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先主伝第二

 

劉備

 

 

後主伝第三

 

劉禅

 

 

二主妃子伝第四

 

甘皇后 穆皇后 敬哀皇后 張皇后 劉永 劉理 劉璿

 

 

諸葛亮伝第五

 

諸葛亮(付、諸葛喬 諸葛瞻 董厥 樊建 注、徐庶

 

 

関張馬黄趙伝第六

 

関羽 張飛 馬超 黄忠 趙雲

 

 

龐統法正伝第七

 

龐統 法正

 

 

許麋孫簡伊秦伝第八

 

許靖 麋竺 孫乾 簡雍 伊籍 秦宓

 

 

董劉馬陳董呂伝第九

 

董和 劉巴 馬良(付、馬謖) 陳震 董允(付、黄皓 陳祗) 呂乂

 

 

劉彭廖李劉魏楊伝第十

 

劉封 彭羕 廖立 李厳 劉琰 魏延 楊儀

 

 

霍王向張楊費伝第十一

 

霍峻(付、霍弋) 王連 向朗(付、向寵) 張裔 楊洪 費詩

 

 

杜周杜許孟来尹李譙郤伝第十二

 

杜徽 周羣(付、張裕) 杜瓊 許慈 孟光 来敏 尹黙 李譔 譙周 郤正

 

 

黄李呂馬王張伝第十三

 

黄権(付、黄崇) 李恢 呂凱 馬忠 王平(付、句扶) 張嶷

 

 

蒋琬費禕姜維伝第十四

 

蒋琬 費禕 姜維

 

 

鄧張宗楊伝第十五

 

鄧芝 張翼 宗預(付、廖化) 楊戯

 

 

立伝無し

 

呉壱(呉懿) 呉班 馬岱 孟達 孟獲 陳到

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:益州巴郡臨江県

 

 

 

厳顔(ゲンガン)という人物は、蜀を代表する武人の1人として、あるいは黄忠(コウチュウ)と並んで活躍する老将としてその名が知られています。

 

実際に、三国志演義においては、黄忠の相方として定軍山の戦いなんかで活躍した、と書かれていますね。

 

 

しかし悲しいことに、正史における彼は、蜀にてよく見かける事績不明の一発屋の1人。正史の出番はたった一度っきり、しかも能力を示すような話ではないという、なんとも老将好きには残念でならないという結論が待っていました。

 

 

今回は、そんな厳顔の一回きりの見せ場を見てみましょう。

 

 

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捕虜の意地

 

 

厳顔が史書に名を書き連ねられているのは、蜀志の『張飛伝』、その本文になります。

 

劉備(リュウビ)は最初劉璋(リュウショウ)の仲間と偽って益州(エキシュウ)に入りましたが、この時には張飛(チョウヒ)はじめ多くの主力武将を留守番として本拠に待機させます。

 

そして満を持して劉備が反逆ののろしを上げた時、張飛は諸葛亮(ショカツリョウ)らと共に進撃。別働隊として益州入りを果たし、そのまま劉璋軍の迎撃部隊を蹴散らしながら進んでいったのです。

 

 

厳顔も、このときに劉璋の放った迎撃部隊の将として軍を率い抗戦。巴郡(ハグン)太守という立ち位置から、おそらくかなりの高級軍人だったのでしょう。

 

 

ともあれ、一軍の大将として迎撃に向かった厳顔の相手になったのは、領内深くの江州(コウシュウ)郡にまで軍勢を進めていた張飛の一団。

 

彼我の戦力比については一切の記述がありませんが、厳顔はここで張飛の軍に惨敗し、そのまま捕縛されてしまったのです。

 

 

かくして張飛の前に引っ立てられた厳顔でしたが、張飛は「なぜ降らずに抗戦したのか!」と怒鳴りつけてします。当然ながら、完全に敵として恫喝気味に詰め寄られたわけですね。

 

とはいえ、万人の敵とまで称されるおっかない張飛に怒鳴り散らされては、普通の武将ならば降伏、あるいはせいぜい黙りこくって抵抗するくらいが関の山。張飛もそれを期待しての態度だったのでしょうが……厳顔の受け答えはまったく違ったものでした。

 

 

「この卑劣な侵略者が!この益州には処断される将はおれども、降伏して生き恥を晒す将などおらぬ!!」

 

 

敵軍きっての猛将相手に、萎縮どころか逆に挑発してみせたのです。

 

 

これには張飛も怒り心頭。その態度が虚勢かどうかを確かめるためか、それとも本気でマジギレしたか、側近に命じて無理矢理引っ張っていかせ、処刑の準備すら整えようとしたのです。

 

しかし、今この場で首を斬られようとしているにもかかわらず、厳顔は平気な顔で毅然とするばかり。

 

 

「怒る理由などどこにもなかろう。斬りたいのなら四の五の問答などせずさっさと斬れ!」

 

 

と、このようにあくまで態度を変えるつもりのない厳顔に対して、張飛は「見事なものだ」と逆に感心。その縄を切ってやり、以後は厳顔を捕虜でなく大事なお客として扱うことにしたのでした。

 

 

以後、厳顔がどうなったのかは不明。順当に行けば、劉備の配下としての地位に納まったのでしょう。

 

 

 

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有能と見られたらしい

 

 

 

 

まあ益州ひとつしか持たない劉璋の元でひとつの郡を任されたのですから、おそらく厳顔はかなり有能な部類の人間だったのではと想定できます。

 

実際に劉璋がどこまで能力主義の人事を行えたかは不明ですが……当時の益州の人材は、後に劉備軍でもかなりの大身にのし上がるような人物ばかり。その出世レースに打ち勝ったのだから、相応の武器を持っていたことが想定されます。

 

 

ちなみに『華陽国志』では劉備が益州に来たことを「どう考えてもヤバいだろ」と嘆いた人物の1人として記述があり、有能な人物は軒並み劉備の益州入りを渋った旨があるため後世の評も高かったことが伺えますね。

 

1000年ほど先の宋の時代には文天祥(ブンテンショウ)という宰相は、「正気の歌」なる歌の中で厳顔も忠臣のひとりとして取り上げています。

 

 

まあ忠誠心までは何とも言えないものの、気骨のある人物ではあったというのが、記述から見た素直な感想ですね。

 

しかし、そんな人物が劉備軍中で有名になった話が無いのは、どうしたことか。もしかしたら気骨はあっても能力が微妙だったか、はたまた劉備に仕えなかったのか仕えても長続きしなかったか、すぐに病死したのか……

続きを読む≫ 2018/11/02 19:53:02

 

 

 

生没年:?~延煕17年(254)

 

所属:蜀

 

生まれ:益州巴西郡南充県

 

 

 

 

張嶷(チョウギョク/チョウギ)、字は伯岐(ハクキ)。蜀では貧民の出身者でありながら大身に上がり、そのまま立伝にまでありついた人物で、知る人ぞ知る名将です。

 

もっとも、演義はじめ三国志媒介では脇役の凡将。死に様は正史に則って格好良く書かれますが、全体的な評価と人々からの知名度は今一つですね。

 

 

今回はそんな渋い名将、張嶷の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

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知勇兼備の貧民の星

 

 

 

張嶷は身寄りがなく貧乏な暮らしをしていたそうですが、なんと20歳で県の功曹(コウソウ:人事評価を担当する官吏)に就職したとあります。昔から有名人だったのか、はたまた貧民といえども没落貴族だったのか……

 

 

ともあれ、地元役人として仕事に精を出していた張嶷でしたが、建安16年(211)に、益州に客将として来ていた劉備(リュウビ)が反逆。周辺の城がまたたく間に陥落していきます。

 

そして張嶷が住んでいる南充県も影響を受けて治安が悪化。どさくさ紛れに山賊が攻め寄せてくるという大変な事態に陥りました。

 

 

この時、県のトップは妻子を捨てて逃走。張嶷らは県長の妻子ともども取り残されてしまい、特に県長夫人らは日ごろ鍛えているはずもなく逃げ延びることができずにいたのです。

 

 

そこで張嶷、なんと山賊たちの中を突っ切りながら県長宅に突入。そのまま県長夫人を抱えて山賊たちの包囲を脱し、無事に救出することができたのでした。

 

当然、どこの馬の骨だか知らない貧民上りがこんな凄まじい義侠心と武勇を見せつけた張嶷の評判はうなぎ上りで、それが目に留まって一気に益州の従事(ジュウジ:副長官)にまで出世。雲の上の存在だったはずの超大物たちとも友誼を交わるほどになったのでした。

 

 

 

建興5年(227)に蜀が北伐の準備をしていた時には、ついに武官として山賊討伐を命じられることになりました。

 

しかしこの山賊たちは軍需品を盗んだり人さらいをしたりして勢力を増強させており、しかも妙に逃げ足も速いため、正攻法で壊滅させるのは困難であると予測されました。

 

 

そこで張嶷は、一計を案じます。なんと、山賊たちと戦うどころか逆に和睦。日時を決めて大宴会を催し、彼らが油断したところで武装した側近たちと共に宴会場になだれ込んだのです。

 

すっかり油断しきっていた山賊の頭たちは逃げる事すらままならず、主要人物はその場で全滅。残党狩りも含め、わずか10日という短い期間で山賊たちを完全に駆逐したのでした。

 

 

 

 

異民族討伐のプロ

 

 

 

後に張嶷は牙門将軍(ガモンショウグン)にまで上り詰めると、南方に転進。馬忠(バチュウ)の部下として異民族や不服従民の討伐に向かい、作戦立案を担当して蜀軍を勝利に導いたのでした。

 

 

陳寿著・益州の才人を取り扱った『益部耆旧伝』によれば、馬忠の軍勢は蜀への協力を阻んだ北方の羌(キョウ)族の反乱討伐までも受け持ったとか。

 

この時に張嶷も別動隊として参加していますが、羌族は落石によって敵軍を攻撃する立派な砦を設けており、とても攻撃できたものではなかったのです。

 

 

そこで張嶷は直接攻撃を諦め、通訳を連れて説得する方針に変更。

 

「俺は帝より、お前たちを滅ぼせと勅命を受けている。お前たちがあくまで協力を阻むなら、蜀の大軍がお前たちを雲霞の如く取り囲み、取り返しがつかなくなってしまうぞ。もし逆に兵糧や軍備を提供してくれるなら、その報いは何倍にもなって返ってくるが、どうする?」

 

 

あかん、これ恫喝や

 

ともあれ、抵抗の意を示していた羌の部族は降伏し、協力を約束。周囲で様子を見ていた他部族も山へ逃げるなり協力を申し出るなりして、簡単に鎮圧を成功させたのでした。

 

 

また、後には南蛮の部族の蜂起にも、鎮圧軍として参加。この時は知恵を絞るのではなく先頭を切って戦い、首謀者を斬り殺すことに成功しています。

 

 

張嶷は知勇兼備の良将だったのですね。

 

 

その後、異民族の台頭により実質名ばかりになっていた越巂(エツスウ)郡に太守として赴任し、過去に太守が殺されたことすらある環境で張嶷は働くことになりました。

 

南蛮に接する地域は統治が難しく、実際に追い出されたり殺された太守も大勢いましたが……張嶷は恩愛と徳義でこの地をうまく治め、逆に南蛮の異民族と仲良くなって、多くの部族を仲間に引き入れてしまったのです。

 

 

また、北方の精鋭騎馬部族である捉馬族(ソクバゾク)が蜀の命令を無視し続けた際も、張嶷は討伐に参加。戦って大将を捕縛すると、解放して説得することで仲間に引き入れ、仕事を与えて定住させてやったのです。

 

「張嶷が仕事を与えてくれた」という噂は、すぐに周辺の部族にも伝播。結局、捉馬族をはじめ周辺の民族は蜀に帰順し、張嶷は功績を認められて関内侯(カンダイコウ)に任命されたのでした。

 

 

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張嶷流の飴と鞭

 

 

 

さて、続いて張嶷は南で再び反乱の討伐に向かいます。この時、一度は降伏した部族が隙を伺ってもう一度反乱を起こし、蜀の西部周辺を荒らしまわっていました。

 

張嶷は、その反乱の元締めである冬逢(トウホウ)を殺害。これを聞いた冬逢の弟・隗渠(カイキョ)は西方の国境地帯に逃走し、その途中で策の一環として側近を裏切らせ張嶷に降伏させてしまったのです。いわゆるスパイとして、彼らに諜報活動をさせたのですね。

 

それに気づいた張嶷は、逆に大きな恩賞を約束してスパイを懐柔し、あえて軍の機密情報を漏らすことに。結局そのまま張嶷に飼いならされたスパイは、隗渠のもとに戻って彼を殺害。もともと隗渠が怖くてついていっただけの住民たちも軒並み蜀に復帰したのでした。

 

 

また、他にも鉄や塩などを独占する部族に対してまさに飴と鞭(部族長殺害と大規模な恩賞)によって服従させて物資調達ルートを開拓したり、冬逢の仇を討とうと意気込んで反乱を起こした者がいた際には終始友好的に接して帰順させ、国境付近を落ち着かせたりと、張嶷の手腕は蜀の異民族対策に多大な影響を及ぼしています。

 

その影響力たるや、張嶷が南方を去ると知った時には異民族の部族民たちが殺到。中には張嶷が載っている車に縋り付いて泣き始める者もいたとか何とか。

 

 

そんな張嶷、予測能力にも優れていたようで、大将軍の費禕(ヒイ)が人を信用しすぎるのを危険視したり、呉の諸葛恪(ショカツカク)が魏を攻めようとしたときに失敗を予見したりして、どちらも忠告空しく張嶷の悪い予感通りの末路を迎えています。

 

 

 

 

対魏戦線、そして……

 

 

 

さて、こうして中央に戻った張嶷は、盪寇将軍(トウコウショウグン)に昇進。

 

延煕17年(254)、魏の領内である狄道(テキドウ)を守る李簡(リカン)なる者が降伏を申し入れると、姜維(キョウイ)を総大将とした北伐軍が発足。

 

 

張嶷はその北伐に将軍として参加し、李簡の歓待を受けると、さらに軍を魏領深くへ進発。徐質(ジョシツ)なる将軍率いる軍勢とぶつかりましたが、奮戦空しく戦死。この時徐質の軍に味方の倍近い損害を与えており、勝利と引き換えの落命といっても差し違えない最期でした。

 

 

昔治めていた越巂郡の異民族たちは張嶷の死を聞くと大いに悲しみ、土地神として彼の廟を祀ったと言われています。

 

 

『益部耆旧伝』には、張嶷の死を迎えるまでがより具体的に描かれています。

 

張嶷はこの時、実は重大な病によって体が麻痺し、すでに杖がなければ歩行すらままならないという有り様でした。

 

そんな中で李簡からの手紙を受け取ったわけですが、蜀内の群臣が「罠だろう」と疑う中、ただ1人だけ真実であると主張。さらには北伐軍発足にあたっても、病をおして自ら出陣を希望し、「俺は敵地でこの身を蜀にささげたい」周囲の反対を振り切って参加したのです。

 

そして出立が近づいたある日、張嶷は蜀の帝・劉禅(リュウゼン)のもとに参内し、最期の別れを告げたのでした。

 

「私は聡明なる陛下の御世に生を受け、過分な寵愛を受けて参りました。にもかかわらず病気を患い急に世を去らないものかと、日々恐怖しておりました。しかし天は猶予を与え、軍事に参加してご恩に報いることができそうです。

 

もし勝利を得ることができれば敵国から国土を守る守将として前線に留まり、勝つことが叶わなければ、この命をもって報恩とさせていただく所存です」

 

 

そんな張嶷の覚悟には劉禅もただ涙する他なく、主君の涙という栄誉を得て、張嶷は最期の戦場へと向かったのでした。

 

 

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人物像

 

 

さて、このように忠臣に相応しい末路を迎えた張嶷は、かなり小粒ながらも根強い人気を誇っている名将の1人として名が挙げられます。

 

諸葛亮や姜維のために彼を二流どころの凡将とした演義でも、やはり似たような男気溢れる最期を描かれていますね。

 

 

そんな張嶷を、陳寿は以下のように評しています。

 

優れた見識を持って果敢に行動した。

 

激烈な危害の持ち主で、士人のほとんどは彼の人柄を尊敬した。

 

 

しかし同時に礼節を気にしないタイプのようで、儒教万歳な当時においてはそのことで陰口を良く叩かれていたとも。

 

礼節を気にしなかったのは、やはり礼儀なんぞよりまずは日々の食事が最優先の、貧民出身という立場故でしょうか?

 

 

若い時に重病にかかり、お金がないから完治するまで遠方の仁者のもとで養ってもらったという逸話もあり、やけに遅咲きなのもあって、やはり出自がネックだったというのが何となくうかがい知れます。

 

しかしながら優れた見識と武力はそれ以上に評価されたようで、さすがに列伝に加えられる人物だけあって功績のスケールが大きいです。

 

 

ちなみに、三国志本文では宰相の蒋琬(ショウエン)すら見抜けなかった敵国の情勢を見抜き、内応したもののやけに到着が遅い部族民たちを「きっと内部分裂でそれどころではなくなったのでしょう」と予測し、しばらく後にその予測通り内部分裂が発覚したという話も載っていますね。

 

他にも費禕や諸葛恪の最期も半ば言い当てているのだから、やはり並外れた観察眼があったのでしょう。

 

他人に心を開かなかったのか思うところがあったのか、魏から下ってきた夏侯覇(カコウハ)に「友人と同じような交友を持ちましょう」と挨拶されたときには、「お互い知らないことだらけなので、友人になるなら3年はお互いよく知り合うべきです」とそっけなく返していますね。(益部耆旧伝)

 

……夏侯覇の内面に何か良からぬものを見出したのでしょうか?

 

 

 

ともあれ、張嶷は知名度こそ小粒ながら、間違いなく蜀の大物武将の1人として数えられる大人物です。最後に、『益部耆旧伝』から彼の評を引っ張り出してから張嶷伝をしめたいと思います。

 

 

私は張嶷の事を観察したが、見た目も動作も言葉づかいも、全部が一見すると凡庸なものだった。

 

しかしながら内面の知勇はどちらもずば抜けており、やはり上に立つに足りる何かがあった。

 

臣下としては忠誠、節義を有し、異民族への態度は率直で公平、行動を起こすときは必ず規範となるよう心掛けていたので、後主(劉禅)にも尊敬されていたのだ。

 

 

古の名将たちといえども、彼より数段も勝っているはずがあるまい。

 

 

続きを読む≫ 2018/10/25 19:30:25

 

 

生没年:?~建安24年(219)

 

所属:蜀

 

生まれ:司隸河東郡解県

 

 

 

 

関平(カンペイ)と言えば、軍神・関羽(カンウ)の息子にして、父には劣るものの結構な猛将ですね。

 

……まあ、それはあくまで演義の話。正史だと……ものすっごい寂しいです。

 

 

さて、今回はそんな関平の記述を見ていきましょう。

 

 

 

 

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前語りという名の文字稼ぎ

 

 

さて、関平の正史での記述を書くと、本当にすぐに終わってしまいますので……少しばかり前語りとして、演義での活躍をザックリとだけ書き記していきましょう。

 

 

まず、演義において彼の父親は関定(カンテイ)なる人。関羽はこの関定から「是非連れて行ってほしい」と懇願され、そのまま関羽に養子入りします。

 

……無論、これは演義だけの話。正史では、ただ単に関羽の息子となっていますので、創作ですね。

 

 

こうして何とも運命的な登場の仕方をした関平は、その後関羽の主・劉備(リュウビ)の武将として随所で活躍します。

 

 

具体的には、博望(ハクボウ)の戦いで養子仲間の劉封(リュウホウ)と共に殊勲を上げ、呉に赴いて罠にかけられた劉備を護衛し生還を手助け。

 

後に益州(エキシュウ)奪取へも従軍し、いずれも大粒とは言い難いもののしっかりとした活躍を示しています。

 

 

 

しかし、建安24年(219)、同盟者の劉備軍を裏切り関羽の背後から攻撃した呉によって劣勢に立たされると、父の関羽と共に死亡。

 

その死後は演義での架空人物である周倉(シュウソウ)と共に、関羽のお供として知られていますね。関帝廟では、関羽の両脇を周倉と二人で固めています。

 

 

 

 

 

お待ちかね、正史では……

 

 

 

さて、演義や三国志の創作メディアでは、必ずと言っていいほど軍神の子として妥当な活躍を示す関平。

 

さぞや強かったのだろうと昔の私も思ったのですが……悲しいことに、正史における描写は、以下の通り。

 

 

 

関羽が敗北した時、父と共に呉将・潘璋(ハンショウ)の配下である馬忠(バチュウ)につかまる。そしてそのまま、父親ともども処刑されてしまった。

 

 

その記述は関羽伝、呉主伝(孫権伝)、潘璋伝にありますが……本当に記述を拾うとこれだけ。

 

一応関羽伝に注釈された『蜀記』においては直前の北上作戦にも参加したことが証明されていますが、それも父・関羽も「わしも老いたなぁ。だが、ここで引き下がる事はできん!」という決意表明を聞かされたという記述のみ。

 

 

与太話程度としては、字は坦之(タンシ)であるとか、趙雲(チョウウン)の娘との間にできた子供が荊州の江陵(コウリョウ)で暮らしたとはありますが……いずれも信憑性としてはかなり微妙と言わざるを得ません。

 

 

 

一応、あり得ると納得できる話としては「関羽の墓らしきものには光和元年(178)以降の生まれで実子」とあるものくらいですが、まあ関羽の推定年齢からして十分あり得る程度の根拠でしかなく、所詮はグレーゾーンの域を出ません。

 

 

まあ、弟の関興(カンコウ)のが空しい記述で終わっているのですが……いずれにせよ、正史を知ると拍子抜けしてしまう人物の一人ですね。

 

 

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実際のところ強かったのか

 

 

さて、最後に論じる事自体無意味な気もしますが……関平が実際に部将として強かったのかどうかをちょっと考えてみましょう。

 

 

まあ結論から言うと、グレーゾーン。何をするにも、関羽のついでに死んだ記述だけでは、どうとも言えません。警戒されて連座を食らった可能性もありますが、そもそも関羽クラスの危険人物になると、一族郎党処刑が当たり前直系の息子が生き延びる可能性はほとんどないと言って良いでしょう。

 

 

しかし、それでも希望はあります。というのも、関羽伝の他にわざわざ敵である孫権や潘璋の伝にも、その名前が記されているからです。

 

 

関羽だけでも十分すごいのに、わざわざついでで名前が載せられるというのは、つまり関羽の軍の中でも要になった人物という可能性の高さの表れでもあります。

 

無論、息子というだけで十分重要人物なのですが……それでも単に「関羽の息子」とせずに名前を残されたというのは、それだけ名も売れていた証なのではないでしょうか?

 

 

まあ、所詮は都合のいい妄想なのは否めませんがね。

 

 

 

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻

 

 

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生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州南郡枝江県

 

 

 

 

霍峻(カクシュン)、字は仲邈(チュウバク)。記述は短く活躍も少ない言ってしまえばモブ同然の人物ですが……その少ない活躍の内容がとんでもないことになっている人物です。

 

コーエーの三國志シリーズでも統率のステータスは高く、11では100中の80という高い評価をたたき出しました。

 

 

まあ伝も息子の霍弋(カクヨク)がメインだったりするわけで、一発屋と言えばそれまでですが……今回は彼の伝を追ってみましょう。

 

 

 

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荊州動乱の末

 

 

 

霍峻には霍篤(カクトク)という兄がいましたが、彼は若くして死亡。霍峻は兄の主君・劉表(リュウヒョウ)によりその後を継ぎ、兄の集めた私兵数百の指揮を執るようになりました。

 

 

建安13年(208)、ついに北を制した曹操(ソウソウ)が南に目を向けると、これまで劉表一強だった荊州が慌ただしくなり始めます。

 

しかも折の悪いことに、劉表は動乱の風が強まりつつある中で死去。後を継いだ劉琮(リュウソウ)は曹操に降伏し、荊州の人たちは曹操に降るか、あるいは客将で反曹操を掲げていた劉備(リュウビ)についていくかで二分してしまったのです。

 

 

霍峻はこの時、劉備についていくことを選択。兄の軍勢を率いて劉備への帰順を表明し、そのまま中郎将(チュウロウショウ:指揮官。将軍のひとつ下の役職)に任じられました。

 

 

その後、霍峻は劉備について行って、益州(エキシュウ)の劉璋(リュウショウ)の元に出立。

 

劉備はこの時、劉璋を裏切ってその領地を丸々手に入れる算段であり、霍峻ら新参の部将を多く連れていくことで劉璋の油断を誘ったのです。

 

 

 

 

葭萌は!私が!守る!

 

 

 

まんまと益州に入り込んだ劉備がいよいよ劉璋に攻撃を加え始めると、霍峻は益州攻略部隊の本拠地である葭萌(カボウ)の守備を任されます。

 

しかし、葭萌はもともと益州北部の張魯(チョウロ)を迎え撃つための前線基地であり、しかもそれを守る兵はわずか数百。当然ながら、劉璋や張魯の魔手が葭萌に迫ってきます。

 

 

まず仕掛けてきたのは張魯。彼は劉備と劉璋が争い始めたのをいいことに、どさくさ紛れに葭萌へと謀略の手を忍ばせます。

 

葭萌にやってきたのは張魯の部将である楊帛(ヨウハク:楊伯のこと?)の軍勢。楊帛は霍峻の味方として、「共に戦うべく援軍にやってきました!」と霍峻軍に合流しようとします。

 

しかし霍峻は、「我が首は取れてもこの葭萌は奪えんぞ!」と一喝。張魯が何を企んで葭萌に来たのかはわかりませんが、楊帛は霍峻のこの一声で退散していったのでした。

 

 

さて、こうして張魯の介入を未然に防いだ霍峻でしたが、今度は劉璋軍が1万余りの大軍で葭萌に接近。未曽有の危機を迎えます。

 

数百対1万という兵力差では勝負にならず、霍峻らはまたたく間に包囲されてしまうのですが、なんと霍峻軍はそんな絶望的状況でも驚異の粘りを見せ、1年余りもの間、葭萌を死守。

 

しかも敵軍の隙を縫って出撃し、敵将である向存(ショウソン)を討ち取って撃退してしまったのです。

 

 

劉備は益州平定を完了した後で霍峻のこの活躍を聞くと大喜び。梓潼(シトウ)という郡を益州北部に設立すると、霍峻をそこの太守(タイシュ)に任命しました。

 

 

 

こうして劉備軍希代の名将としての活躍が期待された霍峻でしたが、梓潼太守を務めること3年、40歳の若さで死去。

 

劉備は霍峻の死を大いに悲しみ、自ら大勢の官吏を連れて葬儀に出席。酹(ライ:酒を地に注いで霊を祭る)なる儀式を催し、そのまま彼の墓で寝泊まりすることで、最大限の哀悼と敬意を表して霍峻を送り出したのでした。

 

 

 

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人物評

 

 

 

歴史上にありがちなただの一発屋でありながら、その一発がとんでもない大きさだった霍峻。数年前までは赤の他人だった劉備がとんでもなく肩入れするあたり、寿命さえ長ければ一発どころかとんでもない大物にまで上り詰める可能性すらあったのではないでしょうか。

 

 

さて、そんな霍峻に対する、陳寿の評がこちら。

 

 

孤立した城を守ってなお動揺することが無かった。記録に値する人物である。

 

 

まあ、葭萌の籠城戦しか書くことがないのは当然ですが……何がともあれ、1万の軍勢を数百でというのは偉業と言う他ありません。

 

もっともおおかた数字は盛っているのでしょうが、それでも数百対数千の戦いとか、そんなところ。どのみちとんでもない話である事には違いありません。

 

 

ちなみに霍峻が亡くなったと聞いたとき、劉備は諸葛亮(ショカツリョウ)に以下のように漏らしています。

 

「立派な上に功績もあった」

 

それが酹、そして墓で寝泊まりという最大限の敬意を引き出したのですから、やはり劉備にとっても非常にありがたい、優れた人物だったのでしょう。

 

 

演義においては光る所はあるものの凡将の域を出ず、記述の少なさからは目立つことなどほとんどない霍峻。しかし、こういう地味ながらとんでもない名将がいるからこそ、歴史上の隠れた逸材を探すのは面白いのです。

 

 

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻

 

 

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生没年:?~景耀4年(261)

 

所属:蜀

 

生まれ:益州犍為郡武陽県

 

人物伝・蜀書

 

楊戯(ヨウギ)、字は文然(ブンゼン)。

 

この人もまた、マイナーな人ではありますが……まあ、独自に伝も立ってるすごい人です。「十人十色」の逸話でも、ちょろっと出てきた人ですね。

 

とはいえ、もしかしたら彼の著作した蜀の偉人伝『季漢輔臣賛』を題材にすることで、蜀の人たちを賞賛しようとする陳寿の策謀とか何とか言われることもありますが……

 

 

さて、では楊戯とはどんな人なのか、見ていきましょう。

 

 

 

 

 

面倒事は避ける主義

 

 

この人は若いころから評判が高く、かの諸葛孔明にも目を付けられていた人物でした。

 

 

蜀に仕えたのは、だいたい20歳ごろ。最初のうちは軍事裁判の仕事をしており、この頃から「公正で納得できる裁判をする人だ」と、その仕事ぶりはかなり評価されていたようです。

 

 

やがて中央にも呼び出され、順調に出世。彼にまつわる逸話が多く出てきたのは、諸葛孔明の死後の事。

 

 

ある時蒋琬に呼び出されて会議を開いた時も、上司である彼の面目を気にして、反対意見をあえて黙りこくってやり過ごすことで無礼との批難を回避。

 

しかし、いざ意見を求められると、スラスラと単純明快に、しつこくならないよう答えてみたりと、答弁の力量に特に優れていたように思われます。

 

 

どうでもいいことでしょうが……この、「わかりやすく簡単に、かつしつこくならないように」という返答って、けっこう難しいんですよね。たいていの人は話が長くなるか短すぎてよくわからないかのどちらかで、私なんかは回りくどく難しくなりがちです。

 

この辺り、楊戯の優れたコミュニケーションスキルが伺える話です。

 

 

 

 

 

この楊戯、さらには人物眼にも優れていたようです。

 

というのも、譙周(ショウシュウ)という、当時「大したことないな」と言われていた人物を、彼だけは高く評価したとか。しかも、「俺や今後生まれる俺の子孫以上だな」と、それはもう大絶賛だった様子。

 

 

実際、譙周はその後も蜀が降伏と徹底抗戦の二択を迫られた際に、戦う意思を持つ人間の前で堂々と降伏を説いたり、正史三国志の生みの親である陳寿の師匠として有名になったりと、彼の評価の通り、譙周は見事に歴史に名を残したのです。

 

 

 

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一方気に入らない相手には……

 

 

とまあこんな感じで、頭が良く気遣いのできる楊戯でしたが、気に入らない相手に対してだけは、その素晴らしい人物という姿は跡形もないくらいに崩れ去った様子、口も態度も悪い影の姿が浮き彫りになるのでした。

 

 

さて、その気に入らない相手とは、諸葛孔明の後継者として今なお高い評価を受けている姜維(キョウイ)。

 

 

彼を卑しい人間と思ったのかどうなのか……楊戯は酒の席で姜維をちょくちょく馬鹿にして、心底軽蔑したような対応をしたのです。

 

 

姜維も表立っては笑って許してはいましたが、内心でははらわたが煮えくり返るような思いだったようで……

 

結局、キレた姜維の陰謀によって失脚し庶民に落とされ、その後復職はならなかったようです。

 

 

陳寿の評では、「怠惰で手抜きすることもあったが、公正な態度を崩さず、プライベートでは義理堅かった」とあり、けっこうな硬骨漢というか、どこか一昔前の、芯の強い昼行燈を彷彿とさせる性格だったのかもしれませんね。

 

 

 

 

実際のところ……

 

 

さて、ここまでつらつらと書いていきましたが……実際のところ、楊戯が立伝されているのは蜀伝の最後。しかもその後に、彼が記した蜀の人物伝、『季漢輔臣賛』という書物に沿って、立伝するほどの資料が現存しなかった人物についての捕捉がなされています。

 

 

蜀では特に武官に関する資料の取り寄せに苦労したようで、そういった人物は伝が省かれています。

 

陳寿はそういった、飼料不足のため伝を立てるに至らなかった人物について記載するために、楊戯伝を立てたのではないかという見方ができますね。

 

 

また、一部では、「晋の検閲をうまくスルーして蜀の人物を極力良く書こうと苦慮した結果、季漢輔臣賛の記述という名目で蜀の名臣に賛辞を送った」という意見もあります。

 

 

実際、晋は形の上では魏からの引継ぎをした国家。その敵である蜀(と呉)は、どうしても悪く書かなければならない事情があります。

 

陳寿はそういったやむを得ない事情の中で、祖国をこうして称える最大限の努力を行った、その結果が楊戯伝という伝なのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

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生没年:?~?

