曹操 孟徳


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曹操 孟徳

 

 

生没年:永寿元(155)年~-建安25年(220)

 

所属:魏

 

生まれ:豫洲沛国譙県

 

勝手に私的能力評

 

曹操 乱世の奸雄 超世の傑 魏 三国志 チート ヘタレ 英雄

 

統率 S 人心掌握、戦争における兵の統率、どれも天下でも一級品。しかしながら、戦線が拡大して個人の手に余りだすと、途端に弱点が露呈していくことも……
武力 B 信憑性グレーゾーンには武勇伝も多く、重役の館に忍び込んだり屈強な丹陽の兵を数十人ぶった斬るなど普通に強い。
知力 S 頭脳も当代屈指のもの。孫子を自ら注釈して世に出した。袁紹ほどぶっ飛んではいないが、革新的手段を場合によっては実行できる柔軟さも持っていた。
政治 S- 法家思想に則った統治能力はさすがの一言。意外にも中庸寄りと力業が目立つが、求賢令や屯田など革新的なこともちょいちょいぶっこんでいる。
人望 S 敵は多いが味方も多い。ちょくちょく裏切られて痛い目を見ている辺り根はお人好しだったようだが、それが魅力の秘訣だろうか?ちなみに結構ヘタレ

 

 

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曹操(ソウソウ)、字は孟徳(モウトク)。

 

正直、彼のような大物は書くことが多すぎるので……複数のページに分けて事績や人物なんかを掲載していくことにします。

 

 

てなわけで、区分け必須の超大物第一号は、なんと言ってもこの人。知る人ぞ知る、英傑中の英傑ですね。

 

三国志の最強国家・魏の礎を作ったミスター三国志の片割れ(もう一人は諸葛亮)。個人的には三国志重要人物、ダントツの第一位。

 

諡は武帝。つまり、戦争に秀でた皇帝様、という事ですね。

 

さて、長々とここで話すのもアレですし……色々とその事績を辿ってみましょうか……。

 

 

 

 

※各項目にわかりやすく「曹操伝」と銘打ってますが、実際は「武帝紀」という名称です。通の方への言い訳として、一応記載……

 

 

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 1巻

 

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魏公へ……

 

 

 

潼関での戦いで馬超らを下した曹操ですが、相手は何人もの軍閥代表が集まった連合軍。余力はまだまだありますし、西域の民衆への影響力も未だ強大でした。

 

曹操はその後も西進を続けて連合軍の要所を攻略し、西の大都市・長安からさらに北部の安定という場所まで西進します。さらにそこで降伏してきた敵将は厚遇して元の領地の統治をそのまま任せるなど、なかなかに現地民の慰撫に苦労している様子がうかがえます。

 

 

翌年の建安17(212)年に一度帰還した際も、親族であり重鎮の夏侯淵を中心にした制圧軍を編成、向かわせている辺り、穏やかな情勢ではなかったのでしょう。

 

 

 

さて、為政者たるもの、曹操の仕事は戦争だけではありません。

 

領内に帰還した後、曹操は「特別権力者」として、朝廷内の振る舞いにおいて多大な特権を得て存在をアピール。そして自身の地盤固めのために、この辺りから領内の郡県の合併や再編成を開始。

 

 

建安18(213)年の正月には、再び孫権領に今度は東側のルートから侵攻し、完全な勝ちこそ得られませんでしたが将を一人捕虜にして帰還。

 

そして同年の5月、ついに曹操は魏公に任命され、漢帝国から独立した自身の領土を持つに至り、帝国内での自身の絶対的地位を確立したのです。

 

 

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陽平関の戦い

 

 

 

建安20(215)年の正月に、曹操は自身の娘を帝に嫁がせ、皇后とします。

 

 

そして3月、曹操は自ら軍を率いて西進。以前馬超らの反乱で中止になった張魯(チョウロ)の討伐を、再び開始します。

 

しかし、西域はまだまだ不安定。関中諸侯の多くも曹操との戦いに闘志を燃やし、周囲の異民族も不穏な動きを見せていました。

 

潼関の敗戦後再び反乱軍を起こした馬超は夏侯淵によって敗走。そのまま逃走したのですが、もう一人の大将である韓遂(カンスイ)は未だに健在。さらに異民族の氐(テイ)族も曹操に反発したため、曹操はまず氐族の平定を開始。

 

曹操軍の行く手を妨害する低人を打ち破り、氐王の竇茂(トウボウ)という人を撃破。

 

その後、なおも涼州で頑強に抵抗する韓遂が病死したことにより、関中諸侯の二代巨頭が崩壊。ようやく西方は落ち着きつつありました。

 

 

 

さて、意外に時間がかかった張魯への侵攻。結局、張魯が割拠する関中への攻撃を開始したのは、7月。張魯征伐を始めてから4ヶ月も後のことでした。

 

 

この時張魯軍は北の陽平関という関を巨大な城砦にしており、弟の張衛(チョウエイ)を主軸とした主戦派は、この陽平関を固めていました。

 

そのため、曹操軍の侵攻は難儀を極め、正面突破は不可能と断定し、軍を引き上げることにしました。しかし、実はこの選択こそが、漢中平定の大きなカギとなったのです。

 

というのも、曹操軍を撃退した事で、張衛の軍勢には油断が生じ、警戒を解いたのです。それを見た曹操は夜襲部隊を編成し、陽平関を奇襲。

 

 

これにより敵をことごとく打ち破り、張魯軍の主戦派を一掃。張魯も降伏し、漢中一帯を手に入れ、益州を得た劉備に蓋をすることに成功したのです。

 

 

 

ちなみにこの一戦にはもう一つ説があります。

 

曹操軍の高祚(コウソ)という将が先鋒として山頂に陣を張っていたのですが、曹操の撤退命令を聞き入れて撤退するさなか、それが夜中であったせいで道に迷い逆走

 

高祚軍から逃げていた数千頭の鹿と共に張衛の陣に迷い込み、さらにパニックに陥って軍太鼓を鳴らしたことで、張衛の軍勢は全軍が恐慌状態に陥り、その様子を見て慌てて攻めてきた曹操軍に成す術なく敗走したというものです。

 

 

何ともお馬鹿な話ですが、あろうことか曹操軍の参謀である董昭(トウショウ)がこの話を持ち出した記述があり、嘘とも言い切れない部分も多かったり。

 

 

 

 

 

魏王・曹操

 

 

さて、そんなこんなで張魯を下した曹操。従軍していた参謀の司馬懿(シバイ)や劉曄(リュウヨウ)らはこのまま勢いに乗って、蜀を得たばかりの劉備を攻撃するよう進言しますが、曹操はこれを却下。

 

八月には合肥の戦いが繰り広げられ、孫権軍が撃退されることになり、その翌月には益州巴郡の豪族の一部が曹操に帰順しました。

 

 

そしてまたしても、曹操の皇帝内での権限が増加。諸侯や国相といった重大人事を、ある程度独断で行えるようになったのです。

 

 

そして翌年の建安21(216)年。ついに曹操は帝から王の位を授かり、鄴(ギョウ)を本拠地に魏王国を設立。自身を王とする国を得たのです。

 

 

当然漢帝国は未だに健在。扱いの上では漢帝国の複数ある国のひとつといったところですが……それでも、破格の権力を握ったことは間違いありません。

 

この一大イベントを聞きつけた北方の異民族も、こぞって曹操に挨拶に来ました曹操の剛柔あわせた対応によって、異民族も懐柔し、ついに敵は南にほぼ限定されたのです。

 

 

建安22(217)年には、再び揚州の孫権領に侵攻。ここでも頑強な抵抗に遭い一時期は不利な展開が続いていましたが、曹操が本隊を率いて到着したことにより戦線は膠着。

 

敵軍の大将・孫権は潮時と見て和睦を申し入れ、一時的とはいえ、曹操軍の属国のような立場に甘んじることになります。

 

 

さて、とうとう敵は劉備のみに絞られた曹操ですが……ここからの道がまた、茨が敷き詰められた危険な道だったのです。

 

