曹操のコンプレックス


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曹操のコンプレックス

 

 

 

 

外見はイマイチ

 

 

当時の人物評では、容姿に関してもかなり重要視されることが多いです。

 

つまり、風貌が立派=大物、あるいはその逆も然りと、見た目だけでその人の性格、器の大きさまで勝手に決められることもあったとか。まあ、この辺りは現代でも似たようなことが言えますが……

 

 

そんなわけで、英雄として破格の評価を受ける曹操はさぞや立派な容姿を持った美丈夫であろうかと思ってしまいそうなものですが……

 

 

意外なことに、不細工、背は小さいとあり、とてもではありませんが、見た目から入るような人物評では一切の評価されないであろう容貌だったそうです。

 

ちなみに正史三国志でも主要人物の容姿に関しては少なからず触れているものですが、曹操の容姿には一切言及されていません。この事から、風采が上がらなかったのは間違いないでしょう。

 

 

事実、曹操は見た目に相当コンプレックスを抱えていたようです。

 

 

 

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家柄にもコンプレックスが……

 

 

曹操が周囲からバカにされたり批難される際は、容姿よりもまず出自に関するものが多かったそうな。

 

というのも、曹操の祖父は「卑しい」とされる宦官であり、さらにはその宦官たちが周囲と実権を奪い合ったのが乱世の根源なので、もう宦官の孫というだけで周囲からは差別の対象であったのです。

 

 

実際に曹操が高官に上り詰めた時も、周囲の知識人は容姿とセットで馬鹿にされ、さらには袁紹(エンショウ)との開戦時に袁紹配下の陳琳(チンリン)という人がばら撒いた誹謗中傷文には、しっかりと曹操の家柄を言及した文があり、これによって曹操の怒りは頂点まで達したと言われています。

 

 

 

 

結果、清廉潔白な合理主義者に

 

 

というわけで、曹操は裕福な家ではあったものの、謂れのない理由で嫌われていた曹操はすっかりグレてしまって、官職に就く前は遊侠気取りで遊び放題。叔父に怒られても逆に罠に嵌めたという逸話すらも残るほどの、言ってしまえば不良少年になっていました。

 

祖父も自分のせいでグレてしまった曹操に引け目を感じたのか、受け取りたくもない金を受け取って曹操のために放出する始末。

 

 

この時、同じく裕福な名家ながらもイマイチ報われない系図に生まれた袁紹(エンショウ)なんかともつるんで遊びまわったらしく、信憑性は低いものの、二人で共謀して花嫁を強奪したなどという逸話も残っています。

 

まあ、これも一種の青春ですね。

 

 

が、このグレて遊び回るようになるほどの日々は曹操に恩恵ももたらします。

 

どうにも世俗の仲間に入れてもらえなかった曹操は、最終的には迷信や定観に捉われない視野を手に入れたのです。

 

 

実際に役人になってからは、商人が金儲けのために始めた怪しげな宗教を一切禁じたり、高官とつながっている汚職役人を批評覚悟で軒並み追放したりなど、当時の風説や風評に一切惑わされず本質を見極める洞察力と、周囲の批評や弾劾を恐れず行動する胆力を身に着けたのです。

 

これらは後に「求賢令」という身分を問わない登用制度を打ち立てるなど、当時の固定観念を徹底的に壊すような合理思想を以って、並み居る群雄を追い抜いて天下に覇を唱えるに至ったのです。

 

 

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秩序と正義の人・曹操

 

 

特に演義での悪玉系曹操を知っている人は、この見出しの文面に違和感を覚えるかもしれませんが……

 

特に若いころの曹操は本当に熱血漢というか、上に描いた通り、「自分の正義を実行するためには、それで利益を失う悪人の言葉は徹底して排除する」という、苛烈なまでの正義感を持った、清廉潔白な人物だったのです。

 

 

やはりこれには、宦官の出であるというコンプレックスが非常に強かったのでしょう。祖父の代から一般の宦官と違って善玉に徹していた曹家でしたが、曹操は特に、宦官とは強く対立していたのです。

 

 

当時は十常侍(ジュウジョウジ)という宦官グループが政権を実質的に牛耳っており、少しでも自分たちに歯向かう者には濡れ衣を着せて処刑するという有り様。『党錮の禁』として歴史書にも載っているこの一大粛清から始まる宦官政権によって、当時の反宦官の人たちは、死ぬ、疎開、押し黙って従うのいずれかを選択する必要があったのです。

 

 

そんな中で曹操は蹇碩(ケンセキ)という超有力宦官の叔父を法に従って処刑したり、宦官の専横を朝廷に訴えたり、任地で賄賂を受けている汚職宦官を一斉にクビにしたりと、かなりアグレッシブに反宦官の姿勢を見せています。

 

 

こういった動きにより、曹操は中央、ひいては官職からの撤退を余儀なくされるようになっていくわけですが……これらは悪玉として知られる曹操からは想像もつかないほどの『綺麗な』行動と言っても過言ではないでしょう。

 

 

 

曹操自身、やさぐれながらも人情家で熱血漢な性格でもあったのは間違いないですが……これらの徹底した潔癖ともいえる対応は、もしかしたらコンプレックスからくる宦官への反抗心の表れなのかもしれませんね。

 

 

 

 

曹操 コンプレックス チビ ブサメン 宦官

 

 

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