諸葛瞻 思遠
生没年:建興5年(227)~炎興元年(263)
所属:蜀
生まれ:徐州琅邪郡陽都県(本貫地)
諸葛瞻(ショカツセン)、字は思遠(シエン)。あの天才軍師・諸葛亮(ショカツリョウ)の息子にして、斜陽に差し掛かる蜀軍にて大きな期待がかけられた新時代のホープとも言うべき人物です。
……が、その事績は冴えない。実に冴えない。なんというか、親の七光りというべきか……。最後の最後まで、偉大過ぎる父の名声に振り回されて過大評価された結果、退くに退けなくなって爆散したような人物という印象を受けました。
今回は龍の子は龍とは限らないことを教えてくれる、諸葛瞻の記述を追っていきましょう。
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神童にして実際以上の評を得る者
諸葛瞻は父・諸葛亮の死から役10年後、齢17にして朝廷の重臣として蜀帝・劉禅(リュウゼン)の娘を娶り、騎都尉(キトイ:近衛隊長)に就任しました。
その翌年には近衛軍の一角の総大将である羽林中郎将(ウリンチュウロウショウ)となり、その後もトントン拍子で出世。最後には尚書僕射(ショウショボクヤ:文書の開封や金銭から穀物の受納、官吏の任免を行う)にまで昇進。
武官としても軍師将軍(グンシショウグン)の位が与えられ、まさに父の名声と自身の評判だけで、蜀の要職にまで上り詰めたのです。
そんな諸葛瞻の強みは、書画の才能と抜群の記憶力。諸葛瞻の才覚を皆が慕い上げ、諸葛亮の息子という事実も後押しして、彼は蜀の中でも有数の名声を誇っていたのです。
そしてその名声はいつの間にか尾ヒレがつくようになり、人々は諸葛瞻について好き好きに噂を広めていきました。
諸葛瞻はいつしか完璧超人のような存在として崇められるようになり、何かいいことや感動的な話が出るたびに、無関係な事や本人が何もしていないことでも「諸葛瞻のおかげだ」とみな思うようになっていたのです。
しかし、過ぎた名声は身を滅ぼすもの。諸葛瞻はやがて国家の岐路に立たされ……とうとう名声の毒にやられることになってってしまうのです。
過ぎた名の代償
魏との戦いも大詰めに差し掛かりつつあった景耀4年(261)には、行都護衛将軍(コウトゴエイショウグン:簡単に言えば防衛隊の総大将代行役。衛将軍は将軍でも元帥クラス)として防衛軍の総大将になりました。
この頃から董厥(トウケツ)ら重臣とも深くかかわるようになり、国政を担う立場になったのです。
……が、この時、軍事では姜維(キョウイ)が無謀な北伐を繰り返して国を疲れさせ、内政では黄皓(コウコウ)なる人物が専横により権力を強めているじきでした。
そのため、名声だけで実績のない諸葛瞻は彼らに太刀打ちできず、結局は黄皓に取り入って彼の派閥に入るような動きまで見せ、翌年景耀5年(262)には黄皓らと共に姜維の失脚を狙うなど、名声以外の基盤の無い諸葛瞻は黄皓と結託して内省を牛耳る立場となったのです。
そして景耀6年(263)、ついに魏軍が蜀に大規模攻勢を開始。鄧艾(トウガイ)による山道からの奇襲で、手薄な蜀本営は危機に陥りました。
諸葛瞻は己のプライドをかけて迎撃隊を率い出陣。持てる全軍を持っての、最初で最後の出撃でした。
しかし、諸葛瞻は軍事基地のある涪(フ)まで進むとそこで待機。何を考えたのか鄧艾の進撃をその地で静観することを選びます。
この静観を見かねた黄崇(コウスウ)が「今のうちに前線で守りを固め、鄧艾を迎撃すべきです」と何度も訴えかけますが、首を一向に縦に振らず、結局先遣隊が敗走するのを見届けて撤退することに。
後退した諸葛瞻が鄧艾との決戦に選んだ土地は、綿竹(メンチク)の土地。地図を見たところ南部に平地が広がっており、正面切っての決戦に向いてそうな地形ではあります。
しかし魏の国土が広い以上、大軍を率いての決戦は魏の方が強そうな予感も……。実際問題、鄧艾からは一度諸葛瞻に向けての降伏勧告がなされています。
……が、諸葛瞻はこの勧告を見事にスルー。使者をその手で斬首し、徹底抗戦の意を示します。
こうして名将・鄧艾と正面決戦に臨むことになった諸葛瞻。緒戦は兵の疲れもあってか鄧艾軍を撃退するのに成功しますが……鄧艾本人に脅しつけられた鄧艾軍は必死になって挑みかかってきており、その勢いに押された諸葛瞻軍は壊滅。
かくして防衛線は見事に打ち破られ、大将の諸葛瞻以下、将軍らの多くが討死。防衛線が破られた挙句戦える軍勢らしい軍勢も残っていない蜀は、あえなく降伏を選択することになったのです。
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その忠義は見事?
