このエントリーをはてなブックマークに追加

陳祗 奉宗

 

 

生没年:?~景耀元年(258)

 

所属:蜀

 

生まれ:豫洲汝南郡

 

 

 

 

陳祗(チンシ)、字は奉宗(ホウソウ)。蜀はもともと諸葛亮(ショカツリョウ)という天才の独裁によって成り立った国で、有能な人物が続くうちは権力の継承リレーもまだどうにかなっていました。が、独裁の中で尖った人間はほとんどが排除され、残ったのは無難なだけの人物ばかり。

 

陳祗はそんな末期の蜀を支え、結構頑張った人物の1人と言えます。

 

……が、如何せん、この人物は蜀を代表する奸臣・黄皓(コウコウ)に力を与えた張本人。さらには陳祗自身が死んだ後に三国志が編纂されたという理由もあって暴政を働いたような記述もチラホラ。実像が見えにく人物です。

 

 

今回は、そんな微妙に評価が割れる陳祗について見ていきましょう。

 

 

 

 

スポンサーリンク

 

 

陳祗出世街道

 

 

 

陳祗は元々、はるか遠い汝南(ジョナン)の出。迷走を続けてようやく蜀の地に根付いた名士・許靖(キョセイ)の外孫であり、いわゆる中央都会の名士のひとりだったと見てよいでしょう。

 

が、時代は乱世。陳祗は戦乱の中で両親を失って孤児となり、許靖に拾われて大きくなったと言われています。

 

 

その容貌は威厳にあふれて大変立派。厳かでありながら慎み深く、多芸多才な人物であったと伝えられています。これは人材が枯渇気味の蜀にとってはうれしい人物。陳祗は20歳になるとすぐに役人になり、順調に出世。

 

やがては蜀の重臣である董允(トウイン)が亡くなると、当時蜀の権力を握っていた費禕(ヒイ)からその人物や才覚を気に入られ、一気に蜀帝・劉禅(リュウゼン)のお付きにまで昇格しました。

 

さらに同じく重役にあった呂乂(リョガイ)が亡くなった際に尚書令(ショウショレイ:上奏文など宮中文書の管理)の官位まで与えられ、完全に宮中の中枢部にまで入り込むこととなったのです。

 

 

やがて費禕まで亡くなると、陳祗はいよいよ内政の中枢を掌握。大将軍の姜維(キョウイ)が外征に専念する裏で政治を掌握し、2頭体制を形成。

 

蜀の疲弊を招く中でも北伐というドクトリンに従って姜維の北伐に容認的な意見を残しており、この辺りも批判的な見解の論拠になっています。

 

 

こうして孤児から一国の宰相レベルにまで上り詰めた陳祗でしたが、景耀元年(258)に病没。劉禅は陳祗の死に諸葛亮以来の動揺を見せ、喋るたびに涙を流したと言われています。

 

諡は忠侯。劉禅によって最大限の賛辞を贈られた珍しい人物だったと言えるでしょう。

 

 

 

 

 

 

悪く言われる北伐容認派

 

 

 

北伐と言えば、諸葛亮が勝ち目の薄い戦いに臨んだ義戦。蜀の存在意義そのものであり、それを敢行、あるいは支援する者はほぼ全員正義の人と書かれています。

 

 

……が、陳祗に対する後世の意見は、とてもいいものとは言えません。

 

実際、陳寿の評価というか、その記述も以下のようにあります。

 

劉禅は董允が亡くなった後に、次第に厳しかった董允を「自分を軽視した」と勘違いし、恨むようになり始めた。それは陳祗が媚びへつらい、黄皓の讒言がどんどん耳にしみこんでいったからである。

 

ハッキリ言って、忠侯なんて諡はもっての外。陳寿のこの記述を真に受けるならば、忠侯でなく醜侯と諡されるのがお似合いの汚職政治家です。

 

 

