王平


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王平 子均

 

 

 

生没年:?~延熙11年(248)

 

所属:蜀

 

生まれ:益州巴西郡宕渠県

 

 

勝手に私的能力評

 

人物伝・蜀書

統率 A+ 北伐期の職を代表する名将の一人。魏軍相手に寡兵で圧倒した手腕は見事。
武力 A いくら正論かつ諸葛亮の名前を出したとはいえ、一喝しただけで魏延の兵が霧散した。武功も多く、武名で轟かせた人物の一人である。
知力 B どうでもいい話だが、最後まで字が読めなかったってそもそも覚える気が無かったともいえるのでは……?
政治 D 識字を最後まで軽視した辺り、おそらく学問や名士をそこまで重要視しなかったのだろう。汚点を残さなかったからよかったが、当時の価値観を考えるといろいろ危ない……
人望 C 武官としての名声は圧倒的。だが、「偏狭で軽はずみ」と書かれる辺り、性格面はお察し。まあ三国志は晋監修のため、蜀をディスるための粗探しの可能性はあるが。

 

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王平(オウヘイ)、字は子均(シキン)。

 

もともと人材が枯渇気味な蜀において数少ない異民族関連以外での多大な軍功を挙げており、日の目を浴びる日を楽しみにしている人が多い。そんな人物です。

 

人気ゲーム・真三國無双でも「次は出るかな」と言われつつも、なぜかプレイアブル化を逃し続けてきた王平。

 

今回は、そんな目立つ場所で十二分な功績を立てたにもかかわらず日陰者扱いの、ちょっと不憫な王平の伝を辿ってみましょう。

 

 

 

 

 

 

実は元々魏の武将

 

 

王平は早くに父を亡くしたのか母方の家系に育てられ、母の苗字である何平(カヘイ)を名乗っていましたが、後に父方の「王」姓に復帰したとか何とか。

 

 

まあそんな豆知識はともかく……実はこの王平、実は最初は異民族の部隊の一人でした。

 

しかし建安20年(215)、曹操(ソウソウ)が漢中(カンチュウ)の張魯(チョウロ)を降伏させると、王平の部族もその影響で曹操軍に基準。王平もこの時曹操軍に加わって洛陽(ラクヨウ)を訪れ、校尉(コウイ:部隊の高級指揮官)の位を授かっています。

 

 

 

しかしその後、劉備(リュウビ)が漢中に攻めてきた時には曹操軍は劉備に敗北。王平はこの時に劉備軍に降伏し、牙門将軍(ガモンショウグン)、次いで裨将軍(ヒショウグン)に任命されます。

 

これらの階級は低級ながらも立派な将軍位で、すでに最初から一軍を率いる武将として多大な期待が寄せられていたのがわかります。

 

 

かくして高く評価された王平は、以後は劉備軍、もとい蜀軍の将軍として、元々使えていた魏を相手に戦うことになるのです。

 

 

 

 

 

北伐の頼れる戦力

 

さて、劉備が亡くなってから時代が変わり、宰相・諸葛亮(ショカツリョウ)による北伐が本格化したところで、再び王平の名は史書に現れます。

 

 

建興6年(228)、蜀軍は一斉に北の魏軍を駆逐すべく北伐の軍を進めます。ほぼ唯一警戒していた劉備が死んだことにより魏が油断していたのも手伝って、圧倒的優位な戦況のまま北に軍を押し上げる蜀軍。

 

 

しかし、魏が本気を出すと、その軍勢をどこかで止めなければ北伐に成功はありません。そこで、諸葛亮は愛弟子の馬謖(バショク)を総大将とし、街亭(ガイテイ)という地に魏軍迎撃の先発隊を派遣。この時、経験の浅い馬謖の補佐として副官の地位に就いたのが王平でした。

 

 

魏が本気を出す前にその領土を奪い、幾分優位な状況で魏との決戦に持ち込むことに成功した蜀軍。しかし、この作戦は功を焦った馬謖の行動によって、完全に打ち砕かれてしまうのです。

 

 

 

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「兵法には、高所に利があると言われている」

 

そう考えた馬謖は、抑えていた水脈を捨てて山頂に布陣。元々数的に不利な中で、「魏軍など粉砕してやる」とばかりに攻めの陣形を展開したのです。

 

王平は危険であると散々諫めましたが、当の馬謖は王平の発言を無視し、とうとう手持ちの全軍を率いて山の上から魏軍を迎撃することになったのです。

 

 

これでもし、相手が並以下の雑魚将軍ならばどうにかなったのかもしれませんが……不運なことに、この時の敵の大将は魏でも五本の指に入る将軍・張郃(チョウコウ)。あっという間にふもとの水脈は断たれ、やぶれかぶれに突撃する馬謖軍は張郃によって粉砕。

 

王平が手勢の千のみで孤軍奮闘したため張郃は伏兵を疑って手出しができず、このおかげで最悪の事態は免れましたが……ともあれ、馬謖の敗走により蜀軍の敗北は決定し撤退を決意。

 

後々蜀では敗戦の責任を取っての大規模な懲罰、処刑、降格が行われましたが、王平だけは張郃相手に奮戦した功績をたたえられて参軍(軍師)の役割と将軍位の格上げ、さらには爵位と領地が与えられたのです。

 

 

 

