馬超 孟起


このエントリーをはてなブックマークに追加

馬超 孟起

 

 

 

生没年:熹平5年(176)~章武2年(222)

 

所属:蜀

 

生まれ:司州扶風郡茂陵県

 

 

勝手に私的能力評

 

馬超 蜀 群雄 反逆者 猪突猛進 馬超→偽報 アンチ曹操連合会

統率 A+ 色々と難しい関中連合を率いて曹操と戦いあと一歩まで追い詰めた。が、その他にそれっぽい記述は無し。意外にも、手持ち以外の兵を率いるのは苦手だったのかもしれない。
武力 S 曹操軍に奇襲突撃をかけて追い詰めたあたりは、さすが西涼のヴァモーキ。ちなみに勢力圏が西涼どころか東の司~雍州なのは突っ込んじゃいけないお約束のようだ。
知力 D+ 曹操軍奇襲を成功させるあたり軍略はあったのだろうが、行き当たりばったりな戦い方から頭のいいイメージはあまりない。
政治 D 統治の話はいい話も悪い話もまるで聞かない。まあ無難に内政はこなせたのだろうが……なんだろう、内政家としての馬超とか違和感しかない。
人望 B 西では屈指の名声を誇った名将。敵に回ったと知った劉璋が降伏を決めた。ただしネームバリューと行き当たりばったりな反乱のせいで、むかしから彼の人格がアンチによって全力で疑われまくっている。

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

馬超(バチョウ)、字は孟起(モウキ)。五虎将軍の一人にして、西涼の騎兵を率いる悲劇の将軍として知られていますね。

 

しかし正史では、悲劇の人から一変、しばしば「自業自得」として冷めた目で見られることもあります。

 

 

また、創作上で挙げられた五虎将軍の一人としても遜色ない力を持ちながらも、その力を発揮できる条件がなかなかシビアな、従前の力を発揮しづらい人物であるという点も、ある意味では悲劇かもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

蜀下の馬超

 

 

 

さて、馬超が基準を申し込むと、劉備は快く彼を迎え入れる準備をしてくれました。

 

馬超はそのまま劉備に迎えられ、軍を率いて成都に直行。劉備軍の包囲陣に加わることになったのです。

 

 

西涼での影響力こそ失ったものの曹操を苦しめた馬超のネームバリューは抜群で、彼が劉備軍に加わったと知ると成都に籠って防戦していた劉璋(リュウショウ)は即座に降伏。

 

劉備の蜀攻めの最後の1手は、猛将と名高い馬超の帰順となったのです。

 

 

もともと群雄であったという立場もあって、馬超は劉備によって征西将軍、そして以前と同じ都亭侯に任命。臨沮(リンソ)の地の統治を任されることになったのです。

 

 

 

そして建安22年(217)には、張飛(チョウヒ)らと共に漢中攻略の前哨戦となる下弁(カベン)の戦いに参加。しかしこの戦いは大敗北に終わったのもあって、馬超は目立った功績を立てることができませんでした。

 

 

後の建安24年(219)に劉備が漢中を占拠した際には、劉備の漢中王即位に際し、馬超は左将軍(サショウグン)に任命され、仮節(カセツ:軍規違反者の処罰権)が与えられました。

 

 

章武元年(221)、馬超は将軍職でもトップクラスの驃騎将軍(ヒョウキショウグン)に任命され、涼州に影響力を持っていたことが買われて涼州刺史に就任。

 

更なる期待を活躍されましたが、翌年には47歳で逝去。

 

臨終の直前に馬超は「一門は従兄の馬岱(バタイ)を除き、皆が曹操に殺されてしまいました。馬一族の長の座を馬岱に継がせてくださるなら、思い残すことはございません」と劉備に遺言しています。

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

人物評

 

 

 

三国志メディアの多くでは、正義や善の資質を持ちながら曹操によって一族を滅ぼされた悲劇の武将という立ち位置で出ることも多い馬超。
しかしその実像はここに描いた通りで、創作のキャラ付けと実像のギャップからとことん悪く言われることの多い人物です。

 

 

 