 

所属:劉備→魏

 

生まれ:豫洲潁川郡長社県

 

 

統率 近衛兵の指揮をその辺の雑魚が任されるとも考えにくい。やはりそれなりの軍事能力があったのだろう。
武力 C+ 一時期人斬り家業に手を染めかけたあたり、並の人間よりは優れていたと考えるべきか。
知力 A- 知名度ブースト込み。まずもって鬼才だったのだろうが、活躍の記述がなさすぎる。庶民出身者ゆえか?
政治 A- 高官に上ったのだからかなり高い政治力を持っていたのだろうが、残念なことにこちらも知名度ブースト込みの査定。
人望 C+ 庶民出身、元ヤン、嫌われそうな職業の三種の神器が光る。が、友人のハイスペックさと最終的な官職から、これらのマイナス点を上回る何かがあったようだ。やはり謙虚は最強か……

 

 

 

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徐庶(ジョショ)、字は元直(ゲンチョク)。本当は魏の臣ですが、諸葛亮伝に付伝されている関係からこちらに記載します。

 

演義では八門金鎖の陣なる鉄壁のチート陣形を打ち砕くという役割を与えられていますが、正史における軍略のほどは不明。そもそも正史には立伝すらされておらず、彼の事績を追うには『魏略』という史書にある彼の伝を追っていくことになります。

 

 

もっとも、活躍そのものは史書からスルーされているわけですが……ともあれ、今回は徐庶の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

若かりし日は任侠気取り

 

 

 

徐庶の家はけっして名家の出ではなく、庶民かそれに近い身分の人物でした。

 

若い頃の名前は福(フク)。徐庶は結構晩年まで「徐福」という名を名乗っていますが……ややこしいのでここでは徐庶と統一します。

 

 

さて、若かりし日の徐庶はどうにもグレていた時期があったようで、撃剣(ゲキケン/ゲッケン:護身用の刀。投げナイフ?)に長けた武芸者として、任侠のヤクザ道を進んでいました。

 

 

そんなある日、徐庶はついに仇討ちの暗殺者として人にやとわれ、殺人の罪を犯してしまいます。

 

しかも運が悪いことに、変装して逃げているところを発見。そのまま見つかって尋問を受ける羽目になってしまいました。

 

 

しかし徐庶は、そんな役人から散々に問い詰められるも決して口を割らず、困り果てた役人が徐庶を縛り上げて市中を引き回し知り合いがいないか訪ねても、誰一人として名乗り出る者はいなかったのです。

 

そしてそうこうしているうちに徐庶の仲間が救出にやってきて、なんとか徐庶は助けられて逃げおおせることができました。

 

 

こうして難を逃れた徐庶は思うところがあったのか、この件以降は任侠の道を封印。粗末な頭巾に貧者の服を着て、学問にはげむようになったのでした。

 

 

 

 

運命好転

 

 

 

こうして学者の卵として学問の道に目覚めた徐庶でしたが、もともとはチンピラ同然の男。周囲からは完全にヤバい奴と思われ、遠ざけられてしまっていました。

 

そこで徐庶は、自ら謙虚な姿勢を保って、早朝に起きては一人で掃除を行い、周囲への気配りを忘れずに行うことで周囲に溶け込もうと尽力。また経書にも精通し、勉学も態度も優等生になりきろうと試みたのです。

 

 

その甲斐あってか、石韜(セキトウ)なる人物が徐庶とつるむようになり、ようやく友人に恵まれました。

 

 

その後、中平年間(184~189)に黄巾の乱に始まる戦乱が起こると、二人は戦を嫌って荊州(ケイシュウ)に疎開。そこでも学問への理解を深めていき、その過程で諸葛亮をはじめ多くの友人とも知り合うことになりました。

 

 

この時に徐庶が師事したのは、ほぼ間違いなく水鏡先生こと司馬徽(シバキ)。

 

司馬徽は巨大な学閥を持つ超有名人であり、庶民出身の徐庶が本来知り合える人物ではありません。とすれば、もしかしたら徐庶はこの時にはある程度以上有名になっていたのかもしれませんね。

 

 

徐庶は特に諸葛亮とはかなり馬が合ったようで、崔州平(サイシュウヘイ)なる人物と共に、諸葛亮の親友として書かれています。また、無名にもかかわらず自らを古の偉人に例える諸葛亮の変人ぶりを見ても、「その評価は妥当だろう」とその才幹の本質を見抜いていたようです。

 

また、諸葛亮も徐庶の才覚を認め、「郡の太守(タイシュ)や州刺史(シュウシシ:州の監査官)くらいは間違いなく行ける」と太鼓判を押していたとか。

 

 

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荊州動乱、その後

 

 

 

後に徐庶は、ひょんなことから荊州北部の新野(シンヤ)を間借りしていた劉備(リュウビ)と対面し、能力の高さを買われます。こうして徐庶は一時期劉備軍に身を置くことになりますが、この時に諸葛亮を紹介したとされています。

 

 

徐庶は劉備に対して諸葛亮の才覚のほどを伝え、「彼は臥龍(ガリュウ:眠れる龍)と言える人物です」と絶賛。劉備は「連れてきてくれ」と徐庶にお願いしますが、徐庶はここで首を横に振り、以下のように答えます。

 

 

「彼は私の言葉では会う事は出来ても、ここに連れてくるのは不可能です。彼を仕官させたいなら、ご自身で訪問いただくしかありません」

 

 

諸葛亮は自分を名将や名宰相になぞらえるだけあって、もしかしたらプライドが高いところがあったのかもしれません。親友である徐庶はそれを理解し、またそれを劉備にさせるだけの価値があると踏んでいたのでしょうね。

 

かくして諸葛亮は、後に三顧の礼と言われる劉備からの懇願を経て仕官。徐庶はある意味、蜀という国を建てるに至った大きな功労者だったのです。

 

 

 

しかし建安13年(208)、劉備が南下してきた曹操(ソウソウ)に追いやられると、徐庶の命運もまた大きく変転していくのです。

 

この時荊州は曹操につくか劉備につくかで割れていましたが、徐庶は友人の石韜と共に曹操陣営に鞍替え。以降、徐庶は魏の幕僚として出世していくことになるのです。

 

 

まあ実態は徐庶の母親が曹操軍の捕虜になったため、劉備の許可の元で出奔したわけなのですが……どういうわけか、正史三国志の中では直接の描写はされていません。

 

せいぜいいあるのは、程昱伝の注釈に、他の話の引き合いとして間接的に語られている程度。これが勝者の歴史の闇か……

 

 

さて、こうして魏の臣下に収まった徐庶ですが……右中郎将(ウチュウロウショウ:近衛隊の指揮官)を経て、最終的には御史中丞(ギョシチュウジョウ:官吏の監視、弾劾を行う。その部門における責任者)にまで上り詰めています。

 

 

しかし、この官位は諸葛亮からすればいささか意外。北伐の折徐庶と石韜の話を聞いたとき、「あの二人があの程度の身分なのか……」と魏の人材層の厚さにため息をついたとか。

 

 

徐庶は、その後数年の後に死去。『魏略』には、諸葛亮とほぼ時を同じくして亡くなったとされています。

 

 

ちなみに補足しておくと、御史中丞の仕事は州刺史などよりランクは上。庶民出身者が到底就ける位ではなく、むしろかなり出世したほうと言えます。

 

諸葛亮のあの評価は、「どれほどエコヒイキで潰されても、最低限そのくらいには行ける」というニュアンスのものだったのか、それとも記述そのものが嘘っぱちなのか……。情報元の魏略自体、玉石混淆の胡散臭い資料とされていますが……

 

 

 

 

親友から見た徐庶の姿

 

 

 

最後に蛇足になりますが、諸葛亮は自分が高く評価した董和(トウカ/トウワ)と並んで徐庶の名前を挙げ、その才略を絶賛しています。

 

その一節を、ちょっと拾ってみましょう。

 

 

異なる意見を参考に検討を重ねて的確な施策を行うのは、ボロの草履を捨てて宝石に変えるようなものだ。この点、徐庶はこうした対処を迷わず行えていた。

 

もし私が徐庶の十分の一の謙虚さと董和の繰り返し検討する姿を手に入れることができれば、ミスも大きく減るのだが……

 

 

とまあこんな話から、徐庶はメディアでは控えめな常識人枠として出ることが多いのです。

 

実際に謙虚を貫いたその姿勢は、荒くれの自分を隠すor消すための努力の末の外殻なのか、はたまた本当の姿だったのか……。

 

 

ちなみに徐福から徐庶に名を変えたのは、御史中丞の職務を行うようになってからだとか。庶民出身、しかも荒くれが、格式高い同郷の名士たちと肩を並べ、あろうことか彼らを弾劾していく……こういう立場に立った後の「庶」の文字に重いものを感じるのは、私だけでしょうか?

 

 

 

続きを読む≫ 2018/10/15 18:24:15

 

 

 

生没年:?~建興12年(234)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州南陽郡

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 B 劉璋軍では護軍を任され、蜀の派閥争い節では「益州陣営筆頭」と呼ばれる人。戦争は強かったようだが、部下と揉め事を起こした記述がある。
武力 数万の賊を五千の兵だけで討伐し、しかも城まで救う人。留守番役筆頭格で北伐における出番はほぼないが、武名もあったのだろう。
知力 卒のない仕事ぶりから知力はあった。最後にバレバレの言い訳をかましたが、むしろ陰謀だった可能性も捨てきれない。ただし陸遜と互角というのは嘘。
政治 県令時代に実績が飛び抜けたいたのもあるが、蜀科制定メンバーの一人。司法にも詳しかった事が伺える。また、やたら幕府を持ちたがったらしく、この辺からも自分の統治能力への自信がうかがえる。
人望 当然ながら最後のやらかしから、蜀軍中ではボロクソに言われまくったことが窺い知れる。野心はあるが、実行するには当人の器用さが足りなかったようだ。

 

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李厳(リゲン)、字を正方(セイホウ)。有能な官吏で民衆からも良く思われていましたが、政界における立ち居振る舞いは不穏そのもの。はっきり言って、政治力や民衆の声望がある分、政権や名士からすれば危険人物です。

 

まあ、傍から見てるとこういう人は面白いのですがね。自分の官吏人生に止めを刺した事件ばかりが取り佐多されていますが、それ以外にも危ない匂いがする逸話はあります。

 

 

さて、今回はそんな李厳について見ていきましょう。

 

 

 

 

 

能吏李厳

 

 

 

李厳は、はじめは地元・荊州(ケイシュウ)の役人としてスタートを切り、その有能さであっという間に有名人になりました。その後は、各地の県でトップとしての仕事を歴任。まさにエリート官僚と言ってもよいキャリアを積んだのです。

 

その後曹操(ソウソウ)によって荊州が戦乱の憂き目に立たされると、李厳はそのまま西へと出奔。今度は益州(エキシュウ)にて劉璋(リュウショウ)のお世話になる事になりました。

 

この時に任されたのは、本拠である成都(セイト)の県令(ケンレイ:大きな県のトップ)。李厳はここでも高い業績を上げて、一躍能吏として有名になったのです。

 

 

 

その後、益州もついに戦禍に晒されるようになります。というのも、劉璋が客将として囲っていた劉備(リュウビ)が造反。各地を占領しながら成都へと迫ってきたのです。

 

李厳は建安18年(213)、護軍(ゴグン:軍の監督役)に任命されて劉備討伐へと出陣。劉璋からは綿竹(メンチク)を守って戦う事を期待されましたが、李厳は軍勢を率い劉備に降伏。裨将軍(ヒショウグン)として劉備軍に寝返ってしまったのです。

 

 

そして建安19年(214)、ついに旧主である劉璋が劉備に降伏。晴れて益州は劉備のものとなり、降将として活躍した李厳は興業将軍(コウギョウショウグン)に出世。成都の東に位置する犍為(ケンイ)郡の太守に任命されました。

 

 

 

建安23年(218)には、数万もの部下を抱える大規模盗賊団が、李厳の治める犍為郡に侵攻。軍中の資中(シチュウ)という県を訪れ、悪さをするようになりました。

 

この時、劉備は北の漢中(カンチュウ)にて曹操軍との抗争にかかりきり。徴兵を行わない限りは、李厳の手元にいる五千の兵以外を動員できない状態だったのです。

 

 

が、李厳はそんな危機的状況においても、あえて徴兵を行わず五千の軍勢だけで盗賊団を討伐。首謀者を斬って団員を皆元の戸籍に戻すことに成功したのでした。

 

 

さらに越巂(エツスイ)郡の蛮族が領内に侵攻して城を取り囲むという事件が発生したものの、この時も李厳は部隊を率いて戦場に急行。彼らを蹴散らして領地を救援したのです。

 

 

この功績から李厳は輔漢将軍(ホカンショウグン)となり、章武2年(222)には尚書令(ショウショレイ:宮中文書の元締め役)となり、翌年に劉備が危篤となると、その子劉禅(リュウゼン)を支える屋台骨である諸葛亮(ショカツリョウ)の補佐役として後を託されたのです。

 

 

 

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蜀の後方を守る者

 

 

 

諸葛亮が本格的に政治の中枢を握るようになると、李厳は劉備の遺命に沿って中都護(チュウトゴ:諸軍事を司る司令官)として、処罰権限のひとつ仮節(カセツ)を与えられ、さらに黄禄勲(コウロククン:宿営、近衛隊の総括)の仕事を付与されました。

 

また、建興4年(226)には前将軍(ゼンショウグン)に昇進し、諸葛亮の北伐準備と連動して、軍の駐屯地を東の前線から成都寄りの江州(コウシュウ)に移動。そこに城を構えて後方支援の体制を強化したのです。

 

 

また、旧知であり劉備時代には一緒に上庸(ジョウヨウ)を攻めた仲でもある魏の孟達(モウタツ)に、「助力してほしい」と寝返りを訴える書状を送付。その心に揺さぶりをかけたことが史書に記されています。

 

とまあ、この寝返りは魏に看破されたことで失敗に終わったのですが……とにかく、李厳は諸葛亮の北伐を後方でバックアップ。上手く行くように後押しする役割を担い、それに忠実に動いていたのです。たぶん。

 

 

そして北伐が始まってしばらくの建興8年、李厳は将軍職でもトップクラスの栄誉と言える驃騎将軍(ヒョウキショウグン)に昇進。諸葛亮の軍事行動を支える右腕として、ついに武官でも最高位に限りなく近い地位へと上り詰めたのです。

 

 

またこの時、魏の曹真(ソウシン)らが漢中への侵攻を開始。諸葛亮はこれを阻止すべく、李厳にも二万の兵を率いての救援を要請。後方支援は息子の李豊(リホウ)にひとまず引き継がれ、李厳は漢中に出立しました。

 

 

……が、偶然の大雨に助けられ山道も崩落したことにより、魏軍は戦うことなく撤退。蜀軍は損耗無しで危機を乗り越えることができましたが、諸葛亮は翌年には再び魏を攻めることを計画。李厳はそれに備え、漢中に留まって政務を行うことになりました。

 

 

 

『諸葛亮集』ではいつの話かは知らないものの、李厳が諸葛亮に対して「このまま王の位に就いてしまっては?」という旨の手紙を送っています。

 

王は帝の下で独自の国家を持つ存在。ちょうど漢では曹操が王に就いたことで、数年後に後を継いだ息子・曹丕(ソウヒ)によって魏に成り代わられており、この誘いを受ければ諸葛亮が蜀に代わる帝国を築き上げるのも不可能ではありませんでした。

 

 

そんな危険な話であるため、諸葛亮は「魏が滅びて漢に時代が戻れば、あなた方他の功臣の出世と共にその話をあり難く受けるのですが、今はちょっと……」と断りを入れています。

 

しかしこれがもし本当だとしたら、李厳は蜀の国家転覆すら目論んでいても不思議のない人物と言えるかもしれませんね。

 

 

 

 

改名、そして凋落

 

 

 

北伐に備えての政務を行っている間、李厳は李平(リヘイ)という名に改名。わざわざ「平たい」という名前を使うあたり、何かあったのでしょうか?

 

ともあれ、李平と名を改めた李厳(ややこしいのでこちらに統一)が漢中に来た翌年の建興9年(231)、諸葛亮による大規模な北伐軍が発足。李厳はこの時漢中に留まり、軍勢を支える軍需品の輸送を一手に背負うことになりました。

 

 

しかしこの北伐のさなか、季節による長雨に見舞われて兵糧輸送は困難を極めます。結局兵糧が上手く運べなくなったことから、李厳は部下を諸葛亮の元に派遣して現状を報告。これを聞き入れた諸葛亮は、一大事に見舞われる前に軍を撤退させました。

 

 

が、ここで李厳は、とんでもない大チョンボをやらかそうとします。

 

「はて、何故戻ってこられたのです? 兵糧は足りていたはず……」

 

なんと自分で兵糧不足を伝えておきながら、いざ諸葛亮がもどると完全にすっ呆けてみせたのです。

 

しかもそれに前後して、劉禅にも「今回の撤退には、やはり敵軍をおびき寄せる意図があってのもののはずです」と事情を知らないフリして上奏。何考えてんだこいつ

 

 

しかしそんな李厳の残した書状を諸葛亮はまだ保管しており、これを整理して朝廷に提出したため、李厳の大嘘はあっさりバレてしまいます。

 

結局李厳は返答に窮して謝罪。息子の李豊は連座を免れましたが李厳は庶民に落とされ、梓潼(シトウ)郡に流されてしまったのです。

 

 

その後も李厳は復職を期待して時期を待っていたようですが、諸葛亮が建興12年(234)に死亡すると、望みが断たれたとばかりに発病、すぐに亡くなったのでした。

 

 

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うん、この人ヤバいね!

 

 

 

さて、名実ともに優れた宰相の元には、どうしても転覆をそそのかす有能な野心家がいるものですが……おそらく李厳は、そんな危険な官僚の一人だったのでしょう。

 

蜀の文官である陳震(チンシン)は「あいつ腹の底にトゲがあるっスよ」と忠告したり『季漢輔臣賛』にも「協調も意見の申し立てもせず、道義に外れたことをしやがった結果、世間から追放されて全部失った」とまあボロクソに書かれています。

 

まあ季漢輔臣賛は蜀を称えるものだから、害をもたらした人をボロクソに言うのは当然として……それでも、やはり野心が隠し切れない人物だったというのは間違いないでしょうね。

 

 

ちなみに陳寿の評によると、以下の通り。

 

 

才幹により栄達し、この上なく重宝された。だが最後の災難は身から出た錆である。

 

 

 

ちなみに最後の諸葛亮へのすっ呆けは、史書に書かれていることを信じる限りは、ただ自分が悪いと思われたくないだけの責任転嫁。これ以外に意味はありません。

 

しかし諸葛亮の上奏には「自分の幕府を開こうとしていた」という証言があり、また、諸葛亮と劉禅に対しても言う事がまるで違う。そして、李厳が保身と物欲のためだけにこんなことをするしょーもない小物でもなさそうな辺り、どうにも匂います。

 

 

完全にただの推測になりますが……李厳が放った謎の言い訳の狙いは、諸葛亮と劉禅および蜀朝廷の内部分裂だったのではないかと思われます。

 

劉禅自身は諸葛亮を深く信頼していましたが、諸葛亮の死後に李邈(リバク)なる人物が「国家を牛耳る奸賊がいなくなり、これで国は安泰です」と口走った逸話もあり、もしかしたら朝廷内では反諸葛亮派も跋扈していた可能性は低くはありません。

 

彼らの暴走によって諸葛亮が罷免あるいは逆賊認定されれば、蜀の体制は大きく変わります。

 

 

とすれば、李厳はこの突拍子もない言い訳によって、

 

 

1.諸葛亮の失脚

 

2.諸葛亮の反逆および彼を中心とした新国家の樹立

 

 

のいずれかを目指していた可能性もないとは言い切れません。まあ所詮はタダの妄想ですが……実際が何にせよ、食えない人物だったのは事実。

 

ちなみに蜀の法律である『蜀科』の制定メンバーにも組み込まれており、やはり政治や司法にも高い能力を持っていたことも確かでしょう。

 

 

それにしても、彼はいったい何が狙いだったのか……諸葛亮が虚言の証明に失敗したifとかも、ちょっと見てみたい気がします。

 

 

 

 

 

 

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生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:益州巴西郡漢昌県

 

 

 

 

句扶(コウフ)、字は孝興(コウキョウ)……とかいうガチで影が薄い人が、蜀にはいます。

 

史書に活躍の記述は無し。ただ王平伝についでとして付伝され、ザックリとした概要だけが書かれた事績不明の猛将の一人ですね。にもかかわらず、この妙な影の薄さはどうしたものか……

 

 

語ることもほとんどないので、まずはザックリと史書の解説を見てみましょう。

 

 

 

 

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蜀後期を代表する猛将……だよね?

 

 

 

諸葛亮(ショカツリョウ)の北伐には、相応に粒ぞろいな猛将や名将たちが随行しています。その中でも特に代表的なのが、姜維(キョウイ)、魏延(ギエン)、王平(オウヘイ)辺りでしょうか。

 

で、句扶はその中でも、前線指揮官である王平に次ぐほどの名声、事績を持った人物。

 

 

その人となりは忠義に秀でて武勇に優れ、人柄も寛大だったとか。

 

 

そんな句扶は各地を転戦してたびたび戦功を立て、最終的には左将軍(サショウグン)に昇進、列侯として王平の故郷である宕渠(トウキョ)県に領地を持つほどの大身になったそうです。

 

 

孝興という字は、『華陽国志』に記載があります。という事は、おそらく彼は、地元名士かそこらの出なのでしょう。

 

 

張翼(チョウヨク)と廖化(リョウカ)が大将軍になった時に、人々は以下のように蜀の将を称えたと言われています。

 

「前方に王平と句扶が、後方には張翼や廖化がいる」

 

 

こういった逸話が残っている辺り、間違いなく実績十分の名将のはずなのですが……うーん……

 

 

 

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結局マジで何した人なん?

 

 

 

蜀は資料の散逸が特に激しかったようで、特に当時は低級民族と名士から見下されていた武官職の記述は驚くほど少ないです。

 

そんな資料散逸で忘れ去られた人物のうち一人が、句扶という人物なわけですね。

 

 

さて、王平の活躍は、蜀でも飛び抜けたもの。諸葛亮の北伐てたびたび戦功を立て、対魏戦線のエースメンバーに入るくらいの活躍をしています。

 

バッサリと抜粋すると、街亭の戦いでは全滅を免れる活躍を示し、第四次北伐では祁山(キザン)にて敵将・張郃(チョウコウ)を撃退。挙句に興勢の役では劣勢の中奮戦し撃退という華々しい活躍を上げていますね。

 

 

そんな王平の次に名前が来るのが句扶という事は、ほぼ間違いなく蜀でもエースクラスの勇将……のはず。

 

 

そんな人物にもかかわらず、資料散逸の中でも蜀の功臣を称える『季漢輔臣賛』の中にもノミネートされていないとは、一体どういうことなのか。

 

個人的には、季漢輔臣賛作者の楊戯(ヨウギ)が北伐大万歳の姜維を徹底的に見下していた辺りにも、あるいは原因があるのではと推測はしますが……さすがに曲がりなりにも蜀の功臣を好き嫌いで選んで除外というのも、なかなか考えつかないもの。

 

 

もっとも、季漢輔臣賛には北伐で活躍した武将やただの武官は名前が上がりにくい傾向があり、いかにも名士の読み物といった感じのもの。

 

もしかしたら楊戯は、好き嫌い以前に「句扶がただの一部将に過ぎないから」という理由で句扶の記述を除外した可能性も否めません。何せ、王平すらも除外されてしまっていますしね。

 

 

……が、『華陽国志』に名が上がるという事は、少なくとも家柄はそれなりといったところ。そこそこの家に生まれた人間ならば、記述があってもいいかもしれませんが……謎は深まるばかり。

 

 

 

 

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生没年:?~延熙14年(251)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州南陽郡

 

 

 

 

呂乂(リョガイ)、字は季陽(キヨウ)。演義では登場せず、何でも呂義(リョギ)という人が彼の代役という説があるのですが……その話はまあいいでしょう。

 

この人はどんな人かというと、言ってしまえばバリバリの法治主義者。厳格に法を敷いてガッチリと人を統制し、何もかもをすべて綺麗に整えてしまいそうな人物です。慈悲を主旨とした政治を敷いたものの、官僚には厳しかったとか。

 

 

さて、今回はそんな法務バリバリの執政官・呂乂の伝を見ていきましょう。

 

 

 

 

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清く正しき郡太守

 

 

 

呂乂の父親はもともと、野心を密かに抱く群雄・劉焉(リュウエン)の見送り役として彼に随行しました。

 

しかし、劉焉は益州につくなり、己の野心を暴発させ群雄として独立。呂乂の父もその計画に巻き込まれて益州で孤立し、帰る術が無くなったため永住することになったのです。

 

結局その後、呂乂の父親はその戦乱のうちに死去。呂乂は幼くして孤児になってしまったことが史書に語られています。

 

 

 

呂乂本人が史書に名を出したのは、建安19年(214)に、劉備(リュウビ)が益州を完全に平定した後の事。

 

劉備は塩と鉄の高い有用性から、これらを公的機関で専売することで利益を得ようと目論み、塩府校尉(エンフコウイ)を設置。この塩府校尉の位に就いた王連(オウレン)という人物によって呂乂は招聘され、劉備軍に加入。同時に推挙された人物と共に、典曹都尉(テンソウトイ)なる役職に就任。

 

後に大規模な県の県令(県のトップ)に就任し、州内第一との名声を得、後にとうとう巴西太守(ハセイタイシュ)に就任。各県を総括する郡のトップを任されるようになったのです。

 

 

またこの時、南中の征伐を終えた諸葛亮(ショカツリョウ)がついに北伐を開始し、諸郡に徴兵や物資提供を求めました。呂乂はこれらすべての要求を完璧に呑み、物資輸送の怠りは無し、徴兵された郡の兵から脱走兵が一人も出ないほど、その仕事は整然としていました。

 

 

 

後に前線である漢中(カンチュウ)太守も務め、兵糧輸送を一切の怠りなく行って、この時も兵糧を途切れなく輸送するという見事な支援を行っています。

 

 

後に諸葛亮が亡くなって北伐がストップすると、呂乂は大規模な各郡の太守を歴任。特に大きいがゆえに不正が多い蜀(ショク)郡を治めた時には、呂乂は不正防止のために数々の政策を実施。

 

教育指導を行って治安の是正を務めたため、不正を行った面々は数年のうちに郡を出ていくことになったとか。

 

 

 

 

 

 

中枢に清きは求められず

 

 

 

そんな公正で、善良ながら厳格な政治を行った呂乂。彼はいつしか朝廷からも評価され、帝へのツッコミ役である董允(トウイン)の出世に伴って尚書令(ショウショレイ:宮中文書管理部門の長官)へと出世しました。

 

が、呂乂の厳しいまでの徹底法治主義は、上に立つようになると受けが悪かったようです。

 

呂乂伝本文には行列のために執政に支障をきたすほどの行列はできなかったと言われており、彼自身のテキパキした仕事を差し引いても、仕事に大して時間がかからなかったほどだとか。

 

 

呂乂自身は質素倹約に努め、あくまで国のために力を注ぎましたが……法律に厳しく、自分でも法律に詳しい者を好んで起用し、名声は先任よりはるかに劣っていたことが本文にすら記されています。

 

 

 

つまりこれは、呂乂の潔癖さは中央では受けが悪く、やはりある程度の融通とあくどさが必要だったということかもしれませんね。

 

 

ともあれ呂乂は、結局先任の董允らを抜くことはなく、延煕14年(251)に死去。後に似たような性格である呂雅(リョガ)という息子が跡を継いでいます。

 

 

 

また、陳寿は彼のことを以下のように記していますね。

 

 

地方官として有能さを誇示しながらも中央官僚としては言って及ばなかった名臣もいるが……呂乂はそんな人物の類いであろうか。

 

 

後に三国志演義では、呂義なる人物に代わられ未登場。法に厳格なこの名臣は、後の世でもほとんど語られることがない人物として、知る人だけが彼を語るにとどまっているのです。

続きを読む≫ 2018/09/26 17:26:26

 

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:豫州汝南郡

 

 

 

 

陳到(チントウ)、字は叔至(シュクシ)。蜀の忠臣にしてきっとおそらく名将だろう、みたいな人物です。

 

蜀の武将には圧倒的記述不足に悩まされて立伝に至らなかった人物が大勢いますが、陳到もそんな中の一人。蜀の臣下をほめちぎった『季漢輔臣賛』では趙雲(チョウウン)とセットで語られるというすさまじい人物なのですが、活躍の記述は皆無というある意味すさまじい人です。

 

 

今回はちょっと力を抜いて、陳到について書いていきましょう。記述だけなら、数行で終わります……

 

 

 

 

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陳到武勇列伝

 

 

 

さてこの陳到、なんと劉備(リュウビ)が豫洲刺史(ヨシュウシシ)の時、つまり公孫瓚(コウソンサン)の元を離れて少しした後に、地元でそのまま仕官した人物です。

 

つまり、その後呂布(リョフ)の動乱や劉備の叛逆と失敗、客将時代、果ては逃走劇から国盗りと、明らかに臣下の義理を超えるレベルで劉備に付き従った古参中の古参ですね。

 

 

そんな陳到の名声は、あの趙雲の次に必ず名前が上がるほど。共に武勇と忠節によって大いに称えられる、劉備軍でもかなり上位に位置する実力の持ち主だったのかもしれません。

 

 

しかしその武働きが具体的に史書に載る事はおろか、裴松之の注釈でも語られることはなく、登場したのはわずか1回だけ。

 

 

「東方の永安(エイアン)で呉を警戒していた李厳(リゲン)が蜀内部に政庁を移したとき、護軍(ゴグン:軍の監督役)だった陳到がこれに代わって永安の抑えについた」。本当にこの1文だけです。

 

 

この事は建興の初年、つまり劉備の死後数年と絶たないうちにあったらしく、陳到は永安の軍事のトップになると、征西将軍(セイセイショウグン)に昇進。列侯の一人として領地と爵位を与えられましたが、その領邑の場所や規模も記されぬままにドロップアウト。

 

北伐に参加したかどうかも生没年もわからぬまま、陳到に関する事績は以後一切記されていません。

 

 

 

『季漢輔臣伝』においては、一応趙雲と並んで以下のように記されています。

 

趙雲は重厚、陳到は忠烈。共に当時選りすぐりの精兵を指揮し、猛将として殊勲を上げた。

 

 

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何もかもが謎!

 

 

 

蜀将にはいたって普通のよくある事ですが……この陳到、まったくもってすべてが謎です。結局何者なのか、どういう戦い方をしたのか、そもそも槍働きとは何なのか。何もかもがスルーされ、史書では一切の功績が書かれていません。

 

元々蜀は史書が作られていなかったという話もあり、敗戦国という事もあってもともと少なかった資料がさらに散逸し、結果としてこのようなことになっているのですが……正直、これではどうとも語れないのが現状。

 

 

趙雲と並び称されたのは凄い事ですが、具体的にどう凄いのかを語るのは至難の業です。そもそも水増しや虚構が当たり前なのが歴史書なので、本当に趙雲クラスの人物なのかどうかも……

 

 

ともあれ、永安で呉軍を抑えるというのは、地味にそれなり以上の将でなければ任せることができないことです。

 

呉蜀は同盟関係にあるとはいえ、その関係は握手した手にお互い画鋲を仕込むような関係。現にお互いの使者が両国を行き来する際にも、双方お国自慢と相手国や使者のディスりを行う外交合戦が行われる有様でした。

 

さらにはその数十年後に蜀が滅亡を迎える際、援軍に来たはずの呉軍が蜀の救援を断念、そのまま裏切って永安に攻め寄せたという記載すらあります。

 

 

そんな味方と呼ぶにも微妙な相手に睨みを利かせるのだから、まあ雑魚武将では務まらないでしょう。おそらくはそれなりの人物のはずなのですが……

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/24 23:29:24

 

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀……?

 

生まれ:益州建寧郡滇池県?