 

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曹操、官軍になる

 

 

さて、そんなこんなでやっとのこと呂布を追っ払った曹操ですが……今度は領地の西の方が騒がしくなってきます。

 

というのも、董卓の跡を継いだ李傕(リカク)と郭汜(カクシ)という二人が好き勝手しているのに嫌気がさし、後漢の皇帝が曹操領の近くまで逃げてきたのです。

 

 

曹操荀彧や程昱といったおなじみの参謀陣の助言を受け、皇帝の保護を決意。

 

手始めに、領地のお隣である陳(チン)国に割拠している、袁術の息のかかった相・袁嗣(エンシ)を攻めて降伏に追い込みます。
その後で血族である腹心の曹洪(ソウコウ)を派遣し保護させようとしますが、ここでアクシデントが発生。

 

なんと、皇帝直属の将軍である董承(トウショウ)が袁術と手を結んで曹洪と敵対。曹洪も一番偉い皇帝様を乱暴に連れていくわけにもいかず、両軍は睨み合いの膠着状態に。

 

さて、そんな裏で、敵である袁術……からその部下であった孫堅派のお近づきとなった黄巾軍を打ち破ることで帝から直々に将軍の位を頂戴した曹操

 

ここに来て、自ら皇帝を追い、かつての都であった皇帝の避難先・洛陽に突入。勝手(?)に護衛していた楊奉(ヨウホウ)らを追っ払って、自ら帝を保護します。

 

 

さらにはリベンジに軍を率いてきた楊奉らをヒラリとかわし、ついに官軍としての錦の旗を手に入れたのです。

 

 

ちなみにこの時、青州軍の増員やゴタゴタで食糧難という事情を抱えていた曹操軍。これを解決するために韓浩(カンコウ)、棗祗(ソウシ)が屯田制の実施を提唱し、はじめは渋っていたものの結局は採用、試しに首都近郊に屯田を展開することになりました。

 

しかしこれがなかなかうまくいき、屯田を各都市にも開くことで、曹操軍の食糧難は年を追うごとに解決。略奪がメインだった当時の兵糧事情をほとんど解決させたそうです。

 

 

 

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劉備と第四のトラウマ、張繍

 

 

 

 

こうして無事に漢帝国のための軍という大義名分を得た曹操軍。そこに意外な人物が転がり込んできました。

 

三国志の主役として名高い、劉備(リュウビ)。

 

劉備は前年、曹操の親の仇である陶謙から徐州を譲り受けていましたが、兗州を追い出された呂布の襲撃を受けて徐州から逃げてきたのです。

 

 

程昱は劉備の実力と野心を見抜き、「危ないことになる前に殺しましょう」と物騒な提案しましたが、曹操はこれを拒否。こうして曹操は、一時的とはいえ劉備を仲間に迎え入れたのです。

 

 

また、曹操勢力の南西に位置する荊州南陽(ナンヨウ)郡では、流れ矢によって死んだ董卓重臣の甥である張繍(チョウシュウ)が軍勢を率いて駐屯していました。

 

董卓の精鋭となれば、放っておいては危険な存在。曹操は張繍討伐のため南陽の宛(エン)に進軍し、張繍を降伏させて味方に引き入れることにしました。

 

 

……が、この降伏が、曹操に徐栄、青州軍、呂布に続く第四のトラウマを植え付けることになったのです。

 

 

というのも、この降伏は実は罠(と言いつつも行き当たりばったり説あり)。すっかり油断していた曹操は突如叛逆した張繍軍に惨敗し、息子の曹昂(ソウコウ)、甥の曹安民(ソウアンミン)、さらには優秀なボディガードであった典韋(テンイ)らを軒並み失ってしまいました。

 

実はこの張繍の叛逆、曹操が董卓重臣の元妻の美貌に惚れて、それを知った張繍がキレたとかいう話なのですが……

 

この事件のせいで自身の万一の跡取りや血族らをまとめて失い、さらに曹昂を生んだ第一夫人からは離婚&完全な絶縁を求められ、曹操も泣く泣く妻と縁を切ったという悲惨な結末。何にせよ、この戦いで曹操は名声、および精神に深い傷を負ったことでしょう。

 

 

曹操はすぐにリベンジマッチを果たし、張繍を荊州の主・劉表(リュウヒョウ)の元まで叩き出すことに成功しますが、この時に失ったものはその勝利以上に大きいものだったでしょう……。

 

ちなみに張繍は後に曹操の元に戻り、参謀の賈詡(カク)ともども心強い味方になってくれるのですが……それはまた後のお話。

 

 

 

さて、今度は袁術が再び曹操の領地に侵攻。いつも通りの安心感です。

 

この時の袁術は何を思ったのかタカを括っていたようで、「曹操自身が来るわけないさ」とでも思っていたのでしょう。

 

 

しかし、曹操は自ら軍を率いて出陣。袁術曹操自身が来たと聞くと血相を変えて逃亡していきました。

 

袁術が帰った後に軍を任されていた橋蕤(キョウズイ)始め主だった将軍は全員曹操軍の剣の錆となり、まとめて討ち取られたのです。さすが袁術、安定の弱さ

 

その後も張繍や反乱組織に散々悩まされる日々が続きますが、それでも連戦連勝し、これらを無事に撃退し続け、一気に広がった勢力もようやく安定に差し掛かりつつありました。

 

 

 

 

 

呂布に引導を!

 

 

 

建安3(198)年、すっかり宿敵の一人となった張繍を城に追い込み、ようやく決着かと思った矢先、張繍の雇い主となっていた劉表が張繍に対して援軍を派遣。さらに張繍軍も退路を断つように背後に回り込み、攻めるも退くもできなくなった曹操軍は窮地に陥ります。

 

そこで曹操は一計を案じ、夜のうちに軍内を細工。曹操自身が慌てて一人で逃げ帰ったと思いこませ、追撃に来た敵を伏兵を用いて散々に打ち破り、見事に撤退に成功しました。

 

 

さて、しばらくは徐州でおとなしくしていた呂布ですが、ここに来て袁術と和解し、曹操の味方である劉備を攻撃。曹操は腹心の夏侯惇(カコウトン)を援軍に送りますが、やむなく敗退します。

 

 

そして9月、曹操は自らの手で呂布に引導を渡すことを決意。呂布の居座る徐州を目指し、軍を率いて進軍します。

 

まず手始めに近隣の城を一気に攻め落とし、さらには迎撃に来た呂布の軍勢も撃破。まともに戦っても勝ち目はないと見た呂布は堅城であった下邳(カヒ)城に籠城。戦争が長引き、曹操軍も疲れの色を見せ始めました。兵もすっかり疲れ切り、撤退を視野に入れ始めます。

 

しかし、そこで待ったをかけたのが戦争に特化した軍師である郭嘉(カクカ)、そして荀攸(ジュンユウ)の二人でした。

 

 

二人の軍師の策に従い、曹操軍は下邳城に対して大規模な水攻めを敢行。これにより呂布軍の籠る城内は冠水し、士気が激減。一ケ月後には重臣たちの一部が降伏し、呂布やかつて裏切った参謀・陳宮らをひっ捕らえられて曹操の面前に引っ立てられました。

 

当然、散々曹操軍を騒がせた連中が生かされるはずもなく二人とも処断され、こうして曹操は宿敵の一人に引導を渡すことに成功したのでした。

 

 

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内憂外患

 

 

孫権を大人しくさせて魏王となり、いよいよ残る敵といえば、南西の益州にて寄る辺を得た劉備のみ。

 

劉備さえ倒してしまえば孫権もまともな抵抗ができないでしょうし、周辺の異民族とは比較的友好関係。その場で天下は決まるといっても過言ではありません。

 

対する劉備もそれをよく理解しており、ひとまず曹操の侵攻に蓋をするため、益州北部の漢中奪取を目論みます。

 

