蒋琬 公琰


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蒋琬 公琰

 

 

 

生没年:?~延熙9年(246)

 

所属:蜀

 

生まれ:荊州零陵郡湘郷県

 

 

 

勝手に私的能力評

 

統率 A 北伐の従軍者にして、諸葛亮の跡継ぎ。彼が死ぬまでの間は、蜀の家臣団の統制はほとんど円滑に進んでいた。
武力 D 北伐に参加したのはいいのだが……肝心な実績がない。
知力 A 上庸経由の北伐ルートは未開拓の魏軍無警戒ルート。補給の問題から立ち消えになったが、着眼点そのものは悪くなかった。
政治 S 小さい県では暇して酒を食らって劉備に怒られるくらい余裕がある。評ではそこを汚点とされたが、実際に大臣の器だったんだから何の問題もないと思われる。
人望 A 諸葛亮死後の録尚書時は、実質政治の最高権力者。彼の死と共に蜀は壊れていったようなもので、今でも地味ながら高い評価を受けている。

 

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蒋琬(ショウエン:正史では『蔣琬』と記載)、字は公琰(コウエン)。諸葛亮(ショカツリョウ)の死後に一躍して蜀の最大権力者に成り上がり、彼が抜けた大きな穴を見事に補った人物の一人ですね。

 

「国家を担う」とされた器を持ち、まさにその通りの活躍を示した人物ではありますが……史書を見てみると意外に抜けがあったりするのもこの人の特徴。巷では「何かよくわからないけどすごい人」とされていますが、意外と親近感のようなものが沸くところもあったりなかったり。

 

 

今回はそんな卓越した政治家にして人間味も残した人物・蒋琬の伝を追ってみましょう。

 

 

 

 

 

劉備に……干された?

 

 

 

国家を担えるレベルの名政治家というと、人格者のようなイメージを抱くこともままありますが……蒋琬の場合は、史書に名が出たのっけから一つやらかしがあります。

 

蒋琬は二十歳の時から名がある人物で、劉備(リュウビ)が荊州を治めるようになると、その下で名を上げ、劉備による益州平定に随行。そのまま功績が認められて、広都(コウト)県の県長に任命されることになりました。

 

 

が、蒋琬はその仕事が気に入らなかったのか楽な物だと思って放置したのか、仕事にほとんど手をつけずに酒を呑み散らかし、泥酔していたという体たらく。この様子を抜き打ちで視察に来た劉備にばっちりと目撃されてしまい、そのまま彼の怒りを買ってしまったのです。

 

結局は諸葛亮が擁護してくれたおかげで蒋琬は処罰を受けずにすみましたが、この仕事ぶりを理由にすっかり罷免されてしまい、後年には別の県の長に復職。

 

建安24年(219)に劉備が漢中王を自称すると、今度は尚書郎(ショウショロウ:宮廷内の文書を作成する部署の役人)に転任し、なんとか出世の道を残す事ができたのでした。

 

 

 

ちなみに県長を罷免されたときの取り締まりの日のこと。ようやく自由の身となった蒋琬は、玄関先に牛の頭が転がって大量の血を流している夢を見ました。

 

さすがに不気味になって夢占い師に占ってもらったところ、「血は政治力、牛の頭は角と鼻で『公』の字を形成します。高位に上る吉兆です」と言われたとかなんとか。

 

 

諸葛亮がキレた劉備に対して擁護した際も、「蒋琬は小役人でなく、もっと高い身分で輝きます。それに、重視しているのは外面の評価でなく、実際に民の暮らしが安定しているかどうか。ご再考ください」と蒋琬の処罰に反対しています。

 

……どこかで聞いたことがあるような

 

 

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諸葛亮政権下

 

 

 

劉備が亡くなって劉禅(リュウゼン)が蜀の帝に即位すると、蒋琬は諸葛亮に呼び出され、そのまま幕府直属の役人に任命され、さらには諸葛亮によってより高位の官職を与えられるようになりました。

 

この時、蒋琬は他の名声ある人物らに道を譲ろうとしましたが、諸葛亮からは逆に説教を込めた説得をされ、結局は参軍(サングン:軍事参謀)の役割を当てられることになったのです。

 

 

その後は諸葛亮が北伐に出た際に留守の間の政務や兵糧輸送を任されるようになり、建興8年(230)には留守居部隊を率いる撫軍将軍(ブグンショウグン)に昇進。蒋琬は蜀の乏しい物資をうまく切り盛りし、常に諸葛亮の北伐を裏から支えていました。

 

これは奇しくも、劉備の存命中に諸葛亮がやっていた事と同じ。諸葛亮はそんな裏方の役割の重要性をよく理解できており、蒋琬を非常に高く買っていたのです。

 

曰く、「共に覇業を為すべき人物であり、万一私が死ねば、その時は彼に後事を託そう」。

 

 

そんな諸葛亮の要望あって、蒋琬は彼の死後に他の高官を押しのけて蜀一番の重鎮に君臨。諸葛亮から、蜀という国のバトンを渡されることになったのです。

 

 

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諸葛亮亡き蜀の代表

 

 

