加で任される大身となって出撃。
敵の油断もあって作戦通りの展開となりましたが、敵援軍の抑えに回った馬謖(バショク)が大敗を喫したことによって計画の土台が崩れて敗北。この時の抑え役としては、魏延や歴戦の将である呉懿(ゴイ)を推す声が多かったと言われています。
その後しばらく北伐は失敗に終わっていましたが、敵陣の主力である曹真(ソウシン)が死去した後の建興8年(230)の出陣に際して、魏延は精鋭部隊を率いて羌中(キョウチュウ)に進撃。その地で迎撃に来た郭淮(カクワイ)、費曜(ヒヨウ)らと戦い敗走させることに成功。
なかなか辛い戦局が続く中での勝利は大いに認められ、魏延は前軍師(ゼングンシ)、征西大将軍(セイセイダイショウグン)として仮節(カセツ)が与えられ、爵位も南鄭侯(ナンテイコウ)に引き上げられました。
その翌年の北伐にも魏延は参加しており、手始めに正面からぶつかってきた司馬懿(シバイ)他の将軍たちと共にを散々に打ちのめす活躍を示しています。
魏延の扱いづらさ
魏延はかなり強烈な性格の持ち主だったようで、作戦行動をめぐって諸葛亮と対立した記述も正史にあります。
諸葛亮は常にリスクを回避するために比較的安全なルートを進んでいたのですが、魏延は逆に「危ない橋を渡ってでも勝つ」という考えをしていたようで、諸葛亮には常に「1万の兵をいただければ、長安を奇襲しましょう」と進言しては断られていたそうです。
そして何よりことが大きいのが、諸葛亮の幕僚である楊儀との対立。お互い割とクズい気の強い性格だったため完全に相容れず、諸葛亮の大きなストレスのひとつだったことが記されるほどにいがみ合う関係でした。
それでも諸葛亮がいるうちは何とかなったのですが、建興12年(234)、蜀の大黒柱であると同時に楊儀との間の緩衝材であった諸葛亮が北伐の出陣中に死去。
これによって魏延を取り巻く環境は大きく変わりました。
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我の強さが死を招く
諸葛亮は内密に楊儀ら幕僚陣を呼び寄せ、「自分に何かあったら魏延をしんがりにして撤退するように。魏延が言う事を聞かなければ置いて帰ってよい」と指示しており、楊儀は費禕(ヒイ)を使者としてその内容を魏延に一応伝えることにしました。
しかし魏延は、「丞相が亡くなっても俺が健在だ。ひとりの死のために作戦行動を中止するなどあってなるものか! そもそも楊儀ごときの風下に誰が立つものか!」と立腹。
その場で陣中に残る者を募って、戦う旨を費禕に無理やりサインさせて全軍に通達してしまったのです。
こうして自身が大将であるように告示して費禕を楊儀の元へ返した魏延でしたが、やはり不安になって楊儀の陣に人を遣ると、他の軍は諸葛亮の命令通り撤退の準備を進めていたのです。
これを見て怒った魏延は、先遣隊を遣って退路にある橋を落として封鎖。そんなやり取りの後、魏延と楊儀はお互い「奴めが反逆しました」と名指しで朝廷に通告し、この機に厄介な相手を処刑してしまおうと動いたのです。
こうして蜀の朝廷には双方の矛盾した通告が届いたのですが……朝廷が肩を持ったのは、楊儀の言い分。扱いづらい性格をしている魏延は、忠誠を誓っていた蜀の国によって斬り捨てられる形となってしまったのです。
こうして孤立してしまった魏延は、それでも山を切り開いて昼夜兼行で撤退する蜀本隊を迎え撃とうと陣を展開。楊儀らをなんとしてでも排除しようと行動します。
しかし、大義名分を得ていた楊儀らに正当性で勝てるはずもなく、その下にいた王平(オウヘイ)が「丞相の遺骸の冷めないうちから何をやっている!」という一括によって、魏延の軍勢は動揺、そのまま霧散してしまいます。
とうとう完全に居場所がなくなってしまった魏延はそれでも奇跡を信じて漢中に逃げ込みましたが、楊儀の命令を受けて追跡してきた馬岱(バタイ)によって打ち取られ、その後一族も裏切り者の一家として皆処刑されてしまったのでした。
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人物評
三国志を編纂した陳寿は、魏延についてこう評しています。
勇猛を以って任じられ、尊重された。しかし、その冤罪をかぶっての最期は身から出た錆であった。
同時に陳寿は、以下のようにも史書に記述を残しています。
魏延は裏切るつもりなら魏に降伏するだろうし、そうせず楊儀らの撤退を妨害したのは、ただ楊儀を排除したかっただけだった。常日頃から諸将から同意を得られなかった事もあり、「今こそ諸葛亮に代わる存在に」という気持ちがあったからに他ならない。
つまり、裏切り者としての最期を「自業自得」と断じながらも、裏切りそのものに関しては否定的な見解というわけですね。
実際に魏延は剛直で扱いづらい様子が史書にも多く語られています。
剛直で勇猛な性格で諸葛亮らに頼みにされていた反面、高慢でプライドが高い人物だったのですね。
「士卒を良く養成して勇猛だったうえに誇り高く、そのため多くの士卒は彼には逆らわず避けて通っていた」
史書にもこんな1文があり、魏延の日頃の様子を物語っています。
また、費禕伝には楊儀との間柄について以下のような日常が記載されていますね。
会議の場で言い争いになれば魏延は刀に手をかけて脅し付け、楊儀は泣いていた。
こんな感じで、やはり仲は絶望的だった様子ですね。
「俺様がナンバー1だ」とも言わんばかりのこれらの動きは、どこかに関羽を彷彿とさせます。彼もまた仲間の裏切りによって命を落としましたが、後ろ盾のない魏延が似たような孤立を味わったときには、すでに守ってくれる人などどこにもいなかったのです。
確かに自業自得であり弁論の余地もありませんが、一国を股に掛けた名将の最期としては余りにお粗末で、何とも言えない虚しさを覚えます。
メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻
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