と、このように諸葛亮の息子でありながら、いかにも無能くさく書かれる諸葛瞻。実際に多くの歴史家はその忠節を高く評価しつつも、才覚面では口をつぐむか「駄目だった」と言ってしまうような有り様です。
そして当の諸葛亮も、臨終の際には8歳になる諸葛瞻を「頭が良くてかわいいが、名声が等身大を大きく超えないか心配」と兄に手紙を送っています。
一応晋の初代皇帝・司馬炎(シバエン)には国難に最期まで立ち向かった人物とお墨付きをもらってはいるのですが……
ちなみに、やはり諸葛亮の息子というのもあって、有能説を捨てきるには早いという意見も数多くありますね。
例えば陳寿は彼を全く評価していないのですが、それに対して「奴は諸葛瞻の部下でも端役にいたから逆恨みで悪く書いたんだ」という意見もあったり、現代でも鄧艾を一度追い返したことから軍事的に有能とする意見があったり……
やはりマイナーどころではあるものの、いろいろと考察がなされる面白い人物ですね。
諸葛瞻の勝算
さて、当ブログでは無能説に則ってボロクソに諸葛瞻の記述を書きましたが……最後の最後で少し擁護してみて終わりたいと思います。
諸葛瞻が鄧艾軍を前にフラフラ行ったり来たりをした挙句、要害でもない土地であえて野戦に踏み切りそのまま負け、蜀滅亡の直接原因になったたのは事実ですが……あくまでこれは結果論。
文面だけ読み取れば何やってんのかわからないクソ無能ですが、ここでちょっと諸葛瞻の立てた目論見を憶測してみましょう。
まず鄧艾が進んできた道は、言ってしまえば道なき山道。ましてや蜀の山々は絶壁ともいえる切り立った崖であり、そんな危険な山道を何日もかけて進んできたことになります。
しかもこれ、かなりの突貫工事だったらしく……山を削ったり橋を架けたりの重労働の挙句、山道だからこそ補給線も確保できず、兵糧も欠乏気味。そんな中でようやく蜀の奥深くに攻め入ったのですから、一見すると鄧艾が無謀であるのは一目瞭然です。
とすれば、諸葛瞻は敵が少数で疲れ切っていると読んだうえで、あえて比較的戦いやすい綿竹に誘い込んだ……という可能性もあるかもしれません。
あとは……実績がない諸葛瞻の前に現れた、北伐失敗の主な要因となる敵将。これは、本人にとっても名声負けしない手柄を立てる絶好の機会でもあったのです。なんてこったいどっかの爽やかな豚と同じじゃないか
所詮は憶測の域を出ませんが……黄崇の迎撃論を無視した諸葛瞻は「ネギを背負った鴨を討ち取る必勝の策略」があったのかもしれません。
……まあ、結局見立てがチョロ甘すぎて蜀を滅ぼしてしまうわけですが(゚∀゚)
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