関平
生没年:?~建安24年(219)
所属:蜀
生まれ:司隸河東郡解県
関平(カンペイ)と言えば、軍神・関羽(カンウ)の息子にして、父には劣るものの結構な猛将ですね。
……まあ、それはあくまで演義の話。正史だと……ものすっごい寂しいです。
さて、今回はそんな関平の記述を見ていきましょう。
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前語りという名の文字稼ぎ
さて、関平の正史での記述を書くと、本当にすぐに終わってしまいますので……少しばかり前語りとして、演義での活躍をザックリとだけ書き記していきましょう。
まず、演義において彼の父親は関定(カンテイ)なる人。関羽はこの関定から「是非連れて行ってほしい」と懇願され、そのまま関羽に養子入りします。
……無論、これは演義だけの話。正史では、ただ単に関羽の息子となっていますので、創作ですね。
こうして何とも運命的な登場の仕方をした関平は、その後関羽の主・劉備(リュウビ)の武将として随所で活躍します。
具体的には、博望(ハクボウ)の戦いで養子仲間の劉封(リュウホウ)と共に殊勲を上げ、呉に赴いて罠にかけられた劉備を護衛し生還を手助け。
後に益州(エキシュウ)奪取へも従軍し、いずれも大粒とは言い難いもののしっかりとした活躍を示しています。
しかし、建安24年(219)、同盟者の劉備軍を裏切り関羽の背後から攻撃した呉によって劣勢に立たされると、父の関羽と共に死亡。
その死後は演義での架空人物である周倉(シュウソウ)と共に、関羽のお供として知られていますね。関帝廟では、関羽の両脇を周倉と二人で固めています。
お待ちかね、正史では……
さて、演義や三国志の創作メディアでは、必ずと言っていいほど軍神の子として妥当な活躍を示す関平。
さぞや強かったのだろうと昔の私も思ったのですが……悲しいことに、正史における描写は、以下の通り。
関羽が敗北した時、父と共に呉将・潘璋(ハンショウ)の配下である馬忠(バチュウ)につかまる。そしてそのまま、父親ともども処刑されてしまった。
その記述は関羽伝、呉主伝(孫権伝)、潘璋伝にありますが……本当に記述を拾うとこれだけ。
一応関羽伝に注釈された『蜀記』においては直前の北上作戦にも参加したことが証明されていますが、それも父・関羽も「わしも老いたなぁ。だが、ここで引き下がる事はできん!」という決意表明を聞かされたという記述のみ。
与太話程度としては、字は坦之(タンシ)であるとか、趙雲(チョウウン)の娘との間にできた子供が荊州の江陵(コウリョウ)で暮らしたとはありますが……いずれも信憑性としてはかなり微妙と言わざるを得ません。
一応、あり得ると納得できる話としては「関羽の墓らしきものには光和元年(178)以降の生まれで実子」とあるものくらいですが、まあ関羽の推定年齢からして十分あり得る程度の根拠でしかなく、所詮はグレーゾーンの域を出ません。
まあ、弟の関興(カンコウ)のが空しい記述で終わっているのですが……いずれにせよ、正史を知ると拍子抜けしてしまう人物の一人ですね。
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実際のところ強かったのか
さて、最後に論じる事自体無意味な気もしますが……関平が実際に部将として強かったのかどうかをちょっと考えてみましょう。
まあ結論から言うと、グレーゾーン。何をするにも、関羽のついでに死んだ記述だけでは、どうとも言えません。警戒されて連座を食らった可能性もありますが、そもそも関羽クラスの危険人物になると、一族郎党処刑が当たり前直系の息子が生き延びる可能性はほとんどないと言って良いでしょう。
しかし、それでも希望はあります。というのも、関羽伝の他にわざわざ敵である孫権や潘璋の伝にも、その名前が記されているからです。
関羽だけでも十分すごいのに、わざわざついでで名前が載せられるというのは、つまり関羽の軍の中でも要になった人物という可能性の高さの表れでもあります。
無論、息子というだけで十分重要人物なのですが……それでも単に「関羽の息子」とせずに名前を残されたというのは、それだけ名も売れていた証なのではないでしょうか?
まあ、所詮は都合のいい妄想なのは否めませんがね。
メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻
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