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劉封

 

 

生没年:?~建安25年(220)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州長沙郡羅県

 

 

 

 

劉封(リュウホウ)は三国志の一幕を飾る英傑・劉備(リュウビ)の養子であり、その将来を嘱望される有望な人材でした。

 

……が、その最期は蜀皇族の一人としてでなく、蜀に仇なした裏切り者としての結末。三国志にも裏切り者の一人として立伝されている人物ですが……なんというか、色々と考えさせられる人物です。

 

 

用済みになった重要人物は周囲からどんな扱いを受けるのか……その答えの一つを示してくれる劉封伝を、今回は追ってみましょう。

 

 

 

 

 

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劉備の養子とその立場

 

 

 

劉封のもとの名は寇封(コウホウ)で、劉備とはほとんど無関係の家柄。しかも漢王朝の血筋に連なる皇族である劉一族を血縁に持つとんでもない名家でした。

 

劉備は荊州に滞在していたころ、そんないいところのの子である寇封を見るなり気に入ってしまい、無理を言って養子に迎え入れたと言われています。

 

 

当時は無関係の家の子を養子にするのは道徳的に禁忌に近かったのですが……それを捻じ曲げてまで、彼の才能を買ったのですね。

 

ともあれ、こうして寇封は劉備の子となり、劉封に改名。劉備の実質的な跡取りとして、その将来を嘱望されるようになります。

 

 

 

……が、劉封が後継者として大事にされる時期はかなり短かった様子。というのも、劉封が劉備の養子になってから数年と絶たないうちに、血のつながった後継者である劉禅(リュウゼン)が誕生し、後継者の座はそちらに流されてしまったのです。

 

さらには、赤壁で曹操(ソウソウ)を破った後、劉備はまたたく間によって立つ地を手に入れ、一介の群雄となったのも向かい風となり、劉封の立場はさらに狭くなってしまいました。

 

 

というのも、養子というのはあくまで血縁を絶やさないための最終手段であり、劉封は劉禅のスペアとも言うべき存在。さらには劉備が当時の道徳を無視して迎え入れた子である事も、世評からすれば汚点に他なりません。

 

そんなわけで、劉備に実子が生まれてしまえば劉邦はすでにお払い箱。一応は一族といえども、後継者争いの元になる厄介者だったのです。

 

 

とまあこんなわけで早々に外的要因で失脚を味わった劉封でしたが……彼にはもっと別の才覚が眠っており、それが彼をいくらか延命する手助けをしてくれたのです。

 

 

 

 

 

一族の勇将

 

 

 

後継者として早々に要らない子と化した劉封でしたが、彼にはまだ、みなぎる気力と並外れた武勇という武器が残っていました。

 

20歳余りとなった劉封は、劉備の益州攻略の軍勢に、諸葛亮(ショカツリョウ)や張飛(チョウヒ)ら率いる第二陣として参戦。その武勇をもって行く先々で敵陣を撃破して回り、蜀攻略に少なからぬ貢献を果たしたのです。

 

この功績により劉邦は副軍中郎将(フクグンチュウロウショウ)として武官デビューを飾り、数少ない劉一門の筆頭武官として戦場に身を置くことになりました。

 

 

その後、建安24年(219)には、劉備軍は漢中(カンチュウ)から川を遡上し、荊州の上庸(ジョウヨウ)を攻略するという、後の蜀軍による北伐でも断念された難解な作戦を実行。

 

劉封は孟達(モウタツ)の援軍としてこの作戦に参加し、なんと上庸太守の申耽(シンタン)そして、その弟の申儀(シンギ)を降伏させることに成功。別方面の関羽(カンウ)らとの連動という好条件の元ではあったものの、上庸攻略という困難な軍事目標を見事に成し遂げたのです。

 

 

『魏略』では、劉備による漢中攻略に参加。曹操軍をしきりに挑発し、曹操自身を激怒させています。

 

この戦いは上庸攻略のより数ヶ月前のできごと。史実だとすれば、相当ハードなスケジュールをこなしたことになりますね。

 

 

 

 

 

暗雲、そして

 

 

 

さて、上庸征伐という目標を達成した劉封でしたが、その後の運命は悲惨な物でした。

 

わざとか偶然か、劉備は上庸の太守に、降伏した申耽を起用。さらに弟の申儀ともども不自然なまでの高官に据えて、最前線の守りを任せたのです。

 