さらに天下が近いとはいえ、赤壁での失敗や西涼の部隊を相手取っての苦戦、地元の豪族との対立などもあり領内も落ち着かない様子。下手をすれば、劉備に付け入る隙を与えてしまう事にもつながりかねない状態でした。

 

 

 

まず動いたのは劉備。歴戦の勇将であり義弟の張飛(チョウヒ)、そして因縁の相手で、劉備の元に逃げ込んでいた馬超(バチョウ)を曹操領に派遣します。が、これは一族古参の将・曹洪(ソウコウ)らにより撃退に成功しました。

 

 

が、この劉備軍侵攻と並行し、建安23(218)年正月、領内で反乱が勃発。これもまた鎮圧には成功したのですが、漢の新しい都・許都が反乱軍に攻められるという有様。喉元近くでも当たり前のように反乱がおこるほどに、曹操の領内は不安定な情勢が続いていたのです。

 

 

さらには劉備軍を撃退した翌月には、遥か北方の烏丸族が北端の郡と共謀して叛逆。曹操の四男・曹彰(ソウショウ)によってこれは鎮圧されましたが、劉備がまだ健在にもかかわらずこの有り様。曹家を覆う暗雲は、未だに晴れないままでした。

 

 

 

ともあれ、これで後方の安全を一応確保した曹操は、いよいよ劉備討伐のための軍を編制。自ら長安へ移り、劉備打倒に本腰を入れることになったのです。

 

 

しかしそんな折、劉備領とのもう一つの境になっていた荊州でも、不穏な煙が立ち上っていたのです。

 

というのも、荊州で宿将・曹仁(ソウジン)が敵の関羽(カンウ)と睨み合っていた時、曹仁の後方、宛の城で、城主の侯音(コウオン)という人物を中心とした守将らが反乱。翌、建安24(219)年の正月には鎮圧に成功します。

 

『曹瞞伝』によれば、この反乱は劉備軍の差し金とも言われていますが……何にせよ、敵を劉備だけに留めている間にも、これほどの反乱が頻発。

 

劉備軍の影響力がすごいのか、曹操の求心力がそこまで下がってしまっているのか……。

 

 

 

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定軍山の戦い

 

 

さて、そんな状況にも負けずに劉備討伐のため長安で指揮を執りますが、そんな曹操に凶報が届きます。

 

 

曹操古参の将にして漢中の守りを任されていた夏侯淵が、劉備軍に攻められ戦死。

 

 

劉備軍の総大将戦死を聞いた曹操は、すぐに軍を漢中に進め、劉備と直接相対します。

 

しかし、劉備は「今更来ても怖くなどない!」と豪語し、奪い取った漢中の要害を盾に不動の防御陣で曹操軍を待ち構えます。

 

 

一応いくつか小競り合いの記述は散見しますが、双方大した決定打もなく、戦線は膠着。

 

こうなってしまえば、数が多く拠点の大半を失った曹操軍が音を上げるのは必然。結局曹操は漢中を放棄し、劉備が益州支配を盤石な物にするのを許してしまったのです。

 

 

一説によれば息子・曹植(ソウショク)の参謀である楊脩(ヨウシュウ)が、曹操の「鶏肋」という言葉を深読みして撤退準備を始めたとありますが……実際のところはどのようなものだったのか……

 

 

 

 

 

関羽の猛攻

 

 

さて、対劉備の勢いをそがれた曹操は、続けて劉備と連動して動いていた関羽の対応に追われることになります。

 

というのも、当時の対関羽戦線の大将である曹仁の軍勢は敵よりも少数。しかも相手は無双の猛将関羽であり、苦戦は免れない状況だったのです。

 

 

曹操はすかさず、将軍の于禁(ウキン)を曹仁救援に派遣。しかし折悪く長雨にさらされていた川が一気に氾濫。于禁の軍勢は大洪水に巻き込まれ、陣地は水没。さらに全く身動きが取れなくなったところを関羽に攻められて降伏し、そのまま捕虜となってしまったのです。

 

于禁軍壊滅の報を受けた曹操は愕然とし、自ら援軍を率いて向かうところまで考えたとか。

 

9月にはまたしても反乱の予定が発覚。この反乱計画は未然に防がれましたが、首謀者である魏諷(ギフウ)という人物を中心に、処刑された賛同者は数十人にも及んだとされています。

 

 

色々と問題はあったものの、10月にはおとなしくしていた孫権の協力を取り付けることに成功。さらに援軍として向かった徐晃(ジョコウ)が関羽を撃破したことにより、荊州の劉備軍は一気に瓦解。

 

逃げた関羽孫権軍の手で処刑され、ひとまずの安息を得たのでした。

 

 

 

 

奸雄、去る

 

 

漢中を失陥したものの、なんとか本拠失陥の危険を回避した曹操は、建安25(220)年の正月に、かつての漢の都・洛陽に帰還。孫権によって届けられた関羽の首を手厚く葬りました。

 

しかし、もう曹操に残されたときは無いに等しく、同月の23日。洛陽にてそのまま、66歳で世を去ったのです。

 

その葬儀は、至って簡素なものだったとされています。

 

というのも、曹操自身、遺言として

 

「天下も定まっていないのに派手な葬式など必要ない。葬式が終われば皆、喪服を脱げ。官吏は仕事に励み、任地で兵を率いる者はその場を離れるな。金品財宝などを墓に入れる必要もないし、服も平服で構わん」

 

 

と遺していたのです。最期まで古いしきたりに捉われない、乱世の英傑に違わない思想ですね。

 

 

そんな曹操の評がこちら。

 

後漢末は乱世で、多くの群雄が立ち上がった。とりわけ袁紹(エンショウ)の力は強大で、領土も豊かで兵も多く、精強だった。

 

しかし曹操は策をめぐらせて部下を叱咤激励し、古代思想家の考えや古の名将の軍略をものにした。

 

才あるものは官職に取り立て、人々の能力に見合った仕事を与え、感情ではなく合理的な計算に基づき人を任用し、身分や過去を問題にしなかった。

 

 

これほどの大事業を成し遂げたのは、ひとえに本人の知略が最も優れていたからに他ならない。

 

まさに非凡な人物、時代を凌駕した英傑である。

 

 

 

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   【曹操伝晩年3】劉備との戦いと最期   【曹操伝晩年3】劉備との戦いと最期

 

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赤壁の戦い

 

 

 

建安13(208)年正月、曹操はいよいよ天下を平定すべく、南方勢力の平定を決意。玄武池という池を、旧袁紹軍本拠地の鄴(ギョウ)に作り、大規模な水軍の訓練を開始しました。

 

 

そして半年後の秋7月、ついに劉表が治める荊州を目指して南下を開始。

 

劉表はかつて袁紹と組んで曹操に敵対し、仇敵の間柄にあった張繍を匿っていた怨敵。

 

また、現在は曹操に反旗を翻した宿敵・劉備を対曹操の最前線に配置し、曹操軍を撃退するなど抗戦の構えを見せており、戦う理由は十分です。

 

 

そんな完全な敵性勢力だけあって、誰もが一戦交える覚悟をしていましたが、翌月の8月には劉表は病死。劉備は相変わらず前線に立って戦う姿勢を見せていましたが、跡を継いだ劉琮(リュウソウ)は曹操に勝ち目無しとして、翌月にはあっさり降伏。

 

戦いに備えていた劉備は足場を失って南方に逃亡していきました。

 

 

曹操は、予想以上にすんなりと荊州を手にする事が出来たのです。

 

荊州とそこに属する名士を一斉に配下に取り入れた曹操は、当時益州を治めていた劉璋(リュウショウ)も外交で屈服させ、劉備、そしてその背後にいる孫権に敵を定め、ほとんど盤石の状態で一大決戦、後に言う赤壁の戦いへと臨んだのでした。

 

 

が、結果は見るも無残な大敗北。訓練だけで実戦のない水軍での戦いに苦戦した上、頼みの荊州水軍も疫病によって行動不能に。さらには曹操軍本隊にまで病気が蔓延し、まともに戦えない状態に陥りました。

 