 

 

 

 

孟獲(モウカク)。言わずと知れた南蛮の長であり偉大なる大王……と言いたいところですが、それは三国志演義での話。実際のところは有力土豪の一人といったところで、王というほど位が高いでもなく、そもそも異民族の統括者ではありません。

 

ただし、辺境の有力豪族として漢民族、南蛮の異民族双方に太いパイプを持っており、蜀の南の辺境において並外れた人望と名声を持ち合わせた人物でした。

 

 

正史三国志の本文に姿が見えないため、架空人物との説も有力ではないものの存在しますが……今回はそんな孟獲の事績を追ってみましょう。

 

 

 

 

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辺境の大物

 

 

 

三国志の時代に限らず、中国史は常に異民族との闘いの日々。近年でもチベットやウイグルといった種族に対する中華民族の弾圧は続いており、そういう意味ではまだ異民族との抗争の歴史は終わっていないと言えるかもしれません。

 

 

そんなわけで異民族を懐柔したり滅ぼしたり、逆に滅ぼされたりの中国史ですが、その中でもうまく異民族と交易したり、服従させたりした人物や家も複数あります。

 

例えば烏丸はじめ北方民族とよしみを結んだ袁紹(エンショウ)や遼東公孫氏、西の羌族との混血となった董卓(トウタク)や馬一門だったりがこれに当たりますね。

 

 

 

言ってしまえば、孟獲もおおよそこういった人たちに近いような立ち位置。一説によれば、現在のタイ民族との混血とも言われており、南蛮の異民族と深いつながりがあった、南中の名士です。

 

正史三国志の本文にはその名前はありませんが、裴松之による注釈としてつけられた資料のうち『漢晋春秋』や『襄陽記』、そして三国志以外にも、各県の有力者について述べた風俗史である『華陽国志』にその名前が出ています。

 

 

 

さて、孟獲らの名前が出てきたのは、劉備(リュウビ)が夷陵の大敗北の末に亡くなった後、建興元年の事。

 

この年よりしばらく、南方の辺境では騒乱が頻発。蜀の行く末に不安を持った土豪たちが、次から次へと呉に鞍替えしようと反乱を引き起こしたのです。

 

 

この時、反乱に一枚噛んでいたのが孟獲でした。彼は反乱首謀者である雍闓(ヨウガイ)に同調。上手く味方を集められなかった雍闓の代わりに、周辺の異民族に呼び掛けて次々と反乱を決起させていきました。

 

「蜀のお上が、かなりの無茶ぶりを振っかけてきたらしいぜ」

 

孟獲のそんな流言に対し、日和見をしていた部族の多くが動揺。孟獲自身の人望もあって、人は次々と雍闓に同調していったと言われています。

 

 

こうして徐々に大きくなっていった反乱軍は、いつもお世話になっております。いよいよ国内の大問題へと発展。滅亡寸前となった蜀再興の手札である南蛮との交易すら封じられたことにより、ついに諸葛亮(ショカツリョウ)率いる討伐隊が派遣されるようになったのです。

 

 

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反乱の末に

 

 

 

満を持して討伐軍と戦うことになった反乱軍でしたが、意外なまでの蜀軍の強さに苦戦。形勢不利に傾きつつあることからやがて軍中にも諍いが発生。雍闓は、なんとやる気満々で反乱した仲間である高定(コウテイ)の部下に殺害されてしまいます。

 

孟獲はそれでもなお蜀軍に抵抗しますが、諸葛亮の軍勢に対して連戦連敗。ついに蜀に服従を誓ったとされています。

 

 

この時、やる気満々で危険因子として浮き彫りになっていた高定や朱褒(シュホウ)といった人物らは皆排斥されましたが、孟獲ら危険の少ないと判断された者らは皆許され、孟獲を含め特に有能な人材は官吏へと登用されました。

 

 

諸葛亮はその後、反乱の起きた地域の土豪の中から特に有力な者らを土地の指導者と定め、彼らを南中の支配者として任用することにしたのです。

 

 

 

この戦いの過程に関しては、諸葛亮伝の注釈にある『漢晋春秋』に詳しく載っています。

 

諸葛亮は反乱鎮圧を順調に進めていく中、地元民だけでなく南蛮の異民族にも声望のある孟獲の存在に注目。彼に懸賞金をかけ、「必ず生け捕りにして連れてくるように」と軍中にお触れを出しました。

 

 

かくして、諸葛亮と決戦して捕らえられた孟獲は、諸葛亮の勧めにより軍中を見回すと、「敗因は情報不足。軍中の様子が分かった以上、次は負けん」と言い放ち、釈放されると再び諸葛亮と決戦。

 

結局その後も孟獲は敗北して捕縛されてを繰り返し、延べ七回目。反乱を起こした南中の郡をすべて平定し、滇池(テンチ)県に到達した時、ついに孟獲は観念し敗北を認めました。

 

孟獲は元の領地をそのまま任され、かくして南中の騒乱は終わりを迎えたのです。

 

 

また、諸葛亮は後にこのように述べています。

 

「我が軍には辺境に兵を多く置くほどの余裕がないから、反発の少ない方法を採るのがもっともよい。今回の行動や戦争による被害を見ても、やはり余所者を恨む声もあるだろう。」

 

 

 

さて、こうして官吏に登用された孟獲でしたが、最終的には御史中丞(ギョシチュウジョウ:官吏不正の取締役)にまで上り詰め、蜀国内でもかなりの高位に上り詰めたようです。

 

 

メディアでの「南蛮王!」なイメージから豪快な猛者をイメージしがちですが、どうやら正史の孟獲はインテリな名士のひとりだったようですね。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/21 13:32:21

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:司隸扶風郡茂陵県?

 

 

 

 

馬岱(バタイ)。正史ではもはや謎の人。彼はあの馬超(バチョウ)の従弟であり、三国志メディアでも非常に勇猛な将として描かれており、三國無双にも6で颯爽と出演。愉快ながらも影があるキャラで親しまれていますね。

 

さて、そんな馬岱の正史での様子はというと……

 

 

圧 倒 的 記 述 不 足

 

 

馬超が嫌われ者でそのあおりを受けたのか、馬岱本人がそもそもネームバリューだけで大したことのない人物だったのか……とにかく記述がありません。

 

史書に顔を出す回数、なんとたったの2回。司馬一族の公式史書である『晋書』の記述を含めても、3回しか名前が出ません。いったい何があったのでしょうか……

 

 

ともあれ、そんな微妙な馬岱の記述、字数に余裕があるのでその背景も含めて追っていきましょう。

 

 

 

 

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馬超「後を頼んだ……ガクッ」

 

 

 

馬超は元々西の辺境の英雄を先祖に持に、その地に根を張る軍閥の一人でした。しかし、西に目を向けた曹操(ソウソウ)の動きに過剰反応して反乱を引き起こしてしまった為に曹操と敵対する羽目になり、敗北。

 

馬超の一族はほぼ全員曹操の掌中にある朝廷に仕えていたため、この敵対行動を理由に全員処刑されてしまったのです。

 

 

さらに馬超はたびたび再起を図るものの、夏侯淵(カコウエン)をはじめとした曹操軍に尽く邪魔され失敗。ついに万策尽きた馬超は南へと逃れることになり、紆余曲折の末に劉備(リュウビ)に仕えることになったのです。

 

 

さて、ともあれ、こうして劉備率いる蜀の一因に加わったはいいものの……戦果は振るわず。章武2年(222)、精魂尽き果てるようにそのまま亡くなってしまったのでした。享年47。

 

 

 

さて、そんな馬超の遺言の言葉の中に、馬岱の名前が出てきます。

 

 

「一族は200人ほどおりましたが、皆曹操に誅殺されてしまいました。もはや残るのは、従弟である馬岱だけ。彼を一族の後を継ぐ者として任用していただければ、、¥思い残すことはありません」

 

 

つまり、馬超は臨終の際に、名門である馬一門の後事を馬岱に託したわけですね。これによって馬岱は一族の代表として多くの戦場に出たようで、最終的には列侯の仲間入りを果たしたとか何とか。

 

 

 

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反骨マン討伐隊

 

 

 

さて、続いて馬岱が姿を見せるのは、建興12年(234)のいわゆる五丈原の戦い。諸葛亮(ショカツリョウ)の死後に一波乱ありましたが、馬岱はこの波乱を収める人物の一人として姿を現します。

 

 

諸葛亮は自分の死に際し「速やかに撤退するように」と、撤退の段取りを重臣たちに遺していきました。この時、楊儀(ヨウギ)がその指揮を執ることになったのですが……彼と死ぬほど仲が悪かった魏延(ギエン)がこれに猛反発。

 

 

「わしがいるのに撤退とは。それに楊儀ごときの指揮下に入れとは、ふざけているのか!」

 

 

怒りに身を任せた魏延は、手勢を率いて蜀軍本隊の退路を勝手に燃やして遮断。魏延と楊儀は、互いに「あの野郎、反逆しやがりました!」と朝廷に上訴したのです。

 

この時、朝廷が肩を持ったのが楊儀。結果、魏延は反逆者として蜀から排除されることになりました。

 

魏延は反逆者にされてもなお、楊儀の排除のために行動。軍勢を率いて蜀本隊を待ち受け、迎撃態勢を整えたのです。

 

 

……が、そこで前に出てきたのは王平(オウヘイ)。彼は魏延軍の先鋒に対して口を開くと、彼らに対して大声で怒鳴り散らしました。

 

 

「丞相の遺体が冷たくならないうちから何をしているのだ、貴様らは!」

 

 

この言葉によって魏延がお尋ね者となったのを知った兵たちは思い思いに逃げて行って離散。最後には魏延の息子と重臣の数名だけとなり、魏延は逃走していったのです。

 

 

馬岱は反逆者の名を着たまま逃走を図った魏延を追跡・始末する役割を帯び、彼が向かったであろう漢中に向けて進撃。道中でか漢中に入った後かはわかりませんが、馬岱はとうとう魏延らを捕捉し、そのまま全員をまとめて斬殺。

 

魏延は諸葛亮の死を前後すると、蜀の中でも随一の猛将でした。そんな人物を野放しにして反政府組織を作られると、もしかしたら蜀はもっと早くに滅んだのかもしれん。そう考えると、この功績は非常に大きな意味を持ったと言えるのではないでしょうか。

 

 

三国志演義では、ここで馬岱は功績を認められ、爵位を受けています。

 

実際の馬岱は平北将軍(ヘイホクショウグン)、陳倉侯(チンソウコウ)と立伝されてもおかしくないくらいの高位に上り詰めており、もしかしたら魏延殺害の功績はかなり高く買われたのかもしれませんね。

 

 

 

 

総評:結局お前誰やねん

 

 

 

馬岱のその後の活躍と言えば、微妙に信用できるかグレーゾーンとされている『晋書』の司馬懿(シバイ)について書かれた『高祖宣帝懿本紀』による記載のみ。

 

曰く、翌年の建興13年(235)に再び魏に侵攻し、牛金(ギュウキン)という将軍に敗北。千余りの兵士を失ったとか。

 

以後、馬岱は史書から消えます。文字通り、どこにもその名を確認できません。

 

 

そして何より悲しいかな、蜀の名臣を賛美して書かれた『季漢輔臣賛』にもその名は語られていません。

 

雑号将軍や下手すると校尉のような、明らかに馬岱より位が下の人物についても称えられている書物なのですが……いったいどうしてこうなった。

 

 

結局のところ、事績不明のまま知名度がどんどん先行していった感じが否めない馬岱ですが……彼は強かったのか弱かったのか。

 

少なくとも彼をボロ負けさせた牛金はひとかどの武将なので、彼に惨敗したからといって必ずしも雑魚武将だった証左にはならないと思いますが……

 

 

 

ちなみに『季漢輔臣賛』における馬超の書かれ方ですが、その書かれ方はひどいものです。

 

曰く、「反覆常なく、その隙を敵に突かれて一族を殺されてしまった。これは道理に背いた結果であり、そのために劉備の元へとやってきたのだ」。

 

 

蜀を賞賛しまくるための書物ですらこの書かれよう。もしかしたら、馬岱の記述が少ない原因の一つに「あの裏切り馬超の血縁者」というのもあるのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/09/17 21:27:17

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:兗州陳留郡

 

 

 

 

呉班(ゴハン)、字は元雄(ゲンユウ)。夷陵の戦いに北伐にと、蜀後期の主力武将の一人として行動した人です。にもかかわらず、その記述は散逸したのか非常にまばら。結局は伝すら立てられていないという人物になっています。

 

彼は呉壱(ゴイツ)とは従弟の間柄なのですが……彼ともども、与えられた官位の割に活躍の事績があまりに少ないですね。

 

 

では、さっそく呉班の事績を追ってみましょう。

 

 

 

 

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夷陵の大敗北を経験

 

 

 

呉班の父親は呉匡(ゴキョウ)といって、漢帝国の代将軍である何進(カシン)の属官でした。

 

しかし、それが戦乱にの中で故郷を離れることになり、従弟の呉壱らと共に益州に移住。そのままそこに居つくことになったのです。

 

 

後に劉備(リュウビ)が益州を平定すると、これに帰順。呉壱の妹が劉備の妻となった事から蜀の皇族の仲間入りを果たし、領軍(リョウグン:近衛隊統括者)にまで出世しました。

 

 

章武元年(221)、劉備が関羽(カンウ)の仇討ちを名目に呉と開戦すると、呉班も遠征軍に参加。数千の兵を率いる指揮官として、砦を守る敵将の李異(リイ)を破って戦線を押し進めます。

 

しかし、険阻な山中を突き進んだところで、呉軍本隊と対峙。そのまま戦線は膠着し、翌年の夏まで押しても押し切れない状況が続きました。

 

 

こうして進むことができなくなった蜀軍は次第に気力が萎えはじめ、遠征軍の疲れもあって士気が激減。

 

呉班は挑発の為にたびたび呉軍を攻撃するような動きを見せましたが敵の総大将である陸遜(リクソン)に看破され、逆に士気が衰えた隙を突かれて火攻めを受け、蜀軍は未曽有の大敗北を喫してしまったのです。

 

 

多くの味方武将が軒並み戦死していく中、呉班はなんとか撤退に成功。この戦役を生き残った数少ない将軍の一人として、劉備の次の世代にも前線に立ち続けることになります。

 

 

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北伐とその後

 

 

 

劉備が無くなってその息子である劉禅(リュウゼン)が蜀帝に即位すると、呉班も引き続き忠誠を尽くし、数年の地には後将軍(コウショウグン)として仮節(カセツ:軍法違反者を処罰できる権限)と安楽亭侯(アンラクテイコウ)の爵位を与えられました。

 

 

そして、諸葛亮(ショカツリョウ)の北伐にも将軍の一人として参加。

 

 

第四次北伐に当たる建興9年(231)の戦いでは、諸葛亮の指示により魏延(ギエン)や高翔(コウショウ)らと共に、攻撃を仕掛けてきた司馬懿(シバイ)を大いに打ち負かして撃退します。

 

この時の成果は、敵兵の首三千に鎧が五千。そして弩が三千丁。わざわざ史書に成果が載せられるほどの大勝利を得たのです。

 

 

しかし、この大勝利の後、呉班の記述はぱったりと史書から消えます。

 

三国志演義では五丈原の戦いの際に戦死しますが、どうやら正史の呉班はその後も生き続け、蜀を支えてきたようですね。

 

 

功績によるものか血縁によるものかは知りませんが、呉班は最後には将軍でもトップクラスの位である驃騎将軍(ヒョウキショウグン)にまで出世。綿竹侯(メンチクコウ)の爵位を受けて、1つの郡がほぼ丸々領土に与えられたようです。

 

 

史書には、そんな呉班の人となりがこのように書かれています。

 

 

男伊達として知られ、常に呉壱に次ぐ官位を与えられた。

 

結局この高位が能力によるものか皇族としての立場によるものなのか、その答えは史書からではわかりません。劉備にわざわざ囮挑発の役割を任される辺りを考えると、やはり相応の実力はあったようですが……

 

 

続きを読む≫ 2018/09/16 13:34:16

 

 

生没年:?~建興15年(237)

 

所属:蜀

 

生まれ:兗州陳留郡

 

 

 

 

呉壱(ゴイツ)、字は子遠(シエン)。おそらくは呉懿(ゴイ)の名の方が知られていることでしょうが……司馬懿(シバイ)と諱が被ってしまうため、「壱」に名で史書に記されているとか何とか。

 

経歴というか、劉備(リュウビ)との関係性なんかが、史書を追ってみて個人的に驚いたポイントですね。

 

 

北伐においてはほとんどキーパーソンでもおかしくない位にいたのに、不自然に記述が少なく、散逸が疑われる人物の一人です(というか、蜀の武官はだいたいそんなのばっか)。高位に上り詰めたのに、何とも惜しいというかなんというか……

 

 

ともあれ、嘆いていても始まりません。さっそく、呉壱の記述、現存している部分だけを追っていってみましょう。

 

 

 

 

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劉備へと降伏

 

 

 

呉壱は元々陳留(チンリュウ)の人物でしたが、幼くして孤児となり妹と生き別れ、後に劉焉(リュウエン)と共に益州(エキシュウ)入り。後に劉焉は益州の長として漢王朝の中枢と連絡を絶ち、呉壱もそんな劉焉の部将として蜀の地で働いていたのです。

 

 

しかし劉焉の子・劉璋(リュウショウ)に代が移ってしばらく経った建安17年(212)、客将として劉璋の元に身を寄せていた劉備が、突如として反乱。

 

劉璋軍が精強な劉備軍に次々とおされていく中、呉壱も中郎将(チュウロウショウ:将軍の次官)として劉備に当たりますが、力及ばず降伏。

 

 

結局はその後、劉璋も劉備に対し降伏を申し入れ、益州の主が劉備になったのでした。

 

呉壱はこの時、劉璋とは婚姻による血縁関係となっていましたが、劉備はそれに対する反感を一切覚えず、呉壱を護軍(ゴグン:軍の監督役)、討逆将軍(トウギャクショウグン)という好待遇で軍中に迎え入れ、さらに未亡人となっていた彼の妹を嫁に迎え入れる形で厚遇したのです。

 

 

また、章武2年(221)には関中部督(カンチュウブトク)に昇進。督は軍団の総指揮官のような意味合いなので……劉備の宴席としてその力を大きく期待されたようですね。

 

 

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最後は最前線総司令官に……

 

 

 

後に劉備が亡くなると、その息子の劉禅(リュウゼン)が皇帝に即位。呉壱は、引き続き彼に仕えることになります。

 

 

そしてその後しばらくは、戦らしい戦と言えば、諸葛亮(ショカツリョウ)による南方の反乱鎮圧と平定くらい。北部の軍人である呉壱は、しばらく史書から姿を消します。

 

 

……が、諸葛亮が崩壊寸前だった蜀を建て直して北伐を開始した際、再び呉壱の名は史書に散見し始めます。

 

 

まず、建興6年(228)の第一次北伐の際。

 

この時は魏軍が蜀の攻撃への備えが万全でなかったこともあり、諸葛亮はあっさり西方の諸郡を制圧し、自軍の拠点を確保。

 

しかしそのタイミングで魏軍が本腰を入れ、主力部隊が多数援軍として到来し、蜀の軍中では、主軍が地盤を固めるまでの間に敵の主力をどう足止めするかが軍議で話し合われることになりました。

 

この時に人々が大将の候補として名を上げたのが、勇将と名高い魏延(ギエン)と、そして呉壱。この大役で名前が挙げられるという事は、呉壱は蜀を代表できるレベルである事の証左といえる……かもしれません。

 

 

しかし、諸葛亮はここで、自身の愛弟子でまだ経験の浅い馬謖(バショク)を大将に起用。結果、そのまま蜀軍は大敗北を喫してしまうのでした。

 

 

 

その後呉壱が姿を現したのは、建興8年(230)の事。呉壱はこの時魏延と共に進軍し、敵将・費瑶(ヒヨウ)の軍勢を撃破。主力ではないものの魏軍を打ち破る快挙を成し遂げ、呉壱は左将軍(サショウグン)へと昇格し、高陽郷侯(コウヨウキョウコウ)の爵位を授かったのです。

 

また、前後してか同時にかはわかりませんが、仮節(カセツ:軍法違反者を好きに裁ける権利)を授けられ、いよいよ蜀軍の中でも主力に数えられるようになったのでした。

 

 

 

建興12年(234)諸葛亮が死去すると、今度は魏延と楊儀(ヨウギ)の間で誰が軍を指揮するかの争いがおこり、魏延が死亡。

 

呉壱はその穴を埋めるように漢中部督(カンチュウブトク:漢中は対魏の前線本拠地であり、実質北方の総指揮官)となり、ついに軍事トップに上り詰めました。

 

 

……が、諸葛亮の死と北伐の負担による反動で蜀軍は大きく動くことができず、3年後の建興15年(237)に呉壱は死去。

 

 

「事績が伝わってないから伝を作らなかった」と直々に陳寿から書かれており、そっちの意味でもかなり惜しい人物だったと言えるでしょう。

 

 

ちなみに『季漢補臣伝』には彼の評が残っており、ほぼ唯一呉壱の人となりが知れる材料となっています。

 

 

武骨で博愛精神があり、劣勢の中でも敵を打ち破り、危機に陥る事がなかった。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/14 21:33:14

 

 

 

生没年:?~延熙16年(253)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州江夏郡鄳県

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 A 蒋琬と違って、興勢の役で総大将だった強みがある。北伐爆弾たる姜維の抑え役。
武力 D 蒋琬と違って攻めの気が少なく、北伐にも乗り気ではなかったらしい。とはいえ、大戦の直前に囲碁を打つくらいの余裕はあるが。
知力 A- 聡明な人物だが、警戒心という意味ではいろんな人に指摘されており、ちょっとアレだったらしい。事実、無警戒に降将に近づいて死んだ。
政治 S- 別伝によれば「数倍の速度で激務をこなして夜は遊ぶ余裕があった」とか書かれて信じられないくらい凄い。蒋琬と互角の事績を上げたが、彼が宰相やってるうちから蜀がちょっと怪しい方向に向き始めた。
人望 A 諸葛亮、蒋琬と逸材が死んだ中、残された唯一の宰相適任者。別伝なんて書かれて妙に持ち上げられている辺りから、人気は推して知るべしか。

 

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費禕(ヒイ)、字は文偉(ブンイ)。性格は軽率ではあるものの人を疑うところを知らず、仕事は激務の中でも遊び時間が作れるくらいに出来て、呉の孫権(ソンケン)からも高く評価された人物と、割と何でもありのぶっ壊れ宰相。

 

また、蜀という攻勢から見て大正義な国の宰相をしていた事もあり、別伝が作られている数少ない人物でもあります。

 

 

諸葛亮(ショカツリョウ)が死んでから状況が悪くなる一方の蜀の中で実質最後の柱とも言うべき役割を果たした人物なのですが……なんでよりによって暗殺されたんや……

 

 

今回は、そんな費禕の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

孫権も絶賛?

 

 

費禕は荊州の東部にある江夏(コウカ)郡の出ですが、幼くして父を失った事から、益州で劉璋(リュウショウ)の庇護下にある一族にお世話になる事になり、益州へ遊学。

 

劉備による益州平定後もその地に留まり、董允(トウイン)や許叔龍(キョシュクリュウ)なる人物らと共に著名人の仲間入りをしたのです。

 

 

その後、劉備によって劉禅(リュウゼン)が皇太子が立てられると、友人である董允と共にその側仕えに任命され、劉禅の即位と共に、費禕は黄門侍郎(コウモンジロウ:宮中の勅命伝達係。帝の側近)として取り立てられました。

 

また諸葛亮(ショカツリョウ)からの信任が厚く、彼が南方の反乱鎮圧から帰還した際には、他にも年齢も功績も上の人物がいるにもかかわらず費禕だけを特別に呼び出して、馬車の中に招き入れるという接待を行っています。

 

北伐に際して上奏された出師の表にも、費禕は董允や郭攸之(カクユウシ)と共に「大小問わず彼らに相談し、その通りにしてください。もし黙っていれば、怠慢を責めて処断するように」とまで言われており、いろんな意味で期待の大きさが伺えますね。

 

 

また、費禕は劉備が亡くなる直前からしばしば使者として呉へと派遣されており、他国との折衝や関係改善にも功績が残っています。

 

特に呉の臣下である諸葛恪(ショカツカク)や羊茞(ヨウドウ)といった論客から論戦を吹っ掛けられても、丁寧ながらも毅然として理路整然と言葉を返しており、孫権を驚かせています。

 

その時の孫権の言葉が、以下の通り。

 

「君は天下に通じる才幹を持っている。蜀の重臣となるだろうが、そのためにいずれはこうして会えなくなるだろうな」

 

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ぶち壊し緩衝材

 

 

 

費禕はその後侍中(ジチュウ:帝の相談役)に上りましたが、諸葛亮の願いによって魏への北伐軍に参入。呉への使者としてもちょくちょく駆り出されつつ軍務もこなすというなかなかにハードな生活を送っていたようです。

 

建興8年(230)に中護軍(チュウゴグン:護軍は兵の監督役。近衛軍の指揮監督?)となりましたが、再び司馬(シバ:軍政官)へと転向。あくまで蜀の前線に投入されたのです。

 

 

費禕がそのように前線に身を置くことになった原因の一つが……重臣である魏延(ギエン)と楊儀(ヨウギ)の存在。2人は犬猿の仲でしょっちゅう口論になり、魏延が剣を突きつけては楊儀が泣き散らすというのが、ある意味風物詩になっていたようです。

 

費禕は、この2人の間に立って諍いを仲介し、諸葛亮が亡くなるまでの間、2人の能力が十全に発揮されるよう緩衝材として動いていたのです。

 

 

……が、建興12年(234)に北伐のさなか諸葛亮が逝去すると、状況が一変。戦闘続行か撤退かで、魏延と楊儀の意見が見事に割れてしまったのです。

 

この時に費禕は魏延の元にいて、連名で「戦いを続行する」という旨を書かされたりもしましたが……費禕はその後危険を感じ取ったのか魏延の元から脱出。「楊儀は戦争経験がないから将軍に従うしかありませんよー」と大嘘をぶっこいて、まんまと逃げおおせたのです。

 

その後魏延はどうなったかというと……「諸葛亮死後に彼は制御しきれない」と朝廷から判断され、反逆の濡れ衣を着せられて討伐。そのまま処刑されてしまったのでした。

 

 

また、楊儀も楊儀で、扱いきれないと判断されたため帰国後に失脚。名誉職に飛ばされてしまいました。

 

費禕は楊儀の様子を見に行きましたが、散々愚痴と文句を気化された挙句「これなら魏に寝返ればよかった」などと言ってしまったようで、費禕はすかさず朝廷に連絡。楊儀はそのまま庶民に落とされ、誹謗中傷をまき散らした後に自殺してしまったのです。

 

 

諸葛亮死後の問題児を2人片付けた費禕。その活躍を見事と見るか表情を曇らせてみるかは、その人次第といったところでしょう。

 

 

 

 

続きを読む≫ 2018/09/11 18:36:11

 

 

 

生没年:?~建興12年(234)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州義陽郡

 

 

勝手に私的能力評

 

魏延 猛将 蜀 劉備 諸葛亮 楊儀 反骨の相 裏切り者 濡れ衣

統率 A 劉備存命時には張飛を差し置いて漢中太守となり、北伐においてはエースとして活躍した。しかし、諸葛亮死後のアレは……うーん。
武力 S 武名も武勲も、主軍武将として文句無しの実力者。漢中太守就任時の気概は見事なものだった。
知力 C 蜀の「もしも」を語る上での主役・長安奇襲策の考案者。知力はあったのだろうが、最期のアレを見ると大局が見えないタイプらしい。
政治 E イケイケの突撃武将だったが、大局眼は備えていなかった。最期には敵を差し置いて勝手に争い、扱いに困った蜀に捨てられた。
人望 E+ あり得ない裏切り者説が割と最近まで跋扈していた上にクソ勘違い野郎の楊儀を差し置いて真っ先に消されたあたり、つまりそういう事だったのだろう。しかし近年は、魏延擁護の声も……?

 

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魏延(ギエン)、字を文長(ブンチョウ)。長らくの間裏切り者として忌み嫌われてましたが、昨今の正史ブームによって再評価が進む人物の一人ですね。

 

裏切り者の証である反骨の相を持っていたという演義の設定から「諸葛亮(ショカツリョウ)といがみ合っていた」ような印象がありますが、むしろ彼が死ぬまでの間、魏延の待遇は悪くなかったようですね。

 

 

しかし、諸葛亮の子飼いである楊儀(ヨウギ)と激しくいがみ合い、また自身も我の強い人物だったばかりに裏切り者の濡れ衣を着せられ、そのまま味方に殺されたちょっぴり可哀想な武将。でも今なおみんなの嫌われ者である楊儀よかはマシ

 

 

今回はそんな魏延の事績を追っていきましょう。

 

 

 

 

 

劉備軍期待の新入り

 

 

 

正史における魏延の荊州時代はよくわかっておらず、史書にはいきなり蜀攻めについての記述から入っています。

 

建安16年(211)、劉備は蜀の地に割拠する劉璋(リュウショウ)を攻略すべく軍を西に展開。この時劉璋軍を油断させるため、劉備は古参でなく新参の武将らを主戦力に編成していましたが、魏延もその中の一人でした。

 

 

劉備軍本隊の1部隊長としてこの大事な戦局に望んだ魏延は、行く先でたびたび戦功を上げて己の力を存分にアピール。蜀の平定後はすぐに牙門将軍(ガモンショウグン)に昇進。下級ながらも劉備軍の貴重な将軍としてスタートを切りました。

 

 

劉備もそんな魏延には並々ならぬ期待をしており、建安24年(219)、自ら漢中王に名乗り出ると、曹操への抑えとして要衝の漢中を守る役目を魏延に任せたのです。

 

当時の漢中は対曹操の前線基地総本山のような場所であり、人々は「大身で劉備の家族同然である張飛(チョウヒ)が任命されるのでは」と考えている人がほとんどで、皆この大抜擢に驚いたと史書では語られています。

 

 

こうして漢中太守を任され、将軍としての地位も鎮遠将軍(チンエンショウグン)となった魏延は、群臣の前で劉備と会合。

 

この時劉備から意気込みを聞かれましたが、魏延は強気にこう宣言したと言われています。

 

曹操が天下の兵を統べて攻めたならば、必ず漢中を守ります。副将が十万の兵を率いてきたなら、これを呑み込んでくれましょう」

 

劉備はこの言葉を聞いて「良きかな」と一言。群臣も魏延の発言を勇ましく思ったとか。

 

 

その後劉備が蜀の帝を名乗ると鎮北将軍(チンホクショウグン)に昇進。建興元年(223)には都亭侯(トテイコウ)として領土も与えられました。

 

 

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北伐の主戦力

 

 

 

劉備の死後、蜀の国はほとんど消沈しきっていましたが、諸葛亮ら幕僚陣の手腕もあって建興5年(227)には国としての機能をなんとか復旧。準備整ったりと、魏を攻撃する北伐の戦いが始まりました。

 

 

その始めである第一次北伐では、魏延は先鋒部隊の総大将に任命され、さらには諸葛亮の軍事的な側近と言えるの丞相司馬(ジョウショウシバ)や涼州刺史の役割も追加で任される大身となって出撃。

 

敵の油断もあって作戦通りの展開となりましたが、敵援軍の抑えに回った馬謖(バショク)が大敗を喫したことによって計画の土台が崩れて敗北。この時の抑え役としては、魏延や歴戦の将である呉懿(ゴイ)を推す声が多かったと言われています。

 

 

その後しばらく北伐は失敗に終わっていましたが、敵陣の主力である曹真(ソウシン)が死去した後の建興8年(230)の出陣に際して、魏延は精鋭部隊を率いて羌中(キョウチュウ)に進撃。その地で迎撃に来た郭淮(カクワイ)、費曜(ヒヨウ)らと戦い敗走させることに成功。

 

なかなか辛い戦局が続く中での勝利は大いに認められ、魏延は前軍師(ゼングンシ)、征西大将軍(セイセイダイショウグン)として仮節(カセツ)が与えられ、爵位も南鄭侯(ナンテイコウ)に引き上げられました。

 

 

その翌年の北伐にも魏延は参加しており、手始めに正面からぶつかってきた司馬懿(シバイ)他の将軍たちと共にを散々に打ちのめす活躍を示しています。

 

 

 

 

 

魏延の扱いづらさ

 

 

 

魏延はかなり強烈な性格の持ち主だったようで、作戦行動をめぐって諸葛亮と対立した記述も正史にあります。

 

諸葛亮は常にリスクを回避するために比較的安全なルートを進んでいたのですが、魏延は逆に「危ない橋を渡ってでも勝つ」という考えをしていたようで、諸葛亮には常に「1万の兵をいただければ、長安を奇襲しましょう」と進言しては断られていたそうです。

 

 

そして何よりことが大きいのが、諸葛亮の幕僚である楊儀との対立。お互い割とクズい気の強い性格だったため完全に相容れず、諸葛亮の大きなストレスのひとつだったことが記されるほどにいがみ合う関係でした。

 

 

 

それでも諸葛亮がいるうちは何とかなったのですが、建興12年(234)、蜀の大黒柱であると同時に楊儀との間の緩衝材であった諸葛亮が北伐の出陣中に死去。

 

これによって魏延を取り巻く環境は大きく変わりました。

 

 

 

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我の強さが死を招く

 

 

 

 

諸葛亮は内密に楊儀ら幕僚陣を呼び寄せ、「自分に何かあったら魏延をしんがりにして撤退するように。魏延が言う事を聞かなければ置いて帰ってよい」と指示しており、楊儀は費禕(ヒイ)を使者としてその内容を魏延に一応伝えることにしました。

 

 

 

しかし魏延は、「丞相が亡くなっても俺が健在だ。ひとりの死のために作戦行動を中止するなどあってなるものか! そもそも楊儀ごときの風下に誰が立つものか!」と立腹。

 

その場で陣中に残る者を募って、戦う旨を費禕に無理やりサインさせて全軍に通達してしまったのです。

 

 

 

こうして自身が大将であるように告示して費禕を楊儀の元へ返した魏延でしたが、やはり不安になって楊儀の陣に人を遣ると、他の軍は諸葛亮の命令通り撤退の準備を進めていたのです。

 

これを見て怒った魏延は、先遣隊を遣って退路にある橋を落として封鎖。そんなやり取りの後、魏延と楊儀はお互い「奴めが反逆しました」と名指しで朝廷に通告し、この機に厄介な相手を処刑してしまおうと動いたのです。

 

 

こうして蜀の朝廷には双方の矛盾した通告が届いたのですが……朝廷が肩を持ったのは、楊儀の言い分。扱いづらい性格をしている魏延は、忠誠を誓っていた蜀の国によって斬り捨てられる形となってしまったのです。

 

 

こうして孤立してしまった魏延は、それでも山を切り開いて昼夜兼行で撤退する蜀本隊を迎え撃とうと陣を展開。楊儀らをなんとしてでも排除しようと行動します。

 

しかし、大義名分を得ていた楊儀らに正当性で勝てるはずもなく、その下にいた王平(オウヘイ)が「丞相の遺骸の冷めないうちから何をやっている!」という一括によって、魏延の軍勢は動揺、そのまま霧散してしまいます。

 

 

とうとう完全に居場所がなくなってしまった魏延はそれでも奇跡を信じて漢中に逃げ込みましたが、楊儀の命令を受けて追跡してきた馬岱(バタイ)によって打ち取られ、その後一族も裏切り者の一家として皆処刑されてしまったのでした。

 

 

 

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人物評

 

 

 

三国志を編纂した陳寿は、魏延についてこう評しています。

 

 

勇猛を以って任じられ、尊重された。しかし、その冤罪をかぶっての最期は身から出た錆であった。

 

 

同時に陳寿は、以下のようにも史書に記述を残しています。

 

 

