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彭羕 永年

 

 

 

生没年:光和元年(178)?~建安19年(214)?

 

所属:蜀

 

生まれ:益州広漢郡

 

 

 

 

彭羕(ホウヨウ)、字は永年(エイネン)。

 

世の中には才能こそ優れているものの、その才覚に溺れて傲慢で残念な人柄に成り果ててしまった人物がいます。

 

 

才覚と器がマッチしない時……この場合、才能が器から大きくあふれ出てしまったらどうなるのか。彭羕の伝は、そんなケースについて考えさせられるものになっていますね。

 

 

 

 

 

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愛されぬ才人

 

 

 

 

彭羕は才覚こそあったようですが、性格は傲慢。そのため味方と呼べそうな人が近くにおらず、その才はなかなか見出されませんでした。

 

……が、秦宓(シンフク)という人だけは、その知力に着目。同郷という事もあって、秦宓からだけは尊敬の目で見られていたのです。

 

 

 

彭羕が世に出たのは、そんな秦宓の推薦あっての事。太守であった許靖(キョセイ)に彭羕の才覚と自然体の大物感を力説し、推挙。

 

これにより、ようやく彭羕は郡の役人として世の中にその名を記すことになったのです。

 

 

しかし、その身分はまだまだ高いとは言えず、端役人といったところ。しかもその性格が災いして出世の道を断たれ、さらには讒言によって罪人の身分に落とされてしまったのでした。

 

結局彭羕は世間で名を上げるより前に咎人の身分となり、髪をバッサリ切られて首枷をつけられ、奴隷同然の労役にいそしむことになります。

 

 

……が、そんな状況は長くは続きませんでした。荊州から援軍に来ていた劉備(リュウビ)が突如叛逆し、益州を我が物にせんと進撃を開始。彭羕はこれを好機と見ると、すぐに脱走して劉備の元へと向かったのです。

 

 

 

 

 

THE☆ゴーガン

 

 

 

こうして劉備を新たな主に迎えると決めた彭羕は、その参謀として参陣している龐統(ホウトウ)の陣に一直線に駆け込みました。

 

当然、アポも接点も無し。まったくの赤の他人です。しかし、彭羕は自身の智謀には自負があります。その献策にも自身を持っており、必ずや受け入れてもらえると考えていたのです。

 

 

龐統の元にたどり着いた彭羕は、別の来客に応対している龐統を見るや何食わぬ顔で入り込み、「客がいなくなったら改めて話そうぜ」というなり、龐統の寝台にゴロン。

 

…………きっと、安く見られたりナメられないための、彼なりの交渉術なのでしょう。

 

 

そして、龐統が応対を終えて彭羕の元へ来ると、今度は食事を要求。あくまで龐統にペースを握らせず、自分の優位を保ちます。単に傲慢なだけか

 

 

結局彭羕はこんな感じで龐統と二晩にわたってお互いの策謀や胸の内を語り合いましたが……ここまでの傲慢な応対は単なる虚仮脅しでないことを見せつけ、彼の評価を勝ち取ることに成功。

 

さらには翌日、知人であった法正(ホウセイ)と共に劉備に面会。ここでも大いに気に入られ、彭羕は罪人の身から彼の参謀へと転身したのです。

 

 

そして諸将への指示伝達を仕事として益州攻略に大いに貢献し、ついに劉備は益州を手中に収めてそのトップの座を勝ち取ります。

 

彭羕は、劉備を大いに助けた功績から治中従事(ジチュウジュウジ:益州牧・劉備の属官)に任命され、正式に罪人から民衆の上に舞い戻る事が出来たのです。

 

 

 

 

 

 

 

認められなきゃ上に立つまで

 

 

 

と、この通り彭羕の能力は非常に高いものではありましたが、上に立った途端、やはり傲慢な性格が表面化。その野心と態度の肥大化は留まるところを知らず、ついには委員長的存在の諸葛亮(ショカツリョウ)に目をつけられてしまいます。

 

こういった節操なく暴走する不遜な人間が嫌いな諸葛亮は、彭羕の行動が軍中を乱すとして劉備に密告。

 

そして、劉備が試しに彭羕の勤務態度を見てみるとやはりあまりにアレだったため、次第に鬱陶しく感じられ、ついには彭羕を辺境の太守として中央から追い出してしまったのです。

 

 

 

自分の有能さを自負する彭羕にとって、この話は非常に面白くない。自身の出世街道が閉ざされることを恐れた彭羕は、ついに恐ろしいことを考え出すようになったのです。

 

そして、彭羕はかつて曹操(ソウソウ)への反逆で猛威を振るった馬超(バチョウ)に急接近。ある程度仲良くなって協調性の大事さを説いた馬超に対して、ついに反論するように胸中を語ったのです。

 

 

「あの劉備とかいう老いぼれはダメだね。いっそのこと、あんたが戦争で俺が内政。これで天下も充分狙えると思うがね」

 

 

出世によって溢れた野心と認められない鬱屈した感情が入り混じり、彭羕はついに反乱まで考えるようになっていたのですね。

 

馬超はノーコメントのまま彭羕を一端帰すと、すぐさま事の次第を劉備に報告。とうとう逮捕されてしまったのでした。

 

 

それでもあきらめのつかない彭羕は、獄中より諸葛亮に手紙を投函。

 

 

「自分は重宝してくださった主君に対して、酒の勢いで取り返しのつかないことを言ってしまい、処刑されても致し方ありません。

 

しかし、馬超の報告には誤りがあります。私は北方に人脈のある馬超と私が協力して主君の天下に尽くそうと言ったにすぎません。馬超の報告は正しくもありますが、我が本心を理解してのものではありません。

 

あなたほど知力をお持ちの方なら、私の心中をわかってくださるはず」

 

 

この言葉が方便か本心かはわかりませんが……諸葛亮に届くこともなく、結局処刑は執行。時に37歳。野心を暴発させた男の残念過ぎる末路でした。

 

 

 

 

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人物評

 

 

 

彭羕が名を連ねている伝は、言ってしまえば裏切り者や失望を買った「逆臣」ともいえる人物を並べた伝。その中でも彼は楊儀(ヨウギ)と並んで反逆を示唆する言葉が自身を終わらせるトドメの一言になっており、彼と違って彭羕のキャリアは非常に短いと言えるでしょう。

 

 

デビューは許靖が太守になった時と考えると、彭羕伝に記されている期間はおよそ5年ほど。しかも讒言を受けて囚人になっていた期間が大半というのですから……何とも稀有というか、相当なレアケースともいえる生き様なのではないでしょうか。

 

 

 

さて、そんな彼を、三国志の親である陳寿は以下のように記しています。

 

 

 

身長八尺、容貌は魁偉で、傲慢な性格から人をぞんざいに扱っていた。

 

才能によって抜擢されたが、身から出た錆とも言うべき最期である。

 

 

徹頭徹尾不遜で、すべてにおいて自分が中心。そんな人物だったと書かれていますね。

 

もっとも裏切り者をよく書く伝記はありませんし、この彭羕伝もすべて真実ではないのでしょうが……それでも、いろいろと凄まじい人物だったのは最期からしても確かでしょう。

 

 

ずば抜けた才覚と大きな野心を持ちながらも、人を見下してそれに見合う器を持っていなかった。なんとも残念な人だった……というのが正直な感想でしょうか。

 

 

せめて字が簡単だったら、もっとネタキャラとして現代に広まっただろうに……

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