費禕 文偉
生没年:?~延熙16年(253)
所属:蜀
生まれ:荊州江夏郡鄳県
勝手に私的能力評
統率 | A | 蒋琬と違って、興勢の役で総大将だった強みがある。北伐爆弾たる姜維の抑え役。 |
武力 | D | 蒋琬と違って攻めの気が少なく、北伐にも乗り気ではなかったらしい。とはいえ、大戦の直前に囲碁を打つくらいの余裕はあるが。 |
知力 | A- | 聡明な人物だが、警戒心という意味ではいろんな人に指摘されており、ちょっとアレだったらしい。事実、無警戒に降将に近づいて死んだ。 |
政治 | S- | 別伝によれば「数倍の速度で激務をこなして夜は遊ぶ余裕があった」とか書かれて信じられないくらい凄い。蒋琬と互角の事績を上げたが、彼が宰相やってるうちから蜀がちょっと怪しい方向に向き始めた。 |
人望 | A | 諸葛亮、蒋琬と逸材が死んだ中、残された唯一の宰相適任者。別伝なんて書かれて妙に持ち上げられている辺りから、人気は推して知るべしか。 |
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費禕(ヒイ)、字は文偉(ブンイ)。性格は軽率ではあるものの人を疑うところを知らず、仕事は激務の中でも遊び時間が作れるくらいに出来て、呉の孫権(ソンケン)からも高く評価された人物と、割と何でもありのぶっ壊れ宰相。
また、蜀という攻勢から見て大正義な国の宰相をしていた事もあり、別伝が作られている数少ない人物でもあります。
諸葛亮(ショカツリョウ)が死んでから状況が悪くなる一方の蜀の中で実質最後の柱とも言うべき役割を果たした人物なのですが……なんでよりによって暗殺されたんや……
今回は、そんな費禕の伝を追っていきましょう。
孫権も絶賛?
費禕は荊州の東部にある江夏(コウカ)郡の出ですが、幼くして父を失った事から、益州で劉璋(リュウショウ)の庇護下にある一族にお世話になる事になり、益州へ遊学。
劉備による益州平定後もその地に留まり、董允(トウイン)や許叔龍(キョシュクリュウ)なる人物らと共に著名人の仲間入りをしたのです。
その後、劉備によって劉禅(リュウゼン)が皇太子が立てられると、友人である董允と共にその側仕えに任命され、劉禅の即位と共に、費禕は黄門侍郎(コウモンジロウ:宮中の勅命伝達係。帝の側近)として取り立てられました。
また諸葛亮(ショカツリョウ)からの信任が厚く、彼が南方の反乱鎮圧から帰還した際には、他にも年齢も功績も上の人物がいるにもかかわらず費禕だけを特別に呼び出して、馬車の中に招き入れるという接待を行っています。
北伐に際して上奏された出師の表にも、費禕は董允や郭攸之(カクユウシ)と共に「大小問わず彼らに相談し、その通りにしてください。もし黙っていれば、怠慢を責めて処断するように」とまで言われており、いろんな意味で期待の大きさが伺えますね。
また、費禕は劉備が亡くなる直前からしばしば使者として呉へと派遣されており、他国との折衝や関係改善にも功績が残っています。
特に呉の臣下である諸葛恪(ショカツカク)や羊茞(ヨウドウ)といった論客から論戦を吹っ掛けられても、丁寧ながらも毅然として理路整然と言葉を返しており、孫権を驚かせています。
その時の孫権の言葉が、以下の通り。
「君は天下に通じる才幹を持っている。蜀の重臣となるだろうが、そのためにいずれはこうして会えなくなるだろうな」
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ぶち壊し緩衝材
費禕はその後侍中(ジチュウ:帝の相談役)に上りましたが、諸葛亮の願いによって魏への北伐軍に参入。呉への使者としてもちょくちょく駆り出されつつ軍務もこなすというなかなかにハードな生活を送っていたようです。