その上で劉備への援軍に駆けつけていた孫権軍の将軍・周瑜(シュウユ)及び黄蓋(コウガイ)らの火計に遭い、敵の何倍という兵力差を覆され、命からがら逃げ延びる羽目になったのです。

 

 

数年前に袁紹に与えた大敗と似たような敗北を余儀なくされた曹操は、やむなく南下を断念。これが劉備に独立の猶予を与えてしまい、天下統一の機会を実質的に逃してしまったのです。

 

また、一方面の戦いでの敗北といえどもその名声に傷がついたのは確かな様子で、以後曹操軍は「無敵」の看板を失い、後々領内の反乱や分裂危機にも苦しめられるようになっていきました。

 

 

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銅雀台を建設

 

 

 

手痛い敗北から数か月後の建安14(209)年3月、曹操は地元の根幹地・譙(ショウ)で軽快な船を使った水軍の訓練を開始。その後孫権との領土の境である合肥に進み、孫権軍を牽制する動きを展開します。

 

そしてその末には、赤壁の敗戦を思い出し、ある布告を出しました。その布告とは、

 

「あの戦いで疫病により多くの者が死んだ。もし死者を出した家がそのせいで生活難に陥っていたならば、国家で生活を保障するように」

 

とのこと。今でこそ珍しくもない公的遺族年金ですが、当時それを実践する人物は決して多くはありませんでした。ある意味、感受性と繊細さを持っていたからこそ思いついた保障なのかもしれませんね。

 

 

 

さらに翌年、もう一つ新しい布告を発令。これは、曹操の人物像を象る上で欠かせない、現在では有名な物となっています。

 

「天下は未だに安定しない。今こそ身分に囚われず、有能な者を登用すべき時である。才能のみを基準に、下賤の地位にあっても構わんから、能ある者を取り立ててほしい」

 

最近では「求賢令」という言葉で、曹操を代表する姿勢となっている布告内容ですね。家柄と才覚を比例して考えるのが常識の当時では、考えられないくらい斬新な人材登用だったと言われています。

 

 

そしてその冬になると、袁紹を破って以来、袁紹の本拠地であった鄴で建造を進めていた銅雀台(ドウジャクダイ)なる宮殿がついに完成。

 

高さ30メートルにもなる巨大な宮殿には、当時最高級の技術の結晶体で、赤壁に敗北してなおも、曹操の力が強大であることを表した建物だったのです。

 

 

それほどの宮殿を無事に建て終えてもなお、周囲の勢いはとどまるところを知らなかったようですが……それでも、この銅雀台によって、幾分威厳は保たれたことでしょう。

 

ちなみにこの銅雀台、213年には南に「金虎台」、翌214年にはの北に「氷井台」がそびえ立ち、長らく権力者の証として数百年の間、中国内でもたびたび詩の題材にされるほどの有名な建造物として君臨し続けました。

 

 

 

その後、息子の曹丕(ソウヒ)を自身の補佐として置いて、実質的に後継者に任命。

 

直後に叛逆した商曜(ショウヨウ)という人物を腹心の夏侯淵(カコウエン)らに討伐させた後、益州の北の玄関口・漢中を占拠した張魯(チョウロ)討伐軍を編制。この時に鍾繇(ショウヨウ)という人物が攻略に派遣されたのですが、この人選がまた新たな火種を呼ぶことになってしまったのです……

 

 

 

 

 

 

 

潼関の戦い

 

 

さて、意外なことに、はるか西の関中の諸侯……その代表格である馬騰(バトウ)や韓遂(カンスイ)らは、曹操がまだ盤石の勢力を持っていないころからの長い盟友でした。

 

その関中諸侯と曹操の間を常に取り持っていたのが、鍾繇だったのです。

 

 

しかし、その鍾繇が曹操の命で、西の勢力である張魯を討伐したことにより、友好的だった空気が一変。

 

曹操が掌握する朝廷の元に身を寄せていた馬騰に代わり全権を託されていた息子・馬超(バチョウ)は、鍾繇の西進を見て「次は自分たちが攻められる番か」と、曹操に疑念を抱いていたのです。

 

 

とはいえ、そもそも馬騰や韓遂の時代からして反逆的というか、相当にアレというかなんというか……。

 

関中は、元々人に反逆する気質の持ち主の寄り合い所帯だったと言えるかもしれませんね。

 

 

馬超は曹操に疑問を持った諸将と共に決起。曹操と袂を分かったのです。

 

 

関中諸将の反逆を知った曹操は、すかさず腹心の曹仁(ソウジン)を先発に討伐隊を派遣。潼関(ドウカン)という場所で両軍は対峙します。

 

自身もこの戦いに参戦し、徐晃(ジョコウ)、朱霊(シュレイ)といった武将を奇襲部隊として川を渡らせ、敵軍攻略の橋頭保を築かせます。

 

 

そして満を持して曹操も黄河を渡り本格攻勢に転じようとしたところ、これを察知してか馬超本隊が突如として襲撃。味方が次々と崩され、曹操本隊はパニックに陥ります。

 

ついには自身の命にすら危険が及んだところ、許褚(キョチョ)や張郃(チョウコウ)らの護衛や丁斐(テイヒ)という校尉の機転などもあって、命からがら渡河作戦を成功させたのです。

 

 

思わぬ奇襲に手痛い打撃を受けた曹操ですが、それで終わる彼ではありません。その後は夜襲に出てきた敵を得意の伏兵戦法で追い散らし、再び戦局を有利にすると、ここで参謀の賈詡(カク)の進言により必勝の秘策を実行します。

 

 

曹操が向かったのは、敵でありながら旧友ともいえる韓遂の陣地。今回の反乱のリーダーこそは馬超に譲っていましたが、実質的には二頭体制ともいえるほどの影響力の持ち主でした。

 

そんな敵大将の一人である韓遂に、あろうことか曹操は二人きりで昔話を持ち掛けたのです。結局曹操と韓遂は昔話に花を咲かせたものの、お互い軍事的な話は一切口にしませんでした。

 

が、この韓遂の行動は馬超らの猜疑心を駆り立てて、さらに曹操からあえて訂正のための文字消しばかりがされた書簡が届いたことで、馬超ら関中諸将の疑念が爆発。

 

 

結局関中の連合軍は馬超派と韓遂派の二派に別れてしまい、結束を失って大きく戦力ダウン。そこにすかさず曹操軍が猛攻を仕掛けたことで、この戦いは収束。馬超も韓遂も本拠地の雍・涼州に逃げ込んでいったのです。

 

 

これにより一時期の安定が訪れたように見えましたが……この関中の反乱もまだまだ終わったわけではなく、さらには近辺の異民族の動きも活発化。赤壁の敗北に端を発した求心力の低下は、まだまだ曹操を苦しめることになるのです。

 

 

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【曹操伝晩年1】天下にかけた大手が消える……   

【曹操伝晩年1】天下にかけた大手が消える……   【曹操伝晩年1】天下にかけた大手が消える……

続きを読む≫ 2017/10/04 13:37:04

 

 

 

 

前哨・劉備叛逆

 

 

呂布を破り、袁術ももはや虫の息という状況下。さらには漢帝を保護して官軍として意気上がる曹操軍。その勢いはすさまじく、つい数年前までは四方を敵に回していたとは思えないほどの隆盛を誇ります。

 

 

が、この曹操の台頭をよく思わない者がいました。

 

 

黄河の北に大勢力を築いていた袁紹(エンショウ)です。彼はほぼ身一つで華北の地に入り、謀略や戦争、領地の慰撫と、ありとあらゆる手段を駆使して、天下の一大勢力に成りあがってきた強豪中の強豪。曹操とは旧友といった間柄ですが、とても手心を加えるような人物ではありません。

 

名家の血筋があるとはいえ、ほとんど影響力のない状況から天下取りを始めた彼は、すでに冀州、幷州、青州、幽州と、漢帝国領の黄河以北をほぼすべて平定し、天下に最も近いと言われるほどの超巨大勢力へと昇華していたのです。