その後建興9年(231)に行われた第四次北伐にも参加。

 

祁山(キザン)の戦いと言われる包囲戦で、王平は南の包囲網を守備。この時も王平は因縁の相手ともいえる張郃の軍の攻勢にさらされましたが、上手いこと防備を固めてこれを堅守、一度も張郃に打ち破られることなく撃退に成功します。

 

が、今度は補給での不安を抱えて蜀軍は撤退。王平の活躍も虚しく、またしても勝利を得るには至らなかったのです。

 

 

 

 

北境の名将

 

 

その後も諸葛亮は北伐を敢行しますが、日頃の激務もあって建興12年(234)に陣中で病没。結局、諸葛亮による北伐は最後までうまくいかず、ここでも蜀軍は諸葛亮の遺命により撤退することになってしまいました。

 

 

……が、実質的なリーダーともいえる諸葛亮の死により、蜀軍ではトラブルが発生。

 

彼の死後の軍事的リーダーの座を巡って、蜀軍随一の猛将・魏延(ギエン)と、裏の補給や戦争準備で多大な功績を挙げていた楊儀(ヨウギ)が対立。楊儀が撤退を断行する中魏延は徹底抗戦を主張、最終的に双方が謀反を起こしたと朝廷に訴え、軍事的な衝突にまで至ったのです。

 

 

双方アレな性格で知られていましたが、朝廷は魏延のほうが扱いづらいと見て楊儀に味方。この時、反逆者となった魏延を打ち破る大手柄を挙げたのが王平でした。

 

王平は魏延の軍の前に立つと、「公(諸葛亮)の遺体が冷たくならないうちから、この体たらくは何だ!」と一喝。

 

元々魏延に嫌気がさしていたらしい兵士たちは、王平の意見を聞くと離反し、魏延は完全に孤立してしまいました。

 

 

最終的に逃亡する魏延を討ち取ったのは馬岱(バタイ)だと言われていますが、三国志を編纂した陳寿は「彼こそが一番手柄だ」と称しています。

 

 

その後も位を挙げて対北部の総大将である呉懿(ゴイ)の副官として漢中の太守に就任。そして呉懿が亡くなると、ついに王平に対北部戦線総大将の任が与えられるのです。

 

 

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興勢の役

 

 

その後は領内も安定し、王平もすっかり総大将としての立ち位置が定着したころ、これまで守りに徹していた魏軍はいよいよ攻めの姿勢を見せます。

 

 

魏の対蜀軍総大将・曹爽(ソウソウ)は、主力部隊が後方に下がって蜀軍の守りが手薄になったのを見ると、十万の兵を率いて漢中に進出。

 

この時、対する王平の軍はたったの三万。ごく普通に相手をしていたのでは、敗北するのも必至という状況でした。

 

 

大軍襲来に慌てふためく諸将は、「この軍勢で正面から戦うのは危険です。ここは要衝の関城(カンジョウ)は守将に任せ、我らは後方を守備。本隊の救援を待ちましょう」と籠城を主張しましたが、王平はこれに反対。

 

 

「本隊は千里も後方にある。到着までに関城が落ちたらそれこそ危険だ」と主張し、この圧倒的大軍の迎撃を支持します。

 

 

 

かくして、王平軍は前進し、前方にある興勢山(コウセイザン)という要衝に軍を立て籠らせ、自身はたった千の軍勢を引き連れて後方で遊軍の役割を担うことに決定。

 

結果、進撃を阻まれた敵は興勢山の攻略に苦戦、さらには無視して隘路を突き進もうにも王平の妨害によって全くうまくいかずでいたずらに日数を消費。

 

最終的には本隊や費禕(ヒイ)が率いる後方守備軍が相次いで到着し、曹爽の撃退に成功したのです。

 

 

 

その後、王平は延熙11年(248)に亡くなり、息子が跡を継いだのです。

 

 

 

評価、人物像

 

さて、そんな王平を、陳寿はこう評価しています。

 

法規、法律を重視し、冗談の類を口にしなかった。

 

また、朝から晩まで行儀よくきちんと座り、武将であるという感じがしないくらいの礼儀正しい態度だった。

 

 

総じて、謹厳実直で生真面目な性格の持ち主だったのでしょう。

 

しかし同時に「偏狭で疑い深く、軽はずみ」とも称しており、生真面目ゆえの卑屈さや融通の利かなさ、そして思い切っているゆえの浅はかさも備えていたようですね。

 

 

また、王平には面白い弱点があります。それが……

 

 

字の読み書きができないというもの。

 

 

戦いに明け暮れた生涯で、覚えた文字はたったの十ほど。そのため、彼の書く文章は常に口頭のものを別の人が書き写したものだったようです。

 

が、そんな文章にも「きちんと筋が通っていた」とあります。

 

 

また、人に歴史書を音読させて自分のものにしたという逸話もありますが、この時もヒアリングだけで話の大筋をしっかり網羅しており、歴史に関する話題にも逸れることなくついて行けたとか。

 

 

要は、勉強はできないけど地頭が非常にいい人物だったのでしょう。

 

それゆえに、字が読めないことの恥ずかしさを痛感しており、それが性格の偏狭さと猜疑心につながった……のかも。

 

 

 

 

メイン参考文献:ちくま文庫 正史 三国志 5巻

 

 

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