 

諸葛亮が生前から上奏していたこともあり、朝廷は蒋琬の大幅な昇進を決定。まず尚書令(ショウショレイ:文書管理部署の長官)に任命され、後に都護(トゴ:偏狭を守る軍事職)の代行を兼任、さらに益州刺史(エキシュウシシ)として益州の監査も同時に行うようになりました。

 

その年のうちに大将軍(ダイショウグン)として蜀の軍勢のトップに立ち、尚書令からもう一つ上の録尚書事(ロクショウショジ)にまで昇進。翌年には大司馬(ダイシバ)として、蜀の軍権のすべてが蒋琬の掌中にゆだねられることになったのです。

 

つまり、北伐の際には総司令官として動くことが期待されるまでの立場になった、というわけですね。

 

また、政治においても、賞罰はまず蒋琬に相談されて、その後に決定されるようになりました。事実上、蒋琬は諸葛亮の後継者という立ち位置についたのです。

 

 

 

こうして事実上のトップに立った蒋琬は、諸葛亮が考え得なかった北伐ルートを考案。完全に北から攻めるのではなく、水路を通って東の荊州方面になだれ込む方が、険阻な地形を無視できて補給も難しくないのではと考えつきました。

 

この案はさっそく重鎮たちに向けて提出されましたが、「万一の時に撤退が困難である」という理由で大多数は反対。また、国内慰撫に数年の月日をかけた蒋琬もすでに病気勝ちであったため結局実行に移されず、蜀帝・劉禅の指示によって取りやめとなってしまったのです。

 

 

結局北伐は諸葛亮の軍事行動を踏襲したルートで行われることになり、蒋琬は北方出身の姜維(キョウイ)を涼州刺史(リョウシュウシシ)として北方の異民族へのアプローチをかけ、病気がちな自身は後方の涪(フ)に駐留することに決定。

 

焦って攻めてきた魏軍を費禕や王平(オウヘイ)らが撃退するのを見届けるといよいよ北伐に乗り出そうとしますが……延熙9年(246)、結局病が治る事の無いままに死去。以後蜀の命運は費禕にゆだねられましたが、北伐をめぐって蜀内部に亀裂が生じることになってしまうのでした。

 

 

 

 

人物像

 

 

 

三国志を注釈した陳寿は、彼のことをこのように記しています。

 

万事きっちりしていて威厳があり、諸葛亮の定めた規範を受け継ぎ、その方針に沿って改めなかった。

 

 

諸葛亮のやり方をしっかりと踏襲しその先の蜀をしっかりとまとめたことを、立派な宰相として高く評価されていますね。

 

しかし、やはり陳寿に三国志編纂を任せた晋は、言ってしまえば蜀の敵。劉備とのいざこざを指して「小さな県を治める術をわかっていなかった」とも記載されています。

 

ただし、この点は裴松之が注釈にて「一国の宰相として見事な業績を残したのに、そんな小さな過失を掘り返して過小評価することもない」と反論しています。

 

 

世の中は不思議な物で、「木の一本が全然見れていないのに、森全体となると他の人よりもはるかに良く見ている」という稀有な人々も存在します。恐らく蒋琬はそんな人で、「一人の役人としてやるべきこと」ではなく「全体を見て何をするのが良いか」をよく理解している人物だったのでしょう。

 

こういう人は得てして無能の烙印を押されて才覚を発揮せずに埋もれてしまいますが……蒋琬はその点、自らの差格が傑出していた分もあって大きく出世を遂げていますね。

 

基本的に冷静沈着で、諸葛亮の後を継いで重荷を背負わされた時も、喜びもせず大任に怯えもせず堂々としていたとかで、物事の表面を見て一喜一憂するような人物ではなかったのかもしれませんね。

 

 

また、自身の属官である楊戯(ヨウギ)という人物が自分の案に何も言わず退出した際に周囲は「なんて失礼な奴だ」と憤慨したという話もありますが……蒋琬はこの時に楊戯の本心をしっかりと見抜き、以下のように周囲に話しています。

 

 

「楊戯が黙っていた理由だが、まあ私の言葉に対して答えようがなかったのだろうさ。

 

きっと彼の本心は、私の意見には反対。しかしそれを面と向かって言えば目上に対する失礼が問題になり、かと言って賛成意見に鞍替えして媚びへつらうのも自分の意見を曲げる事になる。

 

そんなわけであえて黙りこくっていたのだから、大した奴だよ」

 

 

 

また、自分を「諸葛亮に及ばない無能者だ」と名指しで批難した者がいても、「言ってることは事実だから」とあえて不問。後にその男が法に抵触して裁きを受けることになっても、恨みつらみを刑罰に適用せず公正な処罰を執行したのでした。

 

好悪感情を脇に置き、物事を道理に従って冷静にさばくことができた。

 

 

好き嫌いやお友達政治をせずにとことん心理や正しさを追求する心。そして物事の表面に騙されず本質までしっかり見抜く知性。どちらも政治をやるなら重宝されるべき資質ですが、蒋琬はその二つを高いレベルで持ち合わせていたのです。

 

 

 

 

 

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