廖立


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廖立 公淵

 

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州武陵郡臨沅県

 

廖立

 

 

廖立(リョウリツ)、字は公淵(コウエン)。

 

世の中には優れた才能を持ちながらも、取り扱いの難しさから天才以外の手には持て余してしまう代物がいます。廖立はそんな代物の最たる例で、最後にはとんでもないことをやらかして自らの道を断ち切ってしまっています。

 

 

優れた弁才や文才を、こき下ろしに使ったばっかりに……

 

今回は、そんな廖立の伝を追ってみましょう。

 

 

 

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誰もが認めるその才覚!

 

 

 

廖立は具体的な事績こそ見当たりませんが、大物に認められている辺り相当な才人であったことが伺えます。

 

 

廖立は劉備(リュウビ)が荊州にいる時にその才を認められて従事(ジュウジ:この場合劉備お付きの官僚)として召し出され、そのまま30歳にも満たない若さで太守(タイシュ)に抜擢。生まれの地である武陵(ブリョウ)郡の統治を任される等、破格の好待遇を受けています。

 

また、諸葛亮(ショカツリョウ)も彼の才能について言及。孫権(ソンケン)からの使者を応対している際に、劉備軍中の優れた政治家として龐統(ホウトウ)と彼の名を上げています。

 

 

さて、そんな廖立は建安20年(215)、完全に戦争寸前にまでなった孫権軍からの攻撃を受け、任地である武陵から締め出される形で逃走。自らの役目を全うできないまま、劉備の元に逃げ帰る羽目になってしまいました。

 

しかし、劉備は廖立の才覚を惜しみ、逃亡の罪を軽く叱責しただけで終えたのです。

 

 

その後廖立は巴(ハ)郡太守に転任し、劉備が漢中王(カンチュウオウ)を自称するようになると侍中(ジチュウ:皇帝に近侍し質問応接を行う顧問役)にまで昇進し、年齢もまだまだそこそこ、仕えてからの期間もそこまででもないにもかかわらず、とんでもない大身となったのでした。

 

 

 

 

 

いきなりの没落

 

 

 

しかし、劉備が亡くなって劉禅(リュウゼン)が跡を継ぐと、廖立は今度は長水校尉(チョウスイコウイ:皇帝直下の宿営兵を管轄するエリート職だが……)に格下げ。

 

基本的に外戚の有力者が就くもののの大してやることのない名誉職で、だんだん廖立はその環境に倦んでいくようになったのです。

 

 

さらにこの時の廖立の立場は、自身よりも後に蜀に加入した李厳(リゲン)の下。才覚名声共に諸葛亮に次ぐと自負していた廖立にとって、要職から外されてどこの馬の骨とも知れない者の下に付くのは大変な屈辱。もはや自身の才を活かせる場所などどこにもなかったのです。

 

こうして見る影もなくなった廖立は次第に不満を蓄積させていき……諸葛亮の属官であった蒋琬(ショウエン)、李邵(リショウ)らの訪問を受けて意見を求められたとき、とうとう溜まりに溜まった感情が爆発してしまったのです。

 

 

劉備様は漢中をなかなか奪おうとせず、危うく曹操軍に攻められるかというところだった。関羽(カンウ)将軍は傲慢さが祟って自滅し領土は失陥、1兵も残らず滅ぼされた。

 

で、今の重役はどうだ。文恭(ブンキョウ)はでたらめな事ばっかやってるし、向朗(ショウロウ)は馬良(バリョウ)兄弟なんぞを崇拝してまともな道理も理解できてない。人の後ろを歩くしかできない郭攸之(カクユウシ)は、顧問役の侍中なんぞをやっている。

 

あと、王連(オウレン)とかいう奴も許せんね、俗物が偉そうにふんぞり返って。ああいうのが民を疲弊させ、国をダメにするんだよ」

 

 

この言葉を聞いた蒋琬らは、すぐに諸葛亮にありのままを報告しました。

 

官僚体制の調和と体系化を目指していた諸葛亮は廖立の尊大さは自身の築いたものを壊しかねない脅威であると判断し、そのまま劉禅に上奏し、廖立を平民にまで格下げ。辺境にまで居住地を移され、廖立はその地で田畑を耕して一生を終えることになったのです。

 

 

 

 

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傲慢なのは間違いないが……?

 

 

 

史書にはこの通り大したことのないであろう才覚を自慢する嫌な奴というばかりに描かれている廖立。実際に諸葛亮の体制を非難したことは蜀の国を敵に回したのに等しく、それ相応の制裁を受けて出世街道を断たれてしまっています。

 

彼が名を上げている伝は、言ってしまえば迷惑な存在や裏切り者とされる人物らが顔をそろえる場。そして陳寿にも、「自業自得」と冷たく斬り捨てられています。

 

 

また、諸葛亮について独自にまとめられた『諸葛亮集』でも批判の槍玉に上げられ、正史の五割増しで嫌な奴として書かれています。廖立の人物を表す記述を簡潔にまとめると以下の通り。

 

忠孝の心は薄く認知の門を開いて敵を歓迎するようなクズ。おまけに政治に疎く、武陵の統治はいい加減。誹謗中傷や空気の読めない発言を繰り返し、先帝劉備の棺の前で、人の頭を断ち切るような真似をする。

 

 

そのくせプライドだけは一人前で、諸葛亮に対して卿の位を要求するなど破格の待遇を期待した。

 

そんな意味不明な期待を諸葛亮が断ったことで恨みを抱いて誹謗中傷を始めるような奴だから、諸葛亮も最初は死刑にしようとした。

 

 

しかし、劉禅はそれを忍びないと思ったので荒れ地への放逐で勘弁してやった。

 

 

 

……とまあこんな救いのない人間に描かれており、実際そのように言われるのもある程度仕方のないことをしでかしているのですが……反面、傲慢というより剛毅で案外有能そうな話も残っています。

 

 

 

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意外と有能?

 

 

流罪の原因となった誹謗中傷、なかなか面白いところを突いているのです。

 

諸葛亮が部下に求めたのは、ステータスと忠実さ。アウトロー大歓迎な劉備と違い、自身に忠実な部下を囲ったトップダウン式の官僚体制を好んでいた風があります。

 

そのため直言の士は諸葛亮体制にとってはむしろマイナス要因になり得、廖立のような人間が排除されていったわけですね。

 

 

そしてその官僚体制の結果、馬良の弟である馬謖(バショク)は自己流のやり方で大失敗し処断。非難に上がっていた向朗は崇拝していた馬謖の逃亡を黙認して道理を曲げ、諸葛亮に罷免されてしまったのです。

 

 

何より諸葛亮体制で一番問題となったのは、使い勝手のいい人材を重用した結果、重役の才能劣化を招いてしまったという点。ある意味、廖立はその辺も密かに感じ取っていた……のかも。

 

 

 

また、認めた人間にはしっかり敬意を表するタイプのようで、自身を農民にまで落とした諸葛亮がいつかまた重宝してくれると信じていた節もあります。結果、諸葛亮の死を聞いたときには「結局俺は賎民で終わるだろう」と嘆いたとされています。

 

 

そしてその後、たまたま近くを通りかかった姜維(キョウイ)の訪問を受けた際も意気衰えずいつも通りの言論を展開し、彼を感心させたのです。

 

 

 

何だかんだ、無能だとかプライドだけの小人だとかではなく、単純に劉備くらいの器でなければ使いこなせない、有能ながら尖りまくった人材だったんかもしれませんね。

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