魏延は裏切るつもりなら魏に降伏するだろうし、そうせず楊儀らの撤退を妨害したのは、ただ楊儀を排除したかっただけだった。常日頃から諸将から同意を得られなかった事もあり、「今こそ諸葛亮に代わる存在に」という気持ちがあったからに他ならない。

 

 

 

つまり、裏切り者としての最期を「自業自得」と断じながらも、裏切りそのものに関しては否定的な見解というわけですね。

 

 

実際に魏延は剛直で扱いづらい様子が史書にも多く語られています。

 

剛直で勇猛な性格で諸葛亮らに頼みにされていた反面、高慢でプライドが高い人物だったのですね。

 

 

「士卒を良く養成して勇猛だったうえに誇り高く、そのため多くの士卒は彼には逆らわず避けて通っていた」

 

 

史書にもこんな1文があり、魏延の日頃の様子を物語っています。

 

 

また、費禕伝には楊儀との間柄について以下のような日常が記載されていますね。

 

会議の場で言い争いになれば魏延は刀に手をかけて脅し付け、楊儀は泣いていた。

 

こんな感じで、やはり仲は絶望的だった様子ですね。

 

 

「俺様がナンバー1だ」とも言わんばかりのこれらの動きは、どこかに関羽を彷彿とさせます。彼もまた仲間の裏切りによって命を落としましたが、後ろ盾のない魏延が似たような孤立を味わったときには、すでに守ってくれる人などどこにもいなかったのです。

 

 

確かに自業自得であり弁論の余地もありませんが、一国を股に掛けた名将の最期としては余りにお粗末で、何とも言えない虚しさを覚えます。

 

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻

 

 

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生没年:?~ 延煕3年(240)

 

所属:蜀

 

生まれ:益州漢嘉郡

 

 

 

 

向寵(ショウチョウ)、字は今なお不明のまま。いつの時代にも、偉人から高い評価を得たにもかかわらずその能力に見合う事績が不明なまま憐れな死を迎える……そんな人物は存在します。
向寵はまさに蜀のそんな不遇の権化に当たり、蜀の国を一身に背負う偉人たちから高い評価を得たにもかかわらず、それに見合う功績を立てられないまま死亡しています。

 

 

今回はそんな向寵の生涯、そして悲しみと不完全燃焼に満ち満ちた最期を追っていきましょう。

 

 

 

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劉備に仕え、高い評価を……

 

 

 

向寵の叔父は、蜀の長生き爺さんにして馬良(バリョウ)馬謖(バショク)兄弟を神格化していたとして微妙にネタにされそうでそーでもない向朗(ショウロウ)という人物。向寵の記述は、彼の伝に付伝されています。

 

 

向朗はもともと荊州の長である劉表(リュウヒョウ)に仕えていましたが、彼が亡くなった時、北から大軍を率いて曹操(ソウソウ)が来襲。荊州の名士たちは曹操に付くか、劉表の客将として影響力を振るっていた劉備(リュウビ)に付くかで分かれてしまったのです。

 

この時、向朗は劉備の味方をすることに決定。向寵もこの時から劉備に仕えたと言われています。

 

 

その後、向寵は劉備の益州討伐や漢中平定に従軍……したのでしょう、多分、きっと、記述は無いけど。

 

とにかく、向寵は劉備の軍事行動に指揮官として参加し、手柄を立てたことは間違いありません。劉備は向寵の軍事能力を褒め(証拠・出師の表)、彼をエリート軍人コースのスタート地点である牙門将軍(ガモンショウグン)に任命しました。

 

 

向寵はその後、蜀軍が壊滅的打撃を受ける夷陵の戦いに従軍。この時は敵軍の奇策により全軍が壊滅状態になるという地獄絵図となりましたが、向寵の陣営だけは無傷で整然としていたとか。

 

有能さを表す記述はここだけですが……蜀軍惨敗の記述が並ぶ中で無傷の撤退をやってのけたのは地味にすごい事……だと思います。

 

 

ともあれ、惨めなまでの完敗を喫した中で一人だけ軍勢を保って帰ったのは、ある意味では大勝して錦の旗を飾るよりも大功と言える大手柄。向寵はこの功績から都亭侯(トテイコウ)の爵位が与えられ、さらに中部督(チュウブトク)として近衛兵を率いるようになったのでした。

 

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留守番役故に……

 

 

夷陵の戦いの後、劉備は都に戻ることもかなわず、翌年に死去。蜀帝国は新たな時代を迎え、諸葛亮(ショカツリョウ)を丞相(ジョウショウ:総理大臣)に据えて、彼を中心に回っていくことになります。

 

諸葛亮は、まず手始めに壊滅状態になった蜀の軍事力と生産力を補うため、南方の異民族や反乱組織を平定。失われた国力を回復します。

 

 

そして軍備を整えて魏との決戦に臨む時、かの有名な『出師の表』を上奏。この時に諸葛亮が名指しした人物の中には、向寵の姿もありました。

 

向寵は性格や素行が善良で公平、そして軍事に通暁しております。以前試しに軍事を任されたとき、先帝劉備は彼を有能であるとお褒めになりました。だからこそ、司令官の立場に彼が任用されているのです。

 

思うに、軍事のことは彼にご相談いただければ、きっと軍同士を結束させてその力を存分に発揮させることができるでしょう。

 

 

ここまで評価されれば、当然ながら向寵も中領軍(チュウリョウグン:近衛隊の統括者)に昇進。留守中の皇帝直属軍を指揮するという大きな役割を担ったのです。

 

 

しかし留守番役という立場もあってその後はキッパリと記述を断ち、最後に出てきたのは延煕3年(240)、西の国境で暴れる異民族にして蜀でももっとも反抗的とされた捉馬族(ソクバゾク)の討伐に乗り切った時の事。

 

向寵はこの異民族征伐に乗り切った際、首都・成都(セイト)より西に位置する漢嘉(カンカ)郡にて異民族と戦って討死。戦闘の詳細は不明ですが、劉備諸葛亮が手放しに絶賛した人物にしてはあまりに呆気ない死でした。

 

 

列伝最後に載せられる陳寿評には、向寵の名前はありません。

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻

 

 

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生没年:?~ 建興13(235)年

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州襄陽郡

 

楊儀 蜀 諸葛亮 魏延 費禕 小物 でも有能

 

楊儀(ヨウギ)。字は威公(イコウ)。はい、諡号でなく字です。

 

その能力はともかくと性格はとんでもなく残念な人として史書に名を残し、今なお忌み嫌われるというちょっとかわいそうな人物。何も楊儀が全部悪いわけではありませんが、最期にやらかすとこうなってしまうのですね……

 

 

さて、そんな残念人物、楊儀の伝を、今回は語っていきます。

 

 

 

 

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ひたすら残念なハイパー能吏

 

 

この人は元々は地元の高官でしたが、上司を裏切って関羽(カンウ)の元に投降、そして劉備(リュウビ)の元へと送られたという経歴をたどって、晴れて蜀の臣下となります。

 

この時楊儀は、劉備と政治の得失うんぬんについて語り合ったのですが……劉備は彼をいたく気に入り、そのまま官職に任じたのでした。

 

 

これを見るに、滑り出しは順調だったようですね。ひん曲がった性格ばかりが取り沙汰されていますが、少なくとも劉備には扱える人物だったようですね。

 

とはいえ、この頃からすでに、性格に難があったらしく……直属の上司とは馬が合わず、遠方に左遷された経歴も残っています。

 

 

 

さて、そうこうして劉備が死去した後、今度はその幕僚として実質蜀の国を取り仕切っていた宰相・諸葛亮(ショカツリョウ)に目をつけられると、一度下がっていた楊儀の運勢はまたしてもうなぎ上りとなります。

 

元々実務能力に優れていた楊儀は、その才能を以て戦争の前準備や経理の仕事を次々と片付け、才能を認められて諸葛亮側近の筆頭格に数えられるようになりました。

 

 

この時の楊儀に関する、正史三国志の記述がこちら。

 

楊儀は常に計画を立てて、部隊編成や兵糧の計算をしたが、考えあぐねて仕事が詰まることがなく、短時間で処理をし終わった。軍事上の必要品も、楊儀が担当することが多かった。

 

 

この一文から出る、超有能な官吏の匂い! むしろこの一文しか能力に関する話はないけど!

 

こんな感じに素晴らしい能力の持ち主だったため、楊儀は諸葛亮からも重宝され、その才能は、常に不利な状況で戦う蜀にとってなくてはならない存在だったのです。

 

 

 

 

その性格が落ち目に……

 

 

 

さて、楊儀の有能さについてはさっきから語っていた通り。

 

ここからは問題の性格についての話を、この後の顛末とともにお話します。

 

 

問題の性格についての言及を、正史には一文字で、わかりやすく記載されています。

 

狷介偏狭(ケンカイヘンキョウ)

 

 

要するに、無愛想で性格が悪く、狭量で視野が狭い。

 

うん、たった一言でその性悪さが表現されていますね。

 

 

ちなみにこの性格のせいで、とうの諸葛亮には後継者候補から除外されています。

 

 

で、その性格の悪さですが……上司である諸葛亮の死後の逸話に、嫌というほど記されています。

 

 

楊儀と同じく諸葛亮から信頼されていた人に、魏延(ギエン)という猛将がいました。

 

彼と楊儀は非常に折り合いが悪かったのですが……諸葛亮が亡くなった直後に、陣中で敵を前にして本格対立。自分の意のままにならないことを嫌う者同士、お互いを反逆者として告訴し、「お前らそんなことしてる場合か」と言いたくなるような泥沼の争いに発展していきます。

 

この時蜀の朝廷が肩を持ったのは、文官肌である分まだ危険の少ない楊儀。どちらも諸葛亮無くして扱える人物でもなかったため、どちらかを処分する必要があったわけですね。

 

 

結局楊儀は暴走した魏延を討ち取ると、世の首を踏みつけながら

 

「もう一回くだらねえことがやれるんなら、今ここでやってみろ! この馬鹿が!!」

 

と、まあ怨敵の死体を前に大興奮。さらには、魏延を誅殺した功績を鼻にかけて増長し、いよいよ態度が大きくなっていく始末だったとか。

 

 

こうしてついには蜀の重鎮になることが確定であると思い込み、

 

「ここまで頑張ってきた俺様が蜀の実権を握るのは当然だぜ!」

 

とまあこんな感じ。途中で占いをしたら「家人(家庭内の役割)」という、大役とは程遠い結果が出てイラついた様子になったとか何とか。

 

 

ともかく、そんな感じに、これからの花道に浮かれ、ルンルン気分の楊儀でしたが、帰ってきた時に改めて任命された職は、まさかの閑職。

 

ま さ か の 閑 職

 

名前だけで何もすることのない、しょーもない役職でした。つまり、扱いきれず完全に干されてしまったわけですね。

 

 

さらには、本来自分が座るはずだった席に着いたのは元部下の蒋琬(ショウエン)。楊儀的には、蒋琬は自分と比べると取るに足らない小物(だと思いこんでいた)。

 

この抜擢により、楊儀は不満と愚痴と怨嗟の化身となり果てたとか何とか。

 

 

 

 

 

 

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偏狭の者獄中に死す

 

 

 

プライドが完全にへし折られて挫折を味わった楊儀は、人を寄せ付けないくらいに空気の読めない発言を繰り返し、不遜な態度を取りまくって……まあ早い話が完全に腐れてしまったわけですが、同じく蜀の重臣である費禕(ヒイ)という人物だけは、彼を慰めに来たそうな。

 

 

さて、ここで費禕に対して親近感や友情の一つも覚えればいい話で終わったものの、そうは終わらせないのが楊儀という人物。

 

楊儀が費禕に対してぶつけた言葉は、感謝でも愚痴でもなく、ただただ溜まった恨みつらみの言葉ばかりでした。さらに最後には「こんなことなら、敵に寝返っておけばよかった」とトドメの一言。

 

 

これにはさすがに思うところがあったのかはたまた魏延を消して用済みになった容疑を始末するつもりだったのか、費禕はすかさず上層部に密告。

 

このせいで楊儀は庶民に落とされてしまったわけですが……

 

ここでも楊儀は反省せず、他人の誹謗中傷を書きまくった文書を上層部に送り付けて利権回復を図るという、突き抜けて逆にすっきりすることをやらかしたため、今度は逮捕。結局、獄中ですべてに絶望し自殺したのでした。

 

 

ちなみに兄は17歳で亡くなったそうですが、最低野郎な彼とは真逆のハイパー善人だったそうな。そんな兄を持ちながら、どうしてここまでプライドの塊になったのか。その真相がちょっと気になる昨今であります。

 

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻

 

 

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生没年:?~延熙9年(246)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州零陵郡湘郷県

 

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 A 北伐の従軍者にして、諸葛亮の跡継ぎ。彼が死ぬまでの間は、蜀の家臣団の統制はほとんど円滑に進んでいた。
武力 D 北伐に参加したのはいいのだが……肝心な実績がない。
知力 A 上庸経由の北伐ルートは未開拓の魏軍無警戒ルート。補給の問題から立ち消えになったが、着眼点そのものは悪くなかった。
政治 S 小さい県では暇して酒を食らって劉備に怒られるくらい余裕がある。評ではそこを汚点とされたが、実際に大臣の器だったんだから何の問題もないと思われる。
人望 A 諸葛亮死後の録尚書時は、実質政治の最高権力者。彼の死と共に蜀は壊れていったようなもので、今でも地味ながら高い評価を受けている。

 

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蒋琬(ショウエン:正史では『蔣琬』と記載)、字は公琰(コウエン)。諸葛亮(ショカツリョウ)の死後に一躍して蜀の最大権力者に成り上がり、彼が抜けた大きな穴を見事に補った人物の一人ですね。

 

「国家を担う」とされた器を持ち、まさにその通りの活躍を示した人物ではありますが……史書を見てみると意外に抜けがあったりするのもこの人の特徴。巷では「何かよくわからないけどすごい人」とされていますが、意外と親近感のようなものが沸くところもあったりなかったり。

 

 

今回はそんな卓越した政治家にして人間味も残した人物・蒋琬の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

劉備に……干された?

 

 

 

国家を担えるレベルの名政治家というと、人格者のようなイメージを抱くこともままありますが……蒋琬の場合は、史書に名が出たのっけから一つやらかしがあります。

 

蒋琬は二十歳の時から名がある人物で、劉備(リュウビ)が荊州を治めるようになると、その下で名を上げ、劉備による益州平定に随行。そのまま功績が認められて、広都(コウト)県の県長に任命されることになりました。

 

 

が、蒋琬はその仕事が気に入らなかったのか楽な物だと思って放置したのか、仕事にほとんど手をつけずに酒を呑み散らかし、泥酔していたという体たらく。この様子を抜き打ちで視察に来た劉備にばっちりと目撃されてしまい、そのまま彼の怒りを買ってしまったのです。

 

結局は諸葛亮が擁護してくれたおかげで蒋琬は処罰を受けずにすみましたが、この仕事ぶりを理由にすっかり罷免されてしまい、後年には別の県の長に復職。

 

建安24年(219)に劉備が漢中王を自称すると、今度は尚書郎(ショウショロウ:宮廷内の文書を作成する部署の役人)に転任し、なんとか出世の道を残す事ができたのでした。

 

 

 

ちなみに県長を罷免されたときの取り締まりの日のこと。ようやく自由の身となった蒋琬は、玄関先に牛の頭が転がって大量の血を流している夢を見ました。

 

さすがに不気味になって夢占い師に占ってもらったところ、「血は政治力、牛の頭は角と鼻で『公』の字を形成します。高位に上る吉兆です」と言われたとかなんとか。

 

 

諸葛亮がキレた劉備に対して擁護した際も、「蒋琬は小役人でなく、もっと高い身分で輝きます。それに、重視しているのは外面の評価でなく、実際に民の暮らしが安定しているかどうか。ご再考ください」と蒋琬の処罰に反対しています。

 

……どこかで聞いたことがあるような

 

 

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諸葛亮政権下

 

 

 

劉備が亡くなって劉禅(リュウゼン)が蜀の帝に即位すると、蒋琬は諸葛亮に呼び出され、そのまま幕府直属の役人に任命され、さらには諸葛亮によってより高位の官職を与えられるようになりました。

 

この時、蒋琬は他の名声ある人物らに道を譲ろうとしましたが、諸葛亮からは逆に説教を込めた説得をされ、結局は参軍(サングン:軍事参謀)の役割を当てられることになったのです。

 

 

その後は諸葛亮が北伐に出た際に留守の間の政務や兵糧輸送を任されるようになり、建興8年(230)には留守居部隊を率いる撫軍将軍(ブグンショウグン)に昇進。蒋琬は蜀の乏しい物資をうまく切り盛りし、常に諸葛亮の北伐を裏から支えていました。

 

これは奇しくも、劉備の存命中に諸葛亮がやっていた事と同じ。諸葛亮はそんな裏方の役割の重要性をよく理解できており、蒋琬を非常に高く買っていたのです。

 

曰く、「共に覇業を為すべき人物であり、万一私が死ねば、その時は彼に後事を託そう」。

 

 

そんな諸葛亮の要望あって、蒋琬は彼の死後に他の高官を押しのけて蜀一番の重鎮に君臨。諸葛亮から、蜀という国のバトンを渡されることになったのです。

 

 

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諸葛亮亡き蜀の代表

 

 

 

諸葛亮が生前から上奏していたこともあり、朝廷は蒋琬の大幅な昇進を決定。まず尚書令(ショウショレイ:文書管理部署の長官)に任命され、後に都護(トゴ:偏狭を守る軍事職)の代行を兼任、さらに益州刺史(エキシュウシシ)として益州の監査も同時に行うようになりました。

 

その年のうちに大将軍(ダイショウグン)として蜀の軍勢のトップに立ち、尚書令からもう一つ上の録尚書事(ロクショウショジ)にまで昇進。翌年には大司馬(ダイシバ)として、蜀の軍権のすべてが蒋琬の掌中にゆだねられることになったのです。

 

つまり、北伐の際には総司令官として動くことが期待されるまでの立場になった、というわけですね。

 

また、政治においても、賞罰はまず蒋琬に相談されて、その後に決定されるようになりました。事実上、蒋琬は諸葛亮の後継者という立ち位置についたのです。

 

 

 

こうして事実上のトップに立った蒋琬は、諸葛亮が考え得なかった北伐ルートを考案。完全に北から攻めるのではなく、水路を通って東の荊州方面になだれ込む方が、険阻な地形を無視できて補給も難しくないのではと考えつきました。

 

この案はさっそく重鎮たちに向けて提出されましたが、「万一の時に撤退が困難である」という理由で大多数は反対。また、国内慰撫に数年の月日をかけた蒋琬もすでに病気勝ちであったため結局実行に移されず、蜀帝・劉禅の指示によって取りやめとなってしまったのです。

 

 

結局北伐は諸葛亮の軍事行動を踏襲したルートで行われることになり、蒋琬は北方出身の姜維(キョウイ)を涼州刺史(リョウシュウシシ)として北方の異民族へのアプローチをかけ、病気がちな自身は後方の涪(フ)に駐留することに決定。

 

焦って攻めてきた魏軍を費禕や王平(オウヘイ)らが撃退するのを見届けるといよいよ北伐に乗り出そうとしますが……延熙9年(246)、結局病が治る事の無いままに死去。以後蜀の命運は費禕にゆだねられましたが、北伐をめぐって蜀内部に亀裂が生じることになってしまうのでした。

 

 

 

続きを読む≫ 2018/08/28 18:30:28

 

 

生没年:?~章武2年(222)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州零陵郡烝陽県

 

 

 

 

劉巴(リュウハ)、字は子初(シショ)。何というか、劉備(リュウビ)からひたすら逃げ回って最後に捕捉され、仕方ないから弟の張飛(チョウヒ)に八つ当たりしたように見える人。実際は違うと思いますが。

 

非常に優れた名士であると同時に、妙に硬骨で良くも悪くも媚びない人物。その態度の向く先がよりによってみんな大好き玄徳さまだったわけで、三国志をある程度以上かじった人の間ではたまに物議を醸しています。

 

 

今回はそんな劉備から逃げて結局逃げきれなかった男・劉巴の伝を追っていきましょう。

 

 

 

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結局劉備についてどう思う?

 

 

 

劉巴はいいところ出だったようで、若くから有名人。そのため荊州を治めていた劉表(リュウヒョウ)から招聘を受け、また茂才(モサイ:官吏登用試験)に推薦されたりもしましたが、すべて拒否。結局、劉表からの召し出しには応じませんでした。

 

 

しかし劉表が亡くなって曹操(ソウソウ)による南征が始まると、劉巴は他の名士らと共に曹操に出仕。劉巴はそのまま荊州南部の諸郡に曹操への帰順を呼び掛ける役割を受けて故郷へ転進、しばらくその場に居座ることになったのです。

 

 

が、曹操はその後、赤壁の戦いと呼ばれる戦いに敗北。南への影響力を大幅に弱め、それを好機と見た劉備はそのまま劉巴のいた荊州南部に侵攻を開始します。

 

結果、劉巴は押し出される形で交州に亡命。曹操の元へと戻れないまま故郷を追われていったのでした。なお、劉備にはこの時劉巴を仲間に迎え入れる準備がありましたが、非常に残念がったとか。

 

 

 

 

交州へと逃亡した劉巴は、そのまま今度は益州に移動。これによって一時期の安息を得ますが……やがてその益州は、またしても劉備の侵攻によって戦乱に巻き込まれ、そのまま精強な劉備軍を前にして陥落。

 

劉備から逃れてここまで来た劉巴も、ついに降伏。劉備は逃げられたことを密かに恨みに思ってまたそうですが、水に流して自身の属官に劉巴を加えたのでした。

 

 

それからの劉巴は、法律に詳しい人物らと協力して、蜀の国法になる蜀科を制定。

 

後に尚書(ショウショ:他部署への派遣官吏)、そして法正(ホウセイ)が亡くなるとその後釜として尚書令(ショウショレイ:宮中の文書を管理する長官)となりました。劉備が蜀の帝になった時の儀礼用の書類は、すべて劉巴が手掛けたものだとか何とか。

 

 

私生活においても、自身が劉備に嫌々仕えたという事実を考慮し、質素倹約に勤めたとされています。劉備のために働くのが本意か不本意かは本人にしかわかりませんが、清廉潔白でまともに業務をこなし、プライベートで仕事の話をする等の不用心はしなかったというのは確かです。

 

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零陵名士の偉業

 

 

 

劉巴の本文の記述はこれだけなのですが……彼について詳しく述べられている記載の大部分が『零陵先賢伝』という書物によるものです。

 

この書物によれば、まず彼の父は劉祥(リュウショウ)という名前で、孫堅(ソンケン)の挙兵に協力し、農民の一揆を鎮圧するときに戦死したとあります。この事件と劉祥への個人的な嫌悪から劉表は劉巴を殺そうとし、そのために劉祥の旧友を使って劉巴をおびき出し、暗殺しようとしたのです。

 

「劉表はあなたを殺そうとしています。私と逃げましょう」

 

劉巴は父の旧友にこんな言葉を何度もかけられますが、すべて拒否。劉表はこの旧友から報告を受けて、劉巴が危険なたくらみを持っていないことを理解。わだかまりをといて殺すのをあきらめたのです。

 

 

その後、18にして群役人として出仕。周不疑(シュウフギ)なる人物の教育係にならないかという誘いを受けましたが、これを拒否しています。

 

 

 

その後曹操に派遣され、孤立するまでは史書とほとんど同じ流れ。せいぜい、曹操の謀臣である桓階(カンカイ)が荊南へと派遣されそうになるものの劉巴に及ばないとして赴任を拒否。

 

あとは劉巴が劉備に攻撃された故郷の零陵を離れる時に「故郷を見捨てるのか」と言われ、「任務できてるんだから当然じゃん」と答えたり、その程度の記述が追記されているくらいです。

 

 

 

また、当書によるとその後は益州の劉璋(リュウショウ)に仕えたようで、劉備を招き入れる際に「英傑を指揮下に入れるとロクなことになりません」と再三言っては拒否されるという結末を迎えています。

 

 

さて、こうした所、結局劉備に仕えることになった劉巴ですが……その功績や記述についても、いくつか本文より追加されています。

 

まず、益州討伐の折に劉備が兵たちに「蔵の宝は取り放題だ!」と言ったばかりに、武器を投げ捨てて宝を漁る兵士が続出、軍需品が圧倒的に不足するという事態が起き、劉巴は劉備から相談を受け、以下のように答えています。

 

 

「寡兵を鋳造して物価を安定させ、あとは公共の市場で物品管理をさせれば簡単です」

 

 

このおかげで、数か月後には蔵はいっぱいになったとか。

 

 

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アンチ劉備伝説?

 

 

 

さて、この零陵先賢伝は、零陵出身の名士を称える書物だとか。つまりどういうことかというと、劉巴と劉備でいえば完全に劉巴側に立った書物。

 

この話において、劉備とその義弟の張飛がまるでアレな人のように書かれており、もしかしたら、劉巴は本気で劉備が嫌いだったのかも……などと邪推してしまう部分も少なくありません。

 

 

 

まず、一番注目されるのが張飛とのいざこざについて。

 

 

張飛は劉巴のみならず様々な名士と交わるのが好きで、評判のためか本人が意外とインテリだったためか、史書にも「名士とよく交わった」と書かれています。

 

当然、高名な名士である劉巴の元にも遊びに行くのですが……なんと劉巴は張飛を徹底的に礼遇し、その存在を完全無視。怒った張飛はそのまま誰かに愚痴ったようです。

 

結果、この話は諸葛亮(ショカツリョウ)の耳にも届き、「張飛はあなたを尊敬しており、我が主君が大業を成すために武人を重んじておられるのです。どうか少しは我慢してください」といった旨の文書で劉巴を咎めますが、劉巴納得せずこのように言い放っています。

 

 

「名士として生まれたからには、幅広く英雄らと交友を持つべきです。なぜ軍人ごときを歓待せねばならないのですか」

 

 

当時の名士はそれはもう高潔な人物としてあがめられており、庶民や半端な仕事の人間とは関わらないというプライドを持った人物でした。一方の軍人は、所詮は現場仕事。職業貴賤を推進する人の中に「土方の現場仕事は卑しい職業だ」と唱える人物がいますが……おおよそ世論はあんな感じの認識だったのです。

 

とはいえ、アウトロー出身の劉備にとってこんな言動はそれこそ論外。激怒して「我々を北に逃げるまでの踏み台にしか考えていないのか」と言い放ったとか。また、この話は呉の国でも孫権(ソンケン)と張昭(チョウショウ)の間で議論になったとか。

 

 

最後に、劉備が蜀の帝につくときの話。当書によると、この時の劉備は急すぎるという世論を無視して蜀漢建国を勧めていましたが、劉巴は雍茂という人物と共に蜀漢建立に反対。後に雍茂は別の案件にかこつけて処刑され、蜀よりはるか遠方の人々は劉備に失望したとか何とか。

 

 

何にせよ、蜀アンチというかなんというか……純粋な劉備ファンではない何かを、劉巴の行動から感じます。

 

 

 

人物評

 

 

さて、こんな劉巴を、三国志を編纂した陳寿はこのように述べています。

 

清廉高尚な生き方をした。

 

だいたい見渡してみると、確かに良くも悪くも名士といった感じです。プライドが高く高潔で清廉な業務を心掛ける。そんな印象ですね。

 

とはいえ、やはり古風で堅苦しい感じの名士は、もともとヤクザの親分のような身分だった劉備の元ではやりにくかった部分もあるでしょう。もしかしたら、それが劉巴の頑なな逃亡の理由かも……。

 

 

何にしても、劉備に肩入れする人物が多い任侠集団の中で、ひときわ異彩を放つ劉巴。彼の心は、劉備の望む世界にあったのか、それとも……

続きを読む≫ 2018/08/25 14:09:25

 

 

生没年:?~景耀元年(258)

 

所属:蜀

 

生まれ:豫洲汝南郡

 

 

 

 

陳祗(チンシ)、字は奉宗(ホウソウ)。蜀はもともと諸葛亮(ショカツリョウ)という天才の独裁によって成り立った国で、有能な人物が続くうちは権力の継承リレーもまだどうにかなっていました。が、独裁の中で尖った人間はほとんどが排除され、残ったのは無難なだけの人物ばかり。

 

陳祗はそんな末期の蜀を支え、結構頑張った人物の1人と言えます。

 

……が、如何せん、この人物は蜀を代表する奸臣・黄皓(コウコウ)に力を与えた張本人。さらには陳祗自身が死んだ後に三国志が編纂されたという理由もあって暴政を働いたような記述もチラホラ。実像が見えにく人物です。

 

 

今回は、そんな微妙に評価が割れる陳祗について見ていきましょう。

 

 

 

 

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陳祗出世街道

 

 

 

陳祗は元々、はるか遠い汝南(ジョナン)の出。迷走を続けてようやく蜀の地に根付いた名士・許靖(キョセイ)の外孫であり、いわゆる中央都会の名士のひとりだったと見てよいでしょう。

 

が、時代は乱世。陳祗は戦乱の中で両親を失って孤児となり、許靖に拾われて大きくなったと言われています。

 

 

その容貌は威厳にあふれて大変立派。厳かでありながら慎み深く、多芸多才な人物であったと伝えられています。これは人材が枯渇気味の蜀にとってはうれしい人物。陳祗は20歳になるとすぐに役人になり、順調に出世。

 

やがては蜀の重臣である董允(トウイン)が亡くなると、当時蜀の権力を握っていた費禕(ヒイ)からその人物や才覚を気に入られ、一気に蜀帝・劉禅(リュウゼン)のお付きにまで昇格しました。

 

さらに同じく重役にあった呂乂(リョガイ)が亡くなった際に尚書令(ショウショレイ:上奏文など宮中文書の管理)の官位まで与えられ、完全に宮中の中枢部にまで入り込むこととなったのです。

 

 

やがて費禕まで亡くなると、陳祗はいよいよ内政の中枢を掌握。大将軍の姜維(キョウイ)が外征に専念する裏で政治を掌握し、2頭体制を形成。

 

蜀の疲弊を招く中でも北伐というドクトリンに従って姜維の北伐に容認的な意見を残しており、この辺りも批判的な見解の論拠になっています。

 

 

こうして孤児から一国の宰相レベルにまで上り詰めた陳祗でしたが、景耀元年(258)に病没。劉禅は陳祗の死に諸葛亮以来の動揺を見せ、喋るたびに涙を流したと言われています。

 

諡は忠侯。劉禅によって最大限の賛辞を贈られた珍しい人物だったと言えるでしょう。

 

 

 

 

 

 

悪く言われる北伐容認派

 

 

 

北伐と言えば、諸葛亮が勝ち目の薄い戦いに臨んだ義戦。蜀の存在意義そのものであり、それを敢行、あるいは支援する者はほぼ全員正義の人と書かれています。

 

 

……が、陳祗に対する後世の意見は、とてもいいものとは言えません。

 

実際、陳寿の評価というか、その記述も以下のようにあります。

 

劉禅は董允が亡くなった後に、次第に厳しかった董允を「自分を軽視した」と勘違いし、恨むようになり始めた。それは陳祗が媚びへつらい、黄皓の讒言がどんどん耳にしみこんでいったからである。

 

ハッキリ言って、忠侯なんて諡はもっての外。陳寿のこの記述を真に受けるならば、忠侯でなく醜侯と諡されるのがお似合いの汚職政治家です。

 

 

では、なぜ中枢に上り詰めたにも関わらず最低の人間であるかのように書かれるのか……。その答えは、おおよそ以下の通りでしょう。

 

 

1.北伐容認派=魏の敵

 

2.黄皓を取り立てた張本人で、後に黄皓は酷吏として蜀の面々に嫌われた

 

 

しかも三国志が編纂された晋の時代にはまだ蜀政権の生き残りがおり、彼らはおそらく名誉のために悪く書かれるのを嫌ったと推測すると……正直、ここまでスケープゴートにふさわしい人物はいないでしょう。

 

陳寿自身も黄皓に干された経験があるためその関係で陳祗を嫌っていたとも考えられますが……まあどれも推測に過ぎず、決定打を欠いているというのが正直なところ。

 

面白いところだと龐統(ホウトウ)の息子に軽蔑されてぞんざいに扱われたともあり、その報復で陳祗が圧力をかけたのが原因か彼は太守の役職止まりで亡くなったという逸話も残っています。

 

 

何にせよ忠臣とするにも奸臣とするにも、安易に判断を下せるような評価のしやすい人物ではないのが正直なところですね。

 

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陳祗批難の不明点

 

 

 

さて、こんな感じで否定派優勢の賛否両論といった陳祗ですが……どうにも一つだけ不可思議というか、よくわからない部分があります。

 

それが、「黄皓が陳祗と結託して悪事を働いた」というような記述の数々。確かに黄皓は陳祗の代に昇進を果たしていますが、その時の位は黄門令(コウモンレイ)。行ってしまえば宦官のリーダー的な立ち位置の人で、政治に口出し関与するのは絶望的に難しいと思われます。

 

というか黄皓、もともと黄門丞(コウモンジョウ)という似たような役職についていた記述があり、陳祗が重宝して政治に口出ししたと裏付けができるような役職に上がったとは言いづらいです。

 

 

むしろ、黄皓が本格的に政治を握り始めたのは陳祗が亡くなった直後あたりから。劉禅について記された『後主伝』にも「黄皓がはじめて政治的権力を握った」とされるのも陳祗が亡くなった258年からであり、どうにも作為的というか、政治的な背景がちらつきます。

 

 