三国志を編纂した陳寿は、彼についてはこう述べています。

 

 

自身の武勇に物を言わせた結果、一族を破滅に導いたのは残念な事である。

 

しかし自身は窮地を脱して安泰を得たという結末を考えれば、まだマシなのではないだろうか。

 

 

 

一応旧主である劉備についたのもあって評価は幾分甘めではありますが、それでも一族を滅亡に追いやった自身の行動に関してはしっかりと言及されています。

 

 

また、当時を生きた人々からの評価も軒並み親族殺しの罪が述べられており、馬超に反旗を翻した楊阜からは「親族を見捨てて主君を裏切り、西涼関中の将兵を虐殺した」と酷評されています。

 

張魯が馬超に娘を娶らせようとしたときにも「身内も愛せない奴に他者を愛せるものですか」と部下に反発されたり、どうしようもない奴としての逸話を後世捏造されたりと、とにかく馬超に対する風当たりの強さが当時の評からうかがい知れます。

 

 

どうしようもない奴として馬超が書かれている逸話は、「山陽公載記」にあります。

 

同書によると、馬超は厚遇されたのをいいことに劉備を下に見て、「玄徳」と字で呼び捨てたとかなんとか。

 

これに対して怒りを覚えた関羽張飛は、会議の際に重臣である自分たちがあえて劉備の護衛として側に侍立することで劉備の尊厳をアピールし、反省した馬超はそれ以降劉備に敬意をもって仕えたとか。

 

 

上記の話は「荊州にいる関羽がここに登場するのもおかしいし、二人が侍立しただけで馬超が状況を理解して反省するのもあまりにニュータイプ過ぎておかしい」として、裴松之によって創作として断定されていますが……

 

ともあれ、こんな作り話が広まってしまうくらい、当時の馬超は親殺しとして白い目で見られていたのでしょう。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

馬超の武勇

 

 

 

さて、叩いてホコリを巻き上げるだけというのもアレなので、いったん馬超の武勇に関する逸話でも見てみましょう。

 

若い頃こそ閻行にボコボコにされたり負傷したりとなかなか振るいませんでしたが、独立勢力として動く際の馬超の武勇には目を瞠るものがあります。

 

 

絶妙なタイミングで曹操軍に強襲を仕掛けて曹操自身も戦死を覚悟するほどだったとあるように、上記の戦績だけで弱いと決めつけることはできません。たぶん閻行が頭おかしいくらい強かったんや

 

 

そして安定まで攻め込んだ曹操が別の反乱に備えて帰る際に、楊阜は曹操への忠言として馬超の危険性を以下のように訴えています。

 

 

「馬超は前漢の勇将である韓信や黥布のような極端な強さを持ち得ています。さらに羌族への影響力も強いため、警戒を緩めれば西域は再び馬超に取られてしまうでしょう」

 

 

その行動を非難する楊阜も、馬超の武勇に関しては非常に高く買っていたのです。

 

 

 

また、荊州にいた関羽も馬超の武名には非常に強い嫉妬心興味を抱いており、諸葛亮に対して「馬超の強さはどれくらいだ?」と聞くなど、その影響力やネームバリューは並大抵の武将のものとは比較にならないほど高い物でした。

 

 

だからこそ劉備軍にも暖かく迎え入れられ、その知名度を買われて涼州刺史となり、ゆくゆく北へ目を向ける時にスムーズに統治が行きわたるための役割を期待されたのでしょう。

 

 

 

親殺しという儒教上の禁忌を犯しながらも圧倒的武名もあって生き永らえて重宝され、最期にはそんな自分への責め苦とも後悔ともとれる言葉を残した馬超。

 

その胸中はいかほどのものだったのでしょうか?