では、なぜ中枢に上り詰めたにも関わらず最低の人間であるかのように書かれるのか……。その答えは、おおよそ以下の通りでしょう。

 

 

1.北伐容認派=魏の敵

 

2.黄皓を取り立てた張本人で、後に黄皓は酷吏として蜀の面々に嫌われた

 

 

しかも三国志が編纂された晋の時代にはまだ蜀政権の生き残りがおり、彼らはおそらく名誉のために悪く書かれるのを嫌ったと推測すると……正直、ここまでスケープゴートにふさわしい人物はいないでしょう。

 

陳寿自身も黄皓に干された経験があるためその関係で陳祗を嫌っていたとも考えられますが……まあどれも推測に過ぎず、決定打を欠いているというのが正直なところ。

 

面白いところだと龐統(ホウトウ)の息子に軽蔑されてぞんざいに扱われたともあり、その報復で陳祗が圧力をかけたのが原因か彼は太守の役職止まりで亡くなったという逸話も残っています。

 

 

何にせよ忠臣とするにも奸臣とするにも、安易に判断を下せるような評価のしやすい人物ではないのが正直なところですね。

 

スポンサーリンク

 

 

陳祗批難の不明点

 

 

 

さて、こんな感じで否定派優勢の賛否両論といった陳祗ですが……どうにも一つだけ不可思議というか、よくわからない部分があります。

 

それが、「黄皓が陳祗と結託して悪事を働いた」というような記述の数々。確かに黄皓は陳祗の代に昇進を果たしていますが、その時の位は黄門令(コウモンレイ)。行ってしまえば宦官のリーダー的な立ち位置の人で、政治に口出し関与するのは絶望的に難しいと思われます。

 

というか黄皓、もともと黄門丞(コウモンジョウ)という似たような役職についていた記述があり、陳祗が重宝して政治に口出ししたと裏付けができるような役職に上がったとは言いづらいです。

 

 

むしろ、黄皓が本格的に政治を握り始めたのは陳祗が亡くなった直後あたりから。劉禅について記された『後主伝』にも「黄皓がはじめて政治的権力を握った」とされるのも陳祗が亡くなった258年からであり、どうにも作為的というか、政治的な背景がちらつきます。

 

 

とはいえ、陳祗が宦官にもおもねっていたという記述もあるため、黄皓と結託していた可能性は低いといえどもゼロではありません。結局、何が正しいのかよくわからないというのが正直な感想ですね。

 