とはいえ、陳祗が宦官にもおもねっていたという記述もあるため、黄皓と結託していた可能性は低いといえどもゼロではありません。結局、何が正しいのかよくわからないというのが正直な感想ですね。

 

やはり劉禅が死を諸葛亮と同程度に悲しむような人物ですし、どうしようもない蜀の情勢の中頑張った人物だと思いたいところですが……

続きを読む≫ 2018/08/19 22:42:19


生没年:?~ 延熙12年(249)

所属:蜀

生まれ:益州巴西郡閬中県




馬忠(バチュウ)、字は徳信(トクシン)。中国史の裏舞台は、常に異民族との戦いや折衝の繰り返し。その過程は史書では省かれたり目立たないようにされていることもしばしばですが……そんな異民族との裏舞台で活躍した名将も大勢います。

馬忠も、その中の一人。たまに魏との戦線に出向いたりしたこともあったようですが、この人は基本的に南方で生活して南蛮の異民族をうまく抑え込み、取りまとめていました。


今回はそんな馬忠の伝を追ってみましょう。



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劉備曰く「天下の逸材」



馬忠は幼くして母方に面倒を見てもらっており、最初は母方の姓で狐篤(コトク)と名乗っていました。が、やがて父方に復姓して馬忠と名を変え、郡の役人として取り立てられました。


その後、地元推挙である孝廉(コウレン)での推挙を経て漢昌(カンショウ)県長に就任。

この時、蜀帝・劉備(リュウビ)は呉との戦いに大敗北を喫し、蜀の戦力は大幅に低下するという大事件が発生しました。郡の太守はこれを重く見て、馬忠始め統治下の県で大規模な徴兵を実施。馬忠に集まった5千の兵を与え、永安(エイアン)に逃げ延びた劉備の元へと輸送させました。


こうして、劉備と初めて顔を合わせた馬忠。劉備は彼と言葉をいくらか交わした後、「黄権(コウケン)を失った代わりに馬忠を得た。賢才も意外といるものだな」と馬忠を密かに高く評価したのです。



この劉備の評価が響いてか、劉備が亡くなった建興元年(223)に、馬忠は諸葛亮によって幕府の門下督(モンカトク:将軍の直属兵を管理する役職)に任命され、その2年後の建興3年(225)に蜀が南蛮の反乱鎮圧に赴いた際には牂牁(ソウカ)太守として、辺境の慰撫を任されることとなりました。

反乱直後の地域一帯は非常に統治が難しく、これをしくじった人物は歴史上数知れません。馬忠は、この時にはそれほどの任務を任されるほどになっていたのですね。


また、建興8年(230)には北伐で不在の諸葛亮に代わって内部の事務を任されていた蒋琬(ショウエン)の次官として中央部の内政、さらには翌年には諸葛亮と共に出陣して軍務に携わり、一方面の大将として北方異民族の討伐を行うなど、マルチな活躍を見せています。




南方慰撫のエキスパート




馬忠がこうして中央部に戻っている時、南方は張翼(チョウヨク)という武将が、庲降都督(ライコウトトク)という立場に立って取りまとめていました。

張翼はどちらかというと厳格な法治主義的人物であり、規律をしっかりと定めて統治を勧める人物。これは残念ながら、気性が荒く強烈な後ろ盾を持つ異民族交じりの辺境ではあまり受けの良い方法ではなかったと言えるでしょう。

建興11年(233)、南蛮の大部族を率いる劉冑(リュウチュウ)が野心を燃やしてか厳格な法に耐え切れなくなってか、部族ともども叛逆を起こして各地を荒らしまわる事態に発展してしまったのです。


馬忠は過去に上手く反乱地域を慰撫した功績を買われ、張翼と交代で南方の統治に復帰。張翼によって軍備が完璧に整えられていたのもあって、反乱を即座に鎮圧。劉冑を処断して無事に平定を終え、馬忠は奮威将軍(フンイショウグン)、博陽亭侯(エイキヨウテイコウ)に格上げされました。

さて、この庲降都督という職業は非常に危険な役職だったらしく、以前に異民族につかまって呉まで連行された人物もいたとか。南方の地域はそれだけ危険が多く、異民族の動きが活発だったわけですね。


そんなこともあって、庲降都督は異民族の影響が少ない離れた土地で職務を行うのが普通という有り様でした。

しかし馬忠は、政庁を異民族の跋扈する奥地へと移設。危険を顧みずにその場へ移って政務を行うことになったのです。さらに辺境の太守を行っていた張嶷と共に失陥していた地へと進行、越巂(エッスイ)郡を再び占領下に加える等非常に大きな活躍を示しました。

この功績があって、安南将軍(アンナンショウグン)に昇格。まさしく南を守護する貴重な将軍として、馬忠はその地位を確保したのでした。


延熙5年(242)に再び中央に帰還し、そのまま漢中に向かっていき諸葛亮の後を継いだ蒋琬へと勅詔を伝達。鎮南将軍(チンナンショウグン)へとさらに昇格します。

延煕7年(244)には魏の大攻勢が行われましたが、馬忠はここでも首都近郊で上奏文官吏を代行し、裏方として滞りなく政務を行っています。


戦いが終わると馬忠は再び南方へと帰還。再び周囲の慰撫に励み、これといった問題も起こさず無事に統治を行いましたが延煕12年(249)に病気で死去。その後も辺境の統治には優秀な人物が携わっていましたが、どれも地元の評判は馬忠に及ぶものではなかったと言われています。



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人物像



三国志を編纂した陳寿は、総評をして馬忠をこのように評価しています。


穏やかな性格でありながら決断力があった。


また、記述こそは少ないものの、馬忠の政治スタンスは史書に非常にわかりやすく書かれています。

はっきりと言えるのは、慈愛によって民を慈しむ徳の政治を得意としていたこと、そしてその政治スタンスが異民族に受け、威厳と恩徳を兼ね備えていたと評されるほどに評価されていたということ。


性格に関しても太っ腹で鷹揚。冗談に対して馬鹿笑いするものの怒りの表情は決して見せず、情け深い人物であったそうな。

その慕われ具合は、葬式では多くの人物が涙を流し、当時の人たちが馬忠を祀って立てられた廟は今なお現存するほどだとか。後任の陳表(チンヒョウ)、閻宇(エンウ)らはいずれも有能なひとかどの人物でしたが、風格や世評は馬忠に及ぶことはなかったとされています。


三国志にはこういった裏側の世界がどの国にもありますが……やはり馬忠のような飛び抜けて有能な人物が、軍事であれ統治であれ、多大な実績を上げていたのですね。




メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻


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生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州南郡枝江県

 

 

 

董和(トウカ/トウワ)、字は幼宰(ヨウサイ)。知名度や正史での事績の派手さは2流にして息子以下といったところですが……それもそのはず。この人は一度も戦場に出たという記述がない、生粋の政治家です。

 

しかし、諸葛亮(ショカツリョウ)が信頼する能力と清廉さは折り紙付き。どこまでも国のためを思うあり方は、まさに政治家の理想の一つなのではないでしょうか。

 

 

今回は、そんな董和の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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劉璋配下の名政治家

 

 

董和はもともと益州に根を張っていた一族の出身者でしたが、董和は東隣の荊州出身。おそらくは、先祖のどこかの代で引っ越したのでしょう。

 

しかし、後漢王朝もいよいよ末期という時に、董和は再び西へと移住。一族郎党を連れて益州へと帰っていったのです。そして、そのまま州の長である劉璋(リュウショウ)に仕えて牛鞞(ギュウヒ)、江原(コウゲン)の県長、そして成都(セイト)県令と、一つの県をまとめる長を歴任。そのすべてで厳格な法治体制を敷き、風紀を定めました。

 

というのも、当時の益州は名士たちがどんどん贅沢を楽しむようなユートピア。風俗は弛みまくり、多くの名士貴族らは好き勝手に豪奢な暮らしを満喫していたのです。

 

当然、董和も不当な贅沢をせずに自分の法令をきっちり守っていたのですが……これで納得しないのがぬるま湯にどっぷり浸かっていた名士たち。彼らは董和を嫌って主君の劉璋に直訴。そのせいで董和は任地を離れて別の役職につくように言われてしまったのです。

 

しかし、それをよしとしない民衆は大挙して董和の留任を懇願し始めます。史書によればその数は数千人にも達し、弱者層の支持をしっかりと得たことで、結果的に董和はあと2年だけ、留任を認められたのです。

 

 

しかし、豪族たちを相手に強固に出ては、その先は左遷のみ。董和は栄転という形で、今度は益州太守として南方に飛ばされてしまったのでした。

 

 

……とはいえ、董和の清廉を良しとする政治スタンスは何一つ変わらず。文化の違う異民族の跋扈する南方を任されたにもかかわらず自棄になって金もうけに傾倒することなく、その近隣に根付いた異民族の部族らとも連携して政治を執り行ったのです。

 

結果、益州南方は辺境とは思えないほどに安定し、信と愛をモットーとした政治は大きな成功を収めました。

 

 

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諸葛亮とのツートップ

 

 

 

 

さて、董和の身分が絶頂に立ったのは、劉備(リュウビ)が益州を乗っ取って一大勢力を築いてからでした。

 

益州を手中に収めた劉備によって召し出された董和は、掌軍中郎将(ショウグンチュウロウショウ)という役職として転職。なんとそのまま劉備一派による政治の中枢に入り込み、そのトップである諸葛亮の補佐役……政治的権限ではナンバー2と言ってもよい立場へとのし上がったのです。

 

 

その時の董和の具体的な働きは記されていませんが、諸葛亮と親身に接し、良きを進めて悪しきを改める政治改革を徹底したそうな。

 

 

その後董和はいつとも知れず亡くなりますが、彼は政治の重鎮でありながら貯蓄はゼロ。まさに清廉な政治を敷くためだけに生まれてきたような男の、人知れぬ静かな最期でした。

 

 

ちなみに諸葛亮は丞相(ジョウショウ:総理大臣)の位に付くと、旧友である徐庶(ジョショ)と共に彼の名を出して官吏たちを訓示しています。

 

 

そもそも職務に携わる者は、様々な意見を参考にして国益につなげなければならない。少しでも気に入らない者を遠ざけて異なる意見を持つ者を批難すれば、どこかで損失を招くだろう。

 

徐庶だけはこの対処を迷わず行い、そして董和はダメな部分を考え抜き、どうしてもわからなければ相談を持ち掛けた。彼らの資質を学んで身につければ、仕事の失敗は大きく減る。

 

 

私は昔から旧友に欠点を指摘されて教示を受けてきた。董和は言いたいことを遠慮なしに何でも言っていたし、胡済(コサイ)は何かあるたびに諫言していた。

 

器量不足で全部を聞き入れたわけじゃない。しかし彼らとは仲良くやれたし、直言をためらわない態度に私が助けられていた証でもある。

 

 

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人物評

 

 

 

三国志を編纂した陳寿は、彼のことを以下のように評しています。

 

 

詩経にある「羔洋(コウヨウ)」という歌があるが、あれにふさわしいような質素な行いをした人物である

 

 

羔洋の説明をするとなると、これまた詩経の国風、召南と難しい単語が並んでいきますが……要するに召南という国があって、そこが質素な生活を良しとする徳の政治を行っていたというわけです。

 

それと似たような気風を持っていたのが、董和である、と。陳寿の評ではこのようになっているわけですね。

 

 

実際に董和は記述こそ少ないですが、その立ち位置は諸葛亮の片腕にして蜀の重臣。劉備の配下となる後も前も、やろうと思えば蓄財なんていくらでもできたような身分です。

 

しかし臨終まで財貨を貯めこもうとせず、度が過ぎた贅沢を禁じたというのが高く評価されているわけですね。

 

 

 

また、彼は諸葛亮曰く直言の士。おそらくは自分にも他人にも厳しい人物だったのでしょう。それが良き政治を生み、また法治主義的な考え方が諸葛亮ともマッチした。その結果、董和は自分の実力をフルに発揮できる重役のポストに立てたのです。

続きを読む≫ 2018/08/09 21:58:09

 

 

生没年:?~太和2年(228)

 

所属:蜀

 

生まれ:涼州扶風郡

 

 

 

 

孟達(モウタツ)、字は子敬(シケイ)。後に子度(シド)。三国志にはみっともない裏切り者のような人物が時折登場しますが、孟達はその中でも筆頭格にメジャーな人物ですね。

 

恐らく、三国志においてかじった程度の知識の方でも、名前だけなら知っているのではないでしょうか?

 

 

孟達の人生は派手な裏切りによって彩られていると言ってもよく、その最期も裏切りの中で力尽き果てる……というものです。当然そんな人生であるため、魏でも蜀でも彼の伝の取り扱いは無し。史書に時折名前を出すだけの人物になっています。

 

が、よく見ると、それらの裏切り行為は外的要因も大きく、一概に彼一人を責められないのもまたひとつの事実。今回は、彼の裏切りにまみれた事績を追って、その辺りを私なりに考えていきたいと思います。

 

 

 

 

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最初の裏切り

 

 

 

孟達の父親は涼州刺史(リョウシュウシシ:州の監査官。小さな州ならば長官職)であり、彼の家柄はなかなかに恵まれたものだったようです。

 

彼は何のめぐりあわせか法正(ホウセイ)と知り合いになり、地元の飢饉に際して2人で故郷を脱出。そのまま南の益州(エキシュウ)に出て、劉璋(リュウショウ)の基で厄介になることになりました。

 

 

その後、しばらくして荊州(ケイシュウ)南部で割拠していた劉備(リュウビ)が劉璋の援軍要請に二つ返事で承諾すると、孟達は法正と共に2千の兵を率いて劉備の迎えに出立。そのまま法正から軍を預かる形で全軍を率い、劉備領に到着。

 

孟達はそのまま劉備の命令で領内に駐屯し、防衛軍の援軍部隊としてしばらく江陵(コウリョウ)に留まり、劉備による劉璋への裏切りと益州の乗っ取りを静観する形で、しれっと劉備軍に鞍替えしたのです。

 

 

また、字を変えたのもこの時で、これは劉備の叔父が子敬という字を使っていた事からの配慮だと言われています。

 

 

 

さて、こうして何気なく劉備軍の一員に加えられた孟達は、益州攻略の後に宜都(ギト)太守に昇進。建安24年(219)に、漢中(カンチュウ)から川を下り荊州を攻撃するという遡上作戦の指揮官に抜擢されたのです。

 

劉備の養子である劉封(リュウホウ)の援軍もあって見事に荊州の上庸(ジョウヨウ)の奪取に成功し、魏の領地を削り取るための楔を打ち込むことが出来ました。

 

 

しかし、当の孟達は劉封との折り合いが悪く……これが、彼を稀有な人生に叩き落す要因になっていったのです。

 

 

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孟達、魏へ寝返る

 

 

 

元々仲が悪くなにかといがみ合っていた劉封でしたが……なんと、孟達に激しい怒りを覚えた劉封は孟達の軍楽隊を自身の権力で没収。2人の仲は完全に決裂してしまいました。

 

さらには、荊州の南から軍を動かしていた関羽(カンウ)が、占領したばかりの上庸にまで援軍要請を派遣。孟達らは占領したばかりの上庸と関羽からの要請のどちらかをあきらめなければならない岐路に立たされました。

 

この時、孟達らが選んだのは上庸でした。上庸は魏軍の注意を逸らすための貴重な楔であり、関羽軍に向かうはずだった敵軍の目線を逸らすだけでなく、もし後世に回れたならそのまま前線拠点になる重要な土地。失陥は許されなかったのです。

 

 

しかし、その後関羽は一転して敗勢に回り、そのまま敵軍に捕縛され処断。援軍を拒絶した判断が、荊州戦線大将である関羽の死という重い責任を背負い込む要因になってしまったのです。

 

劉備は、この知らせを聞くと激怒。孟達は、劉封との確執だけでなく劉備からの怒りにも気を配らなければならない立場に置かれたのです。

 

 

とうとう進退窮まった孟達は、もはやこれまでと魏への亡命を決意。劉備に対して別れの手紙をしたため、やむなく魏へと降伏したのでした。

 

 

やむを得ない降伏によって評判を落とし、後に裏切りキャラとして定着してしまう孟達でしたが……この時の唯一の救いと言えば、魏の帝である曹丕(ソウヒ)が彼を気に入った事でしょうか。

 

『魏略』では、人物鑑定士に「将軍の器」と称されたことで曹丕に大いに尊敬され、実際に会った際も優雅な物腰と傑出した弁舌の才能で、曹丕の車に同乗するほどに信頼されています。

 

この度が過ぎた好待遇を快く思わず讒言する者もいましたが、曹丕はまったく取り合わなかったのです。

 

 

正史本伝でも、そのまま将軍職と上庸含めた3郡をまとめて新設された新城(シンジョウ)の太守になっており、やはり降将にしても大きな待遇を受けていたのは間違いないようです。

 

 

 

 

 

裏切りの果てに……

 

 

 

こうして魏でも確かな立場を確立し、結果的に劉備を裏切ってしまったものの安泰を得ることができた孟達。しかし、その安泰も、曹丕という後ろ盾ひとつに守られてのものでした。

 

黄初7年(226)に曹丕が病気で亡くなると、孟達の立場は一気に暗転。魏に寝返った後も諸葛亮(ショカツリョウ)と文通していたのもあって、周囲から冷たい目で見られるようになっていきました。

 

ましてや、自分の立場は裏切り者。周囲からは「どうせまた裏切る」と思われており、さらには蜀との国境線に任地を持つのも、魏での周囲よりの心証を悪くしていったのです。

 

 

 

と、そんな不安な立ち位置の孟達に対して、諸葛亮はとうとう「戻ってこい」と義への裏切りを示唆する手紙を送り付けてきました。さらには、蜀の重臣である李厳(リゲン)らからも、次々と手紙を贈られてくる始末。

 

孟達はこの時動きを決めかねていたようでしたが……なんと、しびれを切らした諸葛亮が、魏の軍中で孟達と不仲であった申儀(シンギ)に、孟達の裏切りを密告。

 

これが決め手となり、孟達は魏国の中で完全に孤立。いよいよたまらなくなって、人生最期の叛逆に踏み切ったのです。

 

 

 

しかし、追い詰められた人物のやぶれかぶれの反乱など、容易に対処されるのが常です。この動きはすでに司馬懿(シバイ)に察知されており、孟達の叛逆を知るや否や4倍近い孟達討伐軍を結成。

 

そのまま強行軍で数日と経たずに戦場に到着し、あっという間の進軍に驚いた部下らがまとめて降伏。司馬懿の電撃戦によってまともに戦えなくなった孟達は、頼みの諸葛亮にも見捨てられて16日という短期間で敗北。

 

その首は洛陽で曝され、大通りの四辻で焼かれることになったのでした。

 

 

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仕方なし?裏切りマン?

 

 

 

と、このように孟達の裏切りは、そのほとんどが周囲の環境によってやむなくおこなわれた突発的な物だったのがわかります。

 

が、彼の周辺にいた人物による孟達評によると、どうも単なる被害者というわけではないようです。

 

 

まず、孟達が魏に降った時、嫉妬による讒言の他にも、司馬懿や劉曄(リュウヨウ)といった人物がいざという時の危険性を曹丕に述べています。

 

その中でも劉曄による進言は史書にも残っており、以下のように述べたとされています。

 

 

才知に任せて策を好み、一時の利益を気にする人物。道理や恩寵を思う事が出来るとは思えません。国境付近の境界に置くのは危険です。

 

 

また、諸葛亮が彼に寝返り工作を仕掛けた時にも、蜀の中で費詩(ヒシ)という人物が孟達の性格と危険性を指摘しています。

 

劉璋に忠義を尽くさず、劉備を裏切った小人物です。反覆常無し。あんな奴に手紙なぞ出す意味があるとは思えません。

 

 

うーん、これまた手厳しい。

 

ちなみにこの進言を受けた諸葛亮は反論せず黙りこくり、司馬懿によって孟達が窮地に陥った際も「不義理な男はアテにならんな」と思い返し、結局見捨てることにしたと言われています。

 

 

 

孟達の裏切り行為自体は、正直仕方のないことがほとんどです。実際に劉備を裏切らずに帰った劉封は関羽を見捨てた罪で殺されていますし、魏においても後は裏切りの材料を探すなりでっちあげるなりして処刑するだけというすんでの状況に追い込まれています。

 

どれも、裏切らなければ殺されかねない危険な状態だったと言えるのです。

 

 

……が、これらがすべて外的要因によるもので孟達にまったく非がないと言い切るには、当時の人々の評価がちょっと気になります。

 

孟達は弁舌が巧みで非常に有能感あふれる人物だったのでしょうが、それだけに自分の才を過信し、結果として裏切り以外の道を選べなくなってしまった……案外、彼の真相はこんなところなのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/07/15 21:56:15

 

 

生没年:?~建安25年(220)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州長沙郡羅県

 

 

 

 

劉封(リュウホウ)は三国志の一幕を飾る英傑・劉備(リュウビ)の養子であり、その将来を嘱望される有望な人材でした。

 

……が、その最期は蜀皇族の一人としてでなく、蜀に仇なした裏切り者としての結末。三国志にも裏切り者の一人として立伝されている人物ですが……なんというか、色々と考えさせられる人物です。

 

 

用済みになった重要人物は周囲からどんな扱いを受けるのか……その答えの一つを示してくれる劉封伝を、今回は追ってみましょう。

 

 

 

 

 

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劉備の養子とその立場

 

 

 

劉封のもとの名は寇封(コウホウ)で、劉備とはほとんど無関係の家柄。しかも漢王朝の血筋に連なる皇族である劉一族を血縁に持つとんでもない名家でした。

 

劉備は荊州に滞在していたころ、そんないいところのの子である寇封を見るなり気に入ってしまい、無理を言って養子に迎え入れたと言われています。

 

 

当時は無関係の家の子を養子にするのは道徳的に禁忌に近かったのですが……それを捻じ曲げてまで、彼の才能を買ったのですね。

 

ともあれ、こうして寇封は劉備の子となり、劉封に改名。劉備の実質的な跡取りとして、その将来を嘱望されるようになります。

 

 

 

……が、劉封が後継者として大事にされる時期はかなり短かった様子。というのも、劉封が劉備の養子になってから数年と絶たないうちに、血のつながった後継者である劉禅(リュウゼン)が誕生し、後継者の座はそちらに流されてしまったのです。

 

さらには、赤壁で曹操(ソウソウ)を破った後、劉備はまたたく間によって立つ地を手に入れ、一介の群雄となったのも向かい風となり、劉封の立場はさらに狭くなってしまいました。

 

 

というのも、養子というのはあくまで血縁を絶やさないための最終手段であり、劉封は劉禅のスペアとも言うべき存在。さらには劉備が当時の道徳を無視して迎え入れた子である事も、世評からすれば汚点に他なりません。

 

そんなわけで、劉備に実子が生まれてしまえば劉邦はすでにお払い箱。一応は一族といえども、後継者争いの元になる厄介者だったのです。

 

 

とまあこんなわけで早々に外的要因で失脚を味わった劉封でしたが……彼にはもっと別の才覚が眠っており、それが彼をいくらか延命する手助けをしてくれたのです。

 

 

 

 

 

一族の勇将

 

 

 

後継者として早々に要らない子と化した劉封でしたが、彼にはまだ、みなぎる気力と並外れた武勇という武器が残っていました。

 

20歳余りとなった劉封は、劉備の益州攻略の軍勢に、諸葛亮(ショカツリョウ)や張飛(チョウヒ)ら率いる第二陣として参戦。その武勇をもって行く先々で敵陣を撃破して回り、蜀攻略に少なからぬ貢献を果たしたのです。

 

この功績により劉邦は副軍中郎将(フクグンチュウロウショウ)として武官デビューを飾り、数少ない劉一門の筆頭武官として戦場に身を置くことになりました。

 

 

その後、建安24年(219)には、劉備軍は漢中(カンチュウ)から川を遡上し、荊州の上庸(ジョウヨウ)を攻略するという、後の蜀軍による北伐でも断念された難解な作戦を実行。

 

劉封は孟達(モウタツ)の援軍としてこの作戦に参加し、なんと上庸太守の申耽(シンタン)そして、その弟の申儀(シンギ)を降伏させることに成功。別方面の関羽(カンウ)らとの連動という好条件の元ではあったものの、上庸攻略という困難な軍事目標を見事に成し遂げたのです。

 

 

『魏略』では、劉備による漢中攻略に参加。曹操軍をしきりに挑発し、曹操自身を激怒させています。

 

この戦いは上庸攻略のより数ヶ月前のできごと。史実だとすれば、相当ハードなスケジュールをこなしたことになりますね。

 

 

 

 

 

暗雲、そして

 

 

 

さて、上庸征伐という目標を達成した劉封でしたが、その後の運命は悲惨な物でした。

 

わざとか偶然か、劉備は上庸の太守に、降伏した申耽を起用。さらに弟の申儀ともども不自然なまでの高官に据えて、最前線の守りを任せたのです。

 

これによって身動きを取るに取れなくなった劉封や孟達は、しばらく彼ら兄弟の監視と占領したばかりの上庸の慰撫に尽力しなければならなくなりました。

 

 

さらに間が悪い事に、今度は別方面で奮戦中の関羽が窮地に陥り、劉封らに救援要請を飛ばしてきます。

 

しかしこの時の劉封らは、上記の通り身動きが取れず八方ふさがりの状態。領内を落ち着かせるのに忙しく、援軍を率いて向かう余裕がありませんでした。

 

そして手をこまねいているうちに、荊州で孤立した関羽は死亡。

 

 

さらに日頃からあまり仲が良くなかった孟達との関係は決裂し、劉封はある時孟達の楽奏隊を没収。その事もあって孟達は魏に降伏し、劉封に反旗を翻します。かくして劉封は荊州で孤立し、魏軍の総攻撃を一身に受けることになったのです。

 

 

この時、仲が悪かったはずの孟達は、劉封の立場を見かねて歴史特有の長い文章でつづった手紙を届け、彼に決断を迫ります。

 

 

「昔から良き父、良き君主の元であっても陰謀により困難に陥ることも多いと聞く。肉親でもそういった様は起こりうるのに、血の繋がっていない親子ならばそれが避けられようものか。

 

すでに劉備の周りには劉禅を後継に立てようとする者が多くおり、あなたを排除しようと劉備に讒言している。そして劉備自身も、もはや心を決めている事だろう。

 

今魏に降れば、元の家の領地を継ぎ、そのまま立場を強めていくこともできるのだ。魏は本気だ。呉蜀を併呑し、天下を取るつもりでいる。

 

さあ、決断を。これ以上、強固な諫言を私にさせないでくれ」

 

 

しかし、劉封は孟達の言葉を拒絶して魏と戦う道を選択。申耽兄弟の裏切りによってあえなく敗北し、蜀に撤退することになったのです。

 

 

 

そして、蜀に帰った劉封を待っていたのは、孟達の裏切りと関羽の戦死を招いた戦犯・裏切り者としての咎でした。

 

さらには諸葛亮によって「剛勇の持ち主で今後の脅威にもなりうる」と進言を受けた劉備は、劉封の排除を決定。

 

 

かくして孟達の予見通りに蜀から完全排除された劉封は、劉備の命により自決。「孟達の言うとおりにすればよかった」と嘆き、その最期を迎えたのです。

 

 

 

 

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劉備の……養子?

 

 

 

陳寿は、彼のことをこのように評しています。

 

 

一方的な嫌疑をかけられても不思議ない立場にありながら、その対策を立てなかった。その最期は自業自得といえるだろう。

 

 

もともと廃嫡された血縁にして本人もとんでもなく優秀、さらにはやる気もあって名族出身で、無理をすれば皇室の外戚トップに立つだけでなく蜀の乗っ取りすら行える立場にあります。

 

にもかかわらず、劉封はあくまで劉備軍の1武将に徹しただけといったところ。本人的には後継者レースから下りたつもりだったのでしょうが、立場がそれを許さず、かつ本人も気づいてないor気付いても対策を打たなかった……というのが、陳寿評の指摘点でしょう。

 

 

 

そして何より……ドス黒い話として、彼が劉備の実子だったという説まで上げられ、後の歴史書では彼の母親とされる人物まで発見されています。

 

もっとも、この劉封の母という人物は架空人物だったというオチなのですが……それでも、劉封がここまで難しい立場に立たされて、しかもかなり雑な理由で自害を命じられたのも事実。相応の理由があるのは間違いないでしょう。

 

 

 

特に面白そうな説は、「劉備の後継者争い」というある種の陰謀論のようなもの。諸葛亮ら荊州名士や古参を中心とした団体が劉禅を指示する傍ら、なんと法正(ホウセイ)、李厳(リゲン)、魏延(ギエン)らは劉封を後継者に推していたという話もあるのです。

 

確かに諸葛亮法正とはなんとか二人三脚でやっていけたものの仲が悪かった様子。

 

また劉禅の代では李厳も魏延も、諸葛亮やその跡を継いだ面々に処罰あるいは粛清されており、あながち陰謀論とは言いきれない黒い部分も……

 

 

 

何にしても、諸葛亮が当てこすりに近い罪状に便乗し、失敗すれば皇族との対立というリスクを負ってまで排除にかかった人物です。相応の何かがあるのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/07/13 22:05:13

 

 

生没年:建興5年(227)~炎興元年(263)

 

所属:蜀

 

生まれ:徐州琅邪郡陽都県(本貫地)

 

 

 

 

諸葛瞻(ショカツセン)、字は思遠(シエン)。あの天才軍師・諸葛亮(ショカツリョウ)の息子にして、斜陽に差し掛かる蜀軍にて大きな期待がかけられた新時代のホープとも言うべき人物です。

 

……が、その事績は冴えない。実に冴えない。なんというか、親の七光りというべきか……。最後の最後まで、偉大過ぎる父の名声に振り回されて過大評価された結果、退くに退けなくなって爆散したような人物という印象を受けました。

 

 

今回は龍の子は龍とは限らないことを教えてくれる、諸葛瞻の記述を追っていきましょう。

 

 

 

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神童にして実際以上の評を得る者

 

 

 

諸葛瞻は父・諸葛亮の死から役10年後、齢17にして朝廷の重臣として蜀帝・劉禅(リュウゼン)の娘を娶り、騎都尉(キトイ:近衛隊長)に就任しました。

 

その翌年には近衛軍の一角の総大将である羽林中郎将(ウリンチュウロウショウ)となり、その後もトントン拍子で出世。最後には尚書僕射(ショウショボクヤ:文書の開封や金銭から穀物の受納、官吏の任免を行う)にまで昇進。

 

武官としても軍師将軍(グンシショウグン)の位が与えられ、まさに父の名声と自身の評判だけで、蜀の要職にまで上り詰めたのです。

 

 

 

そんな諸葛瞻の強みは、書画の才能と抜群の記憶力。諸葛瞻の才覚を皆が慕い上げ、諸葛亮の息子という事実も後押しして、彼は蜀の中でも有数の名声を誇っていたのです。

 

 

そしてその名声はいつの間にか尾ヒレがつくようになり、人々は諸葛瞻について好き好きに噂を広めていきました。

 

諸葛瞻はいつしか完璧超人のような存在として崇められるようになり、何かいいことや感動的な話が出るたびに、無関係な事や本人が何もしていないことでも「諸葛瞻のおかげだ」とみな思うようになっていたのです。

 

 

しかし、過ぎた名声は身を滅ぼすもの。諸葛瞻はやがて国家の岐路に立たされ……とうとう名声の毒にやられることになってってしまうのです。

 

 

 

 

 

過ぎた名の代償

 

 

 

魏との戦いも大詰めに差し掛かりつつあった景耀4年(261)には、行都護衛将軍(コウトゴエイショウグン:簡単に言えば防衛隊の総大将代行役。衛将軍は将軍でも元帥クラス)として防衛軍の総大将になりました。

 

この頃から董厥(トウケツ)ら重臣とも深くかかわるようになり、国政を担う立場になったのです。

 

 

……が、この時、軍事では姜維(キョウイ)が無謀な北伐を繰り返して国を疲れさせ、内政では黄皓(コウコウ)なる人物が専横により権力を強めているじきでした。

 

そのため、名声だけで実績のない諸葛瞻は彼らに太刀打ちできず、結局は黄皓に取り入って彼の派閥に入るような動きまで見せ、翌年景耀5年(262)には黄皓らと共に姜維の失脚を狙うなど、名声以外の基盤の無い諸葛瞻は黄皓と結託して内省を牛耳る立場となったのです。

 

 

 

 

そして景耀6年(263)、ついに魏軍が蜀に大規模攻勢を開始。鄧艾(トウガイ)による山道からの奇襲で、手薄な蜀本営は危機に陥りました。

 

諸葛瞻は己のプライドをかけて迎撃隊を率い出陣。持てる全軍を持っての、最初で最後の出撃でした。

 

 

しかし、諸葛瞻は軍事基地のある涪(フ)まで進むとそこで待機。何を考えたのか鄧艾の進撃をその地で静観することを選びます。

 

この静観を見かねた黄崇(コウスウ)が「今のうちに前線で守りを固め、鄧艾を迎撃すべきです」と何度も訴えかけますが、首を一向に縦に振らず、結局先遣隊が敗走するのを見届けて撤退することに。

 

 

後退した諸葛瞻が鄧艾との決戦に選んだ土地は、綿竹(メンチク)の土地。地図を見たところ南部に平地が広がっており、正面切っての決戦に向いてそうな地形ではあります。

 

しかし魏の国土が広い以上、大軍を率いての決戦は魏の方が強そうな予感も……。実際問題、鄧艾からは一度諸葛瞻に向けての降伏勧告がなされています。

 

……が、諸葛瞻はこの勧告を見事にスルー。使者をその手で斬首し、徹底抗戦の意を示します。

 

 

こうして名将・鄧艾と正面決戦に臨むことになった諸葛瞻。緒戦は兵の疲れもあってか鄧艾軍を撃退するのに成功しますが……鄧艾本人に脅しつけられた鄧艾軍は必死になって挑みかかってきており、その勢いに押された諸葛瞻軍は壊滅。

 

かくして防衛線は見事に打ち破られ、大将の諸葛瞻以下、将軍らの多くが討死。防衛線が破られた挙句戦える軍勢らしい軍勢も残っていない蜀は、あえなく降伏を選択することになったのです。

 

 

 

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その忠義は見事?

