馬謖 幼常


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馬謖 幼常

 

 

生没年:初平元(190)年~ 黄武7(228)年

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州襄陽郡宜城県

 

 

勝手に私的能力評

 

馬謖

統率 B- 事績不明。ただ、諸葛亮から一軍の大将に任命された以上、それなりに兵を率いることはできたのだろう。
武力 D 武力に関する話がないからよくわからん。
知力 B+ 襄陽記には、南蛮征伐の時に「心を攻めましょう」と提言したのは馬謖。頭はいいんだろうが、自己評価が高すぎたか。春秋戦国の大戦犯・趙括よりは幾分マシ。
政治 C 役職は軍事参謀のため政治力は不明。ただまあ、諸葛亮からある程度のノウハウは引き継いだのではなかろうか……という妄想。
人望 B 街亭でやらかすまでは蜀軍のホープだった。というかやらかした後も向朗は馬謖を慕って失敗を見逃した。

 

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馬謖(バショク)、字を幼常(ヨウジョウ)。とある界隈では絶大な人気を誇っている人物ですね。

 

このサイトをご覧になっている方の中には、なぜ人気を博しているかご存知の方もいらっしゃるでしょう。

 

 

この人、学問に関しては多大な才能を持っていたのですが……後々、後世までネタにされる大失敗を犯してしまうのです。

 

 

 

 

 

馬家五常の末子

 

 

馬謖の字である「幼」の漢字は、通常5男に用いられるとされています。とすれば、おそらく馬謖は5常と呼ばれる馬家の俊英の末弟ではないかと推測されます。

 

 

そんな馬謖が劉備によって召し抱えられたのは、おそらく兄である馬良らと同じ時期。劉備が益州に向かった際にはすでに名があり、後に益州の喉元である綿竹、成都2県の県令(県知事)や、越巂(エツスイ)郡というところの太守(長官)を務めました。

 

馬謖は好んで軍事戦略を論じるような若者で、言ってしまえば口達者で利発な若者でした。

 

そのため、諸葛亮からは非常に高い評価を得て、昼夜問わず二人で談論に興じるほどだったとされています。実際に劉備の死後は諸葛亮の参軍(今でいういわゆる軍師)に任命せれるほどの寵愛ぶりだったそうです。

 

 

ちなみに劉備の馬謖評は、「こういう奴はたいていビッグマウスの口だけ野郎」。諸葛亮にも「馬謖を重用しすぎないように」と強く念を押しており、やはり戦争に生きた大英雄にとっては、この頃からどこか思うところがあったのでしょう。

 

 

 

ともあれ、馬謖は頭のよい人物だったことに違いはなく、東晋の時代に編纂された『襄陽記』によれば、孟獲(モウカク)、雍闓(ヨウガイ)ら益州南方の憂慮者が起こした反乱鎮圧にも従軍しており、諸葛亮に心を攻めるよう進言。これを受けた諸葛亮が、後の古事成語『七縱七擒』につながる作戦を展開し、孟獲らを屈服させるのに一役買ったという逸話も残っています。

 

 

 

 

 

 

登山家たる所以これにあり!

 

 

さて、馬謖がなぜ有名なのか。その理由は登山にあります。

 

というのも、この人物は機転を利かせて山に登ったがために、逆に窮地に陥って作戦を大失敗に導いてしまったというのです。

 

 

 

黄武6(227)年、諸葛亮は出師の表を蜀朝廷に提出し、北伐の軍を上げます。

 

 

そして翌年の黄武7(228)年には、本格的に魏への侵攻を開始。準備がまだ整っていなかった魏は動揺し、安定、南安、天水の三郡は蜀に降伏。序盤を優位に進めます。

 

 

そして魏が本腰を入れ、歴戦の勇将、張郃(チョウコウ)が出撃した時、諸葛亮もこの軍を迎撃するための先発隊を編制し、向かわせることにしました。

 

この時、先発隊の総大将となっていたのは、馬謖。他にも呉壱、趙雲ら経験豊富なベテラン将軍らを差し置き、周囲の反対を諸葛亮自らが押し切っての選抜でした。

 

 

馬謖の軍勢は要衝である街亭に向かい、そこで張郃ら魏軍を迎え撃つことになりました。

 

 

諸葛亮の言いつけは、「山のふもとの街道沿いをしっかり死守すること」。しかし、血気に逸る馬謖は、何を考えてかこの命令を無視。

 

兵法の上では有利とされる山の頂上に布陣し、敵と相対することにしたのです。

 

 

山頂は高い立地から敵の陣を確認できるうえ斜面を駆け降りる勢いもついたりで、確かに戦争においては、普通ならば有利に事を進められます。おそらく馬謖は、諸葛亮らが考える敵の撃退よりも、完全撃破を狙ったのでしょう。

 

 

しかし、この判断が仇となります。敵の張郃軍は馬謖の思惑通りの動きはせず、まずは馬謖軍の補給経路を遮断。これには水を汲む為の道も含まれており、馬謖軍はじわじわと追い詰められていきます。

 

 

そして数日もして弱ったところに、総攻撃。臨機応変と謳われた張郃の絶妙な戦術に一方的に叩きのめされた馬謖軍は、関を切ったように壊滅。幸いにも王平(オウヘイ)ら馬謖の策に反対した副将らの奮戦で最悪の事態こそ免れますが、この一戦で蜀軍の北伐計画は一気に瓦解。

 

馬謖らの後方を支える高翔(コウショウ)という武将の軍も敗退し、ある程度有利な条件を作り出して開始した北伐計画は失敗。以後何度も北伐を行いますが、それらもすべて首尾よく破られるという結末を迎えることになるのです。

 

 

当然、大戦犯の馬謖はその後投獄。史書によっては獄中で死亡とも処刑されたとも言われていますが……。

 

享年39歳。兄である馬良(36歳で戦死)ともども、次代のホープにしては早すぎる、そして同時にあっけない幕引きでした。

 

 

ちなみに現在でも有名な「泣いて馬謖を斬る」という言葉の語源にもなった出事です。

 

あと、ネット界隈での登山祭りの創始者にして、主な弄りの対象として今日まで親しまれてきたことも、忘れてはならないこと……かもしれません。(もう一人の有名な登山家は、冬季日本アルプス横断という偉業を成し遂げたジャパニーズ戦国武将・佐々成政)

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻

 

 

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