続きを読む≫ 2018/04/13 21:03:13

 

 

 

 

父の元で

 

 

 

馬超の父である馬騰(バトウ)は後漢の黎明期に対異民族で名を上げた名将の子孫で、もともと涼州始め西国に強い影響力を持った人物でした。

 

彼は西涼に乱立する軍閥のひとつとして軍を率い、韓遂(カンスイ)始め有力軍閥の反乱に際し鎮圧軍として戦ったり共に反乱軍として戦ったりと激動の人生を送りましたが、西涼出身の董卓(トウタク)が都の実権を握ると彼に帰順したのです。

 

 

その後馬騰は偏将軍(ヘンショウグン)、董卓死後にその後を継いだ李傕(リカク)らに恭順すると征西将軍(セイセイショウグン)に就任するなど、董卓軍中で大きな存在となっていきます。

 

が、李傕が許せなかったのか西涼軍閥の血が騒いだのか李傕らと袂を分かち長安を攻撃。この攻撃は失敗しますが、そこからしばらく、馬騰は再び独立した群雄の一人として行動することになりました。

 

 

 

さて、馬騰の話ばかりになりましたが……この時の馬超の動きは『魏略』に1回だけ描かれています。

 

というのも、韓遂と対立していた時、馬超は韓遂軍の猛将:閻行(エンコウ)と一騎打ちになったのです。

 

 

結果は……見るも無残な惨敗。矛を突き立てられ、首を柄で思いっきりぶん殴られで死にかけたとあり、力が未成熟なのもあってか若い日はあまり芳しい戦績を残せなかったようですね。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

 

人生のキーパーソン・曹操

 

 

 

 

さて、そんな混沌とした西涼に、とある人物がやってきました。

 

曹操軍の幕僚である鍾繇(ショウヨウ)。

 

 

彼は独立して誰につくでもなく暴れ回っていた馬騰ら軍閥に曹操への帰順を提言し、その利害を細かく説明。これを受けた馬騰は曹操に味方することにし、馬超はこの時、曹操への援軍として幷州の郭援(カクエン)、高幹(コウカン)ら反曹操の軍勢を打ち倒すべく奮戦したのです。

 

馬超はこの時足に矢を受けて負傷しますが、袋を括りつけて応急処置を施すとすぐに戦線に復帰。

 

精強な西涼の兵たちは勢いのままに敵に攻め上がり、ついに敵大将の一角である郭援(カクエン)を討ち取ることに成功したのです。……部下の龐徳(ホウトク)が。

 

 

まだまだ馬超の戦績は輝かしいとは言えず、確かに非常に強い人物のはずですが、この時までは今一つ精彩に欠いていたのは間違いありません。

 

 

 

しかし、ここまで仲良く同盟関係を築いていた韓遂との間柄がこじれてくると、馬超にも転機が訪れます。

 

 

これを好機と見た鍾繇が韋康(イコウ)なる人物を使者に立てて、両者の仲裁を開始。

 

これで何とか韓遂と和解した馬騰でしたが、なんとここで曹操軍から「うちで保護してる漢の帝の護衛官として仕えてほしい」という打診が来て、馬騰はこれを受諾したのです。

 

 

こうして馬騰は一族の多くを引き連れて曹操影響下の都に向かい、その軍閥のトップは馬超が継ぐことに。

 

 

本人の思いのほどは知る術もありませんが……こうして軍閥のトップに立った馬超の器は、幸か不幸か最悪に近い状況でその真価を発揮することになるのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

叛逆の貴公子

 

 

建安16年(211)、曹操が西の張魯(チョウロ)に討伐の目を向けたことで、西涼の諸軍閥に激震が走ります。

 

曹操はこのまま、自分たちも平らげてしまうのではないだろうか?」

 

そんな不安が、西涼の間で瞬く間に広がったのです。

 

 

 

馬超もまた曹操に一抹の不安を抱いており、父と複雑な間柄であった大軍閥の長・韓遂と結託して反乱を決意。

 

危機感を覚える西涼軍閥の諸将を連合して反曹操の旗を上げ東進し、洛陽にも近い潼関(ドウカン)にて曹操軍とぶつかることになったのです。

 

 

 

精鋭部隊の連合軍を前に曹操軍は正面対決を避けようと考え、黄河を挟んだ北側へ向かって軍を転進します。

 

そして曹操軍が次々と渡河していき、最終的に殿軍となった曹操本隊だけが河を挟んで孤立した時、馬超はすかさず精兵をまとめ曹操軍に強襲をかけたのです。

 