建興8年(230)に中護軍(チュウゴグン:護軍は兵の監督役。近衛軍の指揮監督?)となりましたが、再び司馬(シバ:軍政官)へと転向。あくまで蜀の前線に投入されたのです。
費禕がそのように前線に身を置くことになった原因の一つが……重臣である魏延(ギエン)と楊儀(ヨウギ)の存在。2人は犬猿の仲でしょっちゅう口論になり、魏延が剣を突きつけては楊儀が泣き散らすというのが、ある意味風物詩になっていたようです。
費禕は、この2人の間に立って諍いを仲介し、諸葛亮が亡くなるまでの間、2人の能力が十全に発揮されるよう緩衝材として動いていたのです。
……が、建興12年(234)に北伐のさなか諸葛亮が逝去すると、状況が一変。戦闘続行か撤退かで、魏延と楊儀の意見が見事に割れてしまったのです。
この時に費禕は魏延の元にいて、連名で「戦いを続行する」という旨を書かされたりもしましたが……費禕はその後危険を感じ取ったのか魏延の元から脱出。「楊儀は戦争経験がないから将軍に従うしかありませんよー」と大嘘をぶっこいて、まんまと逃げおおせたのです。
その後魏延はどうなったかというと……「諸葛亮死後に彼は制御しきれない」と朝廷から判断され、反逆の濡れ衣を着せられて討伐。そのまま処刑されてしまったのでした。
また、楊儀も楊儀で、扱いきれないと判断されたため帰国後に失脚。名誉職に飛ばされてしまいました。
費禕は楊儀の様子を見に行きましたが、散々愚痴と文句を気化された挙句「これなら魏に寝返ればよかった」などと言ってしまったようで、費禕はすかさず朝廷に連絡。楊儀はそのまま庶民に落とされ、誹謗中傷をまき散らした後に自殺してしまったのです。
諸葛亮死後の問題児を2人片付けた費禕。その活躍を見事と見るか表情を曇らせてみるかは、その人次第といったところでしょう。
一躍トップに!そしてまさかの……
諸葛亮の死後、費禕はその後を受け持った蒋琬(ショウエン)の補佐として、後軍師(コウグンシ:軍事参謀、宰相職の側近)となり、昇格した蒋琬の前役職である尚書令(ショウショレイ:宮中文書の管理)を引き継ぐことになりました。
また、費禕は朝廷勤めをしながらも、ちょくちょく軍事行動にも参加。頻繁に作戦会議や視察のために出向いたようです。
延熙6年(243)蒋琬が病気によって前線を退くと、費禕は大将軍(ダイショウグン)・録尚書事(ロクショウショジ:文書管理の政庁トップで宰相職。諸葛亮死後に丞相が永久欠番になったため、実質蜀の政治トップ)に立つことに。
翌年には魏軍が大攻勢を仕掛けてきましたが、防衛軍を率いて出陣。直前に来敏(ライビン)なる人物があいさつついでに費禕の器を計るため、囲碁の対局を所望しましたが、音を上げた来敏の方からネタバレするほどに落ち着いた様子だったとか。
結局戦争はというと、現地軍を率いていた王平(オウヘイ)の活躍もあって大勝。翌年に蒋琬が亡くなると、いよいよ費禕の双肩に蜀の未来が託されることになりました。
延煕11年(248)には、費禕はいよいよ軍事トップとして漢中に駐屯。14年(251)に再び中央に帰還するまで、前線基地の漢中でにらみを聞かせ続けました。
『漢晋春秋』によれば、蜀軍の主力武将である姜維(キョウイ)は魏に侵攻従っていましたが、費禕はこれを制止。
「まずは国土をしっかりと防備し、時期を待つのだ。万一の僥倖を期待して攻めたところで、上手く行かなければ国が滅ぶことになる」
つまり、費禕は北伐に対してはかなり慎重派だったようですね。
とにもかくにも再び中央での政務に戻った費禕はその冬には再び北方に出立。年が明けると幕府を開くことになり、いよいよ緊張感のある空気が流れ始めます。
……が、幕府を開いた翌年である延煕16年(253)のこと。魏から降伏していた郭循(カクジュン)なる人物も開いて大宴会を催し、そして楽しくほどよく酔いつぶれたところ、費禕はそのまま暗殺されてしまいました。郭循は、実は魏が仕向けた刺客だったのです。
