呂乂 季陽
生没年:?~延熙14年(251)
所属:蜀
生まれ:荊州南陽郡
呂乂(リョガイ)、字は季陽(キヨウ)。演義では登場せず、何でも呂義(リョギ)という人が彼の代役という説があるのですが……その話はまあいいでしょう。
この人はどんな人かというと、言ってしまえばバリバリの法治主義者。厳格に法を敷いてガッチリと人を統制し、何もかもをすべて綺麗に整えてしまいそうな人物です。慈悲を主旨とした政治を敷いたものの、官僚には厳しかったとか。
さて、今回はそんな法務バリバリの執政官・呂乂の伝を見ていきましょう。
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清く正しき郡太守
呂乂の父親はもともと、野心を密かに抱く群雄・劉焉(リュウエン)の見送り役として彼に随行しました。
しかし、劉焉は益州につくなり、己の野心を暴発させ群雄として独立。呂乂の父もその計画に巻き込まれて益州で孤立し、帰る術が無くなったため永住することになったのです。
結局その後、呂乂の父親はその戦乱のうちに死去。呂乂は幼くして孤児になってしまったことが史書に語られています。
呂乂本人が史書に名を出したのは、建安19年(214)に、劉備(リュウビ)が益州を完全に平定した後の事。
劉備は塩と鉄の高い有用性から、これらを公的機関で専売することで利益を得ようと目論み、塩府校尉(エンフコウイ)を設置。この塩府校尉の位に就いた王連(オウレン)という人物によって呂乂は招聘され、劉備軍に加入。同時に推挙された人物と共に、典曹都尉(テンソウトイ)なる役職に就任。
後に大規模な県の県令(県のトップ)に就任し、州内第一との名声を得、後にとうとう巴西太守(ハセイタイシュ)に就任。各県を総括する郡のトップを任されるようになったのです。
またこの時、南中の征伐を終えた諸葛亮(ショカツリョウ)がついに北伐を開始し、諸郡に徴兵や物資提供を求めました。呂乂はこれらすべての要求を完璧に呑み、物資輸送の怠りは無し、徴兵された郡の兵から脱走兵が一人も出ないほど、その仕事は整然としていました。
後に前線である漢中(カンチュウ)太守も務め、兵糧輸送を一切の怠りなく行って、この時も兵糧を途切れなく輸送するという見事な支援を行っています。
後に諸葛亮が亡くなって北伐がストップすると、呂乂は大規模な各郡の太守を歴任。特に大きいがゆえに不正が多い蜀(ショク)郡を治めた時には、呂乂は不正防止のために数々の政策を実施。
教育指導を行って治安の是正を務めたため、不正を行った面々は数年のうちに郡を出ていくことになったとか。
中枢に清きは求められず
そんな公正で、善良ながら厳格な政治を行った呂乂。彼はいつしか朝廷からも評価され、帝へのツッコミ役である董允(トウイン)の出世に伴って尚書令(ショウショレイ:宮中文書管理部門の長官)へと出世しました。
が、呂乂の厳しいまでの徹底法治主義は、上に立つようになると受けが悪かったようです。
呂乂伝本文には行列のために執政に支障をきたすほどの行列はできなかったと言われており、彼自身のテキパキした仕事を差し引いても、仕事に大して時間がかからなかったほどだとか。
呂乂自身は質素倹約に努め、あくまで国のために力を注ぎましたが……法律に厳しく、自分でも法律に詳しい者を好んで起用し、名声は先任よりはるかに劣っていたことが本文にすら記されています。
つまりこれは、呂乂の潔癖さは中央では受けが悪く、やはりある程度の融通とあくどさが必要だったということかもしれませんね。
ともあれ呂乂は、結局先任の董允らを抜くことはなく、延煕14年(251)に死去。後に似たような性格である呂雅(リョガ)という息子が跡を継いでいます。
また、陳寿は彼のことを以下のように記していますね。
地方官として有能さを誇示しながらも中央官僚としては言って及ばなかった名臣もいるが……呂乂はそんな人物の類いであろうか。
後に三国志演義では、呂義なる人物に代わられ未登場。法に厳格なこの名臣は、後の世でもほとんど語られることがない人物として、知る人だけが彼を語るにとどまっているのです。
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