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呉壱 子遠

 

 

生没年:?~建興15年(237)

 

所属:蜀

 

生まれ:兗州陳留郡

 

 

 

 

呉壱(ゴイツ)、字は子遠(シエン)。おそらくは呉懿(ゴイ)の名の方が知られていることでしょうが……司馬懿(シバイ)と諱が被ってしまうため、「壱」に名で史書に記されているとか何とか。

 

経歴というか、劉備(リュウビ)との関係性なんかが、史書を追ってみて個人的に驚いたポイントですね。

 

 

北伐においてはほとんどキーパーソンでもおかしくない位にいたのに、不自然に記述が少なく、散逸が疑われる人物の一人です(というか、蜀の武官はだいたいそんなのばっか)。高位に上り詰めたのに、何とも惜しいというかなんというか……

 

 

ともあれ、嘆いていても始まりません。さっそく、呉壱の記述、現存している部分だけを追っていってみましょう。

 

 

 

 

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劉備へと降伏

 

 

 

呉壱は元々陳留(チンリュウ)の人物でしたが、幼くして孤児となり妹と生き別れ、後に劉焉(リュウエン)と共に益州(エキシュウ)入り。後に劉焉は益州の長として漢王朝の中枢と連絡を絶ち、呉壱もそんな劉焉の部将として蜀の地で働いていたのです。

 

 

しかし劉焉の子・劉璋(リュウショウ)に代が移ってしばらく経った建安17年(212)、客将として劉璋の元に身を寄せていた劉備が、突如として反乱。

 

劉璋軍が精強な劉備軍に次々とおされていく中、呉壱も中郎将(チュウロウショウ:将軍の次官)として劉備に当たりますが、力及ばず降伏。

 

 

結局はその後、劉璋も劉備に対し降伏を申し入れ、益州の主が劉備になったのでした。

 

呉壱はこの時、劉璋とは婚姻による血縁関係となっていましたが、劉備はそれに対する反感を一切覚えず、呉壱を護軍(ゴグン:軍の監督役)、討逆将軍(トウギャクショウグン)という好待遇で軍中に迎え入れ、さらに未亡人となっていた彼の妹を嫁に迎え入れる形で厚遇したのです。

 

 

また、章武2年(221)には関中部督(カンチュウブトク)に昇進。督は軍団の総指揮官のような意味合いなので……劉備の宴席としてその力を大きく期待されたようですね。

 

 

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最後は最前線総司令官に……

 

 

 

後に劉備が亡くなると、その息子の劉禅(リュウゼン)が皇帝に即位。呉壱は、引き続き彼に仕えることになります。

 

 

そしてその後しばらくは、戦らしい戦と言えば、諸葛亮(ショカツリョウ)による南方の反乱鎮圧と平定くらい。北部の軍人である呉壱は、しばらく史書から姿を消します。

 

 

……が、諸葛亮が崩壊寸前だった蜀を建て直して北伐を開始した際、再び呉壱の名は史書に散見し始めます。

 

 

まず、建興6年(228)の第一次北伐の際。

 

この時は魏軍が蜀の攻撃への備えが万全でなかったこともあり、諸葛亮はあっさり西方の諸郡を制圧し、自軍の拠点を確保。

 

しかしそのタイミングで魏軍が本腰を入れ、主力部隊が多数援軍として到来し、蜀の軍中では、主軍が地盤を固めるまでの間に敵の主力をどう足止めするかが軍議で話し合われることになりました。

 

この時に人々が大将の候補として名を上げたのが、勇将と名高い魏延(ギエン)と、そして呉壱。この大役で名前が挙げられるという事は、呉壱は蜀を代表できるレベルである事の証左といえる……かもしれません。

 

 

しかし、諸葛亮はここで、自身の愛弟子でまだ経験の浅い馬謖(バショク)を大将に起用。結果、そのまま蜀軍は大敗北を喫してしまうのでした。

 

 

 

その後呉壱が姿を現したのは、建興8年(230)の事。呉壱はこの時魏延と共に進軍し、敵将・費瑶(ヒヨウ)の軍勢を撃破。主力ではないものの魏軍を打ち破る快挙を成し遂げ、呉壱は左将軍(サショウグン)へと昇格し、高陽郷侯(コウヨウキョウコウ)の爵位を授かったのです。

 

また、前後してか同時にかはわかりませんが、仮節(カセツ:軍法違反者を好きに裁ける権利)を授けられ、いよいよ蜀軍の中でも主力に数えられるようになったのでした。

 

 

 

建興12年(234)諸葛亮が死去すると、今度は魏延と楊儀(ヨウギ)の間で誰が軍を指揮するかの争いがおこり、魏延が死亡。

 

呉壱はその穴を埋めるように漢中部督(カンチュウブトク:漢中は対魏の前線本拠地であり、実質北方の総指揮官)となり、ついに軍事トップに上り詰めました。

 

 

……が、諸葛亮の死と北伐の負担による反動で蜀軍は大きく動くことができず、3年後の建興15年(237)に呉壱は死去。

 

 

「事績が伝わってないから伝を作らなかった」と直々に陳寿から書かれており、そっちの意味でもかなり惜しい人物だったと言えるでしょう。

 

 

ちなみに『季漢補臣伝』には彼の評が残っており、ほぼ唯一呉壱の人となりが知れる材料となっています。

 

 

武骨で博愛精神があり、劣勢の中でも敵を打ち破り、危機に陥る事がなかった。

 

 

 

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