 

 

そんな袁紹が、曹操領を攻撃する構えを見せたのです。

 

 

天下の中心を有する大勢力の曹操軍も、純粋な国力では袁紹軍に遠く及びません。当然、袁紹との戦を前にして曹操軍はパニックに陥ります。

 

が、曹操は毅然として、自身と袁紹の大将としての器や軍の統率などを分析。

 

 

袁紹は志は大きいが知恵は足りない。威厳はあるが肝も小さく、兵も数ばかりで規律がハッキリしていない。将軍も偉そうにしてばかりで、政策にも一貫性がない。これではあの巨大勢力も、わしの物になるのは間違いない」と言い放ち、袁紹との開戦を決意します。

 

個人的な意見ですが、きっと曹操自身はこれほどの大言壮語を言えるほど自身があたわけではないでしょう。が、それでも立場や意見をはっきりするため、あえてビッグマウスを叩いたのではないかと私は推測します。

 

 

さて、そんなこんなはさておき、兵力に劣る曹操軍は機先を制すべく、まずは配下の于禁(ウキン)に領土の境となる黄河の流域を守らせ、臧覇(ゾウハ)に東側から青州を攻めさせ、袁紹領の城をいくつか攻め取りました。

 

そして本人は、いよいよ追いつめられた宿敵・張繍(チョウシュウ)の降伏を受け入れてから官渡(カント)に布陣。

 

 

この機に後顧の憂いを経つために、すでに虫の息で、怨敵であったはずの兄・袁紹に合流しようとしていた袁術(エンジュツ)に止めを刺しにかかります。

 

 

この時に派遣されたのが、陶謙(トウケン)討伐の際に袁紹から派遣され、そのまま曹操に鞍替えした朱霊(シュレイ)。そして、呂布討伐の折々で配下に迎えていた劉備(リュウビ)らでした。

 

 

しかし、その折に袁術は病死。軍は解散となります。

 

 

さて、こうしてフリーになった劉備は、いよいよ曹操に牙を剥くことになります。劉備は帝国直属軍の反曹操派である董承(トウショウ)と結託し、反乱を企んでいたのです。

 

まんまと旧領・徐州に入った劉備は、そこの長官である車冑(シャチュウ)を殺害し、独立。さらには曹操に派遣されてきた軍勢から徐州を守り抜き、撃退したのです。

 

荀彧(カクカ)、程昱(テイイク)らに劉備の危険性を説かれた曹操は慌てて劉備を追いかけたものの、結局間に合わなかったとされています。

 

 

さて、ここで劉備に盤石の態勢を取られてしまうと、曹操としても袁紹との戦いに専念できません。

 

そこで曹操は董承らを処刑すると、「袁紹を目の前にして迂闊に動くのは危険」といさめる諸将をよそに、劉備討伐の軍を自ら率いて徐州に侵攻。曰く、「袁紹は鈍いから動かない。しかし劉備は傑物だから、残しておくと後々苦労する」とのこと。

 

 

かくして劉備の軍を打ち破り、敗れた劉備は妻子を残して袁紹のもとに逃亡。

 

曹操は、劉備の妻子と彼の義弟・関羽(カンウ)を掌中に収めたのです。建安5年(200)の1月のことでした。

 

 

 

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白馬・延津の戦い

 

 

 

翌月の2月、ついに袁紹軍に大規模な動きがありました。袁紹は郭図(カクト)、淳于瓊(ジュンウケイ)、顔良(ガンリョウ)らを派遣して、前線基地となっていた白馬(ハクバ)を襲撃させます。同時に、自身も大軍を率いて黄河を渡る動きを見せていました。

 

曹操は参謀である荀攸(ジュンユウ)から策を預かり、まず白馬から数キロ離れた延津(エンシン)に布陣、楽進(ガクシン)や于禁(ウキン)といった一流の将を遣って袁紹を撹乱します。

 

 

曹操軍の渡河を知った袁紹は、兵を西にやって対応。まんまと囮に釣られてしまったのです。

 

 

袁紹が陽動に引っかかったと聞いた曹操は、すかさず軍を東に転進。通常の倍とも言われる速度の強行軍で、白馬の救援に赴きます。

 

驚いた顔良は慌てて迎撃軍を出しますが、張遼(チョウリョウ)や劉備軍から一時的に転身していた関羽らを先陣とした曹操軍本隊に圧倒され、あっという間に潰走。大将の顔良を討ち取ることに成功します。

 

 

顔良の戦死を知った袁紹は、続けて顔良と並び称される名将の文醜(ブンシュウ)に軍を預けて延津を攻撃。数えきれないほどの騎馬隊を率い、その威容は曹操軍を震え上がらせるほどだったとか。

 

しかし文醜もまた、輜重隊(兵糧などの輸送部隊)を囮とした策に引っかかり、軍が分散し陣が乱れたところを曹操軍の奇襲部隊の強襲を受けて戦死。

 

たった2度の戦いで袁紹軍の大将を2人も討ち取ったことで、曹操軍の意気は高揚、対して袁紹軍は恐慌状態に陥りました。

 

 

その後曹操は、戦力を集中するために官渡に撤退。その時に関羽が義兄・劉備の元に逃げ帰ったのは、演義でも有名な話ですね。もっとも、曹操はすんなりとはいかないまでも、すぐに関羽を(かなり渋りながらも)手放したそうですが。

 

 

 

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曹操軍の苦境

 

 

さて、前哨戦で大勝したとはいえ、袁紹軍は圧倒的。一説には戦力比は10:1とも言われており、曹操軍が圧倒的に不利であることに変わりはありませんでした。

 

 

 

延津での戦い前後ですでに渡河を終えていた袁紹軍は、大軍の利を活かして、陣を広げて官渡城を包囲。対する曹操軍は、急激な領土拡大により兵糧も少なく、さらには圧倒的大軍に包囲されては一環の終わりいう状況下もあって、焦って袁紹軍に決戦を挑み、両者は激しくぶつかり合いました。

 

結果は、惨敗。圧倒的な戦力を誇る袁紹軍の前に、出撃した曹操軍は戦力の二割以上を損失という手痛い打撃を負いました。

 

 

この敗戦のせいで迎撃能力をほとんど失った曹操軍は官渡城を包囲され、袁紹軍が陣や土塁、地下道などを築き、じわじわと彼らの得意な攻城戦を展開するのを止める力もありませんでした。

 

曹操軍も負けじと投石機(カタパルト)で応戦したり、于禁らが中心になって気勢を上げて奮戦し、地下道を掘って攻め込もうとする袁紹には同じく地下道を掘って牽制するなどうまく攻撃を防ぎますが、結局は焼け石に水。

 

 

連日降り注ぐ矢のせいで、盾を帽子代わりにしなければ外を出歩けない状態が続いたのです。これにより、味方内には袁紹に寝返ろうとする兵士が続出。背後に控える本拠地でも、袁紹に味方しようという動きが大きくなりつつありました。

 

 

さすがに怖気づいた曹操は、本拠地の許にいる荀彧(ジュンイク)に戦術的撤退をほのめかしたそうですが、「ここで勝てなければ、どうあっても勝ち目はない。袁紹は人を集めることはできても使うことは上手でありません。あなたは並外れた智勇だけでなく、天子を掲げる正義もお持ちではないですか。このまま踏ん張っていれば必ず勝てます」と強く背中を押されたという話が残っています。

 

戦略的撤退を口実に逃げる気満々の曹操は、この時どんな顔をしたのか……

 

 

 

さて、荀彧の励ましもあって逃げられなくなった「ここで抑え込むぞ!」と決意を固めた曹操ですが、それでも状況は悪くなる一方。

 

 

本拠地・豫洲では、ついに袁紹の呼びかけに応じる郡が多数出てきており、もはや退路すらも危うく、さらには荀彧の言う通り、撤退すればそのままなし崩し的に敗北するのはまず間違いない状況に陥りました。

 