この時費禕に次ぐ権力を持っていた姜維はあくまで軍人で国を動かすほどの政治力は持ち合わせておらず、飛び抜けた政治家を欠いた蜀は政治家同士で牽制やかばい合いをしながらの多頭政治に流れていき、衰退は加速していったのでした。
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人物像
蜀の実質的に最後の宰相と言える費禕。元々衰退がはじまっていた蜀は彼を失ったことで急速に分裂していきますが……その結果から逆算しても、彼は非常に大きな存在だったのが伺えます。
三国志を編纂した陳寿は、そんな費禕を評しています。
寛容で人を差別なく愛し、諸葛亮の作った規範を維持して国を安定させた。
また、先述の通り彼には独自に別伝が立てられており、彼は『費禕別伝』においては倹約家でもあった様子が書かれています。
慎み深く簡素な性格で、蓄財はしていなかった。子供たちの服や食事も簡素で、庶民に近い生活を送っていた。
まあ、もともとこれは、費禕を賞賛するための書物。悪く書くわけがないのですが……少なくとも、政治家として贅沢豪奢な暮らしはまったくしていなかったのは事実でしょう。
ちなみに、彼と関係の深い友人は董允。彼とはいろいろと関連する部分が多く、諸葛亮の出師の表でも一緒にまとめて話に出され、費禕伝本文でもちょくちょく顔を出し……とまあ、費禕の関連人物として真っ先に名前が出てくるような人物のようですね。
当然、そんな董允との話も本文、別伝共に(主に董允が費禕の噛ませ犬として)残されています。
費禕と董允
まず、この2人に関する記述があったのは、中央からやってきた許靖(キョセイ)の息子が亡くなった時。許靖は一応蜀でも大きな存在であり、その息子の葬儀には諸葛亮はじめ多くの人々が集まったのです。
董允の父親である董和(トウカ/トウワ)は、董允と費禕に小さめの馬車を用意し、葬儀にはそれで送ることに。この時に董允は小さい馬車であることを渋ったものの、費禕は平気な顔で乗り込みました。
また、葬儀の場でも錚々たる顔ぶれに、董允はしどろもどろで緊張した様子。しかし、費禕はその隣で平然としており、この様子を見ていた董和は帰ると口を開き、このように告げたのでした。
「息子と費禕の2人、どちらが優れているか決めかねていたが……今回の件でそれがハッキリしたな」
続けて、『費禕別伝』の話。
蜀の文官たちは日頃激務に追われていたのですが、費禕だけはその処理速度が他者の数倍。驚異的な理解力で、流し読みしただけで記録を完璧に記憶してしまうほどでした。
朝夕でさっさと政務を終わらせて、空いた昼間は迎賓や歓待をこなし、そして夜には飲んで賭博してで遊びまくる。激務の中でもちゃっかり楽しみは忘れず満喫していたのです。
董允は費禕に代わって尚書令になると、せっかくだからと試しに費禕の生活スタイルを真似てみましたが、仕事は停滞するばかり。
10日もすれば仕事が山積みになってしまい、「才能の差がこれほどとは」と嘆息したのでした。
諸葛亮も蒋琬も亡き蜀の実質的な最後の砦・費禕。なんか裴松之には「暗殺価値のない普通レベルの宰相」等と言われていますが……冷静に考えると一国の宰相として通常レベルと言うのも、大変な大器です。
それが最期にはあっさりと暗殺されるような軽率さを見せているのですから何とも締まりませんが……その後の蜀の分裂具合を見ると、もう少し生きててほしかったのも正直なところです。
メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻
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