 

 

 

と、このように諸葛亮の息子でありながら、いかにも無能くさく書かれる諸葛瞻。実際に多くの歴史家はその忠節を高く評価しつつも、才覚面では口をつぐむか「駄目だった」と言ってしまうような有り様です。

 

そして当の諸葛亮も、臨終の際には8歳になる諸葛瞻を「頭が良くてかわいいが、名声が等身大を大きく超えないか心配」と兄に手紙を送っています。

 

 

一応晋の初代皇帝・司馬炎(シバエン)には国難に最期まで立ち向かった人物とお墨付きをもらってはいるのですが……

 

 

 

ちなみに、やはり諸葛亮の息子というのもあって、有能説を捨てきるには早いという意見も数多くありますね。

 

例えば陳寿は彼を全く評価していないのですが、それに対して「奴は諸葛瞻の部下でも端役にいたから逆恨みで悪く書いたんだ」という意見もあったり、現代でも鄧艾を一度追い返したことから軍事的に有能とする意見があったり……

 

 

やはりマイナーどころではあるものの、いろいろと考察がなされる面白い人物ですね。

 

 

 

 

 

 

諸葛瞻の勝算

 

 

 

さて、当ブログでは無能説に則ってボロクソに諸葛瞻の記述を書きましたが……最後の最後で少し擁護してみて終わりたいと思います。

 

諸葛瞻が鄧艾軍を前にフラフラ行ったり来たりをした挙句、要害でもない土地であえて野戦に踏み切りそのまま負け、蜀滅亡の直接原因になったたのは事実ですが……あくまでこれは結果論。

 

 

文面だけ読み取れば何やってんのかわからないクソ無能ですが、ここでちょっと諸葛瞻の立てた目論見を憶測してみましょう。

 

 

 

まず鄧艾が進んできた道は、言ってしまえば道なき山道。ましてや蜀の山々は絶壁ともいえる切り立った崖であり、そんな危険な山道を何日もかけて進んできたことになります。

 

しかもこれ、かなりの突貫工事だったらしく……山を削ったり橋を架けたりの重労働の挙句、山道だからこそ補給線も確保できず、兵糧も欠乏気味。そんな中でようやく蜀の奥深くに攻め入ったのですから、一見すると鄧艾が無謀であるのは一目瞭然です。

 

 

とすれば、諸葛瞻は敵が少数で疲れ切っていると読んだうえで、あえて比較的戦いやすい綿竹に誘い込んだ……という可能性もあるかもしれません。

 

 

 

あとは……実績がない諸葛瞻の前に現れた、北伐失敗の主な要因となる敵将。これは、本人にとっても名声負けしない手柄を立てる絶好の機会でもあったのです。なんてこったいどっかの爽やかな豚と同じじゃないか

 

 

所詮は憶測の域を出ませんが……黄崇の迎撃論を無視した諸葛瞻は「ネギを背負った鴨を討ち取る必勝の策略」があったのかもしれません。

 

 

 

……まあ、結局見立てがチョロ甘すぎて蜀を滅ぼしてしまうわけですが(゚∀゚)

続きを読む≫ 2018/07/10 23:29:10

 

 

 

生没年:光和元年(178)?~建安19年(214)?

 

所属:蜀

 

生まれ:益州広漢郡

 

 

 

 

彭羕(ホウヨウ)、字は永年(エイネン)。

 

世の中には才能こそ優れているものの、その才覚に溺れて傲慢で残念な人柄に成り果ててしまった人物がいます。

 

 

才覚と器がマッチしない時……この場合、才能が器から大きくあふれ出てしまったらどうなるのか。彭羕の伝は、そんなケースについて考えさせられるものになっていますね。

 

 

 

 

 

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愛されぬ才人

 

 

 

 

彭羕は才覚こそあったようですが、性格は傲慢。そのため味方と呼べそうな人が近くにおらず、その才はなかなか見出されませんでした。

 

……が、秦宓(シンフク)という人だけは、その知力に着目。同郷という事もあって、秦宓からだけは尊敬の目で見られていたのです。

 

 

 

彭羕が世に出たのは、そんな秦宓の推薦あっての事。太守であった許靖(キョセイ)に彭羕の才覚と自然体の大物感を力説し、推挙。

 

これにより、ようやく彭羕は郡の役人として世の中にその名を記すことになったのです。

 

 

しかし、その身分はまだまだ高いとは言えず、端役人といったところ。しかもその性格が災いして出世の道を断たれ、さらには讒言によって罪人の身分に落とされてしまったのでした。

 

結局彭羕は世間で名を上げるより前に咎人の身分となり、髪をバッサリ切られて首枷をつけられ、奴隷同然の労役にいそしむことになります。

 

 

……が、そんな状況は長くは続きませんでした。荊州から援軍に来ていた劉備(リュウビ)が突如叛逆し、益州を我が物にせんと進撃を開始。彭羕はこれを好機と見ると、すぐに脱走して劉備の元へと向かったのです。

 

 

 

 

 

THE☆ゴーガン

 

 

 

こうして劉備を新たな主に迎えると決めた彭羕は、その参謀として参陣している龐統(ホウトウ)の陣に一直線に駆け込みました。

 

当然、アポも接点も無し。まったくの赤の他人です。しかし、彭羕は自身の智謀には自負があります。その献策にも自身を持っており、必ずや受け入れてもらえると考えていたのです。

 

 

龐統の元にたどり着いた彭羕は、別の来客に応対している龐統を見るや何食わぬ顔で入り込み、「客がいなくなったら改めて話そうぜ」というなり、龐統の寝台にゴロン。

 

…………きっと、安く見られたりナメられないための、彼なりの交渉術なのでしょう。

 

 

そして、龐統が応対を終えて彭羕の元へ来ると、今度は食事を要求。あくまで龐統にペースを握らせず、自分の優位を保ちます。単に傲慢なだけか

 

 

結局彭羕はこんな感じで龐統と二晩にわたってお互いの策謀や胸の内を語り合いましたが……ここまでの傲慢な応対は単なる虚仮脅しでないことを見せつけ、彼の評価を勝ち取ることに成功。

 

さらには翌日、知人であった法正(ホウセイ)と共に劉備に面会。ここでも大いに気に入られ、彭羕は罪人の身から彼の参謀へと転身したのです。

 

 

そして諸将への指示伝達を仕事として益州攻略に大いに貢献し、ついに劉備は益州を手中に収めてそのトップの座を勝ち取ります。

 

彭羕は、劉備を大いに助けた功績から治中従事(ジチュウジュウジ:益州牧・劉備の属官)に任命され、正式に罪人から民衆の上に舞い戻る事が出来たのです。

 

 

 

 

 

 

 

認められなきゃ上に立つまで

 

 

 

と、この通り彭羕の能力は非常に高いものではありましたが、上に立った途端、やはり傲慢な性格が表面化。その野心と態度の肥大化は留まるところを知らず、ついには委員長的存在の諸葛亮(ショカツリョウ)に目をつけられてしまいます。

 

こういった節操なく暴走する不遜な人間が嫌いな諸葛亮は、彭羕の行動が軍中を乱すとして劉備に密告。

 

そして、劉備が試しに彭羕の勤務態度を見てみるとやはりあまりにアレだったため、次第に鬱陶しく感じられ、ついには彭羕を辺境の太守として中央から追い出してしまったのです。

 

 

 

自分の有能さを自負する彭羕にとって、この話は非常に面白くない。自身の出世街道が閉ざされることを恐れた彭羕は、ついに恐ろしいことを考え出すようになったのです。

 

そして、彭羕はかつて曹操(ソウソウ)への反逆で猛威を振るった馬超(バチョウ)に急接近。ある程度仲良くなって協調性の大事さを説いた馬超に対して、ついに反論するように胸中を語ったのです。

 

 

「あの劉備とかいう老いぼれはダメだね。いっそのこと、あんたが戦争で俺が内政。これで天下も充分狙えると思うがね」

 

 

出世によって溢れた野心と認められない鬱屈した感情が入り混じり、彭羕はついに反乱まで考えるようになっていたのですね。

 

馬超はノーコメントのまま彭羕を一端帰すと、すぐさま事の次第を劉備に報告。とうとう逮捕されてしまったのでした。

 

 

それでもあきらめのつかない彭羕は、獄中より諸葛亮に手紙を投函。

 

 

「自分は重宝してくださった主君に対して、酒の勢いで取り返しのつかないことを言ってしまい、処刑されても致し方ありません。

 

しかし、馬超の報告には誤りがあります。私は北方に人脈のある馬超と私が協力して主君の天下に尽くそうと言ったにすぎません。馬超の報告は正しくもありますが、我が本心を理解してのものではありません。

 

あなたほど知力をお持ちの方なら、私の心中をわかってくださるはず」

 

 

この言葉が方便か本心かはわかりませんが……諸葛亮に届くこともなく、結局処刑は執行。時に37歳。野心を暴発させた男の残念過ぎる末路でした。

 

 

 

 

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人物評

 

 

 

彭羕が名を連ねている伝は、言ってしまえば裏切り者や失望を買った「逆臣」ともいえる人物を並べた伝。その中でも彼は楊儀(ヨウギ)と並んで反逆を示唆する言葉が自身を終わらせるトドメの一言になっており、彼と違って彭羕のキャリアは非常に短いと言えるでしょう。

 

 

デビューは許靖が太守になった時と考えると、彭羕伝に記されている期間はおよそ5年ほど。しかも讒言を受けて囚人になっていた期間が大半というのですから……何とも稀有というか、相当なレアケースともいえる生き様なのではないでしょうか。

 

 

 

さて、そんな彼を、三国志の親である陳寿は以下のように記しています。

 

 

 

身長八尺、容貌は魁偉で、傲慢な性格から人をぞんざいに扱っていた。

 

才能によって抜擢されたが、身から出た錆とも言うべき最期である。

 

 

徹頭徹尾不遜で、すべてにおいて自分が中心。そんな人物だったと書かれていますね。

 

もっとも裏切り者をよく書く伝記はありませんし、この彭羕伝もすべて真実ではないのでしょうが……それでも、いろいろと凄まじい人物だったのは最期からしても確かでしょう。

 

 

ずば抜けた才覚と大きな野心を持ちながらも、人を見下してそれに見合う器を持っていなかった。なんとも残念な人だった……というのが正直な感想でしょうか。

 

 

せめて字が簡単だったら、もっとネタキャラとして現代に広まっただろうに……

続きを読む≫ 2018/06/25 14:53:25

 

 

生没年:?~章武2年(222)

 

所属:蜀

 

生まれ:豫州汝南郡平輿県

 

 

人物伝・蜀書

 

 

許靖(キョセイ)、字は文休(ブンキュウ)。有名な人物評論家でありながらさらに上を行く従弟にその将来を潰された結果、各地を転々とする羽目になった、不幸の星に生まれたのかとでも疑いたくなる人。

 

最後には劉備(リュウビ)の臣下として大きく出世しましたが、その理由が「あんなのでも名声が高くて看板にはなるから」。つくづく残念な人ですね。

 

 

今回には、争いの気配がするといの一番に逃げ出す、そんな許靖の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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ドタバタ逃走劇 前編・事始め

 

 

 

許靖は優れた人物評論家として名が知られていましたが、従弟である許劭(キョショウ)という人物に少々人望を食われ気味。しかもその許劭から嫌われて一方的に排除されていた事から、非常に貧しい生活を余儀なくされていました。

 

その貧しさたるや、肉体労働がクソ同然とされてきた時代に、名士であるにもかかわらず馬磨きにまで手を出したというほど。とにかく徹底的に従弟に潰され、芽を見ることがなかった人物なのですね。

 

 

しかし、許靖を買っていた人物も少なくはなく、それが彼にとって救いとなったのです。

 

そのうちの一人が、劉翊(リュウヨク)という人。劉翊は許靖を推挙枠に引っ張り上げると、朝廷に働きかけて尚書郎(ショウショロウ:公務人事課の役員)として、役員選考の任務を用意。

 

 

 

中平6年(189)に霊帝が崩御すると、その後董卓(トウタク)が実権を掌握。許靖は周毖(シュウヒ)なる人物と共に、朝廷の人事起用を担当することになりました。

 

この時に韓馥(カンフク)や孔伷(コウチュウ)ら実力の割に名声の低いであろう人物を多く地方要職につけ、代わりに汚職を働く者を解任するなど、政治の正常化に尽力。

 

……が、後に韓馥ら抜擢した人物は、任地に着くなりことごとく董卓に反発。董卓排除の軍勢を上げて都に迫り、その責任を問われた周毖が処刑されるほどの事態となったのです。

 

 

許靖は処罰を恐れて董卓の元に出奔。自身が推薦した孔伷、続けて陳禕(チンイ)という人物の元に出奔。しかし、出奔先で彼らは次々と病死し、そのたびに中央から離れて辺境に向かう事を余儀なくされたのです。

 

 

 

 

 

ドタバタ逃走劇 後編・運命のBダッシュ

 

 

 

正史三国志の日本語訳でもたったの2行ほどの間で実に2人もの君主を亡くした許靖は、安住の地を求めて長江を渡河。江東の郡太守を務める、旧友の許貢(キョコウ)や王朗(オウロウ)といった面々の元で庇護を求めます。

 

2人には快く迎え入れられ、ようやく一時の平穏を手にした許靖。ついでに散り散りになった一族郎党も可哀想だから引き取って、決まり事を決めて養うことを決定。しかし、その安寧は、そう長くもないうちに破られることになるのです。

 

 

――小覇王、孫策(ソンサク)の快進撃。

 

 

またたく間に江東に領地を広げた孫策が、今度は王朗や許貢らに狙いを定めたのです。

 

文人や民間人は戦争が嫌い。もちろん、許靖らだってそうです。このままでは孫策軍に安寧が砕かれると思った許靖らは、王朗らの元を離れて東へと転向。現在ではベトナムとの境界線付近となっている交州(コウシュウ)の士燮(シショウ)なる人物を頼り、長い船旅に出ることにしたのです。

 

 

最後尾で一族郎党が皆船に乗り終えたのを確認すると、いよいよ士燮の元に向けて出発。極貧ゆえに飢餓に見舞われ、許靖の手紙にあるには一族の3分の2が餓死するという災難を乗り越えてついに交州に到着。

 

名声パワーもあって士燮には歓待を受けることになったのです。

 

 

……が、ここでもやはり一悶着あったようで、許靖の不運を物語っています。

 

というのも、許靖の名声を慕っていた曹操(ソウソウ)によって軍中に招待されたのですが……その使者の1人が権力尽くで許靖を脅迫し、無理矢理従わせようとしてきたのです。

 

許靖はこれを嫌って拒絶。曹操にも辞退の手紙を送りました。

 

しかし、許靖に拒否されたことを根に持った使者は、この許靖の手紙を部下に命じて捜索。すべて見つけ出し、川に投げ捨てるという暴挙に出たのでした。傲慢なのか、ここまでひどいなら許靖の断り方がアレだったのか……。

 

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いざ、蜀へ

 

 

 

安寧の地を得た許靖は後に劉璋(リュウショウ)に要請を受け、益州の地に出向。その地で巴(ハ)、広漢(コウカン)、蜀といった郡の太守を歴任。

 

しかし、そんな折に、益州でまたしても戦乱が巻き起こります。

 

 

劉備(リュウビ)による蜀取りの開始です。

 

精強な劉備軍を前に、劉璋の軍勢はことごとく敗北。ほとんどの郡がたやすく打ち破られていき、ついには劉璋自身が籠る成都までも包囲されてしまったのです。

 

戦争が大嫌いな許靖はここで降伏を決意。城壁を乗り越えて劉備軍に投降しようと画策しますが、事があっさりバレて失敗。

 

そうこうしているうちに劉璋は劉備に降伏を申し込み、ついに益州での戦乱が決着したのです。

 

 

許靖もようやく戦乱から解放されて劉備に仕えることになりましたが……降伏しようとした醜態が嫌われたのか、閑職に留められてしまいました。

 

……が、そんな許靖に助け船を出した人物がいました。蜀取り前から劉備軍に内通していた法正(ホウセイ)です。

 

法正は許靖の実態を見て、劉備にこのように進言しました。

 

 

「能力と名声がかみ合っていない者も、この世には多くいます。しかし、名声はそれだけの人望の高さを表しており、礼遇すれば天下が黙っていないでしょう。許靖なんかは名声だけは他を圧倒していますので、優遇して世論を味方につけるのがよろしいかと」

 

 

劉備はこの意見に「なるほど」と思ったのか、この日を境に許靖を優遇。自身の属官につけ、やがては太傅(タイフ:帝の師ともいえる役目)、そして蜀漢帝国が成立されると、民政官の大臣ともいえる司徒(シト)にまで上り詰めたのです。

 

 

しかし、すでに許靖も70を超える老齢。その命は長くなく、蜀漢の成立を見届けた翌年には、静かに息を引き取ったとされています。

 

 

 

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ビックリ名士・驚きの慕われよう

 

 

 

あちらこちらを逃げ回った一生と戦争のたびに逃走を図るその性格から、許靖にはこれといった実績が残っていません。しかし、名士としてはかなり上位ともいえる人物で、その実多くの人たちに慕われる破格の人望の持ち主であったことが史書からは明らかになっています。

 

 

そんな許靖の人物評、および性格を知ることができる陳寿の評は以下の通り。

 

 

早くから名声があり、篤実さで評判を受けていた。また、優れた人物を世に送り出すことに心を向けていた。しかし、その行動がすべて妥当であったかといわれるとそうでもない。

 

70を超える高齢になっても、人を愛し、後進を導き受け入れ、世俗から離れた議論を盛んにしていた。

 

 

まさに名声と篤実な性格の権化といった人物評でしょうか。やはり彼は人物評や人事方面で優れた才能を持っており、後進を育てるような仕事は転職だったのかもしれませんね。

 

また、建前を気にしない魏の自由人・蒋済(ショウサイ)も彼を「国政を担う人物」と評し、彼を非常に高く評価しています。

 

 

また、恐るべきはその交友関係。蜀内でも諸葛亮(ショカツリョウ)を始め多くの人物に慕われていましたが、魏の臣となった人物の中でも、王朗や華歆(カキン)、陳羣(チングン)といった大物たちと親交を結んでおり、皆自分が重役に就くと許靖に手紙を送っています。

 

 

本人の資質や実力は大したものではなかったかもしれませんが……名声と慕われようは圧倒的で、良くも悪くも他者を引き立てることで自分も力を発揮する。そういう人物だったのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/06/22 20:26:22

 

 

生没年:?~ 正始元年(240)

 

所属:蜀→魏

 

生まれ:益州巴西郡閬中県

 

 

人物伝・蜀書

 

 

 

黄権(コウケン)、字を公衡(コウコウ)。劉璋(リュウショウ)配下を通じて劉備(リュウビ)に降り、その劉備の元でも数年のうちに不運に見舞われ今度は魏に降り……と、いずれも災難ともいえる敗戦に巻き込まれ、やむなく鞍替えを余儀なくされた不運の人。

 

しかし実力こそは未知数ですがその心根は本物で、忠誠心と心意気は劉備曹丕(ソウヒ)といった降った先の主君に絶賛されています。

 

 

今回はそんな不運の忠臣・黄権の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

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武運拙し

 

 

 

若い頃の黄権は郡の小役人といった身分でしたが、そんな身分でいる所を劉璋に目をつけられ、ヘッドハンティングを受けて益州全体の政務所に異動。そのまま主簿(シュボ:秘書官・庶務担当総括者)として彼に仕えました。

 

 

ちょうどこの時、劉璋は北の漢中で反発勢力を統括している張魯(チョウロ)と争っている最中でしたが、状況は一進一退であまり芳しい物ではありませんでした。

 

この状況を打破するための策として、張松(チョウショウ)という人は「荊州南部にいる劉備を戦力として迎え入れてはどうか」と提案。

 

これを聞いた黄権はすぐさま反対。劉備の器と名声は計り知れないとし、「ただの武将として迎えては待遇に不足、かと言って賓客として迎え入れては、この領内に2人の主君を両立させることになってしまいます」と、下手に動かず状況の変化を待つように呼びかけたのです。

 

 

しかし、黄権の意見もむなしく、、劉璋は劉備を迎え入れ、対張魯の切り札として歓迎。黄権は中央での仕事から外され、広漢(コウカン)の太守に任命されることになったのです。

 

 

……この展開に喜んだのは、他ならぬ劉備。彼は張松らと内通し、劉璋の治める益州を奪おうと画策していたのです。

 

 

この事が発覚して張松は処刑されたものの、すでに身中に入り込んだ毒は除去できません。劉備は反旗を翻し、劉璋の臣下が治める土地を次々と陥落させ、黄権や主君である劉璋も降伏まで追い込まれ、そのまま勢力は滅亡。劉備に吸収されることとなったのです。

 

 

が、この時黄権は劉備軍の攻撃に備えて防備を徹底し、自身が降伏したのは劉璋が劉備に降ったと知った後。つまり、君主への義理を最後まで果たしていたのです。

 

この事が劉備に気に入られ、黄権はすぐに偏将軍(ヘンショウグン)の位を獲得、忠義が買われ、劉備軍でも相応の地位を与えられたのです。

 

 

 

 

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劉備軍でも不運により……

 

 

 

こうして益州の新たな主として劉備を迎えることになったわけですが……その翌日、旧主である劉璋としのぎを削っていた張魯が曹操(ソウソウ)に敗れたという話を耳にしました。

 

張魯が治めていた漢中は、益州にとって北からの侵攻を防ぐ蓋のようなもの。そこを目下最大勢力に取られたとあっては、滅亡も決して縁遠い話ではありません。

 

 

そこで、黄権はすかさず劉備に張魯の身柄保護と漢中合併を進言。曹操が張魯を完全に下すまでに横から奪っていく策を練ったのですが、軍を動かしている最中に張魯が曹操に降伏。恐れていたことが現実となったのです。

 

 

しかし、それでも逆転の瞬間を狙って黄権は策を練り上げ……建安24年(219)、曹操軍との激しい戦いの後、ついに劉備軍は漢中を奪取。この歴史的勝利の陰には、黄権の立てた策も少なくなかったのです。

 

 

こうして漢中を得た劉備は、漢中王を自称し、その翌々年には蜀漢を打ち立てて帝を自称。黄権も治中従事(ジチュウジュウジ:益州牧(劉備)の補佐官)となり、蜀漢設立時には鎮北将軍(チンホクショウグン)に格上げされました。

 

……が、再び黄権を不運が襲います。

 

 

鎮北将軍になる直前、劉備は呉の孫権(ソンケン)を攻め滅ぼすべく軍勢を編制。黄権は「進めば退路がない上、敵は手強い。まず私が戦って様子を見ましょう」と進言しましたが聞き入れられず、逆に魏の横槍を防ぐ役割と共に、主戦場から外れた北に配置されてしまったのです。

 

 

そして黄権が関与しないままに戦は大敗北。劉備の本隊が壊滅的打撃を受けて撤退したことにより、北に備えていた黄権の退路は完全に遮断されてしまいました。

 

進退窮まった黄権は、「戦っている呉に降るよりは」と魏への亡命を決意し、そのまま北に落ち延びることになったのです。

 

 

 

自身に責任はないとはいえ、黄権が敵軍に降伏した事実は変わりません。蜀軍の中にはそれを恨んで黄権の家族を皆殺しにすべきだという意見も出ましたが、劉備はあくまでこの案を拒絶。

 

「裏切ったのは私であり、黄権ではない」と述べ、取り残された家族を大事に扱ったとか。

 

 

 

 

 

 

 

魏の将として

 

 

 

 

進退窮まり魏へと降伏した黄権でしたが、すぐにその主である曹丕と面談。

 

曹丕は面白半分か黄権の人柄を確かめるためか、彼に対して「逆賊である劉備から大正義の我々に鞍替えしたのは、漢の黎明期、項羽を見捨てた韓信や陳平の真似事かな?」と、あえて黄権の降伏を好意的に捉えたかのような言葉をかけました。

 

対して黄権は曹丕の圧迫ともいえる質問に屈さず、以下のように返答したと言われています。

 

 

「私は劉備から過分な待遇を受けておりました。しかし蜀には既に帰れず、あるいはちょうど敵対している呉に降るなどもってのほか。結果、寄る辺は魏しかなかったのです。死を免れただけマシという手前、古人に例えるなどできようはずもありません」

 

 

曹丕はこの返答に大いに感心し、黄権を厚遇することに決定。すぐに侍中(ジチュウ:皇帝お付きのご意見番)と鎮南将軍(チンナンショウグン)の地位を与え、育陽侯(イクヨウコウ)の爵位も与えました。

 

 

黄権はその後魏に仕え続け、特に曹丕からは子供じみた悪戯の被害を受けるほどに魏に打ち解けましたが、劉備が亡くなった時には魏で祝賀が開かれましたが、黄権は元々劉備の配下だったことを理由に欠席を表明。

 

さらには「蜀で黄権の妻子が処刑された」と噂されたときも嘘情報と判断して喪に服さず真偽を待つなど、魏の臣でありながら蜀や家族の事を忘れなかったのです。

 

 

そんな黄権は景初3年(239)に車騎将軍(シャキショウグン)まで昇進しましたが、その翌年に病のため死去。景侯と諡されました。

 

 

 

 

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人物評

 

 

 

黄権は能力こそそれなり以上の知将であること以外あまりピンときませんが、なんと言ってもその性格は誰からも大きく評価されています。

 

 

三国志を編纂した陳寿は、彼のことをこう評しています。

 

度量が大きく、思慮深い人物だった。

 

 

簡素ながらもわかりやすい評価ですね。おおよそ昨今までの歴史家の評価も、彼のこういった人柄、そして不運によってすべての選択肢が無くなるまで降伏はしない姿勢を大きく評価されています。

 

また、面白いところでは、司馬懿(シバイ)も黄権の性格を非常に大きく買っていて、敵である諸葛亮(ショカツリョウ)との文通で「黄権という男は快男児です」という旨の言葉を書いていたことが史書で明らかになっています。

 

 

しかし一方で、進退窮まって降伏したことを指し、「忠義者なら、進退窮まったのなら死ぬべきだ」というどこかの于文則を彷彿とさせる批判もあり、これもまた黄権評を盛り上げています。

 

 

何にせよ、裏切り者と言ってもよい立場でありながらしっかり節義を守り、旧主の恩はしっかり覚えて悪く言わない姿勢が、結果的に彼が厚遇される要因になったのは間違いありません。

 

 

似たような立ち位置の于禁との違いは、やっぱり立場と前後の状況と、日頃の行いかなぁ……。どっちも謹厳実直ですが、やたら厳しい逸話が残る于禁と違い「度量が広い」と言われている以上、周囲の好感度は黄権の方が数段上なのでしょう。

 

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻

 

 

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続きを読む≫ 2018/06/19 22:19:19

 

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州武陵郡臨沅県

 

廖立

 

 

廖立(リョウリツ)、字は公淵(コウエン)。

 

世の中には優れた才能を持ちながらも、取り扱いの難しさから天才以外の手には持て余してしまう代物がいます。廖立はそんな代物の最たる例で、最後にはとんでもないことをやらかして自らの道を断ち切ってしまっています。

 

 

優れた弁才や文才を、こき下ろしに使ったばっかりに……

 

今回は、そんな廖立の伝を追ってみましょう。

 

 

 

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誰もが認めるその才覚!

 

 

 

廖立は具体的な事績こそ見当たりませんが、大物に認められている辺り相当な才人であったことが伺えます。

 

 

廖立は劉備(リュウビ)が荊州にいる時にその才を認められて従事(ジュウジ:この場合劉備お付きの官僚)として召し出され、そのまま30歳にも満たない若さで太守(タイシュ)に抜擢。生まれの地である武陵(ブリョウ)郡の統治を任される等、破格の好待遇を受けています。

 

また、諸葛亮(ショカツリョウ)も彼の才能について言及。孫権(ソンケン)からの使者を応対している際に、劉備軍中の優れた政治家として龐統(ホウトウ)と彼の名を上げています。

 

 

さて、そんな廖立は建安20年(215)、完全に戦争寸前にまでなった孫権軍からの攻撃を受け、任地である武陵から締め出される形で逃走。自らの役目を全うできないまま、劉備の元に逃げ帰る羽目になってしまいました。

 

しかし、劉備は廖立の才覚を惜しみ、逃亡の罪を軽く叱責しただけで終えたのです。

 

 

その後廖立は巴(ハ)郡太守に転任し、劉備が漢中王(カンチュウオウ)を自称するようになると侍中(ジチュウ:皇帝に近侍し質問応接を行う顧問役)にまで昇進し、年齢もまだまだそこそこ、仕えてからの期間もそこまででもないにもかかわらず、とんでもない大身となったのでした。

 

 

 

 

 

いきなりの没落

 

 

 

しかし、劉備が亡くなって劉禅(リュウゼン)が跡を継ぐと、廖立は今度は長水校尉(チョウスイコウイ:皇帝直下の宿営兵を管轄するエリート職だが……)に格下げ。

 

基本的に外戚の有力者が就くもののの大してやることのない名誉職で、だんだん廖立はその環境に倦んでいくようになったのです。

 

 

さらにこの時の廖立の立場は、自身よりも後に蜀に加入した李厳(リゲン)の下。才覚名声共に諸葛亮に次ぐと自負していた廖立にとって、要職から外されてどこの馬の骨とも知れない者の下に付くのは大変な屈辱。もはや自身の才を活かせる場所などどこにもなかったのです。

 

こうして見る影もなくなった廖立は次第に不満を蓄積させていき……諸葛亮の属官であった蒋琬(ショウエン)、李邵(リショウ)らの訪問を受けて意見を求められたとき、とうとう溜まりに溜まった感情が爆発してしまったのです。

 

 

劉備様は漢中をなかなか奪おうとせず、危うく曹操軍に攻められるかというところだった。関羽(カンウ)将軍は傲慢さが祟って自滅し領土は失陥、1兵も残らず滅ぼされた。

 

で、今の重役はどうだ。文恭(ブンキョウ)はでたらめな事ばっかやってるし、向朗(ショウロウ)は馬良(バリョウ)兄弟なんぞを崇拝してまともな道理も理解できてない。人の後ろを歩くしかできない郭攸之(カクユウシ)は、顧問役の侍中なんぞをやっている。

 

あと、王連(オウレン)とかいう奴も許せんね、俗物が偉そうにふんぞり返って。ああいうのが民を疲弊させ、国をダメにするんだよ」

 

 

この言葉を聞いた蒋琬らは、すぐに諸葛亮にありのままを報告しました。

 

官僚体制の調和と体系化を目指していた諸葛亮は廖立の尊大さは自身の築いたものを壊しかねない脅威であると判断し、そのまま劉禅に上奏し、廖立を平民にまで格下げ。辺境にまで居住地を移され、廖立はその地で田畑を耕して一生を終えることになったのです。

 

 

 

 

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傲慢なのは間違いないが……?

 

 

 

史書にはこの通り大したことのないであろう才覚を自慢する嫌な奴というばかりに描かれている廖立。実際に諸葛亮の体制を非難したことは蜀の国を敵に回したのに等しく、それ相応の制裁を受けて出世街道を断たれてしまっています。

 

彼が名を上げている伝は、言ってしまえば迷惑な存在や裏切り者とされる人物らが顔をそろえる場。そして陳寿にも、「自業自得」と冷たく斬り捨てられています。

 

 

また、諸葛亮について独自にまとめられた『諸葛亮集』でも批判の槍玉に上げられ、正史の五割増しで嫌な奴として書かれています。廖立の人物を表す記述を簡潔にまとめると以下の通り。

 

忠孝の心は薄く認知の門を開いて敵を歓迎するようなクズ。おまけに政治に疎く、武陵の統治はいい加減。誹謗中傷や空気の読めない発言を繰り返し、先帝劉備の棺の前で、人の頭を断ち切るような真似をする。

 

 

そのくせプライドだけは一人前で、諸葛亮に対して卿の位を要求するなど破格の待遇を期待した。

 

そんな意味不明な期待を諸葛亮が断ったことで恨みを抱いて誹謗中傷を始めるような奴だから、諸葛亮も最初は死刑にしようとした。

 

 

しかし、劉禅はそれを忍びないと思ったので荒れ地への放逐で勘弁してやった。

 

 

 

……とまあこんな救いのない人間に描かれており、実際そのように言われるのもある程度仕方のないことをしでかしているのですが……反面、傲慢というより剛毅で案外有能そうな話も残っています。

 

 

 

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意外と有能?