さらには袁紹の元に逃げていた劉備が、今度は反抗勢力と手を組んで曹操軍の背後である汝南を襲撃。あたり一帯を荒らしまわります。

 

曹操は蔡陽(サイヨウ)という人物を討伐軍として派遣しましたが、劉備に敗れて戦死。

 

側近中の側近である曹仁(ソウジン)を討伐に向かわせることで、ようやく劉備を打ち破ることに成功します。

 

 

他にも徐晃(ジョコウ)や史渙(シカン)といった将に袁紹軍の大規模な輜重隊を襲撃させ、打ち破るなど奮戦しますが、もはや戦う力はほとんど残されておらず……ついに兵糧も底を尽きてしまいました。

 

曹操は力強く、「お前たちにこれ以上苦労は掛けない。15日で決着をつける」と力強く兵に宣言しますが、もはやカラ元気であることは一目瞭然。日に日に大きくなる暗雲は、ついに曹操軍を呑み込もうとしていたのです。

 

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烏巣襲撃、そして……

 

 

 

冬10月。もはやほとんど負けが確定していた曹操軍に、ついに転機が訪れます。袁紹軍の許攸(キョユウ)という人物が、突如曹操軍に投降してきたのです。

 

許攸は強欲で金に目のない性格をしたと言われており、裏切りの理由は袁紹の褒章では満足できなかったから、袁紹に何度も検索をしていたが受け入れてもらえなかった、家族が犯罪を犯して投獄されたので腹が立った、などと言われています。

 

 

さてこの許攸こそが、曹操軍の苦境を打ち破るキーマンだったのです。というのも、袁紹はこの時、大規模な兵糧輸送を計画。腹心の淳于瓊らに1万の軍を預けて大量の兵糧輸送を護衛させていたのです。

 

許攸が言うには、淳于瓊は現在烏巣(ウソウ)に駐屯しており、防備も手薄な箇所があるとのこと。

 

この許攸からの情報を得た曹操は、すかさず参謀に意見を求めます。

 

この情報を多くの側近が疑ったものの、荀攸と賈詡(カク)は、烏巣襲撃を支持。曹操はついに反撃の糸口をつかみ、官渡の守備を曹洪(ソウコウ)に預けて、兵5千を率いて自ら烏巣に進撃。夜半に城を出て、夜が明けるころには烏巣に到達したと言われています。

 

この動きを察知した袁紹はすかさず軽騎兵5千を長子である袁譚(エンタン)に授けて烏巣救援に赴かせます。烏巣を守る淳于瓊も奮戦し、配下に動揺が広がりますが、曹操は「すぐ後ろに敵が来るまで背後は考えるな!」と一喝。後ろに騎兵、前に自軍の倍の大軍に迫られ、逃げ場をなくした曹操軍は死に物狂いで奮戦。淳于瓊は楽進によって打ち取られ、ついに袁紹軍の兵糧を焼き尽くしたのです。

 

 

さらに、烏巣救援を献策したにもかかわらず官渡攻撃を任され、八方ふさがりになっていた袁紹軍の張郃(チョウコウ)、高覧(コウラン)も曹操に降伏し、ついに袁紹軍は総崩れ。そのほとんどが敗北必至であった曹操軍の奇跡の逆転劇で、官渡の戦いは幕を下ろしたのでした。

 

 

 

官渡の戦いのその後

 

 

官渡の戦いで勝ったことにより袁紹領では反乱が頻発。袁紹の領地に攻め込んで、倉亭(ソウテイ)という場所で勝利を収めるなど、パワーバランスは逆転しつつありましたが、それでも袁紹が存命中にその領地を大きく侵すことができずにいました。

 

しかし袁紹はすでに病を得ており、官渡の戦いの2年後である建安7(202)年に死去。

 

 

もともと不仲であった袁紹軍の幕僚らが仲違いを起こし、長男の袁譚、そして三男の袁尚(エンショウ)の間での仲間割れが発生し、その隙を突く形でようやく袁紹領に本格的な侵攻を開始。建安10(205)年には長子袁譚を斬り、2分された勢力の半分を掌中に収めますが、降伏した元袁紹軍の度重なる反乱や北方の異民族の介入を受けるなど、事態は思った以上に難航。

 

 

異民族の王・蹋頓(トウトン)や袁尚、そしてその味方をした袁紹次男の袁煕(エンキ)らを打ち破り、さらに遼東の公孫康(コウソンコウ)を臣従させる形で華北を完全に平定したのは、建安12年(207)の暮れのことでした。

 

 

 

ともあれ、官渡の戦いでの勝利を蹶起に曹操軍は大陸の半分以上の国力を掌握し、ついに後の一大国家・魏の足掛かりを作るに至ったのです。

 

 

……が、これを絶頂に曹操の運気は下落の兆しを見せ、この先の天下取りへの道は、難儀を極めることとなるのです。

 

 

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続きを読む≫ 2017/09/30 22:15:30

 

 

 

 

しばらく鳴かず飛ばず……

 

 

さて、手痛い敗北を喫したとはいえ、ようやく自前の戦力を持つに至った曹操

 

その後は揚州で大規模な募兵を行ったり(ただし反乱を起こされて失敗)、袁紹の庇護下で黄巾軍を打ち負かしたりとところどころで活躍を見せますが……乱世に雄飛し独立勢力になるには未だに不足。

 

一応は袁紹からの申し出を断ったりなど、一人の群雄として見られていた節はありますが、同盟者の袁紹との関係は対等ともいえず、どちらかというと、実質的な部下に近い感じだったことが伺えます。

 

 

その一方で、反董卓連合の終結を訴えた橋瑁(キョウボウ)という人が、仲間のはずの劉岱(リュウタイ)という人物に殺されたり、また、西では逃げた先でも一大勢力を誇っていた董卓が、王允(オウイン)という人の計略によって義理の息子である呂布(リョフ)に殺害されたりと、乱世の闇は深まるばかり。

 

さらにはこれ見よがしに周辺の異民族らの動きも活発化しており、曹操もその対処に駆り出されることもありました。

 

 

さて、そんな闇まっしぐらの暗黒時代に差し迫った初平3(192)年。曹操に、人生最大級の窮地と同時に、一気に天下に飛躍するチャンスが、ここに来てめぐってきたのです。

 

東の青州を根城にする黄巾の反乱軍、男女合わせて百万ともいわれる大兵力。地を覆いつくす雲霞のごとき大軍が、後に曹操の本拠地となるエン州に、向かっていたのです。

 

 

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青州黄巾軍を仲間に!

 

 

 

さて、当時エン州を守っていたのは、橋瑁殺害で名前が挙がった劉岱でした。

 

劉岱はこの大軍を見ると、怖気づいた軍勢に喝を入れて打って出ます。この時、曹操を慕っていた鮑信(ホウシン)という人物が制止しますが、それに聞く耳を持たず進撃。そのまま敗北し、劉岱自身も黄巾軍の大軍勢の中に姿を消しました。

 

そんな中、援軍に現れた曹操軍。圧倒的な大軍を相手に力戦し、なんとか撃退することに成功しますが、今度はエン州軍を代わりに率いていた鮑信が戦死。その他にも位の高い役人や軍人が彼らの手によって殺されたとあるわけですから、戦いは熾烈を極めたものであると想像できます。

 

 

魏書ではその後、偵察隊が運悪く敵と遭遇し曹操自身もからがら逃げ出したともあり、三度目に不意打ちを仕掛けてようやく降伏まで追い込んだとか。

 

 

とにかく、多大な犠牲を払いながらも、黄巾の圧倒的な軍勢を辛くも下した曹操軍。これにより、主のいなくなったエン州と、そして青州の黄巾軍をどうするかの権限を手に入れることになりました。

 

曹操はこれらの降伏者たちに寛大に接し、全員を受け入れることを決意。さらには、反乱軍の中でも戦い慣れした精鋭を選りすぐって自軍戦力として編入。
この時に曹操軍となった兵士は後に「青州兵」と呼ばれ、曹操軍でも有数の精鋭部隊として多くの戦いで活躍することとなるのです。