これによって身動きを取るに取れなくなった劉封や孟達は、しばらく彼ら兄弟の監視と占領したばかりの上庸の慰撫に尽力しなければならなくなりました。

 

 

さらに間が悪い事に、今度は別方面で奮戦中の関羽が窮地に陥り、劉封らに救援要請を飛ばしてきます。

 

しかしこの時の劉封らは、上記の通り身動きが取れず八方ふさがりの状態。領内を落ち着かせるのに忙しく、援軍を率いて向かう余裕がありませんでした。

 

そして手をこまねいているうちに、荊州で孤立した関羽は死亡。

 

 

さらに日頃からあまり仲が良くなかった孟達との関係は決裂し、劉封はある時孟達の楽奏隊を没収。その事もあって孟達は魏に降伏し、劉封に反旗を翻します。かくして劉封は荊州で孤立し、魏軍の総攻撃を一身に受けることになったのです。

 

 

この時、仲が悪かったはずの孟達は、劉封の立場を見かねて歴史特有の長い文章でつづった手紙を届け、彼に決断を迫ります。

 

 

「昔から良き父、良き君主の元であっても陰謀により困難に陥ることも多いと聞く。肉親でもそういった様は起こりうるのに、血の繋がっていない親子ならばそれが避けられようものか。

 

すでに劉備の周りには劉禅を後継に立てようとする者が多くおり、あなたを排除しようと劉備に讒言している。そして劉備自身も、もはや心を決めている事だろう。

 

今魏に降れば、元の家の領地を継ぎ、そのまま立場を強めていくこともできるのだ。魏は本気だ。呉蜀を併呑し、天下を取るつもりでいる。

 

さあ、決断を。これ以上、強固な諫言を私にさせないでくれ」

 

 

しかし、劉封は孟達の言葉を拒絶して魏と戦う道を選択。申耽兄弟の裏切りによってあえなく敗北し、蜀に撤退することになったのです。

 

 

 

そして、蜀に帰った劉封を待っていたのは、孟達の裏切りと関羽の戦死を招いた戦犯・裏切り者としての咎でした。

 

さらには諸葛亮によって「剛勇の持ち主で今後の脅威にもなりうる」と進言を受けた劉備は、劉封の排除を決定。

 

 

かくして孟達の予見通りに蜀から完全排除された劉封は、劉備の命により自決。「孟達の言うとおりにすればよかった」と嘆き、その最期を迎えたのです。

 

 

 

 

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劉備の……養子?

 

 

 

陳寿は、彼のことをこのように評しています。

 

 

一方的な嫌疑をかけられても不思議ない立場にありながら、その対策を立てなかった。その最期は自業自得といえるだろう。

 

 

もともと廃嫡された血縁にして本人もとんでもなく優秀、さらにはやる気もあって名族出身で、無理をすれば皇室の外戚トップに立つだけでなく蜀の乗っ取りすら行える立場にあります。

 

にもかかわらず、劉封はあくまで劉備軍の1武将に徹しただけといったところ。本人的には後継者レースから下りたつもりだったのでしょうが、立場がそれを許さず、かつ本人も気づいてないor気付いても対策を打たなかった……というのが、陳寿評の指摘点でしょう。

 

 

 

そして何より……ドス黒い話として、彼が劉備の実子だったという説まで上げられ、後の歴史書では彼の母親とされる人物まで発見されています。

 

もっとも、この劉封の母という人物は架空人物だったというオチなのですが……それでも、劉封がここまで難しい立場に立たされて、しかもかなり雑な理由で自害を命じられたのも事実。相応の理由があるのは間違いないでしょう。

 

 

 

特に面白そうな説は、「劉備の後継者争い」というある種の陰謀論のようなもの。諸葛亮ら荊州名士や古参を中心とした団体が劉禅を指示する傍ら、なんと法正(ホウセイ)、李厳(リゲン)、魏延(ギエン)らは劉封を後継者に推していたという話もあるのです。

 

確かに諸葛亮法正とはなんとか二人三脚でやっていけたものの仲が悪かった様子。

 

また劉禅の代では李厳も魏延も、諸葛亮やその跡を継いだ面々に処罰あるいは粛清されており、あながち陰謀論とは言いきれない黒い部分も……

 

 

 

何にしても、諸葛亮が当てこすりに近い罪状に便乗し、失敗すれば皇族との対立というリスクを負ってまで排除にかかった人物です。相応の何かがあるのかもしれませんね。

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