 

 

流罪の原因となった誹謗中傷、なかなか面白いところを突いているのです。

 

諸葛亮が部下に求めたのは、ステータスと忠実さ。アウトロー大歓迎な劉備と違い、自身に忠実な部下を囲ったトップダウン式の官僚体制を好んでいた風があります。

 

そのため直言の士は諸葛亮体制にとってはむしろマイナス要因になり得、廖立のような人間が排除されていったわけですね。

 

 

そしてその官僚体制の結果、馬良の弟である馬謖(バショク)は自己流のやり方で大失敗し処断。非難に上がっていた向朗は崇拝していた馬謖の逃亡を黙認して道理を曲げ、諸葛亮に罷免されてしまったのです。

 

 

何より諸葛亮体制で一番問題となったのは、使い勝手のいい人材を重用した結果、重役の才能劣化を招いてしまったという点。ある意味、廖立はその辺も密かに感じ取っていた……のかも。

 

 

 

また、認めた人間にはしっかり敬意を表するタイプのようで、自身を農民にまで落とした諸葛亮がいつかまた重宝してくれると信じていた節もあります。結果、諸葛亮の死を聞いたときには「結局俺は賎民で終わるだろう」と嘆いたとされています。

 

 

そしてその後、たまたま近くを通りかかった姜維(キョウイ)の訪問を受けた際も意気衰えずいつも通りの言論を展開し、彼を感心させたのです。

 

 

 

何だかんだ、無能だとかプライドだけの小人だとかではなく、単純に劉備くらいの器でなければ使いこなせない、有能ながら尖りまくった人材だったんかもしれませんね。

続きを読む≫ 2018/06/02 12:57:02

 

 

 

生没年:?~延熙11年(248)

 

所属:蜀

 

生まれ:益州巴西郡宕渠県

 

 

勝手に私的能力評

 

人物伝・蜀書

統率 A+ 北伐期の職を代表する名将の一人。魏軍相手に寡兵で圧倒した手腕は見事。
武力 A いくら正論かつ諸葛亮の名前を出したとはいえ、一喝しただけで魏延の兵が霧散した。武功も多く、武名で轟かせた人物の一人である。
知力 B どうでもいい話だが、最後まで字が読めなかったってそもそも覚える気が無かったともいえるのでは……?
政治 D 識字を最後まで軽視した辺り、おそらく学問や名士をそこまで重要視しなかったのだろう。汚点を残さなかったからよかったが、当時の価値観を考えるといろいろ危ない……
人望 C 武官としての名声は圧倒的。だが、「偏狭で軽はずみ」と書かれる辺り、性格面はお察し。まあ三国志は晋監修のため、蜀をディスるための粗探しの可能性はあるが。

 

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王平(オウヘイ)、字は子均(シキン)。

 

もともと人材が枯渇気味な蜀において数少ない異民族関連以外での多大な軍功を挙げており、日の目を浴びる日を楽しみにしている人が多い。そんな人物です。

 

人気ゲーム・真三國無双でも「次は出るかな」と言われつつも、なぜかプレイアブル化を逃し続けてきた王平。

 

今回は、そんな目立つ場所で十二分な功績を立てたにもかかわらず日陰者扱いの、ちょっと不憫な王平の伝を辿ってみましょう。

 

 

 

 

 

 

実は元々魏の武将

 

 

王平は早くに父を亡くしたのか母方の家系に育てられ、母の苗字である何平(カヘイ)を名乗っていましたが、後に父方の「王」姓に復帰したとか何とか。

 

 

まあそんな豆知識はともかく……実はこの王平、実は最初は異民族の部隊の一人でした。

 

しかし建安20年(215)、曹操(ソウソウ)が漢中(カンチュウ)の張魯(チョウロ)を降伏させると、王平の部族もその影響で曹操軍に基準。王平もこの時曹操軍に加わって洛陽(ラクヨウ)を訪れ、校尉(コウイ:部隊の高級指揮官)の位を授かっています。

 

 

 

しかしその後、劉備(リュウビ)が漢中に攻めてきた時には曹操軍は劉備に敗北。王平はこの時に劉備軍に降伏し、牙門将軍(ガモンショウグン)、次いで裨将軍(ヒショウグン)に任命されます。

 

これらの階級は低級ながらも立派な将軍位で、すでに最初から一軍を率いる武将として多大な期待が寄せられていたのがわかります。

 

 

かくして高く評価された王平は、以後は劉備軍、もとい蜀軍の将軍として、元々使えていた魏を相手に戦うことになるのです。

 

 

 

 

 

北伐の頼れる戦力

 

さて、劉備が亡くなってから時代が変わり、宰相・諸葛亮(ショカツリョウ)による北伐が本格化したところで、再び王平の名は史書に現れます。

 

 

建興6年(228)、蜀軍は一斉に北の魏軍を駆逐すべく北伐の軍を進めます。ほぼ唯一警戒していた劉備が死んだことにより魏が油断していたのも手伝って、圧倒的優位な戦況のまま北に軍を押し上げる蜀軍。

 

 

しかし、魏が本気を出すと、その軍勢をどこかで止めなければ北伐に成功はありません。そこで、諸葛亮は愛弟子の馬謖(バショク)を総大将とし、街亭(ガイテイ)という地に魏軍迎撃の先発隊を派遣。この時、経験の浅い馬謖の補佐として副官の地位に就いたのが王平でした。

 

 

魏が本気を出す前にその領土を奪い、幾分優位な状況で魏との決戦に持ち込むことに成功した蜀軍。しかし、この作戦は功を焦った馬謖の行動によって、完全に打ち砕かれてしまうのです。

 

 

 

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「兵法には、高所に利があると言われている」

 

そう考えた馬謖は、抑えていた水脈を捨てて山頂に布陣。元々数的に不利な中で、「魏軍など粉砕してやる」とばかりに攻めの陣形を展開したのです。

 

王平は危険であると散々諫めましたが、当の馬謖は王平の発言を無視し、とうとう手持ちの全軍を率いて山の上から魏軍を迎撃することになったのです。

 

 

これでもし、相手が並以下の雑魚将軍ならばどうにかなったのかもしれませんが……不運なことに、この時の敵の大将は魏でも五本の指に入る将軍・張郃(チョウコウ)。あっという間にふもとの水脈は断たれ、やぶれかぶれに突撃する馬謖軍は張郃によって粉砕。

 

王平が手勢の千のみで孤軍奮闘したため張郃は伏兵を疑って手出しができず、このおかげで最悪の事態は免れましたが……ともあれ、馬謖の敗走により蜀軍の敗北は決定し撤退を決意。

 

後々蜀では敗戦の責任を取っての大規模な懲罰、処刑、降格が行われましたが、王平だけは張郃相手に奮戦した功績をたたえられて参軍(軍師)の役割と将軍位の格上げ、さらには爵位と領地が与えられたのです。

 

 

 

その後建興9年(231)に行われた第四次北伐にも参加。

 

祁山(キザン)の戦いと言われる包囲戦で、王平は南の包囲網を守備。この時も王平は因縁の相手ともいえる張郃の軍の攻勢にさらされましたが、上手いこと防備を固めてこれを堅守、一度も張郃に打ち破られることなく撃退に成功します。

 

が、今度は補給での不安を抱えて蜀軍は撤退。王平の活躍も虚しく、またしても勝利を得るには至らなかったのです。

 

 

 

 

北境の名将

 

 

その後も諸葛亮は北伐を敢行しますが、日頃の激務もあって建興12年(234)に陣中で病没。結局、諸葛亮による北伐は最後までうまくいかず、ここでも蜀軍は諸葛亮の遺命により撤退することになってしまいました。

 

 

……が、実質的なリーダーともいえる諸葛亮の死により、蜀軍ではトラブルが発生。

 

彼の死後の軍事的リーダーの座を巡って、蜀軍随一の猛将・魏延(ギエン)と、裏の補給や戦争準備で多大な功績を挙げていた楊儀(ヨウギ)が対立。楊儀が撤退を断行する中魏延は徹底抗戦を主張、最終的に双方が謀反を起こしたと朝廷に訴え、軍事的な衝突にまで至ったのです。

 

 

双方アレな性格で知られていましたが、朝廷は魏延のほうが扱いづらいと見て楊儀に味方。この時、反逆者となった魏延を打ち破る大手柄を挙げたのが王平でした。

 

王平は魏延の軍の前に立つと、「公(諸葛亮)の遺体が冷たくならないうちから、この体たらくは何だ!」と一喝。

 

元々魏延に嫌気がさしていたらしい兵士たちは、王平の意見を聞くと離反し、魏延は完全に孤立してしまいました。

 

 

最終的に逃亡する魏延を討ち取ったのは馬岱(バタイ)だと言われていますが、三国志を編纂した陳寿は「彼こそが一番手柄だ」と称しています。

 

 

その後も位を挙げて対北部の総大将である呉懿(ゴイ)の副官として漢中の太守に就任。そして呉懿が亡くなると、ついに王平に対北部戦線総大将の任が与えられるのです。

 

 

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続きを読む≫ 2018/04/05 20:56:05

 

 

 

劉琰 威碩

 

 

生没年:?~建興12年(234)

 

所属:蜀

 

生まれ:豫州魯国

 

 

人物伝・蜀書

 

 

 

劉琰(リュウエン)、字を威碩(イセキ)。「誰だこいつ?」と思った方は、間違いなくその疑問は間違ってないです。

 

というのも、この劉琰は本伝こそ立てられているものの、書かれているのは見事に悪評や悪口ばかり。一応多少の才覚についての言及はありますが、挙がっている功績がひとつもないという特異な人です。

 

 

つまり、史書を見る限りでは何一つ役に立たない、単に性格が悪いだけのゴミという評価に落ち着いてしまう人で、そんな人物がまがりなりにも「正義」という体で書かれることの多い蜀で有名になるはずがない。というか黄皓や楊儀魏延あたりでおなかいっぱい

 

 

 

というわけで、この人の業績を上げていくと、どうしても悪口だらけの者になってしまいますが……まあ、とりあえず見ていきましょう。

 

 

 

 

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一応事績

 

 

 

劉琰が劉備に仕えたのは、劉備(リュウビ)が豫洲にいた頃の事でした。

 

劉備から見たら、彼が同姓であること、そして雅な風情で談論が好きという事に惹かれての事だったと言われています。

 

 

 

さて、こうして劉備に仕えることになった劉琰は、以後彼に随行し、順調に昇進。ただし、益州を得るまではあくまで賓客、つまりゲストの立場としての行動だったとか何とか。

 

劉備が豫洲にいたのが190年代後半あたりなので、おおよそ20年ほど……。それだけの期間をゲストという形で随行したわけですね。忠誠心が高いのか低いのか……

 

 

 

さて、何がともあれ、劉備が益州を無事に平定して支配下に加えると、劉琰もいよいよ劉備軍に正式採用。固陵(コリョウ)の太守としてしばらく郡の統括を行い、劉備の在位中はそのまま固陵から動くことはありませんでした。

 

 

 

しかし、劉禅(リュウゼン)が皇帝に即位すると、都郷侯(トキョウコウ)として列侯に加わり、衛尉(エイイ)、中軍師(チュウグンシ)、後将軍(コウショウグン)と交換を歴任し、ついには軍事最高級職である車騎将軍(シャキショウグン)まで上り詰めるほどの大物待遇でした。

 

 

……が、不思議なことに国政には参加せず、千ほどの部下だけを引き連れて批判や建議を繰り返すばかりだったとされています。一応VIPとも言うべき立場にはあったものの、やはりそこまでの人間ではなかった……という事でしょうか?

 

 

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史書に並ぶ小悪党伝説

 

 

さて、史書における劉琰の性格は、まさに小悪党といったところ。

 

彼の事績は上に描いた通りの物がすべてであり、以後は失態やダメ人間としての説明が続きます。

 

 

まず、「馬車も衣類も飲食も、すべてが奢侈」とあり、さらに従える侍女は数十人。皆一様に歌が上手く、「魯霊光殿の賦」なる宮殿の賛美歌を暗唱させたとのこと。

 

 

 

そんな劉琰はある時、将軍である魏延(ギエン)と喧嘩。腹を立てた劉琰はデマカセの言葉を吐き散らし、魏延を中傷するという事件が起きました。

 

それを聞いた諸葛亮(ショカツリョウ)はすぐに劉琰を詰問。諸葛亮から味方されないと知ってか申し訳なさからかは知りませんが、劉琰はすぐに諸葛亮に向けて謝罪の文書を送付しています。

 

「元々酒乱でダメ人間で素行の悪い私ですが、お許しいただけてありがとうございます」

 

とまあ、内容を端折ればこんな感じでしょうか。

 

 

この謝罪文を受け取った諸葛亮は官位も爵位も据え置きのまま元の待遇に置かれましたが、代わりに首都である成都に更迭。任地から引き剥がされ、以後は希望を失ってぼんやり過ごす日が多くなったそうな。

 

 

 

さて、こうして生きる希望を失った劉琰でしたが、さらに追い打ちをかける事件が発生します。

 

彼の妻は美人で有名だったのですが、建興12年(234)に蜀の太后に年賀の挨拶に行ったきり、そのまま引き留められて帰ってこれず、ようやく解放されて退出したのは1ヶ月も後のこと……というちょっとしたアクシデントがあったのです。

 

 

この時の劉琰は、妻の帰りが遅いと大激怒。

 

「蜀帝劉禅と浮気しやがったな!」

 

と、完全に勘違いの末にブチギレ。美人妻だからこそ、他の男がいるに違いないという発想に至ってしまったと言われています。

 

 

まともな精神状態を失った劉琰は、役人を呼んで妻を鞭で百叩きにし、さらに草履で顔を殴りつけて離婚。その後すぐに妻から告訴されて、罪に問われて投獄されてしまったのです。

 

 

この裁判での判決は、死刑。劉琰は悪人としてそのまま市に引き立てられ、そのまま処刑されてしまいました。

 

この何とも救いのない始末……。唯一救いがあるとすれば、劉琰による暴行事件によって、「妻の年賀挨拶での参内禁止」となり、この事件の原因となった風習がスッパリなくなったことでしょうか。

 

 

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小悪党というかなんというか……

 

 

 

 

とまあこんな感じに、本伝では見事に小悪党として書かれている劉琰ですが……よく見るとキャリアは40年近い大ベテランなんですね、この人。

 

 

ともあれ、劉琰が価値のないゴミのように言われる所以は二つ。

 

 

1.魏延との不仲で嘘八百を並べ立てる

 

2.宮中で1ヶ月過ごした妻への暴行事件

 

 

 

先に申し上げますが、どちらも劉琰が一番悪いですよ。目に見える誹謗中傷を叩いたらそりゃあダメですし、妻の言い分を聞かないDV野郎というのも、いくら女性軽視の当時といえどもいささかアレな物です。

 

 

とはいえ、よくよく考えると魏延はかなり我の強い将軍。ヒートアップして言い過ぎるというのも、まあその人の器が出ていますが有り得ない話ではない。

 

そして妻との揉め事に関しても、やはり太后側にも一因はあるわけで……

 

 

 

 

とはいえ、最初に言った通り劉琰の性格に問題があったのは間違いない事実です。

 

これといった功績も見当たりませんし、もしかしたら何かしらの影響力を持っていて、そのために身の丈以上の大身になってしまったある意味悲劇の人……なのかもしれません。

続きを読む≫ 2018/03/29 18:56:29

 

 

 

生没年:熹平5年(176)~建安25年(220)

 

所属:蜀

 

生まれ:司州扶風郡郿県

 

 

勝手に私的能力評

 

法正 三国志の半沢 報恩報復 蜀 定軍山の戦い 裏切り勢 蛇 危険人物 インテリヤクザ

統率 B 夏侯淵を討つ作戦は見事の一言に集約されるが、軍を率いる能力がどれほどだったかは不明。性格上、周囲の統率・統括も苦手そうではある。
武力 D+ そもそも軍師が最前線で戦うとか、想像つかん。ただし、後退しようとしない劉備の前に立って矢盾になったという胆力溢れる逸話がある。
知力 S 益州征伐では旧主の性格を読み切り、漢中争奪では敵の動きを読み切りと、活躍期間は短いものの驚異の読みを見せる。
政治 A 実は蜀の法律の制定メンバー。信賞必罰(自分本位基準)。勝手な妄想だが、きっと報復手段も法律の穴を縫った合法のものだったんだろう。
人望 D 恨みを後できっちり晴らした危険人物。それゆえか劉備に最も気に入られた人物なのに人気がない。諸葛亮からも才覚こそ認められたが、反りが合わなかったようだ。

 

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法正(ホウセイ)、字は孝直(コウチョク)。一般イメージでは蜀の軍師は諸葛亮(ショカツリョウ)、次点で龐統(ホウトウ)で固定されており、他の人物らは言ってしまえば2流のようなイメージを持たれることが多いです。で、法正もそんな知名度2流の内の一人。

 

 

が、近年では三國無双シリーズにもアレな人として参戦し、「なんかよくわからないけどきっとすごい人」くらいの世間イメージは手に入れた人物なのではないでしょうか。

 

 

 

今回はそんな法正の列伝を追っていきましょう。正直、この人結構濃いです。

 

 

 

 

 

 

日陰者の暗躍

 

 

 

法正は元々中央の出で、祖父も人格者として有名な人物という確たる基盤を持っていました。

 

しかし、董卓(トウタク)の死後から長安付近では戦乱が続き、法正の地元もそのあおりを受けるようになっていたのです。

 

 

そのため、同郷出身者の孟達(モウタツ)をともなって法正は故郷を離れて移動。益州(エキシュウ)の劉璋(リュウショウ)のもとに身を寄せたのです。

 

 

 

さて、こうして無事に戦乱を逃れた法正は県令や校尉といった高官に任命されますが、同郷者から流された悪評によって重用されることはなく、しばらくは歴史の影に埋もれる事を余儀なくされていました。

 

影でくすぶっていた法正はいつしか「劉璋は大事を行える人物ではない」とどこかで見切りをつけてしまったようで、同じく劉璋配下で仲が良くなった張松(チョウショウ)と二人で、劉璋の器量不足を憂いていたことが史書に記されています。

 

 

 

さて、そんな折、戦乱を戦い抜いて一大勢力となった曹操(ソウソウ)が、隣の荊州(ケイシュウ)に向けて南下を開始。劉璋も攻められてはたまらないと曹操への使者として張松を派遣します。

 

そして曹操と会見して戻ってきた張松は、劉璋に対してとんでもないことを口走ったのでした。

 

 

曹操と断交し、それに敵対する劉備(リュウビ)と結びましょう」

 

 

この言葉を聞いた劉璋は、さっそく劉備への使者を送りますが、この時劉備の元に赴いたのが法正だったのです。

 

実のところ気乗りがしない法正は、辞退したものの強引に駆り出される形で嫌々劉備に会いに向かいますが……これが法正の大きな転機となったのです。

 

 

 

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益州あげます

 

 

 

一度劉備と出会った法正は、これまでのやる気のない態度を一変させ、張松に劉備が優れた人物である旨を伝えます。

 

そして二人は、劉備を益州に迎え入れて主をすげ替えるという一大計画を共謀。劉璋が隙を見せるのを楽しみにしながら、機会をうかがうことにしたのです。

 

 

そしてしばらく後、曹操が益州北部に割拠する張魯(チョウロ)の討伐に乗り出そうと動いた時……ついに計画発動の機会が訪れました。

 

 

 

張松は「張魯の次は我々だ」と怯える劉璋を説得し、法正を使者として劉備に援軍を要請。

 

まんまと劉備と再会した法正は、ここで劉備に「益州を奪いましょう」と献策。劉備はこれに従う形で、劉璋の援軍として益州に出向。そして張魯を曹操より早く討伐するため、北の前線拠点である葭萌(カボウ)まで軍を進め、そこで突如裏切って劉璋の軍を一気に蹴散らしていったのです。

 

 

そんな折に劉璋側の鄭度(テイタク)なる人物が、劉璋に対し「遠征軍の弱点は兵糧不足です」とし、現地調達のための焦土作戦を提案。この話をどこからか聞いた劉備は危機感を覚えて法正に相談を持ち掛けますが、法正自身は「劉璋にそんな度胸はありません」と冷静に分析。

 

結局、法正の言うとおり劉璋は案を否決し、鄭度を退けたのです。

 

 

そしていよいよ本拠・成都にほど近い雒(ラク)を劉備が包囲した時、法正は劉璋に対して降伏勧告の手紙を送付。建安19年(214)にはいよいよ成都の包囲を完成させ、やがて劉璋は劉備に降伏。

 

法正はその後、揚武将軍(ヨウブショウグン)として任用され、さらに蜀郡(ショクグン)太守となったのです。

 

 

 

また、成都包囲の際に許靖(キョセイ)なる人物が勝手に劉備に降伏しようとしたことがあり、劉備は許靖に不信感を抱いて重用しませんでした。

 

そんな折、法正は許靖の処遇について劉備に進言。

 

 

「世の中には実情はダメダメなのに名声だけは高い奴がいます。許靖はまさにそういう人物です。こういう奴らは民衆の支持にだけは大きな影響を与えますから、一応は厚遇しておくと間違いありませんよ」

 

 

劉備は法正のこの言葉を聞き、許靖を厚遇。世論を敵に回すのを見事に回避したのです。

 

 

その他にも法正は蜀科という蜀の法律制定にも携わっており、万能な人物であることが伺えますね。

 

 

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続きを読む≫ 2018/02/23 14:53:23

 

 

 

生没年:?~章武元年(221)?

 

所属:蜀

 

生まれ:徐州東海郡朐県

 

 

人物伝・蜀書

 

 

麋竺(ビジク)、字は子仲(シチュウ)。平穏安泰な生活を捨ててまで劉備について行き、最終的にはその内政分野でトップに立った人ですね。

 

弟麋芳(ビホウ)が後世の評判最悪、本人も軍の統率は下手などいろいろな要素が重なって、現代では名前こそ知られてもまるで見向きもされない人物、追い打ちをかけるように本伝の記述も少ないとマイナー要素を詰め込んだような人物ですが……

 

 

数少ない事績を追っていく中でも、その優秀さはキラリと光る部分があります。

 

 

というわけで、今回は麋竺伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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富豪でありながら劉備に仕える

 

 

 

麋竺の家は先祖代々からの資産家で、その資産額は計り知れず、召使は1万を超す大富豪でした。

 

 

そんな生涯が保障された身分にあった麋竺はある時、麋竺の住む徐州の州牧(シュウボク:ひとつの州の長官)である陶謙(トウケン)によって招聘され、別賀従事(ベツガジュウジ:州牧の副官の一つ)として取り立てられました。

 

 

 

それからさらに数年後、いよいよ麋竺にとって衝撃ともいえる、この安寧を破壊し彼を情動へと駆り立てる転機が訪れます。

 

それまで徐州の主であった陶謙が病死し、彼の遺命により、後の蜀の主である劉備が徐州牧の任を引き継ぐことになったのです。

 

 

この時、劉備に何かの希望を見出したのでしょうか。

 

なし崩し的に劉備に仕えることになった麋竺は、以後安定の生活を捨ててまで、劉備の臣下として死ぬまでついて行くことになるのでした。

 

 

 

 

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劉備配下の重鎮

 

 

 

建安元年(196)、劉備が匿っていたはずの呂布(リョフ)が、劉備の出陣中の隙を突いて突如叛逆。徐州の本拠地ともいえる下邳(カヒ)を乗っ取り、劉備の妻子まで捕縛する事件が発生します。

 

 

本拠を失った劉備は、軍を広陵郡の海西という場所へ移動させ混乱を収束しようとしましたが、呂布に徐州の中枢を握られてしまっては、もはや勢力は地に落ちたも同然。

 

突然の凋落に困窮する劉備軍のため、麋竺は貯めこんでいた金銀財貨と下僕2千人を提供。さらに自身の妹を劉備に娶らせて新たな夫人にとして差し出したのです。

 

 

この辺りの行動から、すでに麋竺は劉備の臣下として生きる決意を固めていたようですね。

 

 

かくして勢いを取り戻した劉備軍ですが、その後も勢力を盛り返しては敗走を繰り返すのですが……麋竺も家を捨ててこれに随行。

 

 

 

曹操(ソウソウ)から高い評価を得て、麋竺を弟の麋芳共々地方高官の地位を与え得られたりもしましたが、いずれも劉備について行く形で辞職するなど、どこまでも劉備一筋の生き方を貫いたのです。

 

 

 

その後荊州の劉表(リュウヒョウ)にお世話になることになったときには、自身に先んじて劉表へのあいさつに赴くなど、劉備軍の顔役の一人として立ち回っている姿が散見されます。

 

 

劉備もそんな顔役の立場にふさわしいように、左将軍従事中郎(サショウグンジュウジチュウロウ:左将軍の幕僚。当時劉備は左将軍の地位にあった)、そして劉備が益州を占拠してからは安漢将軍(アンカンショウグン)の立場に就任。

 

この安漢将軍の具体的な立場はよくわかりませんが……その地位は諸葛亮(ショカツリョウ)よりも上、内政官としても劉備に初期から付き従った孫乾(ソンケン)や簡雍(カンヨウ)よりも常位の立場だったとか。

 

 

しかし、麋竺はそんな劉備の安泰、そして後年の孫権(ソンケン)らとの諍いによる関羽(カンウ)の敗死などを見届けた後、章武元年(221)に死去。

 

これよりも1年前に死去したという話もありますが、劉備が帝位に上って蜀漢帝国を建国した時の上奏文に彼の署名があったという資料もあり、ハッキリしません。

 

 

 

その人となり

 

 

本伝には、麋竺の人物像は「穏やかで誠実だが、人の統率が苦手であった」とあります。

 

そのため、将軍職などを与えられても軍を率いることは一度もありませんでしたが、常に扱いは上客としてのもので、劉備からの恩賞も寵愛も並ぶ者がなかったとされています。

 

 

また、曹操の逸話関連をまとめた『曹公集』には、以下のような話も残っています。

 

 

曹操は麋竺を嬴郡(エイグン)の太守に任命したが、この時の朝廷への上奏には、「あの一帯では気性の荒い者たちが多く住んでいて統治は難しく、長官はしっかりと厳選する必要があります。誠実で文武に長けた麋竺などに、その地域の一郡を任せるのが適任でしょう」とあった。

 

 

また、麋竺から孫の麋昭(ビショウ)に至るまで、皆弓馬が巧みであった。

 

 

また、その死の様子も曹公集には明確に記されており、

 

 

弟の麋芳は関羽と折り合いが悪くお互い憎み合っていたが、その状況に耐えられず、関羽を裏切って呉に鞍替えした。この行動が、関羽の死につながったのである。

 

麋竺はそんな弟の不始末を恥じて、自ら両手を後ろ手に縛りあげて劉備の元へと出頭。兄として処罰を求めたが、劉備はこれを諭し、待遇を変えることはしなかった。

 

 

しかし麋竺はこの不始末を自分で許すことができず、発病して一年余りで死亡した。

 

 

というものも。まあこれが本当はどうなのかは定かではありませんが……弟の糜芳も、劉備を慕って曹操からの好待遇を蹴った人物。

 

自分と志を同じくすると思った弟の突然の裏切りは、やはり堪えるものがあったのかもしれませんね。

 

 

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こんなエピソードも……

 

 

 

これは『捜神記』なる怪奇小説にある話ですが……麋竺の誠実な人となりが記された面白い話があるのでご紹介。

 

 

 

麋竺はかつて洛陽から帰る途中、家の手前数十里のところに一人の婦人を見かけた。彼女は「馬車に乗せてほしい」と麋竺に頼み込んだので、麋竺はその婦人を馬車に乗せてやることにしたのだった。

 

 

そうして婦人を乗せて馬車を進めること数里、その婦人は礼を言い、馬車から立ち去ろうとした。

 

その間際、彼女は恐ろしいことを口にしたのだ。

 

 

「私は実は、天の使いの者。これからあなたの家を焼きに行くところなのですが、こうして馬車に乗せていただいたご恩があります。

 

天命ゆえ、あなたの家を焼かないわけには行きませんが……せめてものご恩です。あなたのお屋敷には、せめて真昼辺りに向かうことに致しますゆえ、それまでの間に、必要な物を運び出してくださいませ」

 

 

いきなり仰天の打ち明けを聞いた麋竺は、婦人の警告通り急いで帰宅。結局真昼ごろに家が出火し消失してしまったが、それまでの間に財産をすべて運び出し、それらを守ることに成功したのだった。

 

 

小説という立場上まず間違いなく架空のお話ですが……こういった逸話が出来上がるほどに、麋竺の人徳は優れていたのかもしれませんね。

続きを読む≫ 2017/12/06 12:49:06

 

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:青州北海郡

 

 

人物伝・蜀書

 

 

孫乾(ソンケン)、字は公祐(コウユウ)。袁紹(エンショウ)や劉表(リュウヒョウ)といった大物との折衝をさらっと済ませるだけの高い外交能力の持ち主です。

 

が、この手の外交官にありがちな、記述の異様な少なさがネック。正直、性格や事細かな実績に関しての情報が皆無なため、人物に関して何とも言えないのが個人的に気になるところ。

 

 

さて、そんな孫乾の伝、さらっと見ていきましょう。

 

 

 

 

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大物からも同盟承諾を引き出すハイパー外交官

 

 

 

孫乾は元々北の青州(セイシュウ)の出でしたが、劉備(リュウビ)がすぐ南の徐州(ジョシュウ)を治めるようになると、彼の招聘を受けて幕僚に加わりました。

 

 

その後、劉備お付きの文官としてしばらく過ごしていましたが、劉備曹操(ソウソウ)配下に加わって呂布(リョフ)を滅ぼすと、劉備曹操に叛逆。しかしこの時は曹操自身の動きが早かったのもあり、反乱は失敗に終わってしまいました。

 

 

 

このまま曹操の元におめおめ帰っても罰則と警戒の強化は免れません。そこで劉備は、北の雄・袁紹の庇護を受ける道を模索。孫乾は、そんな劉備の意を汲んで袁紹との交渉に向かい、見事に袁紹との交渉を締結させたのです。

 

 

こうして袁紹の配下として滑り込んだ劉備でしたが、それでも安穏とした暮らしは訪れませんでした。

 

劉備は官渡で袁紹とぶつかる曹操の背後を荒らしまわる任務を受けており、最初こそ上手くいって袁紹軍に大いに貢献しますが、曹操が討伐軍を派遣すると、寄せ集めの劉備軍は成す術もなく敗走。袁紹領に帰ることも難しくなった劉備は、他の寄る辺を探すことになったのです。

 

 

そこで続けて目についたのは、荊州(ケイシュウ)を治める同族の劉表。孫乾はまたしても折衝役として、劉表との外交交渉に赴くことになりました。

 

この時も孫乾は、何をしたのか劉表の交渉をあっさり完了。しかも、劉備の要望にしっかり沿った理想的な交渉内容を成立させたのです。

 

 

また、この時劉表は、「劉備殿や配下の孫乾について話すときに、悲しまない日はありませんでした」という手紙を書いています。つまり、手紙を書いて期限を伺おうというほどに信頼され、頼りにされたことになります。本当に交渉中何をしたのか……

 

 

 

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さて、そんな孫乾は劉備が益州(エキシュウ)を得た際に従事中郎から秉忠将軍(ヘイチュウショウグン)、つまり、軍属幕僚から最高司令官にまで上がりました。当然、この将軍職は名前だけのものであるとは思いますが……とにかくこのVIP待遇は、劉備の信任の厚さを物語っています。

 

とまあそんな感じで最古参の簡雍(カンヨウ)と同格、劉備の妻の兄である麋竺(ビジク)に次ぐ扱いを受けた孫乾ですが、その後は史書に活躍の記述を残すことなく、しばらくして死去。有名な地の名士でもない外交官の記述は、地位や活躍に関係なく短いのです……

 

 

 

続きを読む≫ 2017/11/25 22:35:25

 

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:兗州山陽郡高平県

 

 

 

人物伝・蜀書

 

 

 

伊籍(イセキ)、字は機伯(キハク)。劉備軍でも非常に頼りになる文官として描かれており、ゲームで出てきた際にも非常に扱いがいい人物の一人です。

 

当然、正史でも劉備軍での活躍期間は短いながら、独自の伝を立てられるほどの重要人物なのですが……記述の少なさが笑えるレベル!