 

 

 

 

死闘の日々を送る

 

 

 

 

拠って立つ地と精強な軍勢を手に入れた曹操軍ですが、まだまだ乱世の中では弱小勢力。

 

この頃、袁紹と弟の袁術(エンジュツ)が兄弟間で天下をかけて争ってましたが、曹操はこれに袁紹派として参戦。

 

なんと袁術本人との直接対決に及び、その軍勢を打ち破ってしまうのです。しかも何度も。強い(;´・ω・)

 

 

勢いに乗る曹操軍。このまま順調に勢力を拡大すれば、袁紹から独立するのも時間の問題……

 

と、その時にアクシデントが発生しました。

 

東の徐州を治める陶謙(トウケン)という人物(あるいはその部下とも)が、彼の領内に避難していた曹操の父・曹嵩(ソウスウ)を殺害してしまうのです。

 

これに怒りの炎がともった曹操は、即座に陶謙の領土にほぼ全軍を率いて進軍。エン州の守りは最低限しか置かず、メラメラと燃える復讐心のままに、全軍を徐州へなだれ込ませたのです。

 

この時曹操軍が行った殺戮は、後に徐州大虐殺などとも呼ばれ、「曹操軍が通った後は草木すら生えなかった」や「殺された住民の死体で川がふさがった」など、様々な逸話がありますが…………この常軌を逸した殺戮劇の動機については、怒り以外にも「見せしめ説」や「親孝行アピール説」など、諸説あります。

 

 

 

 

 

 

 

兗州に忍び寄る影……

 

 

 

さて、こんな感じで全力投球の、まさに全身全霊での攻撃に挑んだわけですが……こうなると危ぶまれるのが、本拠地にもかかわらずガラ空きとなった兗州の存在。

 

そんなガラ空きの兗州を狙う影が一つ。養父・董卓を殺したものの、そのまま長安から追い出され、各地を転々としていた猛将・呂布です。

 

異常なまでの大虐殺を見て曹操を危険視したのか、はたまた己の野心ゆえか……。「反覆常無し」と言われた虎狼・呂布を兗州に迎え入れた者がいました。

 

それは、参謀の一人として信頼されていた陳宮(チンキュウ)と、曹操の親友として深い友情で結ばれていた張邈(チョウバク)の二人でした。

 

 

曹操軍でも重要なポジションにいた二人が裏切ったことによって、兗州はたちまち混乱に陥り、次々と呂布に降伏。ついには、留守として置いていた参謀の荀彧(ジュンイク)、程昱(テイイク)らの奮戦により、范(ハン)、東阿(トウア)という2つの県だけは防衛に成功したもの、それ以外の土地は陥落し、すべて呂布軍により接収されたのです。

 

 

報告を受けた曹操はすぐに軍を返し、兗州奪還の軍勢を再編。呂布が要害を抑えず城に引きこもっていたのに安堵し、まずは正面からの決戦に挑みます。

 

 

しかし、その結果は惨敗……。元々異民族との国境沿いに住んでいた呂布は人並み外れた武力を持っており、その軍も精強。
正攻法では自慢の青州兵も崩され、全部隊は混乱。曹操自身も馬から落ちて火傷を負うほどのありさまでした。

 

一説には「呂布軍につかまったものの曹操だとは気づかれず、機転を利かせて何とか逃げ延びた」ともあり、曹操自身もかなり危険な目に遭っていたのは間違いないようです。

 

 

 

 

 

さて、結局敗北した曹操は、そのまま呂布軍とのにらみ合いに発展。膠着すること100日余り。幸か不幸か、ここで突如イナゴの大軍勢がエン州を直撃。
人々は飢饉に陥り、両軍とも食糧難に陥ったためいったん矛を収めることとなりました。

 

 

さて、ここで食糧難の曹操袁紹の仲介もあったため、呂布との講和を考えますが、参謀の程昱はこれに反対。戦争続行の意思を見せ、イナゴがいなくなった晩秋に、呂布への反撃を開始しました。

 

 

今回は正攻法とはいかず、まず呂布軍の要所を各個攻撃。呂布を振り回し、今度は城から引きずり出して優位な戦いに引き込もうという算段です。

 

この目論見は大成功。援軍に赴くものの次々と要衝が落とされ、エン州での影響力が失墜していった呂布。ついには城を捨て、自分から曹操を攻撃する必要に駆られる状況に陥れました。

 

策に乗せられ、曹操軍に迫りくる呂布。この時の曹操軍は呂布より数こそ少なかったものの、伏兵や別動隊をしっかり組織し、奇襲を用いて因縁の呂布に大勝。

 

この敗北を受けた呂布は兗州の足掛かりを完全に失い、再び放浪に逆戻り。

 

さらに張邈の弟をはじめ反乱勢力も勢いのままに平定。ここに来て、ようやく自らの本拠地を完全にまとめることに成功したのでした。

 

 

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【曹操伝壮年1】曹操の台頭   【曹操伝壮年1】曹操の台頭   

 

 

続きを読む≫ 2017/08/22 22:59:22

 

 

 

 

自由奔放な若者、真っ向から腐敗に挑む

 

 

曹操の祖父である曹騰(ソウトウ)は、傑出した人格と人の好さで真っ向から高官にまで上り詰めたハイパー宦官であり、その孫というだけあって、曹操の出自はそこそこ恵まれていたといってよいでしょう。

 

とはいえ、高官と言えども所詮は嫌われ者の宦官。曹騰やその家族に対する風当たりも、その人格や家格を考えると、あまり良いものではなかったのかもしれません。

 

 

さて、そんな宦官・曹騰の養子である曹嵩(ソウスウ)という人の子として生を受けた曹操

 

 

こんな出自もあったからでしょうか。曹操は若いころから頭が良く機転も利く人物でしたが、自由奔放で好き放題遊び歩き、孝行と行儀のよさを第一とする儒教の教えの中では、まさにダメ人間と言ってしまっても過言ではありませんでした。
そのため世間からの評判も悪く、正当な評価を得られずにいたのです。

 

 

曹操の敵である呉での、(主に曹操の悪口が占められている)曹操評をまとめた『曹瞞伝(ソウマンデン)』という曹操の別伝には、こんな話も載っています。

 

 

曹操の遊び惚ける姿に呆れていた叔父は、曹操の父である曹嵩に、曹操の起こす問題行為をたびたび報告、危険視していた。

 

その事を厄介に思っていた曹操は、ある計略を思いついた。

 

 

ある時たまたま叔父と顔を合わせた曹操は、顔をわざと崩し、口を捻じ曲げて応対した。

 

曰く、「ひどい麻痺障害を起こしてしまいました」とのこと。

 

叔父は大慌てで曹嵩にこれを報告。

 

 

曹嵩は仰天し、直ちに曹操を呼びつけて、病状を確認。しかし、当の曹操は至って健康そのもの。ケロッとした顔で姿を現したのです。

 

そして、このありさまを見て混乱する父・曹嵩に向かって、曹操は一言。

 

「叔父は私の事を嫌ってますから、適当言って私の評判を下げようとしたんでしょう」

 

 

曹嵩はこれを機にすっかり叔父を信用しなくなり、報告を聞いても知らん顔。曹操は今まで以上に遊び惚けることができましたとさ。

 

 

曹操ェ……。

 

 

さて、そんなこんなで世間から呆れられる存在の曹操。しかし、やはりこの手の人たちは確かなオーラを放っているものなのでしょう。橋玄(キョウゲン)、そして何何顒(カギョウ)という二人の人物だけは曹操の事をしっかり評価。

 

特に橋玄に至っては、「天下は今大いに乱れている。こういう乱世を治めるのは当代一の才能の持ち主だが、それは曹操のことかもしれない」と、これまた随分な絶賛ぶり(一説には、「君みたいな傑物は初めて見た。わしの妻子をよろしく」とも)。

 

その後橋玄のアドバイスで人物評論家、許子将のもとを訪ね、かの有名な「治世の能臣、乱世の奸雄」という評を得、名声はうなぎ上り。

 

