馬忠


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馬忠 徳信



生没年:?~ 延熙12年(249)

所属:蜀

生まれ:益州巴西郡閬中県




馬忠(バチュウ)、字は徳信(トクシン)。中国史の裏舞台は、常に異民族との戦いや折衝の繰り返し。その過程は史書では省かれたり目立たないようにされていることもしばしばですが……そんな異民族との裏舞台で活躍した名将も大勢います。

馬忠も、その中の一人。たまに魏との戦線に出向いたりしたこともあったようですが、この人は基本的に南方で生活して南蛮の異民族をうまく抑え込み、取りまとめていました。


今回はそんな馬忠の伝を追ってみましょう。



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劉備曰く「天下の逸材」



馬忠は幼くして母方に面倒を見てもらっており、最初は母方の姓で狐篤(コトク)と名乗っていました。が、やがて父方に復姓して馬忠と名を変え、郡の役人として取り立てられました。


その後、地元推挙である孝廉(コウレン)での推挙を経て漢昌(カンショウ)県長に就任。

この時、蜀帝・劉備(リュウビ)は呉との戦いに大敗北を喫し、蜀の戦力は大幅に低下するという大事件が発生しました。郡の太守はこれを重く見て、馬忠始め統治下の県で大規模な徴兵を実施。馬忠に集まった5千の兵を与え、永安(エイアン)に逃げ延びた劉備の元へと輸送させました。


こうして、劉備と初めて顔を合わせた馬忠。劉備は彼と言葉をいくらか交わした後、「黄権(コウケン)を失った代わりに馬忠を得た。賢才も意外といるものだな」と馬忠を密かに高く評価したのです。



この劉備の評価が響いてか、劉備が亡くなった建興元年(223)に、馬忠は諸葛亮によって幕府の門下督(モンカトク:将軍の直属兵を管理する役職)に任命され、その2年後の建興3年(225)に蜀が南蛮の反乱鎮圧に赴いた際には牂牁(ソウカ)太守として、辺境の慰撫を任されることとなりました。

反乱直後の地域一帯は非常に統治が難しく、これをしくじった人物は歴史上数知れません。馬忠は、この時にはそれほどの任務を任されるほどになっていたのですね。


また、建興8年(230)には北伐で不在の諸葛亮に代わって内部の事務を任されていた蒋琬(ショウエン)の次官として中央部の内政、さらには翌年には諸葛亮と共に出陣して軍務に携わり、一方面の大将として北方異民族の討伐を行うなど、マルチな活躍を見せています。




南方慰撫のエキスパート




馬忠がこうして中央部に戻っている時、南方は張翼(チョウヨク)という武将が、庲降都督(ライコウトトク)という立場に立って取りまとめていました。

張翼はどちらかというと厳格な法治主義的人物であり、規律をしっかりと定めて統治を勧める人物。これは残念ながら、気性が荒く強烈な後ろ盾を持つ異民族交じりの辺境ではあまり受けの良い方法ではなかったと言えるでしょう。

建興11年(233)、南蛮の大部族を率いる劉冑(リュウチュウ)が野心を燃やしてか厳格な法に耐え切れなくなってか、部族ともども叛逆を起こして各地を荒らしまわる事態に発展してしまったのです。


馬忠は過去に上手く反乱地域を慰撫した功績を買われ、張翼と交代で南方の統治に復帰。張翼によって軍備が完璧に整えられていたのもあって、反乱を即座に鎮圧。劉冑を処断して無事に平定を終え、馬忠は奮威将軍(フンイショウグン)、博陽亭侯(エイキヨウテイコウ)に格上げされました。

さて、この庲降都督という職業は非常に危険な役職だったらしく、以前に異民族につかまって呉まで連行された人物もいたとか。南方の地域はそれだけ危険が多く、異民族の動きが活発だったわけですね。


そんなこともあって、庲降都督は異民族の影響が少ない離れた土地で職務を行うのが普通という有り様でした。

しかし馬忠は、政庁を異民族の跋扈する奥地へと移設。危険を顧みずにその場へ移って政務を行うことになったのです。さらに辺境の太守を行っていた張嶷と共に失陥していた地へと進行、越巂(エッスイ)郡を再び占領下に加える等非常に大きな活躍を示しました。

この功績があって、安南将軍(アンナンショウグン)に昇格。まさしく南を守護する貴重な将軍として、馬忠はその地位を確保したのでした。


延熙5年(242)に再び中央に帰還し、そのまま漢中に向かっていき諸葛亮の後を継いだ蒋琬へと勅詔を伝達。鎮南将軍(チンナンショウグン)へとさらに昇格します。

延煕7年(244)には魏の大攻勢が行われましたが、馬忠はここでも首都近郊で上奏文官吏を代行し、裏方として滞りなく政務を行っています。


戦いが終わると馬忠は再び南方へと帰還。再び周囲の慰撫に励み、これといった問題も起こさず無事に統治を行いましたが延煕12年(249)に病気で死去。その後も辺境の統治には優秀な人物が携わっていましたが、どれも地元の評判は馬忠に及ぶものではなかったと言われています。



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人物像



三国志を編纂した陳寿は、総評をして馬忠をこのように評価しています。


穏やかな性格でありながら決断力があった。


また、記述こそは少ないものの、馬忠の政治スタンスは史書に非常にわかりやすく書かれています。

はっきりと言えるのは、慈愛によって民を慈しむ徳の政治を得意としていたこと、そしてその政治スタンスが異民族に受け、威厳と恩徳を兼ね備えていたと評されるほどに評価されていたということ。


性格に関しても太っ腹で鷹揚。冗談に対して馬鹿笑いするものの怒りの表情は決して見せず、情け深い人物であったそうな。

その慕われ具合は、葬式では多くの人物が涙を流し、当時の人たちが馬忠を祀って立てられた廟は今なお現存するほどだとか。後任の陳表(チンヒョウ)、閻宇(エンウ)らはいずれも有能なひとかどの人物でしたが、風格や世評は馬忠に及ぶことはなかったとされています。


三国志にはこういった裏側の世界がどの国にもありますが……やはり馬忠のような飛び抜けて有能な人物が、軍事であれ統治であれ、多大な実績を上げていたのですね。




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