 

 

というわけで、今回は短い短い彼の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

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その生涯、知略溢れる弁舌家

 

 

伊籍は兗州の出身で、同郷の劉表(リュウヒョウ)に身を寄せ、彼の配下として過ごしていました。

 

当然、劉表が荊州(ケイシュウ)に赴任した後も、彼について行って、主従関係は継続したままだったのです。

 

 

 

しかし、劉表が亡くなると、荊州に動乱が起こります。劉表の後を継いだ劉琮(リュウソウ)が曹操(ソウソウ)に降伏。家臣団が大勢曹操に降る中、一部の劉表配下反曹操の旗色を表明。劉琮の兄・劉琦(リュウキ)よその後ろ盾になった劉備(リュウビ)に付く者も少なくなかったのです。

 

 

伊籍は、そんな反曹操の人物の一人として劉備に随行。赤壁の戦いで勝利を収めたのち、どさくさ紛れに勢力を拡大し、劉備と一緒に益州の地へと向かいました。

 

そして劉備が益州を手中に収めると、左将軍従事中郎(サショウグンジュウジチュウロウ:左将軍お付きの幕僚)に任命されました。

 

※この時左将軍には劉備がついていました

 

 

その扱いたるや古参の簡雍(カンヨウ)や孫乾(ソンケン)に次ぐもので、数年前に加入したばかりの新参者にしては破格の待遇だったと言っても過言ではありません。

 

 

 

 

後に呉に勢力を築いている孫権(ソンケン)の元に使者に訪れた際には、孫権とちょっとしたやり取りを披露しています。

 

というのもこの孫権、困ったことに蜀からきた使節に対しあえて喧嘩を吹っ掛けて、反応を見て有能な人間かどうかを確かめるという悪癖を持っていたのです。

 

 

というわけで伊籍もこの孫権の嫌がらせの毒牙にかけられ、「劉備のように同族を滅ぼした(益州は元々同族の劉璋(リュウショウ)のものだった)無道の主君に仕えるとはご苦労な事だな」と痛烈な一言を発します。

 

これに対し伊籍は、「一度拝礼して一度立つだけの形式です。苦労などどこにもありません」と返答。

 

この発言に対し、孫権は大いに満足。その後も弁舌の才を存分に振るい、孫権に「見事だ」と言わしめるほどの大成功を収めたのです。

 

 

 

後に昭文将軍(ショウブンショウグン)に昇進し、国家の中枢に携わるようになります。

 

そして、諸葛亮(ショカツリョウ)、法正(ホウセイ)、劉巴(リュウハ)、李厳(リゲン)と共に、蜀の法律である『蜀科』を起草し、劉備の勢力の司法強化に大いに貢献しました。

 

 

その後の形跡は一切不明。いつ亡くなったかも定かではありません。が、ここまで厚遇された人物がこれ以降どこの史書にも出てこないのは想像しがたいので、蜀科を作ってしばらく後には亡くなったのではないかと推察されます。

 

 

 

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政治手腕にも優れた弁舌家

 

 

記述に関しては本当にこれだけですが……後に三国のうち一国の主となる孫権をうならせた弁才と、司法制定に携わったトップ5にも名前が挙がっている辺り、間違いなくかなりの人物と言えるでしょう。

 

 

ちなみに演義では、これの他に馬良(バリョウ)、馬謖(バショク)らを推挙するなどの人物眼も発揮しており、さらには劉表配下の時代にも、彼の腹心である蔡瑁(サイボウ)の陰謀から劉備の命を守るなど、なかなか渋い活躍を見せるなど、徹底した劉備シンパとしても描かれていますね。

 

 

いずれにせよ、ここまで記述が少ないのであれば、創作で彼を描く場合はいくらでも虚構を交える余地があるという事。メディアで思い思いに描かれている人物の一人と言っても過言ではないでしょう。

続きを読む≫ 2017/11/25 21:45:25

 

 

 

生没年:?~ 章武元年(221)

 

所属:蜀

 

生まれ:幽州涿郡

 

 

勝手に私的能力評

 

張飛 蜀 劉備 スネ夫 猛将 自滅 鬼 厳格

統率 S- 部下に厳しく当たるというのは、言い方を変えればビシバシ鍛える番長。実際に彼の兵は精鋭だったようで、随所で大活躍している。まあ最期を見るに、明らかにやりすぎか。
武力 S 長坂橋の大喝は誇張こそあれ、おおむね事実。程昱からも万人の敵と言われており、実際に武勇は随一だったと見るべきだろう。
知力 B 長坂の戦いでは密かに兵を伏せていたり、漢中争奪の抗争では張郃を知略で大破させたりと、意外な事に知略エピソードは少なくない。
政治 D 張飛の政治とかちょっと想像できない。まあ部下から怖がられたあたり、于禁とかと同じタイプだったのかもしれない。
人望 D 関羽と逆に名士には媚びたものの、劉巴に「武人ごとき」と見下されている辺りそんなに人気はなかったのかも。部下からは当然恨まれた。

 

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張飛(チョウヒ)、字は益徳(エキトク)。演義では翼徳となっていて、なんか格好良くなっていますが……あくまで正史においては終始益徳を名乗っています。

 

もうこんなマイナーサイトを覗きに来ているような方なら、きっととっくにご存知ですよね。酒と戦をこよなく愛する、憎めない猪武者。ドラえもんでいえば、ジャイアンみたいな存在ですね。

 

 

しかし、実際の彼はというと……

 

 

 

 

 

 

長阪橋の鬼

 

 

実のところ、張飛に関してはあまり事績の記載は多くありません。若い時に関羽と共に劉備に仕え、関羽のほうが年上だったので、彼を兄として従ったとあり、それ以降はまず呂布に攻められた際の守将として(後述)、次には建安13年(208)の長阪(チョウハン・長坂とも)での戦いで、その名前が出てきます。

 

 

この戦いは、荊州に傭兵として居候していた劉備が、その荊州を制圧した曹操の追撃から逃れるための逃亡戦です。

 

この時、劉備は南へ逃れていたのですが、曹操の強行軍がすぐ背後に迫ったため、劉備は数十のお供だけを引き連れて逃走、軍は大混乱に陥ったのです。

 

 

当然、団結力のなくなった劉備軍はすぐに崩壊。軍勢の中に取り残された妻子も曹操軍につかまり、身軽になって逃げる劉備の元にもいよいよ曹操軍の先遣隊がさしかかろうとしていました。

 

 

そこで名乗りを上げたのが張飛。彼は手勢の20騎ほどを指揮し、橋を渡り切ったところでその橋を切り落として、曹操軍を大喝。

 

「死にたいやつはかかってこい! 張益徳が相手になるぞ!」

 

 

この一声を聞いて敵軍は怯んで結局誰も張飛に斬りかかれず、そのおかげで劉備は逃げおおせたのです。

 

 

 

 

劉備の主力として

 

 

赤壁の戦いに勝利して劉備が荊州南部を平定すると、張飛は晴れて将軍職に就任。その後劉備の蜀取りの際には、諸葛亮らと共に援軍として参戦。益州各県を一気に攻め落とします。

 

 

ここで張飛は厳顔(ゲンガン)という武将と戦い、彼を捕縛します。この時張飛は、厳顔が圧倒的不利にもかかわらず抗戦を選んだのを不思議に思い、彼を詰問しました。その問いに対して厳顔は、「この益州には戦死する将軍はいても、おめおめと降伏するような奴はおらん!」と張飛を罵倒。

 

この厳顔の態度に張飛は怒り狂い、彼の処刑を命令。しかしその様子を見ても厳顔は一切動じず、「斬るならさっさとすればいいだろうに。どうしてわざわざ腹を立てるか」と切り返したのです。

 

 

この厳顔の態度は張飛の心を打ったのでしょう。張飛は厳顔を釈放し、態度を一変。厳顔を客人としてもてなすようになったのです。

 

 

以後も張飛は戦う場で全戦全勝。劉備が成都を落として益州を完全に掌握した暁には、法正(ホウセイ)、諸葛亮、そしてよく留守を守った関羽に対しては特別な恩賞を与えたのです。

 

 

建安20年(215)には、劉備領との境目付近で移民を護衛していた張郃(チョウコウ)の軍と交戦。50日を超える対峙の末、張郃軍を狭い山道に誘い込むことに成功し、精鋭1万をひきいて各個撃破。張郃は数十人の供回りと共に戦場を脱出するのがやっとだったそうです。

 

 

その後馬超らと共に曹操領に侵攻しますが、ここでは同行していた呉蘭(ゴラン)の軍が壊滅したことにより敗北。特に戦果を挙げられないまま撤退を余儀なくされました。

 

 

その後劉備が皇帝になって蜀漢を設立させると、張飛は最上位クラスの将軍である車騎将軍、さらには司隷校尉(政府重役のお目付け役)に兼任という形で就任。

 

 

そして劉備が、先年孫権に奪われた荊州の奪還、およびそこで死亡した関羽の仇討ちの軍を起こすと、張飛も1万の軍を率いてこれに合流しようとします。

 

が、かねてから張飛を恨んでいた部将によって張飛は暗殺され、これから戦争を仕掛けに行こうという孫権軍に出奔。

 

後々知らせを聞いた劉備は放心状態に陥ったそうです。

 

 

 

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風説ジャイアン、実情はマッシブ・スネ夫

 

 

さて、ここから人物像に関する逸話をご紹介。

 

この張飛、近年ではバカで憎めないお調子者な印象がついて回りますが……実は正史の記述を見る限りは、この手のジャイアンタイプとは真逆。強い者には敬意を表し、立場が弱ければとことん強く出る、言ってしまえばスネ夫タイプの人物だったようです。

 

そのため、彼の軍は処刑される兵士も多く、さらに毎日のように誰かが鞭でしばかれるという、何とも殺伐とした組織に成り果てていたとか。

 

 

この結果起きた惨劇の一つが、呂布による徐州産奪。上にチラっと書いたものですね。

 

建安元年(196)、徐州の主であった劉備袁術(エンジュツ)と争っていたころ、張飛が曹豹(ソウヒョウ)という人物といざこざを起こしたことがきっかけで、呂布軍に攻められて下邳城は陥落、呂布に徐州を奪われたという話が残っています。

 

この時、曹豹は呂布と内通して逃げたとも、張飛に殺されてそれを見た他の人物が呂布と内通したとも言われていますが……どちらにしても張飛が曹豹に殺意を抱き、しかも実際に殺害計画を立てて実行しようとしたのは事実のようです。

 

この通り、雑魚と思えば徹底的に強く出るのが張飛の悪癖でして……見かねた劉備からも忠告されたようですが、全く聞き入れなかったそうな。

 

 

そして、その結果が最期の最期。いじめまくっていた兵士の中から裏切り者が現れ、それらによってまんまと殺されるに至ったのです。

 

 

張郃を打ち破った辺りなかなかどうしてかなり切れ者のようですし……やはり張飛は、やたらと腕っぷしの立つスネ夫のような存在だったのかもしれませんね。

 

 

 

 

それがどうしてかネタキャラに

 

 

さて、張飛と言えばネタキャラとしての扱いも多いですね。主によく見られるネタは以下2つ。

 

 

・ロリコン

 

・オチ担当

 

 

 

まず前者。

 

 

じつは張飛には妻がいるという設定がおりまして、それがあろうことか、曹操軍の重鎮・夏侯淵の姪だったそうな。

 

劉備曹操配下から離反するとき……張飛は夏侯淵の姪をひっ捕らえて連れ出し、そのまま妻にしたというのです。

 

敵方の重鎮の姪というだけでもすさまじいですが、この時の姪っ子の年齢はわずか13~14歳。わお、強烈。

 

 

…………まあ、当時の女性はそれくらいで嫁ぐのも割と普通だったので、違和感はそんなにないですがね。ともあれ、これのおかげで、張飛は無双シリーズの周瑜をしのぐロリコンという扱いになっていくのです。

 

 

 

 

さて、もう一つのオチ担当。

 

 

これは明代に作られた、笑府というギャグエピソード集にある話が有名でしょうか。だいたい要約すれば、以下のような話です。

 

ある時、とある男が野ざらしの遺骸を発見して、可哀想だったので弔ってやった。

 

その晩、男の家に人が訪ねてきて、「妃(フェイ)」と名乗った。なんと、彼が弔った遺骸は、世界三大美女にも挙げられる、あの楊貴妃だったのだ。

 

男は楊貴妃の「お礼がしたい」という思いに応え、一夜を共にした。

 

 

 

さて、この話を聞いてうらやましがったのが、隣に住む男。隣の男は遺骸を求めてさまよい歩き、ある時ようやく、野ざらしの遺骸を見つけて供養してやった。

 

 

そして待ちわびたその日の晩、ついに隣の男の家の戸を叩くものが現れたのだ。さらに戸を叩いたものは「フェイ」と名乗る。

 

 

喜んで戸を開けると、そこに立っていたのはフェイはフェイでも張飛(チャンフェイ)、つまり蜀の張飛だったのである。

 

呆然とする男に対し、張飛は言う。

 

 

「永い間野ざらしにされていたのを、あんたに供養されて助かったぞ。どれ、一晩、下の世話をしてやろうじゃないか

 

 

この話は後に落語の『野ざらし』というものに再編されて、今も親しまれています。

 

 

その他にも諸葛亮相手に頓珍漢な問答を繰り広げたり、若いころ関羽に出し抜かれて喧嘩になったりと、張飛の面白エピソードはなかなか多いです。

 

やはり三国志演義の、酒好きなバカキャラという個性が大うけした結果、こういう役回りも自然に増えていったのでしょうね。

続きを読む≫ 2017/10/22 21:31:22

 

 

生没年:初平元(190)年~ 黄武7(228)年

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州襄陽郡宜城県

 

 

勝手に私的能力評

 

馬謖

統率 B- 事績不明。ただ、諸葛亮から一軍の大将に任命された以上、それなりに兵を率いることはできたのだろう。
武力 D 武力に関する話がないからよくわからん。
知力 B+ 襄陽記には、南蛮征伐の時に「心を攻めましょう」と提言したのは馬謖。頭はいいんだろうが、自己評価が高すぎたか。春秋戦国の大戦犯・趙括よりは幾分マシ。
政治 C 役職は軍事参謀のため政治力は不明。ただまあ、諸葛亮からある程度のノウハウは引き継いだのではなかろうか……という妄想。
人望 B 街亭でやらかすまでは蜀軍のホープだった。というかやらかした後も向朗は馬謖を慕って失敗を見逃した。

 

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馬謖(バショク)、字を幼常(ヨウジョウ)。とある界隈では絶大な人気を誇っている人物ですね。

 

このサイトをご覧になっている方の中には、なぜ人気を博しているかご存知の方もいらっしゃるでしょう。

 

 

この人、学問に関しては多大な才能を持っていたのですが……後々、後世までネタにされる大失敗を犯してしまうのです。

 

 

 

 

 

馬家五常の末子

 

 

馬謖の字である「幼」の漢字は、通常5男に用いられるとされています。とすれば、おそらく馬謖は5常と呼ばれる馬家の俊英の末弟ではないかと推測されます。

 

 

そんな馬謖が劉備によって召し抱えられたのは、おそらく兄である馬良らと同じ時期。劉備が益州に向かった際にはすでに名があり、後に益州の喉元である綿竹、成都2県の県令(県知事)や、越巂(エツスイ)郡というところの太守(長官)を務めました。

 

馬謖は好んで軍事戦略を論じるような若者で、言ってしまえば口達者で利発な若者でした。

 

そのため、諸葛亮からは非常に高い評価を得て、昼夜問わず二人で談論に興じるほどだったとされています。実際に劉備の死後は諸葛亮の参軍(今でいういわゆる軍師)に任命せれるほどの寵愛ぶりだったそうです。

 

 

ちなみに劉備の馬謖評は、「こういう奴はたいていビッグマウスの口だけ野郎」。諸葛亮にも「馬謖を重用しすぎないように」と強く念を押しており、やはり戦争に生きた大英雄にとっては、この頃からどこか思うところがあったのでしょう。

 

 

 

ともあれ、馬謖は頭のよい人物だったことに違いはなく、東晋の時代に編纂された『襄陽記』によれば、孟獲(モウカク)、雍闓(ヨウガイ)ら益州南方の憂慮者が起こした反乱鎮圧にも従軍しており、諸葛亮に心を攻めるよう進言。これを受けた諸葛亮が、後の古事成語『七縱七擒』につながる作戦を展開し、孟獲らを屈服させるのに一役買ったという逸話も残っています。

 

 

 

 

 

 

登山家たる所以これにあり!

 

 

さて、馬謖がなぜ有名なのか。その理由は登山にあります。

 

というのも、この人物は機転を利かせて山に登ったがために、逆に窮地に陥って作戦を大失敗に導いてしまったというのです。

 

 

 

黄武6(227)年、諸葛亮は出師の表を蜀朝廷に提出し、北伐の軍を上げます。

 

 

そして翌年の黄武7(228)年には、本格的に魏への侵攻を開始。準備がまだ整っていなかった魏は動揺し、安定、南安、天水の三郡は蜀に降伏。序盤を優位に進めます。

 

 

そして魏が本腰を入れ、歴戦の勇将、張郃(チョウコウ)が出撃した時、諸葛亮もこの軍を迎撃するための先発隊を編制し、向かわせることにしました。

 

この時、先発隊の総大将となっていたのは、馬謖。他にも呉壱、趙雲ら経験豊富なベテラン将軍らを差し置き、周囲の反対を諸葛亮自らが押し切っての選抜でした。

 

 

馬謖の軍勢は要衝である街亭に向かい、そこで張郃ら魏軍を迎え撃つことになりました。

 

 

諸葛亮の言いつけは、「山のふもとの街道沿いをしっかり死守すること」。しかし、血気に逸る馬謖は、何を考えてかこの命令を無視。

 

兵法の上では有利とされる山の頂上に布陣し、敵と相対することにしたのです。

 

 

山頂は高い立地から敵の陣を確認できるうえ斜面を駆け降りる勢いもついたりで、確かに戦争においては、普通ならば有利に事を進められます。おそらく馬謖は、諸葛亮らが考える敵の撃退よりも、完全撃破を狙ったのでしょう。

 

 

しかし、この判断が仇となります。敵の張郃軍は馬謖の思惑通りの動きはせず、まずは馬謖軍の補給経路を遮断。これには水を汲む為の道も含まれており、馬謖軍はじわじわと追い詰められていきます。

 

 

そして数日もして弱ったところに、総攻撃。臨機応変と謳われた張郃の絶妙な戦術に一方的に叩きのめされた馬謖軍は、関を切ったように壊滅。幸いにも王平(オウヘイ)ら馬謖の策に反対した副将らの奮戦で最悪の事態こそ免れますが、この一戦で蜀軍の北伐計画は一気に瓦解。

 

馬謖らの後方を支える高翔(コウショウ)という武将の軍も敗退し、ある程度有利な条件を作り出して開始した北伐計画は失敗。以後何度も北伐を行いますが、それらもすべて首尾よく破られるという結末を迎えることになるのです。

 

 

当然、大戦犯の馬謖はその後投獄。史書によっては獄中で死亡とも処刑されたとも言われていますが……。

 

享年39歳。兄である馬良(36歳で戦死)ともども、次代のホープにしては早すぎる、そして同時にあっけない幕引きでした。

 

 

ちなみに現在でも有名な「泣いて馬謖を斬る」という言葉の語源にもなった出事です。

 

あと、ネット界隈での登山祭りの創始者にして、主な弄りの対象として今日まで親しまれてきたことも、忘れてはならないこと……かもしれません。(もう一人の有名な登山家は、冬季日本アルプス横断という偉業を成し遂げたジャパニーズ戦国武将・佐々成政)

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻

 

 

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続きを読む≫ 2017/10/15 12:47:15

 

 

 

生没年:?~ 建安25(220)年

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州南陽郡

 

 

勝手に私的能力評

 

黄忠 老将 定軍山の戦い 神弓 五虎大将

統率 A 後将軍の位は、いくら手柄を立てたとはいえまともな統率もとれない人物に与えられるとは思えない。武将としてはかなり活躍したらしい。
武力 S あの夏侯淵を討ち取ったのなら、そりゃあ最高ランクにせざるを得ない。
知力 D やったことは偉大だが、身も蓋もなく言えば猛進して敵総大将を討ち取っただけ。武勇はともかく、知力を測る材料にはあまりに乏しい。
政治 D 益州征伐と漢中奪取以外にこれといった見せ場が無く、政治力も不明のまま。
人望 B いわゆる一発屋でありながらここまでの人気を博し、後世では神がかり的弓使いの設定なんかが与えられた。これを人気と言わずして何というか。

 

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黄忠(コウチュウ)、字は漢升(カンショウ)。「老いてなお益々盛ん」で知られる、おじいちゃん武将ですね。

 

その割に生年がわからない=おじいちゃんかわからないという、なんとも不思議な武将です。まあ、関羽にジジイ呼ばわりされてるから、ほとんど老将という解釈で間違いはなさそう。

 

 

 

 

実は早くから将軍?

 

 

劉備に仕える前の黄忠の経歴は、本当に簡素な、たった数文の記述しかありません。が、最初に荊州に割拠していた劉表(リュウヒョウ)からは中郎将(軍の指揮官)として血縁者とともに荊州南にある長沙郡の攸県という場所の守備に従事。

 

 

曹操が荊州を押さえ、韓玄(カンゲン)という人が長沙のトップとして送られてくると、仮とはいえ裨将軍(将軍職の下っ端。国を左右する超エリートの第一歩として有名な将軍職の一つ)につけられ、引き続き同じ仕事に引き立てられています。

 

曹操に限って言えば現地の住民を引き立てる意味もあったんでしょうが……それでも、当時は無名の「誰それ?」という人だったことを考えると、かなり順風な出世コースを歩んでますね。

 

 

さて、そんなこんなで赤壁の戦いの後、劉備が荊州の南部四郡を制圧すると、晴れて劉備の臣下として仕官。

 

騙し討ちに近い作戦の都合上、「有力な部下は連れていけない」という縛りがあった都合上、益州平定軍の主力として従軍。

 

この時、主力の名に恥じず常に先陣立って戦い、その勇敢さは軍中でもトップだったとか。謎が多いとはいえ、武力がけた外れに優れていたことだけは読み取れる記述ですね。

 

 

さて、そんなこんなで大活躍した黄忠は、劉備にもすっかり気に入られたようで、益州を無事に奪取した後に討虜将軍(名前の通り将軍職。敵を討つ、つまりガチガチの戦闘部隊高級指揮官)に任命されました。

 

 

 

そして五虎将軍へ……

 

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さて、知る人ぞ知る黄忠の見せ場と言えば、曹操軍の重鎮・夏侯淵(カコウエン)を見事討ち取ったとされる定軍山の戦いでしょうか。

 

 

この時の敵大将・夏侯淵曹操軍でも指折りの猛者で、その軍も非常に強力な精鋭部隊でした。

 

そんな天下でも有数の強敵相手にも黄忠は猛進。率先して兵を鼓舞し、天を震わせるほどに鐘と太鼓をけたたましく鳴り響かせ、歓声も谷あいの地形を変えてしまいかねないほどだったとあります。

 

これだけド派手に鼓舞された兵士たちはもはや怖いもの知らず。軍師である法正(ホウセイ)らの策で突出していたとはいえ、たった一度の戦闘で総大将の夏侯淵を討ち取り、その軍勢を木っ端微塵にしてしまう驚異的な活躍を見せたのです。

 

 

と、これほど恐ろしい活躍を見せた黄忠に度肝を抜かれた劉備は、黄忠を関羽張飛といった古参、そして相応のネームバリューを持った馬超と並んで黄忠を後将軍(前、右、左と並んで有名な将軍位。ここまでの身分になると知名度も一流どころがほとんど)に抜擢。

 

この時、諸葛亮がある不安を吐露します。

 

 

張飛や馬超は戦いを間近で見ていたので文句もないでしょうが、その場にいない関羽の機嫌が損なわれないかが不安です」

 

 

これを聞いた劉備は、自ら関羽を説得。黄忠の後将軍就任を自らの手で決定づけたのです。

 

 

と、これからの活躍を大いに期待される黄忠でしたが、この翌年にあえなく死去。武力を以って大立ち回りを見せた大穴にふさわしい剛侯という諡号が与えられました。

 

ちなみに息子には黄叙(コウジョ)という人がいましたが、この人は早死にしていたため後継者はいなかった様子。

 

 

まあ息子に先立たれるくらいなのでそこそこの歳ではあったのでしょうが…………結局、年齢についてはわからず仕舞いですね。

 

一応関羽曰く「老いぼれ」とのことですが、それでも嫉妬スイッチの入った関羽は、特に指揮官クラスや名士には当たりが強いからなあ……

 

続きを読む≫ 2017/08/05 23:04:05

 

 

 

生没年:中平4年~ 建武2(222)年

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州襄陽郡宜城県

 

馬良

 

馬良(ばりょう)、字は季常(きじょう)。
白眉の語源にもなった人ですね。

 

若いころから非常に優秀だったらしく、他の四人の兄弟とともに「馬家の五常」と呼ばれ(5人兄弟全員が字に「常」の漢字を持っていたため)、その中でも眉に白い毛が混じっていた馬良は「白眉最も良し」などと言われ、上記の通り諺にもなっています。現代でも……まあ、それなりに使われてますね。本当ですよ?←

 

 

 

 

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諸葛亮の義弟?

 

 

さて、そんな馬良ですが、赤壁の戦いで主に周瑜ら呉将の力で勝利した劉備が、彼の地元である荊州を完全に掌握した時に召し抱えられています。おそらく「優秀な人材である」という噂を聞いての事だと考えられ、ここで馬良の兄たちも一緒に劉備に仕えたのだと思われますが……どうにも彼の兄たちに関しては全く話を聞かない(´・ω・`)
ご存知の方がいらっしゃいましたら、名前が載ってる史書とか教えていただけると幸いです←

 

 

さて、ともあれ劉備に抱え込まれた馬良ですが、劉備が蜀取りに動いた時も弟の馬謖は劉備に従軍しましたが、彼自身は荊州でお留守番していた様子。
劉備が益州を奪ったのは油断させてからの不意打ちのようなものでしたし、関羽をはじめ多くの有名武将は軒並み荊州でお留守番役。ともすれば、馬良も不意打ちを失敗させるだけの評判を得ていた人物だったのかもしれませんね。単純に劉備のお眼鏡にかなわなかっただけかもしれませんが……

 

 

そして劉備がまんまと不意打ちを成功させて難所を攻略した時、馬良は諸葛亮に向けてこんな手紙を書いています。

 

ラク城はすでに陥落したと聞きおよんでおりますが、天が与えてくれた幸いであります。

 

尊兄は機運に応えて世の立て直しに力を貸され、大業の樹立に加わり、国家に光輝をもたらしておられますが、成功の曙光はあらわれています。

 

そもそも、変化に対して必要なのは優れた思慮であり、判断において必要なのは明察を広く働かせることです。才能のある者を選べば、時代の要求に適合するでありましょう。

 

もしも英智をあらわにせず、遠国の日を喜ばせ、天地にまで徳を発揮し、この時代の人々が服従を当然と考え、世間が道理に帰服し、高雅な音を並べて鄭・衛の淫らな音を正し、全ての音がその機能を果たし、他の音を乱すことなく調和を保ったならば、これこそ至高の演奏であり、伯牙・師曠の調べであります。鍾子期ではないものの、拍子を取らないでおれましょうか。

 

 

尊兄。つまりお兄さんという漢字の意味合いですね。これを、諸葛亮に向けて送っているのです。
この事から、実は馬良は諸葛亮と義兄弟であったのではと、昔から推測されています。
が、ゲームでは滅多に描かれない!

 

 

 

白眉の外交手腕

 

 

その後馬良は劉備の元へ呼ばれ、同盟者である孫権の元に使者として挨拶に行くことになります。

 

この時に諸葛亮に「孫権に自分を紹介してほしい」とお願いしますが、諸葛亮は「試しに自分で書いてみたらどう?」と勧めてきました。

 

 

そんなわけで、即座に孫権宛の自己紹介文を書いた馬良。

 

その内容は、だいたい以下の通り。

 

 

この人は立派人で、荊州でも一番の善士です。その場での爆発的な華やかさはありませんが、最後まで持続できる美しさを備えています。

 

 

まず謙虚に下げて、その後に上げる。今現在でも通用する自己PRですね。

 

これを見た孫権は、敬意をもって馬良をもてなしたとされています。

 

さて、そんなこんなで天下の英傑からも認められる才能を持った馬良でしたが、劉備が大敗北を喫したとされる夷陵の戦いに参加しており、その中で戦死。享年は36歳であったとされています。

 

 

白眉の語源にもなった傑物でしたが、相応の功績を立てるより前に、その生涯を閉じたのでした……。歴史にたらればは御法度とは言いますが、彼が生きながらえていたら、案外蜀も少しはマシに動けたのかもしれませんね。

 

 

ちなみに馬良の死がよほどショックだったのか、諸葛亮は彼の弟である馬謖を重宝し、大失敗を犯しています。こう考えると、やっぱり天才軍師も人なんですねえ(*´ω`)

続きを読む≫ 2017/05/09 21:54:09

 

 

生没年:光和2年(178)~建安19年(213)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州襄陽郡

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 B 軍師というからには兵を率いることができた……はず。
武力 C 武勇に関しては不明だが、よくよく考えると劉璋軍の人材って劉備軍でも将軍……。彼ら相手に快進撃ってヤバくね?
知力 S- -付きは実績不足のせい。益州侵略時の助言も的確で、頭脳は確かに卓越してたんだろうなぁ……
政治 C 政治もやれたのだろうが、事務仕事は明らかに不向きという結論以外これといった記述がない。
人望 C 正直なところ、当時はもっさりしたブサメンだったせいで大した人望や評判はなかったのだろう。しかし、有能さとその性格は一流どころには確かに評価されていた。

 

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龐統(ホウトウ)、字は士元。知っている人は知っている、かの臥龍・諸葛亮と並び称される天才ですね。

 

もっとも、飛び抜けた天才として名を挙げるには、少しばかり功績や記載が不足気味なのは否めませんが…………それでも、短い活躍時期の中で非凡な才能を見せつけた策略家の一人であることには違いありません。

 

 

 

 

 

 

ブサメン、ハイパーニートと出会う

 

 

龐統は見た目がもっさりしていて、全員見た目で「無能」と決めつけて評価する人間がいませんでした。

 

そんな龐統をは初めて評価したのが、司馬徽(シバキ)、別名・水鏡先生。司馬徽は人物鑑識に優れていると非常に有名なニート隠者であり、先生という名詞からわかる通り、多くの人から慕われていました。

 

彼は龐統と日が暮れるまで語り合い、「南方のトップエリート」と評価。これにより、龐統はようやく名士として徐々に有名になっていったのです。

 

 

さて、この龐統、実は初めの士官先は劉備ではなく、孫権軍の周瑜のもとだったのです。というのも、周瑜が亡くなるとその遺体を故郷に送ったのは龐統という記述があり、さらには周瑜の後継者である魯粛の推薦状を以って劉備に仕官した、とのこと。

 

 

 

そして劉備の第二婦人(!?)へ

 

 

さて、そんなこんなで劉備のもとへ流れ着いた龐統ですが、意外にも最初の評価は最悪に近かったようです。

 

というのも、まず小さな仕事を任されていましたが、まったく成果が上がらなかったとか。これによってその仕事を解雇され、魯粛に「こいつは統治みたいな実務じゃなくてもっと責任の大きな参謀でないと、本領を発揮しませんぜ」と指摘され、さらには最愛の参謀・諸葛亮まで同じようなことを言い始める始末。

 

そして半信半疑の劉備との面談で非凡さを見せつけて大いに気に入られて、ここでようやく本領発揮となったのです。

 

ちなみに龐統と語らった後の劉備は、自ら「妻」と例えた諸葛亮に次ぐ、この例えを引用するなら第二婦人のような扱いを受けたとか。

 

 

『三国志演義』では、小役人の身分に納得しなかった龐統が仕事をさぼって劉備に激怒され、指摘されると数日で片付けて高い評価を勝ち取った……という流れの話に変えられています。

 

 

 

続きを読む≫ 2017/05/08 22:32:08

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:幽州涿郡

 

簡雍

 

簡雍(カンヨウ)、字は憲和(ケンカ、あるいはケンワ)。

 

マイナーな人物ではありますが、この人は劉備(リュウビ)とは同郷の出身者で、下手をすると義兄弟である関羽(カンウ)や張飛(チョウヒ)よりも古いころからの間柄である可能性も……。

 

 

 

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不遜なる愛されキャラ

 

 

苗字は「耿(コウ)」だったものが、北の辺境である幽州のなまりから「簡」という漢字に置き換えられ、本人もそう名乗ったそうな。

 

 

さて、そんな簡雍ですが、正史にはしっかりと「劉備とは若いころから旧知の仲」と書かれており、彼の無名時代から従っていたそうです。実際に劉備の生まれも幽州のタク郡ですし、もしかしたら劉備関羽張飛と出会って旗揚げする前からの、本当に古い知り合いだったのかもしれません。

 

 

彼は主に文官としての役割が大きく、特に弁舌をさせると、のびのびとしながらも見事な主張をしたとされています。
当然、主な仕事も文官職で、劉備が荊州に拠って立つ地を得ると、当時でもひときわ優秀な人物らとともに、重役に取り立てられました。

 

 

 

その後、劉備の蜀取りにも同伴し、なんと、敵の総大将である劉璋(リュウショウ)の説得という大任に抜擢。

 

持ち前の不思議な魅力ですっかり気に入られ、劉璋と二人で仲良く城から出てきて、彼を降伏させてしまったのです。
なんという弁舌スキル……

 

この功績をたたえて、劉備は彼を昭徳将軍……つまり将軍職にも任命。これは、劉備配下の内勤職員の中ではとんでもない位で、劉備の義理の兄である麋竺(ビジク)という重臣中の重臣に次ぐものだったそうです。

 

 

して、この簡雍、性格は傲慢で無頓着。懐も態度も大きな人物で、相手が劉備だろうが遠慮がなく、だらしない格好で足を投げだし、心のままに振る舞いました。
さらには諸葛亮(ショカツリョウ)やそれ以下の面々に対しては、長椅子を堂々と独り占めして枕に頭を置いて対話という、今の倫理観でも結構アレな態度で接したのだとか。
それでも愛されキャラだったのだから、なんというか、すごい(´・ω・`)

 

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簡雍と禁酒令

 

 

さて、ここで面白いエピソードを一つ。
劉備が禁酒令をかけて、醸造業者を逮捕した時の事。
この時ある役人が住民の家を家宅捜索し、見つけた醸造用具を没収、さらには裁判で有罪判決が出た時です。

 

この裁判を見ていた劉備と簡雍は、この後少し散策にでました。

 

そこで通りかかった一組の男女を見て、簡雍は一言。

 

「奴らは逮捕をしないのですか?」

 

これに対して劉備が首をかしげると、簡雍はさらに続けます。

 

「淫行に使えそうな道具を、あの二人は持っていました。公序良俗に反する物を持っていたわけですから、酒を造る道具を持っていた醸造業者と同罪です」

 

これを聞いた劉備は大笑い。結局、醸造用の道具を持っていた人は無罪となり、そのまま許されたのでした。

 

とまあこんな感じで歯に衣着せぬ天衣無縫な言動、行動が、周囲からの愛情、信頼につながったんですね。

 

性格はよくないのになぜか愛されるだけの愛嬌を持つ人、あなたの周りにもいませんか?

続きを読む≫ 2017/04/18 23:39:18
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