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孫堅が伝国の玉璽を手に入れたとかいう胡散臭い話について

 

 

 

三国志の一国・呉の人的礎を築き上げた人物、孫堅(ソンケン)。

 

本音はどうあれ表向きは漢帝国の忠臣として国家に忠義を尽くしていた孫堅ですが、そんな彼にもかなり黒い噂があります。

 

 

それが、伝国の玉璽(ギョクジ)と言われる国家最大級のお宝を見つけ出し、あろうことかこれをパクって持ち逃げしたというもの。

 

 

いかにも胡散臭い話ですが……今回は孫堅伝に載っている説話を追ってみたいと思います。

 

 

 

 

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そもそも玉璽って何?

 

 

 

璽というのは、言ってしまえば高い身分にある人が公的文書に使うための印鑑のようなもの。その材質には身分で完全に区切りが付けられ、低い身分から銅、銀、金、玉の順にグレードアップしていきます。

 

つまり、玉璽というのは国のトップが使う公文の印綬というとんでもない代物なのです。

 

 

当然、当時は厳格な身分制度が敷かれており、それこそ衣服の材質から色、姿格好まで身分によって完全に制限されていました。

 

 

そんな中、たかが1将軍にすぎない孫堅が皇帝専用のシロモノを持ち出したのだから、これが本当なら処刑必至の反逆行為です。

 

ましてや孫堅が持ち去ったのは伝国の玉璽。これははるか古来から歴代の皇帝が持っていたというまさに伝説のアイテム。この世に唯一無二の宝にして、「これを持つ者は次期皇帝と決まっている」とすら言われるような物だったのです。

 

 

この玉璽は、董卓(トウタク)によって都が焼かれた際に他の宝ともども紛失したと言われていますが……そんな失われた宝にはあらぬ噂が付き物。「孫堅が玉璽を得た」という話は、そんな噂が大きくなって歴史書に記載されるほどになったものなのですね。

 

 

 

 

 

呉書「井戸から拾ったよ!」

 

 

 

こんな話が出回った大方の原因は、呉を正当な王朝として描かれた呉国の伝記・『呉書』の記述にあると見ていいでしょう。

 

 

孫堅はすでに焼き尽くされて廃墟となった洛陽(ラクヨウ)に一番乗りし、漢王朝の王室を祀る廟を丁寧に掃除、その凋落と都の変わり果てた姿を悲しんでいました。

 

 

さて、そんな折、孫堅軍が駐屯していた付近にある井戸から、突如として五色の不気味な煙が立ち込めます。しかもその煙は、毎朝のようにモクモクと噴出するばかり。兵たちは井戸を気味悪がり、それ以降そこの井戸水を飲もうともしなくなりました。

 

この事態を怪しんだ孫堅は、ついに井戸の捜索を開始。孫堅軍の兵士は井戸に潜って、その煙の正体を突き止めようとしたのです。

 

 

こうして捜索が始まってしばらくとしないうちに、ついに煙の正体が明らかになります。その煙は、かつて内乱の折に官吏によってその井戸に捨てられた伝国の玉璽。孫堅はとんでもないものを見つけてしまいました。

 

 

 

 

江表伝「屋根の上で見つけたとかほざいて偽物よこしてきたよ」

 

 

 

一方、『江表伝』によれば、「呉の主張によれば、6つの伝国の玉璽と思しき印を見つけたらしい」という事が書かれています。

 

後に呉が滅んだ時、伝国の玉璽を晋に返そうとします。が、この時に晋に送られた印綬はすべて黄金製の御璽。その中に玉でできたものはひとつもなかったため、結局は偽物だと判明したとか何とか。

 

 

 

しかし、虞喜の著した『志林』では、以下のような言葉が書かれています。

 

伝国の玉璽は、晋に返還された6つの御璽とは別物。それらを一緒くたにして孫堅と玉璽の話を嘘と決めるのは早計だ。

 

さらには「返還された6つの御璽に書かれた文面は、本物と一文字たりとも違いがなかった」とも述べています。つまり、偽物にしては巧妙に出来過ぎているという主張ですね。

 

 

 

ちなみにこれらに対する裴松之のコメントは、「漢室への忠誠が高い孫堅はそんなことしない!」というもの。孫堅の二心の有無はともかく、確かに黙っておくとはちょっと思えません。

 

 

 

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結局どうなのさ?

 

 

 

個人的には正直有り得ない話だと思いますが……この話の真相は残念ながらどうとも言い切れませんね。

 

『後漢書』には孫堅が拾ったのを通じ、紆余曲折を経て玉璽が許都に渡った旨の記述もあり、案外嘘と言い切れないのがまた難しいです。

 

 

ともあれ、呉が「玉璽を拾った」と大々的に喧伝する理由はなんとなく察しがつきます。

 

 

要するに、「自分たちの王朝を正当とするための大義名分」というのが、推測として妥当なところでしょう。

 

魏は漢王朝から正式な禅譲を受けた、本当の意味での後継者。蜀はそんな魏への禅譲を認めない、自称漢王朝の後継者。対して呉は、漢王朝も魏も否定して自分たちの王朝を作っていい理由はありません。

 

 

おそらく、そんな呉建国の理由の弱さを補うために、「孫堅が玉璽を拾った=呉が光景になるのは運命づけられていた」という理由を大々的にアピールしたのでしょう。

 

とはいえ、こうして玉璽を持ち帰ったアピールをするという事は、孫堅が裏で皇帝になる野心を持っていた逆賊という証左。これはこれで、孫堅の名誉的にアレな話ですが……

 

 

ともあれ、事の真偽はともかく、孫堅が伝国の玉璽を得た噂は当時からもあり、それを呉が大々的に喧伝して建国の大義名分にした。おおよそこの話がここまで広まった理由は、こんなところでしょう。

 

 

ちなみに『山陽公載記』によれば、この玉璽は袁術(エンジュツ)が孫堅の妻を人質に取って奪い取ったとかいうこれまた眉唾な話がありますが……これは後に「孫策が袁術の兵を借りるカタに玉璽を使った」という演義の創作の元になっていますね。

 

 


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