 

渡河の途中に攻め込まれた曹操軍は混乱し、臨戦状態にあった兵も極端に少なかったこともあって、馬超軍は曹操を圧倒します。

 

 

最終的には近くにいた許褚(キョチョ)の懸命の護衛や丁裴(テイハイ)なる将校のとっさの機転もあって、曹操は馬超軍から逃げおおせることが出来ましたが……この時、曹操自身もあわや討ち取られる寸前まで追い詰められており、曹操が味わった窮地のうちの一つとして名が挙がっています。

 

 

 

ともあれ、曹操を討ち漏らした馬超らは一転劣勢に立たされます。

 

堅守する曹操軍を突破することも誘い出すこともできないまま、事態は膠着。ここで、曹操によって会談の場が設けられたのです。

 

 

両者護衛もほとんどつけずに会談に臨むこととなり、馬超は「ここで曹操さえ捕らえれば……」と一縷の望みをかけてこの話を承諾。

 

しかし当日、曹操は許褚を連れて会談の場に姿を現したのです。

 

曹操だけならまだしも、許褚のような猛者まで相手にしたのでは、さしもの馬超にも勝ち目は無し。結局馬超の望みも水泡に帰し、この会談は終了。

 

 

さらにはその後曹操は韓遂とも1対1での階段を行い、馬超らの疑心を誘発。急造の連合軍でありながら敵の大将と会って話したことが仇になり、連合軍中では疑心暗鬼のあまりお互いを信用できなくなってしまったのです。

 

 

これによって戦いは大敗北。都にいた馬騰ら一族もことごとく連座して処刑されてしまいました。

 

馬超は一度涼州に撤退することを余儀なくされ、曹操も好機と見て涼州近くの安定(アンテイ)まで敵を倒しながら進軍。その過程で西涼の連合軍も大きく力を削がれ、お互いの連携が取れない状態にまでなってしまいました。

 

 

しかし馬超の闘志は未だに尽きず、次の機会をうかがっていたのです。

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

最後の叛逆

 

 

曹操軍の猛攻により滅亡も間近となってしまった馬超でしたが、ここで再びチャンスが馬超に訪れます。

 

なんと曹操領でも異民族反乱が発生し、曹操が帰還。腹心の夏侯淵(カコウエン)が西涼討伐を引き継いだことにより、わずかながら軍にほころびが生じたのです。

 

 

馬超は再起のために異民族を糾合し、再び軍を率いて蜂起。自身の影響力を駆使して多くの郡県を反乱に呼応させ、ついに対西涼の本拠の一つである冀城(キジョウ)を占拠。涼州刺史の韋康らを殺してその軍を吸収し、群雄として再び立ち上がったのです。

 

 

こうして再び曹操と敵対する力を得た馬超。しかし糾合した曹操軍には韋康を慕う者も多く、彼らによって逆に反乱の計画を裏で練り上げられていたのです。

 

そしてとうとう、楊阜(ヨウフ)ら韋康の旧臣が反馬超の兵を挙げて謀反。馬超はこれを鎮圧するために兵を動かしましたが、なんと本拠にしていた冀城でも反乱が発生し、曹操軍はまたたく間に冀城を占拠。

 

城門が固く閉ざされたことによりいよいよ居場所を失った馬超は、やむなしと戦いを切り上げて漢中の張魯(チョウロ)の元へ逃走。

 

 

後にもう一度兵を挙げ、張魯からも兵を借りて西涼奪還を計りますが、曹操軍の堅守の前にやむなく撤退。すでに西涼には、馬超の居場所は無くなってしまっていたのです。

 

 

さらには、度重なる失敗によって張魯軍の馬超を見る目も変化。張魯は曹操への反攻に消極的になっていったのもあり、馬超は漢中からも逃げることになり、ちょうど益州の成都を包囲している劉備の元へと落ち延びることにしたのです。

続きを読む≫ 2018/04/12 23:56:12
このエントリーをはてなブックマークに追加

ホーム サイトマップ
お問い合わせ