 

さて、そんな曹操ですが、20歳の時に孝廉(地元推薦制度)に推挙され、持ち前の知性を発揮してトントン拍子で出世。

 

 

この時、洛陽北部尉(首都周辺の警察署長みたいな仕事)を任されたこともありましたが、この時は徹底的に法を順守し、違反者の取り締まりを厳しくしたため、治安上昇に大きく貢献したそうです。

 

しかし、やはり人に媚びないのが曹操流。違反者は当時の権力者である宦官とのコネがあろうと、容赦なく処罰。このスタイルにより違反者はめっきり減ったものの、すっかり重役ににらまれてしまい、栄転という形で首都近郊から引き離されていったのです。

 

 

 

 

曹操、干される

 

 

 

そして決定的な乱世の幕開けとなった光和7(184)年の民衆による大反乱・黄巾の乱。ここで騎都尉(近衛兵長)に任命された曹操は、首都近くの反乱軍討伐に参加し、主力部隊の援軍として駆けつけるなどの活躍を見せ、済南の相(長官)に任命されました。

 

さて、曹操が任された済南の地ですが……政治汚染が広がっており、すでに役人たちは「貴族様バンザイ!」と声高に迎合し、当時数多あった汚職の巣窟の一つとなっていたのです。

 

当時30歳前後の曹操。普通の人ならば、ここで同じく貴族に媚びを売り、賄賂の一つでも差し出すところではありますが…………

 

 

なんと曹操、汚職役人を軒並み摘発し、徹底的に免職。その数、なんと役人全体の8割にも上ったとかで。とにかく、自分の保身よりも政治を立て直すことを優先したわけですね。

 

さらには街も街で、当時は大量に昔の偉人の祠を立てて、貢物を民衆から巻き上げるというインチキ宗教が広まっていました。

 

それを知った曹操は、その悪徳な信仰をことごとく厳禁。さらにインチキ宗教によって建造された祠もすべて取り壊し、完全にこれらを根絶してしまったのです。

 

 

さて、こうなると困るのは汚職で懐を肥やしている政府の重役たち。

 

しばらくすると曹操を呼び戻し、新たに東郡太守に任命。しかし危険を感じ取ったのか、曹操は病気を理由に役人の仕事を辞め、太守の任に赴任することなく郷里へと逃げ帰ったのです。

 

それからも曹操は腐ることなく、武術の鍛錬や勉強を欠かさず行っていたのですが……すでにお偉方に睨まれてしまった以上、すでに今のままの世の中では出世は絶望的な状況になってしまったのです。

 

 

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曹操、またも熱血ぶりで周囲から浮く

 

 

さて、若くして隠遁生活を送っていた曹操。大規模反乱への参加の誘いなんかもこの時期来ていたようですが、キッパリ断って、数年の間表舞台に姿を現さなかったのです。

 

しかし中平5(188)年。このころ、遥か西の涼州で大規模反乱がおきていましたが……これを口実として、突如また中央のいざこざに引きずり出されてしまいました。

 

宦官の専横を嫌った外戚(皇后の親族一党。皇后の世話役である宦官と政治的対立をするのは、もはや古代中国ではお約束と化していた)の策略か、突如「黄巾の乱で功績があった人物」というお題目の『西園八校尉』というグループに抜擢されたのです。

 

 

その後満を持して行われた宦官の大粛清への参加を拒否(曰く、「トップを数人殺せば済む話なのに、わざわざ皆殺し計画とかバレる原因にしかならねーだろ」とのこと)。

 

曹操の懸念通り外戚トップの大将軍・何進(カシン)が暗殺されるも、参加者である袁紹(エンショウ)、袁術(エンジュツ)らにより粛清計画は実行され、宦官勢力は一掃。彼らによる専横の歴史は、こうして幕を閉じたのです。

 

ちなみに祖父が曲がりなりにも宦官である曹操にとっては内心穏やかでない事件の気がしますが……まあ記述が特に無いから大丈夫でしょう←

 

 

とにかく、こうして終わった宦官の一掃。宦官も外戚トップの何進もいなくなった以上、政権は誰が担うのか……

 

 

その答えは、意外な結果でした。

 

 

次に政権を握ったのは、今は亡き何進に援軍として助っ人を要請された董卓(トウタク)。彼は都につくなり、いち早く計略を用い中央を占拠。なし崩し的に自らが政権を奪取します。
そしてあろうことか、当時の漢帝国のトップであった少帝を廃位し、後漢最後の皇帝となる、幼少の献帝へと皇帝を挿げ替えてしまったのです。

 

 

皇帝こそ絶対の漢帝国で突如としてこういうことが行われると、国が混乱するのは必定。当然、これにより洛陽周辺も再び雲行きが怪しくなりつつあったのです。

 

この様子を見た曹操は、再び中央政府からの脱出を決意。偽名を使って董卓からの追手をかわし、途中で協力者の家族に売り渡されそうになったり(曹操の勘違い説あり)、関所まで連行されてあわやといういう状況に陥ったりしたものの、なんとか故郷まで逃げ帰ることに成功。

 

そして初平元(190)年、諸侯が一斉蜂起し、袁紹を盟主に反董卓連合が結成。ひそかに故郷で兵士を集めていた曹操は自ら将軍を名乗り、小勢でありながらもこの連合に加入したのです。

 

 

さて、こうして諸侯が一堂に会し、董卓という共通の敵を打倒しようと誓ったものの、相手となる董卓の軍勢は、異民族との戦いで鍛え上げられており、練度はけた違い。諸侯は消耗を嫌い、誰もが衝突を避けていました。

 

曹操はこの様子を見て一喝。

 

「諦めんなよお前! これだけの人物が集まって正義をなそうとしているのに、どうしてそこであきらめるんだそこで! 董卓は無茶苦茶やって隙だらけで今がチャンスだ! 一回戦えばそれで勝てるんだよ! もっと熱くなれよ!!」

 

 

そう言い捨てて、とても董卓に勝てるはずもない少数の手勢を引き連れて、董卓軍の要害を攻撃しました。

 

しかし、要害を守っていた徐栄(ジョエイ)は董卓直属軍の名将で、その軍も辺境の精鋭部隊。当然曹操軍は成すすべなく壊滅し、曹操自身も馬が負傷し自分も矢傷を負うほどの手痛い敗北を喫したのです。

 

部下の曹洪(ソウコウ)や、この戦いで戦死した協力者・衛茲(エイジ)らの奮戦がなければ、おそらく曹操自身も助からなかったことでしょう。

 

曹操軍を蹴散らした徐栄が「無名の曹操軍ですら一日中奮戦し続けたのだから、本陣攻撃は不可能」と判断し、追撃を行わなかったのも、曹操が命拾いした理由の一つと言えるかもしれません。

 

 

 

さて、そんな命からがら返ってきた曹操を待ち受けていたのは、会議という名目で酒盛りをしている連合軍の諸侯。

 

曹操はさすがに腹に据えかねたようで、諸将の責任を追及。その上で、

 

「頑張れ頑張れ出来る出来るやれるって気持ちの問題だ頑張れ頑張れそこだ! 袁紹が正攻法で進撃すると同時にこっちで要害を奪って、その上で別動隊やって退路を封鎖、その上で囲んで一気に進撃すれば勝てるって! そこで諦めるな絶対に頑張れ積極的にポジティブに頑張る頑張る!」

 

と熱弁するもこの熱い思いに誰も答えることなく、曹操の進撃案は否決。その後、董卓に悠々と逃げられたことで反董卓連合は自然消滅。

 

野心のため自兵力を温存していた諸将は、お互いの領土拡大のために仲違いし、時代は群雄割拠の時代に移り変わっていったのです。

 

 

 

   【曹操伝若年】狡猾ながらも芯の強い熱血漢・曹孟徳   【曹操伝若年】狡猾ながらも芯の強い熱血漢・曹孟徳

 

 

 

続きを読む≫ 2017/08/17 20:18:17
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