やはり劉禅が死を諸葛亮と同程度に悲しむような人物ですし、どうしようもない蜀の情勢の中頑張った人物だと思いたいところですが……

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連ページ

劉備
我々の間で付いたあだ名は、森の聖者オランウータン。
劉禅
アホの代名詞とも言われる暗君ですが……その信憑性はどこまでのものか……
諸葛亮
「ほかに やることは ないのですか ?」
徐庶
本当は魏所属ですが、列伝の関係上蜀側に記載。
諸葛瞻
諸葛亮の息子にして、蜀の最後の星の一つ。ただし、その星は七色に光る流れ星だったのだ……
関羽
みんな大好き、神にもなった髭野郎。尊敬はされても親しみを持つには恐れ多いように見えますが、彼も人間らしいダメさは持っていた……
張飛
三国志のジャイアンともいえる人。ですが、実際の性格はスネ夫……
馬超
叛逆の貴公子、演義ではいいキャラしてますが、正史ではDQNエピソードを捏造されるくらいにはアレな性格してます。
黄忠
ハイパーおじいちゃんとして有名ですが、実際、彼は本当におじいちゃんだったんでしょうか?
趙雲
別殿にて熱く語られる主人公補正が最大の見所。
龐統
かの諸葛亮と並び称されるほどの天才軍師……のはずなのですが、大した実績もないままに亡くなってしまったため、実際の能力は謎。
法正
法正☆マイフレンド
許靖
有名な人物評論家なのに、これまた随分と苦労人……
麋竺
まさに大地主。そんな人が家を捨ててまでついて行こうと思うあたり、劉備のカリスマっていったい……
孫乾
地味に劉備軍外交官は面白い人が多い。なお記述……
簡雍
地味ながらもいい味出している人。 劉備の最古参の部下の一人です。
伊籍
法律を作った政治家の一人。外交も十分に行けるのですが、記述の少なさがすさまじい……
董和
偉大な息子を持ちながらも、本人もとんでもなく偉大だった人。清廉潔白で無欲、理想の政治家の一人ではないでしょうか。
劉巴
あんた実は劉備のこと嫌いだろ。
馬良
「白眉最も良し!」の語源となった人ですね。 しかし活躍期間はそんなに長いわけではなく……
馬謖
登山\(゜ロ\)登山(/ロ゜)/
呂乂
清きに魚も住みかねて……か。
劉封
運命は彼を裏切り者以外の何者にもさせなかった……。恨むぜベイベー。
彭羕
有能だったんだろうけど……問題児の書に伝が記されるのも、まあ納得。
廖立
見事な弁才、文才を扱き下ろしに使ったばかりに……
李厳
李厳、李厳、ぼくらの李厳♪九錫王位に野心を込めて遥か世界で戦えますか♪
劉琰
短所しかないゴミとして書き連ねられるくらいなら、闇に埋もれたほうがいい。そんな気持ちを教えてくれる人です。
魏延
反骨の相って後頭部が出っ張ってる事らしいぜ。
楊儀
魏延とはガキの喧嘩じみたいがみ合いをし、増長しまくった結果潰された、ある意味人間味にあふれた迷臣。こういう人、傍から見ると面白いですよね。
霍峻
めっちゃ地味な上に活躍もほとんどないですが、普通に逸材。
向寵
いつの時代にも、評価が高く期待されたのに無念の死を遂げる人物はいるものです……
黄権
夷陵の敗戦によって魏に仕えることになった忠臣。その忠義が買われて蜀の所属として名を広めている人物です。
馬忠(蜀)
中国は華やかな歴史の裏舞台で異民族との折衝や戦争を行う歴史。そんな歴史の裏舞台で地味に欠かせない役割を行う人物は、いつの時代にも存在します。
王平
蜀の名将。特に諸葛亮がいなくなった後の蜀の、数少ない頼れる存在の一人です。オウヘイヘイーイ
句扶
誰この人?
張嶷
知ってる人は知ってる名将。死に方が格好いいことで有名。
蒋琬
諸葛亮亡き後、まず最初にバトンが渡ったのがこの人。諸葛亮という巨大すぎる指導者がいなくなった蜀を混乱させずに上手く回していました。
費禕
ひいいいいいいいいいいいいい!!
姜維
ある時は生姜でありある時はキウイフルーツ。頑張ったで賞授賞も夢ではないほどの苦労人ですが、反面他人にも苦労を強いた人物でもあります。
楊戯
姜維を貶したばっかりに……ほら、あの人功名心強いから。
呉壱(呉懿)
蜀軍の主力武将のひとり……のはずなんですが、活躍の記述はほとんどなく、官位と昇進ぶりを他者の伝でたまに見かけるだけの人。
呉班
ご飯。嘘。この人は北伐の際には後将軍になっており、実際に有能な軍人だった……はず。
馬岱
会えてうれしいYO☆ 演義や他のメディアでは大活躍の馬超の従弟ですが、正史での事績はというと……
関平
演義だと強い。でも正史だと……?
厳顔
格好いい老将として知られるが……?
孟達
もはや立伝すら許されないレベルで、裏切り者として定着してしまった人物。しかし、意外にも能動的な裏切りは少なく……
孟獲
南☆蛮☆王 孟獲!等といいつつ、結局この人は南中土豪の中でも特に大物の一人といったところ。
陳到
趙雲と対になってるっても、記述がないんじゃ強いかどうかわかりにくいよね。

ホーム サイトマップ
お問い合わせ