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董和 幼宰

 

 

生没年:?~?

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州南郡枝江県

 

 

 

董和(トウカ/トウワ)、字は幼宰(ヨウサイ)。知名度や正史での事績の派手さは2流にして息子以下といったところですが……それもそのはず。この人は一度も戦場に出たという記述がない、生粋の政治家です。

 

しかし、諸葛亮(ショカツリョウ)が信頼する能力と清廉さは折り紙付き。どこまでも国のためを思うあり方は、まさに政治家の理想の一つなのではないでしょうか。

 

 

今回は、そんな董和の伝を追っていきましょう。

 

 

 

 

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劉璋配下の名政治家

 

 

董和はもともと益州に根を張っていた一族の出身者でしたが、董和は東隣の荊州出身。おそらくは、先祖のどこかの代で引っ越したのでしょう。

 

しかし、後漢王朝もいよいよ末期という時に、董和は再び西へと移住。一族郎党を連れて益州へと帰っていったのです。そして、そのまま州の長である劉璋(リュウショウ)に仕えて牛鞞(ギュウヒ)、江原(コウゲン)の県長、そして成都(セイト)県令と、一つの県をまとめる長を歴任。そのすべてで厳格な法治体制を敷き、風紀を定めました。

 

というのも、当時の益州は名士たちがどんどん贅沢を楽しむようなユートピア。風俗は弛みまくり、多くの名士貴族らは好き勝手に豪奢な暮らしを満喫していたのです。

 

当然、董和も不当な贅沢をせずに自分の法令をきっちり守っていたのですが……これで納得しないのがぬるま湯にどっぷり浸かっていた名士たち。彼らは董和を嫌って主君の劉璋に直訴。そのせいで董和は任地を離れて別の役職につくように言われてしまったのです。

 

しかし、それをよしとしない民衆は大挙して董和の留任を懇願し始めます。史書によればその数は数千人にも達し、弱者層の支持をしっかりと得たことで、結果的に董和はあと2年だけ、留任を認められたのです。

 

 

しかし、豪族たちを相手に強固に出ては、その先は左遷のみ。董和は栄転という形で、今度は益州太守として南方に飛ばされてしまったのでした。

 

 

……とはいえ、董和の清廉を良しとする政治スタンスは何一つ変わらず。文化の違う異民族の跋扈する南方を任されたにもかかわらず自棄になって金もうけに傾倒することなく、その近隣に根付いた異民族の部族らとも連携して政治を執り行ったのです。

 

結果、益州南方は辺境とは思えないほどに安定し、信と愛をモットーとした政治は大きな成功を収めました。

 

 

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諸葛亮とのツートップ

 

 

 

 

さて、董和の身分が絶頂に立ったのは、劉備(リュウビ)が益州を乗っ取って一大勢力を築いてからでした。

 

益州を手中に収めた劉備によって召し出された董和は、掌軍中郎将(ショウグンチュウロウショウ)という役職として転職。なんとそのまま劉備一派による政治の中枢に入り込み、そのトップである諸葛亮の補佐役……政治的権限ではナンバー2と言ってもよい立場へとのし上がったのです。

 

 

その時の董和の具体的な働きは記されていませんが、諸葛亮と親身に接し、良きを進めて悪しきを改める政治改革を徹底したそうな。

 

 

その後董和はいつとも知れず亡くなりますが、彼は政治の重鎮でありながら貯蓄はゼロ。まさに清廉な政治を敷くためだけに生まれてきたような男の、人知れぬ静かな最期でした。

 

 

ちなみに諸葛亮は丞相(ジョウショウ:総理大臣)の位に付くと、旧友である徐庶(ジョショ)と共に彼の名を出して官吏たちを訓示しています。

 

 

そもそも職務に携わる者は、様々な意見を参考にして国益につなげなければならない。少しでも気に入らない者を遠ざけて異なる意見を持つ者を批難すれば、どこかで損失を招くだろう。

 

徐庶だけはこの対処を迷わず行い、そして董和はダメな部分を考え抜き、どうしてもわからなければ相談を持ち掛けた。彼らの資質を学んで身につければ、仕事の失敗は大きく減る。

 

 

私は昔から旧友に欠点を指摘されて教示を受けてきた。董和は言いたいことを遠慮なしに何でも言っていたし、胡済(コサイ)は何かあるたびに諫言していた。

 

器量不足で全部を聞き入れたわけじゃない。しかし彼らとは仲良くやれたし、直言をためらわない態度に私が助けられていた証でもある。

 

 

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人物評

 

 

 

三国志を編纂した陳寿は、彼のことを以下のように評しています。

 

 

詩経にある「羔洋(コウヨウ)」という歌があるが、あれにふさわしいような質素な行いをした人物である

 

 

羔洋の説明をするとなると、これまた詩経の国風、召南と難しい単語が並んでいきますが……要するに召南という国があって、そこが質素な生活を良しとする徳の政治を行っていたというわけです。

 

それと似たような気風を持っていたのが、董和である、と。陳寿の評ではこのようになっているわけですね。

 

 

実際に董和は記述こそ少ないですが、その立ち位置は諸葛亮の片腕にして蜀の重臣。劉備の配下となる後も前も、やろうと思えば蓄財なんていくらでもできたような身分です。

 

しかし臨終まで財貨を貯めこもうとせず、度が過ぎた贅沢を禁じたというのが高く評価されているわけですね。

 

 

 

また、彼は諸葛亮曰く直言の士。おそらくは自分にも他人にも厳しい人物だったのでしょう。それが良き政治を生み、また法治主義的な考え方が諸葛亮ともマッチした。その結果、董和は自分の実力をフルに発揮できる重役のポストに立てたのです。

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